黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(14)【第一部完】

こんばんは

 

関ケ原シリーズですが、これをもって第一部完結となります。

正直、一部だけで終わり!なんて事態になりかねませんが

今まで読んでくれている方、本当にありがとうございます。感謝いたします。

 

 大谷は石田から俄かな挙兵の告白を受け、少しの間、沈黙した。

 正直言って、大谷にとって慮外のことであった。彼は親徳川派として近年、中央政権に深く関わっており、あらゆる情報を耳にしていた。その中には前田や上杉の謀反の動きのような「きな臭い」挙動も含まれていた。しかし、大谷は石田の、そのような動きを聞いたことがなかった。

「私が徳川様に抜擢されたことを知って言っているのかね。」

「無論、知ったうえです。」

「なぜ徳川殿を討伐しようとなさる。」

「徳川の天下簒奪の意思は明らかです。前田、上杉への謀反の濡れ衣をかぶせるに始まり、諸将への私的な婚姻の数々、無断の褒賞。これらを弾劾するため挙兵せん。」

「太閤殿下ご存命の折から思っていたが、石田殿は才幹すぎる故にたまに突飛な思考にたどり着く。聞くところによると、信長公を討った明智儀もそうだったという。故に信長公への謀反というような思考の飛躍に至った。貴殿は明智に似ているのかも知れんね。」

「はっは。そうやも知れんな。」

「たかが佐和山十九万石で何の勝算がある。」

「既に毛利と約定を交わしている。」

 大谷ははっと目を見開いた。彼の脳裏に、あの胡散臭い顔をした禅僧が浮かんだ。

「安国寺を抱き込んだか。」

「毛利も親徳川派と反徳川派で割れている。反徳川派の安国寺は親徳川派の吉川広家の台頭をよく思っておらぬ。そこに付け込んだ。」

「されど毛利独力では徳川に太刀打ちできまい。」

「宇喜多、小西、島津維新らはすでに同心しておる。宇喜多中納言様が徳川内府をよく思っておられないのは大谷殿もよくご存じであろう。」

 宇喜多家が秀吉死後、家宰長船紀伊守の専横をめぐって家中不和に陥っていたことは述べた。この家中不和は深刻であり、長船を快く思わない戸崎達安、宇喜多詮家らは慶長四年に長船を毒殺するに至った。また、彼らは長船が抜擢した中村次郎衛門の処刑を当主の宇喜多秀家に求めたが、拒否されると大坂の宇喜多屋敷を占拠して立てこもるという慮外の挙に出た。

 大谷はこの騒動に対して奉行の一人として仲裁にあたっていた。

 大谷は双方の言い分を聞いたうえで、当主秀家側に有利な裁定を下すよう決定していた。結局のところ、戸崎らの行動は徒党を組んでの強訴であり、これを公儀が認めることは多分にアナーキーであった。

 しかし、決まりかけていた大谷の裁定を家康は鶴の一声で引っくり返した。戸崎らの言い分を認め、中村を蟄居させるとともに、戸崎をはじめとする宇喜多家の有力家臣に宇喜多家を出奔させ、こぞって徳川傘下に吸収したのである。これは徳川による専制体制を強化するため、宇喜多家の弱体化を図った家康の恣意的な決断であった。

 宇喜多秀家が家康を深く恨んだことは言うまでもないが、大谷もこの件で家康に不信感を抱いた。結局家康の頭にあるのは徳川の権力を高めることだけであり、豊臣恩顧の自分も走狗として利用されつくした後は煮られのではないかと感じたのである。

 しかし、だからと言って大谷は石田の挙兵に同調する気にはなれなかった。現行体制では徳川家の権限に依存しなければ天下を収めていけないのも事実であるし、何より徳川家の専横を弾劾してこれを討伐したところで代替の安定政権を築けるとは思わなかったためである。

「石田殿。今、徳川家を滅ぼしてもよりよい政を行えるようになるとは儂は思わぬ。混沌を導くのみぞ。徳川殿の政事構想を聞いているか。現在の中央集権を解消し、地方の大名に権限を委譲し、半ば独立させるという、かねてより儂と石田殿が描いておった構想に近い。」

「それに関する徳川殿のお考えは知っている。」

「なればこそ、徳川殿もいずれお主を奉行として復帰させる気でいる。徳川殿のもとでまた辣腕をふるえばよいではないか。」

「しかし、それは果たして豊臣の天下と言えるのか。」

 石田は言った。

「徳川様とて豊家を弑するおつもりはあるまい。」

「そうやもしれぬ、しかし現状、豊臣に天下人としての力も威もあるまい。天下万民、徳川を天下人だと思って居る。」

「それは」

 「世の摂理であり、仕方ないではないか。」と大谷が口を開きかけたところで、石田が畳みかけた。

「それが儂には耐えがたいことなのだ。」

 その口調には、大谷が知る石田とはまた別種の重みが込められていた。

「わしもかつては大谷殿と同じ意であった。例え徳川の天下となろうとも、等しく善政がしければよいではないかと。豊家も滅びるわけではなく、平和裏に禅譲がなれば良かろうと思っていた。しかし、毛利、前田、宇喜多らが徳川に屈伏していくのをこの佐和山で眺めていた時、豊臣から徳川の世になることを実感したとき、尋常ならざる耐えがたさを感じたのだ。やはり儂は徳川が天下を簒奪していくのを黙って見ているわけにはいかぬ。」

 石田三成にとって、豊臣政権とは一つの作品であった。秀吉の天下取りの性格上、天下を収める膨大な量の法度や枠組みを急造せざるを得ず。それらのほとんどは石田を中心に形作られた。それらの作品が徳川の手によって土足で踏み荒らされ、汚されるのはこの男にとって唯一耐えがたいことだった。

 石田の思考は政権運営について常に透明であった。何が最も効率的か、機能的か、正しいか、という尺度によってのみ決まるその思考は至極純粋なもので、例えば豊臣政権にとって石田が死ぬことが有益であると彼の頭脳がはじき出したならば、彼は間違いなく自身の首を掻き切ったであろう。

 しかし彼の思考は透明であるがゆえに、石田三成という個人の人格が介在する余地がなかった。もはや彼は自分の存在さえも天下国家という枠組みにおける一種の機関として捉えているかの様であった。

 大谷は、先ほどの石田の「耐えがたい」という言を聞いたときに、初めて石田の人格に触れた気がした。透明であった思考に、唯一不純なものを感じた。そして、それは石田と半生においてほぼ、同じキャリアを過ごした大谷にとって無視できない価値があるものだった。

 それを感じた時、大谷はこの圧倒的に分の悪い戦に加担することを決めた。

濃州山中にて一戦に及び(13)

こんばんは!

えー、いよいよ物語も佳境です。

今回は短めですが、大谷が佐和山を訪問する回です。司馬遼太郎好きにはわかる方が多いのではないでしょうか。

 

次回をとりあえずの最終回にしようと思います(第一部完的なノリです。次いつ再開できるかわからないので)

 

以下本文です

 

 家康は大坂城の広間に諸将を集めると、上杉家の叛意がまぎれもないことを直江状と共に解説し、討伐することを告げた。

 家康は当初、穏やかに、かつ理知的に討伐に至った経緯について説明していたが、途中から段々と檄した口調になり、最後の方はほぼ怒鳴りつけるような口調で「賊徒を討つ。」と宣言した。

 諸将はこのように檄した家康を目の当たりにしたことがなかったのではじめ面食らっていたが、武闘派の福島正則池田輝政といった面々はそれに共鳴したのか雄叫びをもってそれに応えた。諸将もそれに釣られるように次々と声を上げた。

 それを見た本多正信はほくそ笑んだ。彼は、主家康には二つの顔があるのを知っている。一つは理知的で穏やかな政治家としての面、二つ目は野性的で獰猛な軍人としての面であった。

 むしろ後者が家康の本性に近いのかもしれない。

彼は幼少時代の多くを他家の人質として過ごした過去があった。当時は徳川ではなく、松平姓を名乗っていたが、その松平家の勢力が薄弱であったために近隣の大国に従属せざるを得ず、駿河の今川家の人質として長くを過ごした。彼が家督を継いでから松平家は独立し織田家と同盟したが、その織田家からも家臣同然の扱いを受けるなど、幼少期同様他家から抑圧されることが多かった。

彼にとって戦は唯一、抑圧から解放される場所だった。戦をしている時だけは複雑な他家との関係、外交、謀略といった、考えるだけで反吐がでそうな類のものから解き放たれる。家康は合戦時、おのれの獣性を存分に発揮し、その激しい戦いぶりから大名の中でも屈指の戦上手だった。

本多正信ら徳川家の家臣らは、家康の戦時に見せる激しい気性を知っていたが、他家の人々にはそれが新鮮に見えたのであろう。しかし寧ろ、家康が見せた熱量は諸将の共鳴を呼び。信頼を勝ち取っているように見えた。

正信は「家康が戦に負けることはない。」と感じ、安堵した。

 家康の吠えるような上杉討伐宣言の後、その熱量のまま軍議が行われたが、作戦らしき作戦はほぼ何も詰められなかった。諸将が口々に自らの武威を喧伝する場と化したが、家康はそれで満足していた。この場で詳細な作戦を決めても意味がなく、ただ諸将の士気を上げられさえすればよかった。

 結局、関東方面から家康本軍が、奥州から伊達政宗が、北陸から前田利長が攻め込むことと、先方を福島正則細川忠興とすること、諸将はできるだけ早く兵馬を整えて江戸に参陣することのみが決まり、軍議は終了した。

 

 上杉討伐が決定してからの家康の行動は迅速そのものであった。六月六日の軍議から九日後の十五日に秀頼に出陣のあいさつに伺候すると、翌十六日に大坂を発ち、翌七月一日には江戸入りし、軍容を整えている。

 諸将は各自、国許で陣容を整え、家康を追うようにして江戸に向かうこととなった。

 敦賀の大名、大谷吉継もその一人である。病をおしての参陣であり、例のごとく輿に乗って行軍していた。

彼は二千の兵を率いて敦賀から北国街道を南下している。途中、石田三成の領国である近江佐和山を通る。

 大谷は佐和山城へ寄るつもりでいた。表向きは石田三成の嫡男、重家を自軍に合流して江戸まで同伴することを願い出るためであったが、本音としては去年の政変(石田三成襲撃事件)以来顔を合わせていない石田に出陣のあいさつをしておきたかった。

「石田殿は謹慎の身。私的に会うことは控えられては。」

 大谷家重臣湯浅五助は大谷を諫めた。

「倅殿を連れてゆくという名分がある。それに東国へ向かう前に友の顔を一度見ておきたい。」

 湯浅は意外に感じた。大谷と石田は、秀吉生前、政務においては無類の意気投合さを見せたが、友人というよりは信頼しあっている同僚という関係性だと思っていた。

 実際、大谷も石田もお互いに「友」という表現を使ったことはなかった。それを今になって「友」と呼んだことに湯浅は驚いたのである。さらに言うと、当時、衆道を除けば、男同士の友情という概念は薄く、「友」という言葉を使うことも一般的に稀であった。

「石田殿はやはり信のおける方だったのですか。」

「『友』という言を使ったことに関してかね。」

 大谷は湯浅の心を読むと先回りしていった。

「深く考えずとも口から出てきた。儂自身、やや驚いている。が、やはり儂の半生はあの男なしには語れないのは確かだ。」

 大谷の史僚としての人生が当時堺奉行であった石田の副官であったことは前に述べた。それ以降、二人のキャリアは常に共にあり、お互いの政務に対する思考法などもよくわかっていたし、同僚として最も信頼していた。

 大谷は昨今の政局で徳川が台頭するにあたり奉行として再び抜擢されたが、政治の表舞台で腕を振るうにおいて、やはり石田ほど馬の合う存在はいないと思わざるを得なかった。そのような事情が先ほどの「友」という発言をさせたのだろう。

 とまで、大谷は自己分析できてはいなかったが、純粋に久方ぶりに石田に会っておきたかった。彼は佐和山を訪問した。

 

 佐和山城は元来、北近江の土豪浅井家の所有する山城であった。織田家が浅井家を滅ぼすに至って、織田家重臣丹羽長秀の居城となり、以降何度か城主を変え、石田の居城となった。石田が何度も改築を繰り返したこの城は恐ろしく質素で機能的な造りをしている。

 門や櫓にも防戦に不要な装飾品の類は一切なく、防戦しやすいとの理由で大手の道も恐ろしく細く、簡素である。本丸の居間なども飾り気のない板張りで、壁は漆喰の塗っていない荒壁のままであった。

 大谷が通された石田の居室も、そうとしらねば平民の民家と見紛うばかりの質素さである。

 石田は書状を書いている。大谷が来訪しても止めない。

「誰への書状かね。」

 大谷は挨拶を略し、言った。石田はそれに妙な答えをした。

「大谷殿である。」

「はて、送り主はここにおるが。」

「出そうと思っていた書状である。そなたの訪問を知らなんだ故な。今、書き終える。」

「存じておるように、儂は病で目が見えぬ。読み上げてくれるか。」

 石田は書状を書き終えるとそれを読み上げた。大谷は座して黙ってそれを聞いた。

 簡潔に言うと、石田は徳川を弾劾するべく挙兵するつもりであり、大谷に同心を依頼する書状であった。

濃州山中にて一戦に及び(12)

こんにちは

はやめの更新になります。

今回は著名な直江状の回です。直江状の意図とは、、、?

 

    結論から言うと、前田家は家康に屈した。

    謀反の計画が漏れ、家康が前田家の討伐も視野に対策を検討していることがわかると、前田家家老の横山長知は、反徳川派の太田但馬らを徹底的に糾弾した。

    当主利長は三日三晩考え込んだが、母、芳春院の後押しもあり、家康に謝罪し、人質を差し出すことを決めた。これによって前田家は完全に徳川家の傘下に置かれることとなった。

    実質的、豊臣政権で第二の権勢を誇ってきた前田家の屈伏は世間に少なからず衝撃を与えた。大野、浅野の失脚も相まって家康の権限は益々圧倒的なものとなっていた。

「しかし、今回の前田殿の叛意は果たして前田殿のみのお考えでしょうか。」

 本多正信は家康に言った。

「上杉が同時期に帰国しているのが腑に落ちませぬ。」

「前田と上杉とに何らかの密約が交わされ、連衡して兵を興そうと思ったてか。」

「不自然ではないかと。」

 家康は思案した。確かに、前田独力で挙兵を思い立つとは考えにくく、同盟勢力が存在するというのが自然であろう。

「伊賀者に探らせるか。」

 彼はこの件について、伊賀者に探らせようとした。しかし、上杉家も徳川家の伊賀者同様、「軒猿」という強力な忍組織を抱えており、特に直江兼続はその運用と統率を徹底していたため、会津領国の情報をなかなか探れなかった。

 伊賀者を統率する服部半蔵から、会津の上杉家に関する情報が報告されたのは年明けのことであった。

 それによると、上杉家領国の会津では、城や街道の普請、武具の収集、浪人の登用などが積極的に行われており、戦支度さながらの様相を呈しているという。

 家康と本多正信は、前田家が家康に屈してなお、戦の意を捨てない上杉家の方針に驚いた。しかし、ある意味好機とも感じた。前田家同様、恫喝で屈伏してしまえば話は早く、北の上杉家が徳川に従えば主だった大名はすべて徳川の手中に収まったと言ってよい。

 家康は果たして上杉家の大坂在番であった藤田信吉を会津にやった。

 上杉家の家臣団は直江の強権によって反徳川一色でまとめられていたが、例外もある程度いた。藤田はその一人で、徳川との融和を家中に説いて回っていたため直江に冷遇されていた。

 家康はそのことを知っていたため、藤田に「もし上杉を抑えきれなかったときは出奔して徳川家に来るように」と極秘に言っていた。

 

 藤田は会津に帰国すると、身支度もそのままに急いで登城し、上杉家当主景勝に拝謁した。

 そして俄かな城の普請、浪人衆の登用を大坂から不審な目で見られていることを告げ、さらに大坂は景勝、兼続主従の上坂、釈明を求めていることを述べた。

 直江との激論になった。直江は藤田が大坂側に自ら何も弁明しないまま帰国したことを咎め、藤田の方も、謀反を疑われるような直江の施策を責めた。

「ともかく、殿と旦那様に上坂していただかない限り、上杉家は中央から目をつけられたままに御座る。」

 藤田は吐き捨てるように言うと、その場から下がった。直江はその背に向けて

「そなた、徳川の走狗となり下がったか。」

 と怒鳴った。藤田は憤怒の形相で振り返ったが、反論はせず足早にその場を去った。

 その様子をみて、当主の景勝は直江に言った。

「藤田はあの様子だと出奔するのではないか。」

「するでしょう。すでに徳川にかなり入れ込んでいるように見えます。」

「良いのか。」

「むしろ奴が出奔したほうが家中はまとまり申す。捨て置きましょう。」

「上洛の件は如何する。」

「私が大坂に書状を認めます。おそらく戦になるでしょうが、先日お話しした通り、お覚悟はよろしいか。」

 景勝は「うむ。」と一言うなずくとそれ以上不要なことは言わなかった。景勝は上杉家の舵取りをほぼ全て直江に任せていた。景勝は凡庸な大名ではなかったが、直江の積極的で剛毅な性格を前に、政に関して自身が出る幕はないと早々に悟ると、むしろ直江が手腕をふるいやすい環境を構築するのに腐心した。結果、上杉家は執政、直江兼続のもとに団結している。

 徳川との外交についても、直江に開戦する方向性を告げられると、当主として覚悟を決めた。見方によっては直江の傀儡ともいえる当主であったが、名君上杉謙信の次代として、形はどうあれ立派に勤め上げていこうという覚悟をこの主従は共有しており、その信頼感が彼らの関係性を担保していた。

 

 大坂の家康は、上杉家の藤田信吉の出奔と、直江が返事として書状を送ったという報せを受けた。藤田に関しては想定していたことであり特段感想を抱かなかったが、直江の書状は興味の対象であった。

 書状は、上杉家との取次役を務めていた西笑承兌臨済宗の禅僧)のもとに送られていた。家康は承兌を召すと、書状を彼に読ませた。 は淡々と書状を読み始めた。

 

一、東国についてそちらで噂が流れていて内府様が不審がっておられるのは残念なことです。しかし、京都と伏見の間においてもいろいろな問題が起こるのはやむを得ないことです。とくに遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり、問題にしていません。内府様にはご安心されるよう。

一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。

一、景勝に逆心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう。

一、秀吉様以来景勝が律儀者であると家康様が思っておられるなら、今になって疑うことはないではないですか。世の中の変化が激しいことは存じていますが。

一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。

一、前田利長殿のことは家康様の思う通りになりました。家康様の御威光が強いということですね。結構なことです。

一、増田長盛大谷吉継がご出世されたことはわかりました。これも結構なことです。用件があればそちらに申し上げます。榊原康政は景勝の公式な取次です。もし景勝に逆心があるなら、意見をするのが榊原康政の役目です。それが家康様のためにもなるのに、それをしないばかりか讒言をした堀監物(直政)の奏者を務め、様々な工作をして景勝のことを妨害しています。彼が忠義者か、奸臣か、よく見極めてからお願いすることになるでしょう。

一、武器についてですが、上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄と思っていただければ不審はないでしょう。景勝が不届きであって、似合わない道具を用意したとして何のことはありません。そんなことを気にするなんて、天下を預かる人らしくない。

一、道や船橋を造って交通の便を良くするのは、国を持つ者にとっては当然です。越後国においても船橋道をつくりましたが、それは(自分達が)国に移って来た時に全然作られていなかったからで、堀監物は良くご存知のはずです。越後は上杉家の本国ですから、堀秀治ごときを踏みつぶすのに道など造る必要はありません。景勝の領地は様々な国と接していますが、いずれの境でも同じように道を造っています。それなのに道を造ることに恐れをなして騒いでいるのは堀監物だけです。彼は戦のことをまったく知らない無分別者と思ってください。謀反の心があれば、むしろ道を塞ぎ、堀切や防戦の支度を整えるでしょう。あちこちに道を作って謀反を企てたところで、大人数で攻められた護りようもないじゃありませんか。いくら他国への道を造ろうとも、景勝も一方にしか軍勢を出せないというのに、とんでもないうつけ者です。江戸からの御使者は白河口やその奥を通っておられますので、もし御不審なら使者を下されて見分させてください。そうすれば納得されるでしょう。

一、今年の三月は謙信の追善供養にあたります。景勝はその後夏頃お見舞いのために上洛するおつもりのようです。武具など国の政務は在国中に整えるよう用意していたところ、増田長盛大谷吉継から使者がやってきて、景勝に逆心がなければ上洛しろとの家康様のご意向を伝えられました。しかし、讒言をするものの言い分をこちらにお伝えになった上で、しっかりと調べていただければ、他意はないとわかります。ですが逆心はないと申し上げたのに、逆心がなければ上洛しろなどと、赤子の言い方で問題になりません。昨日まで逆心を持っていた者も、知らぬ顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には似合いません。逆心はないとはいえ、逆心の噂が流れている中で上洛すれば、上杉家代々の弓矢の誇りまで失ってしまいます。ですから、讒言をする者を引き合わせて調べていただけなくては、上洛できません。この事は景勝が正しいことはまちがいありません。特に景勝家中の藤田信吉が7月半ばに当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは承知しています。景勝が間違っているか、家康様に表裏があるか、世間はどう判断するでしょうか。

一、遠国なので推量しながら申し上げますが、なにとぞありのままにお聞き下さい。当世様へあまり情けないことですから、本当のことも嘘のようになります。言うまでもありませんが、この書状はお目にかけられるということですから、真実をご承知いただきたく書き記しました。はしたないことも少なからず申し上げましたが、愚意を申しまして、ご諒解をいただくため、はばかることなくお伝えしました。侍者奏達。恐惶敬白。

        直江山城守

            兼続

慶長

  四月一四日

  豊光寺

    侍者御中」

 

 冒頭は淡々と読み進め始めた承兌だったが、書状の内容の辛辣さから、最後の方は声が震えていた。彼は読み終えると家康の方を盗み見た。

 家康に怒りの感情は皆無だった。皆無だったが、このような無礼な書状を送り付けた直江の意図を瞬時には見抜けず、困惑した。彼は冷静にそれを分析しようとしていた。

 家康はそばに控えている本多正信に尋ねた。

佐渡、この書状をどう見る。」

「無礼千万かと。」

「ではなく、直江の意図よ。」

「上様を立腹させたいように見えますな。少なくとも、天下の宰相として『立腹しなければならぬ状況』に置かせたいのでしょう。これで上杉を討伐しなければ上様の威信は落ちます。」

「戦をしたいてか。」

「はい、加えて、上様自らの討伐を望んでいるように見えますな。」

「大坂に空白を作り、挟み討つ気か。」

 ここで、家康は上杉が謀反を起こしたときに同調する大名を想像した。前田家は既に人質を出して屈伏し、宇喜多家は家中が泥沼の抗争を繰り広げていてとても上杉に与力する余裕はない。毛利家は石田三成襲撃事件の時、徳川と和睦し、屈した過去があった。

佐和山の石田がございますが。」

「わしもそれは考えた。直江と石田の友誼は存じているからな。しかし高々佐和山十九万石に何ができよう。」

 家康と正信は結局、上杉の詳細な狙いをつかみかねた。しかし確かなことは、このような無礼な書状をよこされたからには、家康の威信にかけて日ノ本の大名をことごとく参集し、上杉を討伐しなければならないことだった。

 家康はただちに秀頼に上杉討伐を上奏し、これを認めさせた。そしてと大坂城下に在番している諸将をことごとく参集し、上杉を討伐する旨を告げた。

濃州山中にて一戦に及び(11)

こんにちは!

今回は割と短めで、前田利長の謀反の風聞が立つ部分ですね。

当ブログでは本当の謀反としていますが

顛末まで書きたかったですが、それは次回やります。

 

 家康は直江と太田の密約を当然知らない。

 上杉家と前田家は八月中に各々の領地へと帰還したが、家康はそれをあまり訝しげな眼では見なかった。というのも、もともと上杉家の帰国は既定のことであったし、前田家の帰国は、自らの権限を拡大するという意味で家康にとってはむしろ好都合であったためである。

 時は九月九日、時々吹き抜ける秋風が肌に冷たい季節だが、頑丈な体つき、程よい肉を備えた家康にとってはそれが程よかった。彼は今、伏見から大坂の途上にある。

 大坂にいる幼君秀頼に「重陽節句」の祝賀と称して拝謁するためであった。

 方便であった。彼はこれを機会に大坂に居座り、本拠地とするつもりでいる。

 秀吉の遺言により、前田家が大坂を、徳川家が伏見を鎮護することが規定されていたが、前田家が加賀へ帰国し、自ら大坂に政治的空白を生み出したのを好機として、拠点を伏見から大坂へ移す腹であった。

 家康が最後に大坂を訪問したのは秀吉生前まで遡る。以後、彼は豊臣家、および前田家の影響が強い大坂を訪れるのをやんわりと回避し続けてきたが、今回ついに彼の地に乗り込むことを決意した。

「もう少し、ましな理由はありませなんだか。」

 本多正信は道中、家康の訪問理由をおかしがった。これまで頑なに大坂を訪れなかった家康がにわかに「重陽節句」と称して訪問するのは確かに違和感がある。

「文句を垂れるほど力のある大名も気骨のある大名も最早いなかろうて。」

 家康は余裕を見せた。実際、前田家、上杉家が帰国した今、家康と対等に渡り合うことのできる大名は皆無に等しく、皆家康のことを天下人同然に敬った。

 大老宇喜多秀家などは前田利家の婿にして、大きく薫陶を受けた大名であると同時に、豊臣家の一門格でもあったがために家康の専横ぶりに露骨な不快感を示した。しかし、家老の長船が宇喜多家の他の譜代家臣と激しく不和であり、内乱同様の体を為していたため、家康の対抗勢力となるだけの余裕はなかった。

 前述したが、前田家も太田長知ら反徳川派と、横山長知ら若手を中心とした親徳川派で半ば分裂しており、前田家の行動力を大きく阻害していた。

 その点、徳川家は本多正信が、武闘派の本多忠勝榊原康政らからやや敬遠されてはいたものの、家康の元、強い団結を誇っていた。    

これは家臣団の基盤である三河武士が強烈な忠義心を持つ直情的な気質であったこと、また彼らと家康が幼少のころから無数の労苦を共有してきたことに起因するが、ともかく徳川家の結束は他家に抜きんでたものがあった。それは家中分裂に悩まされる他家と比較したとき、中央における家康の立場をも有利としていた。

 家臣団、という点で考えたとき、豊臣家は哀れであった。

 秀吉はそもそも下層民からの成り上がりものであったために安定した地盤を持つ家臣団を持たなかった。そして不運にも子を唯一秀頼しか為せなかったために婚姻によって一門衆を増やすこともできず、唯一取れた策が妻、高台院の血筋のもの(加藤清正など)を一門格として扱うことであった。

 その他にも黒田如水石田三成といった秀吉の天下統一事業の過程で成り上がった大名は数多くいるが、彼らにおいても豊家と地縁や血縁を持たないがために関係性はどこか空虚で、ふわふわと紙の風船の様だった。

 家康は道の先に顔をのぞかせている大坂城の豪奢な天守閣を眺めながら、豊臣家の脆さと空虚さを哀れに思った。

 

 家康達一行は大坂城大手で大野治長の出向かえを受けた。

 大野修理亮治長は秀頼の生母、淀殿の乳母の子にあたる。淀殿とは姉弟同然に育てられてきた経緯があり、淀殿が秀吉の寵愛を得、宮中で成り上がるとともに地位を拡大した。

 そつなく政務をこなす能史であるとともに、上背が高く、顔立ちも整っている好漢である。

人々は、大野の好漢ぶりと淀殿との親密さから二人の密通を噂した。また、秀吉がそれまで子を為せなかったにも関わらず、淀殿が突然懐妊した事実から、秀頼の誠の父は大野であるという醜聞まで流れた。真偽は定かではない。

淀殿織田信長の妹、市の娘であることは有名である。秀吉は淀殿後宮に入ってから、その美貌と織田の血を求めて寵愛した。(織田信長の弟、信包の未亡人を側室にしていることからも、秀吉は織田の血に焦がれていたように見える。)

秀吉からの寵愛はとめどなく、秀頼を出産し国母となった彼女であったが、大阪城内ではこの淀殿にまつわる集団、主に淀殿とその乳母、および大野修理によって構成されるグループをどことなく敬遠する風潮があった。

その原因は、もちろん秀吉の寵を得た淀殿に対する嫉妬心なども含まれるが、淀殿後宮の統率者としての資質にやや欠けていたためでもあった。

彼女は男を悦ばせる、華やかで煽情的顔立ちをした性的魅力にあふれる女性であったが、奥ゆかしい理性は持ち合わせていなかったために、その魅力はなかなか人望に結び付きにくかった。

加えて、彼女は浅井、柴田という二つの滅亡した家に在するという特殊な経験をした割には、驚くほど政事への興味関心が薄かった。彼女の関心事は子、秀頼の「お召し物」や、自身の香といった些事に限定された。

後宮の人々の多くは、このような調子の淀殿についていく気になれず、正妻の北政所を頼った。北政所淀殿のように派手な外見、用紙は持ち合わせていなかったが、全ての人に対して誠実で、理性の範囲を超えない博愛精神をもって臨んだため、後宮では無比の人望を誇った。

しかし、北政所は、その人望をもって淀殿の勢力を攻撃するという行動は決して起こさなかった。(そのような不和は北政所が最も嫌うところであった。)北政所淀殿を時々呼び出しては、国母としての心がけについていくつか窘めたが、淀殿がそれを素直に聞くと(淀殿もその窘めに歯向かうほどの積極性はなかった。)元の博愛に富んだ表情に戻った。

大坂城内はそのような調子で平穏を保っている。

家康は大野修理に本丸御殿まで案内され、秀頼と淀殿に拝謁した。

家康が一通り重陽節句の祝賀の辞を述べると、淀殿が秀頼に何かを耳打ちした。秀頼はあどけない声で

「徳川内府、大儀である。」

と言った。場は和やかな笑いで包まれ、家康もいささかの愛想笑いをした。

「内府殿。伏見からわざわざ足のお運び、感謝します。」

 淀殿は上座から家康に呼び掛けた。家康は一礼し、淀殿の方を仰ぎ見た。

 家康は、華やかな容姿を持ちながら政治的に無能なこの女に対し、何も魅力を感じていなかった。彼は阿茶局(彼女は時に戦陣で助言さえしてくれた)に代表するような才女に惹かれる傾向があり、淀殿のような女は最も不得手とした。

 しかし家康はそれをおくびにも出さず、秀頼、淀殿との会見を和やかに終えた。豊家から完全に権力を吸い尽くすまでは彼らにも慇懃に接しておく必要があった。

 会見を終え、本丸御殿を後にすると、奉行の増田長盛長束正家が何やら慌てた様子で家康のもとに駆け寄ってきた。

「増田殿、長束殿。大坂に着いて早々、何用かな。」

「それが火急の知らせに御座いまして。」

 増田と長束は間の悪いような表情で顔を見合わせると、家康に告げた。

「どうやら前田肥前守様に謀反の兆しがあるとのこと。」は

「謀反?確かな知らせかね。」

「はい。家老の横山長知からの密告です。前田家の中で、徳川様主導の政を良しとせん派閥が力を握っておるとのことで。」

「加賀に帰還するといったのは前田殿のほうであるのに片腹痛いな。」

「尤もです。そしてその太田但馬主導のもと、加賀にて挙兵し、京、大坂に攻め入らんとする計画が進められているとのことです。」

 前田家の親徳川派筆頭、横山長知は、前田家の反徳川の流れを止められぬと見るや、主家を売るともいえる思い切った挙に出た。このまま徳川との戦になりにでもしたら家が滅びるという危機感が彼をそうさせた。

 実際、前田家は太田と直江の約定に従い、水面下で挙兵の準備を整えつつあった。横山は前田家の内部を知り尽くしている分、密告は詳細であった。

 増田はさらに言った。

「また、今回の前田殿の謀反の動きに大坂城大野修理、およびに奉行の浅野弾正様が同調しているとの由。」

 家康はこの報告に顔色を変えた。

「それは誠か。」

 大野も浅野も、徳川派とまではいかなかったが、徳川主導の政事にわりかし素直に従ってきた人物だったためである。

 実は、大野と浅野に関しては虚偽の讒訴であった。

 増田と長束は、かねてより淀殿を盾に権勢を振りかざそうとする大野と、石田と対立し、失脚の一端を担った浅野を政務における障害として見ていた。彼らは今回の前田の謀反にかこつけて彼らの政からの阻害を図った。

 家康は前田の謀反を情報として提供された手前、彼らの讒訴を信じ切るしかなかった。

「大野、浅野の件は直ちに対処できるであろう。前田に関しては討伐も視野に考える。今日、大谷殿はご登城かな。」

「大谷刑部は体調がすぐれぬらしく、今日は屋敷におりますが。」

「うむ、加賀から京へ上るには北国街道を封じねばならぬ。敦賀城主の大谷どのと佐和山城主の石田殿で連携してことに当たっていただきたい。」

「石田治部は謹慎の身ですが。」

「嫡子の重家殿が代わりにあたればよい。」

「かしこまりました。大谷と石田に報せましょう。」

 増田、長束は直ちに家康の命を実行した。彼らは今や完全に家康の手先となって動いており、奉行衆は大谷を筆頭に徳川派であるといってよかった。

 前田利長が万が一、上京してくるのを防ぐため、大谷吉嗣と石田三成の嫡男、重家率いる千の軍が北国街道の封鎖にあたった。大野と浅野はそれぞれ徳川領内の下総と武蔵に肺流となった。

大野が配流されたのは淀殿との密通が明るみになったためであるという噂が瞬時に流れたことに家康は世情のおかしみを感じた。

浅野などは、家のとりつぶしだけは勘弁してほしいと家康に懇願した。石田と長い期間対立していた彼は奉行衆の中でも孤立がちであり、精神的にも追い詰められている状態だった。家康は、これまで関東の外交において浅野と連携したことが多くあったので彼に少なからず同情し、浅野家の将来を保証した。

濃州山中にて一戦に及び(10)

こんばんは。深夜に更新します。

この前、あるブログを読んだら、小説を書くのに最も必要な能力は「書き上げること」であると書いてあったのでとりあえず書き進めます。

 

今回は「決戦前夜」みたいな回です。太田長知というマイナー武将が出てくるので知らなければググってみてください。

深夜に書いたので誤字など保証できません。ではおやすみなさい、、、

 

 

 
 

 石田三成が所領の佐和山に帰還したをもって、大名十名、および徳川や毛利ひいては高台院までを巻き込んだ騒動は一旦の幕引きとなった。

 人々は前田利家の死、石田三成の引退による政治的空白を危惧したが、政治的な穴はことごとく徳川家康の手によって埋められた。彼は腹心の井伊直政および榊原康政を奉行同格の地位に置き、諸々の政務にあたらせた。彼らは政務を遂行する上で主の意図を多分に酌んだが、それはあくまで豊臣公儀の行動として処理された。

 無断で伊達家や福島家、蜂須賀家と縁組したことを弾劾され、一時は前田利家に対して政治的に敗北した家康だったが、今回の石田襲撃騒動を高台院と共に調停した功、また前田、石田という豊家の大黒柱が立て続けに消失したことも相まって家康が政治を主導することに異を唱えることは誰もしなかった。 家康は家臣団と共に向島から伏見城本丸に移住し、大谷、増田、長束といった奉行衆を統括した。その様はまるで天下人の様であった。

執政者として天下人同様に振舞う家康を見て、本多正信はある時から(果たしてこの御方は天下簒奪の野望があるのか。)という疑問を持ち続けていた。果たして彼はそれを家康に尋ねた。家康は答えた。

「豊家の当主秀頼公は幼く、政治運営能力はない。前田大納言様が身罷り、石田治部が引退した今は徳川家が天下を治めていくのが最も天下のためである。」

「恐れながらお聞きしますが、それは当家が豊家になり変わることを含意しますか。」

「それは謀反であり、反発する大名と戦になるであろう。日ノ本を戦乱に巻き込む意図はない。」

家康は戦を起こしてまで天下を簒奪する積極性を持ち合わせてはいなかった。南蛮の帝国「ひすぱにあ」が強力な水軍を率いて今にも明や日本に攻め込んでくるやもしれぬという情報を彼も得ていたためである。

「豊家は代々関白職として公家化させ、形骸上の君主になってもらう。我ら徳川家は朝廷から征夷大将軍の職を貰い、武家の棟梁として諸大名をまとめる。」

 家康はその政権構想を正信に語った。形骸上の君主をいただき、自らが実質上の君主として支配者となるその構図は鎌倉幕府の将軍と執権に近く、家康はこれにならうことで豊家との政権交代を平和裏に行おうとした。

「見事にございます。その着想、感服いたしました。」

正信は言った。

「されど、将軍職として諸大名をまとめていくには、他の力を持つ大名を全て徳川の傘下に収めなければなりませぬな。」

「そこよ。」

 他の大老職にある大名、前田、毛利、上杉、宇喜多らは徳川が将軍となり、天下を戴くのを良しとしないだろう。

「どうすればよいと思う。」

「お気に召さぬやもしれませぬが、また他家と縁組を行うがよろしいかと。」

 正信の言に家康は目を丸くした。

「先だって、縁組の件であれ程の騒動になったではないか。」

「存じております。しかし、あの時、騒動の嚆矢となった石田殿は政界から離れ、諸侯をまとめていた大納言様はすでに世を去りました。あの時の様に声高に非難してくるような気骨のある大名はおらぬでしょう。」

 正信は続ける。

「此度の石田治部殿と諸大名の諍いを調停したことで殿の声望は否応なしに上がりました。『徳川内府なくして世は収まらぬ』ことを天下に示したのです。この流れに乗り、縁組によって勢力を肥やしに肥やし、他の大名との力の差をいかんともしがたいほどにするのです。そうしてしまえば天下の儀は殿の思うがままにございます。」

 家康は結局、正信の言を容れた。豊臣恩顧の大名のうち、勢いの盛んである黒田長政加藤清正に目をつけ、秘密裏に縁組を確約させた。そして黒田長政に娘の栄を、加藤清正に養女のかなを嫁がせ両家と婚姻関係を結んだのであった。

 

 大坂城の北西部には「下原」と呼ばれる低湿地帯が広がっている。そこは後に「梅田」と呼ばれる大坂一の繁華街となるのだが、それは江戸期以後の話であり、この時分は歩行のしづらいぬかるんだ土地でしかなかった。時節は文月(七月)の終わりに差し掛かっていたため、日が落ちて時間が経つにも関わらず窒息するかというくらい蒸し暑い。

  その下原の湿地帯に掛けられた木道を一人の男が歩いている。

  男の名を太田但馬守長知という。前田家の家老である。

家老といっても、当主前田利長の従弟にあたり、一門格といっていい。

 前田家における武勲の人であり、特に前田利家の後半生における戦歴で、その手足として活躍した。

 家老として前田家を差配するようになってからも、かつて戦場を共にした部下に対し分け隔てなく接する好漢であったが、直情型の武人であったがために、前田家にとっての政敵を憎むこと甚だしかった。

 このころの前田家は、急速に天下の実権を握りつつある徳川家に対し、好意的な勢力と反発する勢力とで二分されていた。

 特に、先代利家以来の家臣は、先の縁組騒動で前田と徳川がやりあった事情も相まって反徳川派が多かった。太田は反徳川派の中心人物であった。

 細川忠興加藤清正の主導により行われた石田三成襲撃事件の苛烈さゆえに、すっかりその印象を薄めてしまっているが、秀吉の死後、大老かつ秀頼の後見人として大坂を鎮護していた前田利家は閏三月二日、石田三成襲撃事件の直前に病死している。(その死による政治的空白が直後の襲撃事件を半ば収集困難なものにさせた。)

 利家の後を継いだ肥前守利長は父譲りの人徳、そして母親芳春院譲りの利発さを併せ持った人物であった。しかし数多の戦歴を誇る父親と比較すると、そしてこの先、かの徳川家康と渡り合っていかねばならぬことを考慮すると、やや迫力に欠ける印象をぬぐえなかった。実際、彼は前田家中における親徳川派と反徳川派の反目を制止できないでいた。

 以上のような家中の分裂もあり、前田家は中央政治への影響力を大きく後退させている。太田は、徳川家康の違約に対し気骨で渡りあった先代の利家を心底敬っていた。そのため、政権を専横し始めた徳川家に対して何もできない前田家の現状に我慢できないでいた。

 彼は湿地に網目のように掛けられている木橋をしたたかに渡り継ぎ、下原の西のはずれにある寺に辿り着いた。太融寺という空海が創設した歴史ある寺だが、ここで他家の重役と会う手はずだった。

 境内の中は外の蒸し暑さが嘘に思えるほどの涼やかさだった。太田は境内を横切ると重厚にそびえる本堂を仰ぎ見た。

 本尊は嵯峨帝から寄贈された千手観音菩薩であり、本堂の奥に安置されているに違いない。信心深くもある太田は本尊の方に向かい合掌した。念じているうちに、件の人物が到着した。上杉家の執政、直江兼続であった。

「前田と上杉の軍事同盟の提案とは誠かね。」

 直江は言ったが、これは彼の諧謔であった。実際には軍事同盟どころか密会の題目さえも決まっていない。

「直江殿。ご足労にござる。」

「宵闇に密会とは好色ですな。側女を持たぬゆえ誤解されるが直江山城に男色の趣向はござらぬ。」

 直江はカラカラと高笑いした。身長六尺を誇る彼は当時にしてかなりの巨躯であり、太田は直江を仰ぎ見なければならなかった。

 此度の会談は、徳川の専横に危機感を募らせた太田と直江が秘密裏に設けたものであり、徳川と渡り合うため、前田と上杉で何らかの連携を取ろうという趣旨であった。太田と直江自体は外交の都合上、幾たびも顔を合わせたことがあった。

 二人は社交辞令を二、三言交わしたが、お互いどのように本題に切り込めばよいか躊躇っていた。直江は度胸のある男であるので、以下のように言った。

「徳川と戦をするかね。前田がその気なら上杉三万の侍は主、景勝の下知のもと悉く死ぬ気でいるが。」

 直江としては彼自身、反徳川であったし、家中をそのように一統していた。このまま徳川の勢力が肥大化すればいずれ上杉家を抑圧し始めるのは目に見えていたためである。

「私、太田は政事を恣にする徳川と戦をも辞さぬ覚悟なのだが、恥ずかしながら前田は一枚岩ではござらんでな。」

「横山殿とかいう御仁が家中に親徳川を説いて回っておるらしいな。」

「お耳がはやいことで。」

「昨日の軒猿の報告で初めてその名を知った。」

 直江の言に太田はその表情に影を落とした。前田家が親徳川派と反徳川派で割れていることは先述した。太田は反徳川派の筆頭格だったが、横山長知という若手の家老が親徳川派の中心人物であった。横山は先代利家の時代は全く用いられていなかったが、跡を継いだ利長の寵を得、家老として重用されるに至った。自然、横山率いる親徳川派も、前田家の中で新興的な勢力が多くを占めている。

 太田の懸念は、横山の弁舌の才が想像より見事であったがために、反徳川派が親徳川派にやや押され始めていることであった。

 加え、当主利長は横山に信を置いているため、徳川との融和路線に傾きかけている。

 彼は自身が上杉の宰相と交渉しているという立場を利用し、上杉との盟役という既成事実を作ることで家中を説得しようと考えていた。

 直情型の軍人はこのような政治的な場において、思い切った手を打てない者と、考えのない見切り発車の手をうつ者とに大別されるが、彼は後者であった。

「直江殿、上杉と前田で共闘することを願いたい。前田家は私が反徳川でまとめる故。」

「承知も承知だが、それは弓箭の沙汰になることを想定してのことか。」

「無論。」

「相分かった。」

 直江は懐紙を取り出すと、脇差で親指をぷつりと刺した。そして自身の血でもって懐紙に大きく×の字を書いた。そしてそれを太田に差し出しながら言った。

「上杉は来月国許に帰る。」

 上杉家はもともとの封土の越後から会津へ移されて日が浅い。上杉景勝とその家臣団は秀吉の葬儀(四月に既に行われた。)のために上洛していたが、領国の政務のために八月に帰国することは既定のことだった。

「仮にことを起こすなら備えに半年はかかる。」

「承知した。」

「前田はどうする。」

「我らも一度領国に帰ろうと考えている。」

 太田は直江の書いた×の横に、再び血の×を書きながら言った。

「家中を一統し、上杉殿と合わせて兵を興す。」

「相違ないな。」

 直江は満足そうな顔をすると、より具体的な話をしたがった。

 彼は軍陣においても書を嗜むほどの文愛家で、その言動や行動も創作の世界に影響された部分が少なからずあったが、政治の舵取りにおいては、それに終始しない緻密で強かな思考を見せた。

「前田家と元来昵懇な宇喜多、細川はまず同心させたいと覚ゆ。」

 太田は言った。大老の一角を占める宇喜多、先の石田三成襲撃事件を主導した細川は代表的な前田派の大名であり、先の家康の起こした縁組違約騒動でも前田家に与力している。

「宇喜多、細川の調略はお任せいたす。上杉家は佐竹を内々に調略しておく。」

 直江は佐竹の調略を確約すると、謀略の全体を総括した。

「上杉と前田はそれぞれ領国で挙兵の支度をする。来年の五月か睦月に諸大名を巻き込んで一斉に蜂起し、徳川内府の専制を弾劾する旗印のもと、これを討つ。太田殿、謀の是非は前田家中の一統にかかっておる。くれぐれもよろしゅう頼む。」

「先代利家の名にかけて確約いたす。」

 太田は果たして家中の取りまとめを直江に約束した。結論から言うと、この約定は半ば果たされる。太田ら旧臣の熱意ある説得で当主利長も家康との対決姿勢を鮮明することを決めた。上杉、前田の両家は、同じ八月に領国整理の名目のもとそれぞれ会津、加賀に帰国することとなる。

「太田殿。」

 直江は境内のよく冷えた空気を味わいながら言った。

「儂は今高揚している。我らが生まれた時分は乱世も遂に終焉し、満足に采を振るったことがなかった。」

「如何にも。しかも相手は今日ノ本で最も戦上手とされている男です。」

 直江はうなずくと、太田と残された確認事項に関して幾ばくかの打ち合わせをした。それも終わると無駄にその場に留まることはせず、寺を後にした。太田は直江の背を見送りながら

(将帥の背中である。)

と感じた。将は兵を率いる時、自然と背中を見せることが多くなる。そのため、太田は人の将としての力量をその人の背中の醸す雰囲気で判断するようにしていた。直江の背中は兵を従える苛烈さと名将がもつ類の浪漫を感じさせた。太田は直江を信頼にたる将であると確信した。

  

濃州山中にて一戦に及び(9)

こんばんは。

ようやく石田三成襲撃事件が終わりました。

今回は家康と三成が政治について激論を交わす回です(完全創作ですが)

 

次回からは前田討伐、直江状あたりをすっ飛ばすくらいのテンポで進む予定です笑

 

以下本文です

石田三成は、徳川家康の次男、結城秀康によって佐和山に護送される途上、伏見における家康との会談について回想していた。

細川、加藤らに大坂で襲撃されて以降、彼は佐竹の協力のもと、伏見までたどり着き、自邸でもある治部少丸に手勢と立てこもっていたが、家康、高台院の仲裁の元、武装解除に加え、居城の佐和山に蟄居することとなったのであった。

自身に蟄居という処分が下ったと知った時、石田は愕然とした。弾劾の焦点となっている「蔚山倭城の戦い」の裁定において石田は何ら関連がなく、完全たる濡れ衣なためであった。石田は自身の処分に徳川の恣意的なものが介在しないかを疑った。

向島の内府殿にお会いすることはできるであろうか。」

彼は同僚の増田長盛に聞いた。(彼は奉行として伏見城に登城している最中に、件の襲撃事件に巻き込まれたため、石田と同じく伏見城に籠城していた。)

「図ってみよう。だが、処分の件に関して徳川殿に問いただすとしたら筋違いであるぞ。今回は大谷刑部らも相当尽力してくれたし、徳川殿とて悪意をもって蟄居という裁定を下したわけではあるまい。」

「しかし、今回の件に関して私は濡れ衣であるし、このような力ずくでの強訴を認めては豊臣公儀の威信は地に落ちるではないか。」

石田は食い下がったが、これ以上増田に詰め寄っても無駄だと思い、とりあえずは増田を通じて向島に起居する徳川家康との会談を望んだ。

三月十日、果たしてその希望は容れられ、石田は密かに伏見の城を脱出し向島へと向かった。細川、加藤らの襲撃側は武装解除し始めているとは言え、鉢合わせるのは望ましくないため、伏見の東側から宇治川を伝って向島へと向かった。

「島左、儂が佐和山に蟄居すれば政局はどうなる。」

 石田は宇治川の船中で、同行している島左近に問うた。石田は流動化する現在の政局をできるだけ合理的に整理しようとしていた。

「前田大納言様がつい先日、鬼籍に入られました。殿までも失うとあれば豊臣政権はいよいよ徳川の傀儡と化しましょう。親徳川派である大谷殿が再び抜擢されるでしょう。」

「大谷殿が重用されることに不服はないが、儂の不在を埋めるために井伊や榊原といった徳川の家人も奉行として登用されるであろうな。」

「尤もかと。肥大化した徳川は前田や上杉らと共存できましょうや。」

「まさにそれについてと、徳川殿の今後の政治の理について問いただしに参るのだ。」

石田は自身の処遇の怪に加えて、これを機に徳川が今後どのような政を遂行していくのかについて議論を交わそうと試みていた。豊臣政権が徳川の専制化していく流れはもはや避けようがなさそうに感じたため、せめて徳川の政治、政策理念について忌憚ない意見を聞きたかった。

(驚くほど無私のお方だが。)

 島は主人、石田三成の、政治的に追い詰められてなお、公儀の体制を慮る姿勢に感銘を受けた。

(しかし、宰相の才ともまた異なるな。)

 石田の思考は、純粋な理をもって正解をはじき出す、まるで一種の機関の様であった。人の欲望や弱みを制御しながら政を行う宰相の役割とはまた異質な気がする。

 島は、主人石田三成の才能は秀吉や大谷吉継といった、人の操作に長ける人物と合わさってこそより活かされるものであると感じた。しかし秀吉は既に亡く、大谷も病身である。

 そう考えた時、理と情を程よく持ち合わせた徳川家康は宰相に適任と言えるのかもしれないという思考に島は至った。

 ともあれ、政治に対するアプローチや、大名としての経歴、立場も違う石田と徳川がどのような言葉を交わすのか島は純粋に興味をもった。

 

 石田らは向島の河岸で井伊直政本多正信らの出迎えを受けると、向島本丸の応接の間に通された。

 向島の徳川屋敷は、もとは秀吉が伏見城の支城として築いたものであり「向島城」と呼ばれるほど大規模なものであった。

 徳川家は先の縁組騒動によってその居場所を伏見の城下町から半ば追われる形で向島へ越したが、屋敷の大規模さは徳川二五〇万石の格にはむしろ相応だった。

 家康はやや急かす様な足で応接の間に踏み入れた。

「石田殿。御足労であった。この度はとんだ災難でした。」

「徳川殿。わざわざの御対面、恩に着ます。裁定のことも平に感謝いたす。」

 石田は一通りの社交辞令を言うと、本題を切り出した。

「此度、矢留の斡旋をしてくださった恩は山々なれど、朝鮮の儀に関して、私は一切関わっておりません。それを以て蟄居とはどのような思う仔細あってのことでしょう。」

「貴殿が無実なのは知っているし、仮に関わっていたとしても朝鮮のこと自体は亡き太閤殿下がお決めになったことだ。其方らが罪を被る理屈でないのも知っている。しかし、今回は連衡した大名が多すぎた。加藤、細川、池田、派閥を越えて十を超える大名が参画した。これを治めるのは誰かが詰め腹を斬らんと無理だ。」

「しかし、それでは豊臣公儀として武力による謀反を認めた形になっております。それで政権の体を成していると言えましょうや。」

「左様。成していないのだよ。もはや豊家は政権ではない。統一された意思決定能力が失われているからな。」

 家康は重大な私見を告げると、手元の茶を飲み干した。

「殿下の死によって、政権は瓦解したに等しい。よって政権を新たに再構築する必要がある。近々安芸の毛利殿と徳川で私的な和議を結ぶ予定がある。実質的に毛利は徳川の与力となる覚悟があるらしい。」

「大谷殿が毛利を説得したと聞きました。」

「左様。かくなる上は豊家を関白家として上に戴き、徳川を宰相とした統治を再構築するつもりである。石田殿は不運にも朝鮮の役への不満等を諸将に向けられた立場であるが、一旦自領で謹慎願いたい。そのお力が必要となった暁には政権に呼び戻そう。」

 家康は、石田が朝鮮の役に一貫して反対していたのを知っていたので、朝鮮の役が豊臣政権の失敗であるというニュアンスは濁さなかった。

「私の処分の動機と仔細はわかりました。しかし、政権再構築の表現が気になります。貴殿の構想ではもはや豊家は徳川の傀儡であり、それは豊家の政権と言えましょうや。」

「そなたは『豊家を上に戴き、徳川が宰相として政を主導する』という言葉以上のものを欲さない人物だと思っていたが。ここでは『豊臣の政権』であると言った方が良いのか。」

 家康は秀吉の生前、石田と政治的に接触する機会がほとんどなかったが、朝鮮の役への態度にもみられるように彼には建前の理屈や世辞が不要であることは知っていた。

 石田の言は、執政者として徳川が豊臣をないがしろにすることを危惧してのものであったが、相手に言質を求める問い方は彼らしからぬものだった。石田自身も自ら出た言葉に半ば驚いた。

「いえ、徳川殿が政治的公平性を保てるのかを案じたまでです。」

「徳川も二五〇万石を治める大名故、須らくは不可能であろうな。よって、政権の在り方を変動させる必要があるように思う。織田信長公以来、中央に為政者が君臨し、地方は中央の令を受ける体制が続いた。しかしそれでは中央の揺らぎを全国が諸に被ることになろう。よって、中央が持っていた統治の権限を地方大名にいくらか移譲する必要があるように思う。そのうえで中央は上に豊臣、下に徳川が担う。どうかね。」

 家康は兼ねてから本多正信と共有していた政治構想を石田に話した。秀吉時代の政治を牽引した才子の意見を聞きたかったし、謹慎の身になる石田にこの考えが漏洩することは何ら痛手にならないためであった。

「地方への権限移譲は実は兼ねてから私も構想していたことでした。」

 石田は言った。これは事実で、石田自身もかつての秀吉政権のような中央独裁型の政治の脆さを認識していた。

「徳川殿の構想は徳川殿が豊臣家を弑逆しない限り上手くいくでしょう。」

「それはありえないし、貴殿にはやはり折をみて中央に復帰して頂く。大谷殿はあのような状態だし、有能な奉行は多く欲しい。」

「かしこまりました。佐和山に謹慎中、中央には嫡男の重家を出仕させます。」

「承知した。佐和山へは次子の結城秀康に送らせましょう。人質同然のものと受け取ってもらって構わん。これで細川、加藤も手出しはしまい。」

 

 以上が石田三成徳川家康の会談の顛末であった。島はこの二人が、理でもって思考するところにとても類似するものを感じた。

 島は主人、石田三成が完全に理の人、政治問題に私情を介在させない人であると思っていたが、家康が掲げる政治構想に対しやや難色を示したのは、やはり些か豊家への情があるからなのかもしれないと思った。

 ともあれ、会談はおおむね両者齟齬なく無事終わったことにこの浅黒い肌をした、軍事顧問は安堵した。

 気づけば石田家一行は伏見から瀬田の端のところまで来ていた。石田は、自身を護送した結城秀康に礼として、自らの脇差を抜いて渡した。「正宗」という名のこの脇差は、後世まで受け継がれることとなる。

濃州山中にて一戦に及び(8)

こんばんは

 

関ケ原シリーズも早くも8話目ですね。

今回は重要な局面だけに自分の文章力のなさが浮き彫りになってしまった感じです。

ネガティブなことばかり言っても仕方ないのでこのシリーズはちゃんと完結させたいと思ってます。。。

いつかちゃんと細部まで点検してリメイクしたいです!

 

以下本文です。

 

 

 家康が伏見での騒動を知ったのは石田三成の護送を務めた佐竹義宣の訪問によってであった。佐竹は伏見城まで石田を送り届けると、今回の騒動の調停を願い出るために家康が居住している向島へと急行した。

 この義理固い男は、石田が豊臣政権下において佐竹家に世話を焼いてくれた恩を、身命を賭して返すつもりでいた。徳川家とはそれ程付き合いはなく、むしろ領土問題によって多少の緊張関係にあったが、彼は石田のために迷わず、家康に調停を願い出たのだった。

「水戸侍従殿。要旨は分かりました。私は大老筆頭として、大名たちの私闘を取り締まる義務がありますし、伏見の統治者としても、今回の騒動を看過することはできません。今すぐにでも手を打ちましょう。」

 家康はあくまで公正で中立な立場として今回の騒動を収束させるつもりであった。

 襲撃側に池田輝政福島正則ら徳川家の縁戚大名が多くいたことに衝撃を受けたが、ここで襲撃者側の肩を持っては、政治問題への武力解決を豊臣公儀として認めることになる。

「ありがたし。何卒、穏便に事が済むようお願い致す。」

 佐竹義宣は家康が公正な仲裁者としての立場を表明したことに満足した。深々と頭を下げると、徳川屋敷を後にした。

 家康にとって問題は、大坂から伏見へと三成を追ってきた七将が相当な興奮状態にあることだった。

 佐竹義宣が徳川屋敷を後にするのと入れ替わりで、細川忠興ら七将から連盟で家康宛の書状が送られてきたが、そこには明確に石田三成への弾劾が記されており、主に二つの要求が書かれていた。それは「朝鮮の陣での蔚山倭城の裁定の取り消し」「石田三成および福原長尭の切腹」であった。

切腹とはまた手厳しい。」

 本多正信は失笑したが、家康は笑えるような事態には思えなかった。彼らは現在、治部少丸を包囲し、突入の時を今や遅しと待っている。家康が彼らの条件を許諾するまでおそらく兵を退かないつもりであろう。そうなればまた諸侯が石田派と弾劾諸将派に分かれ、前回の縁組騒動の二の舞になりかねない。

「とりあえず、七将への返書をしたためる。井伊兵部をここに。」

 家康は七将への返書を認め、腹心の井伊直政に持たせ、宇治川の対岸で陣を張る七将の元に遣った。

 伏見の治部少丸では、攻囲する弾劾諸将の軍勢と、石田三成麾下の手勢とが指呼の間で睨みあっていた。

 特に、夜が明けてからは引っ切り無しに言葉合戦が行われていた。今回の軍事行動には政治的意味合いが多分に含まれていたがために、双方自分らの正当性を主張するのに躍起だった。

 石田家の侍大将、舞兵庫は主人石田三成がいかに清廉で公正に奉行の職にあたってきたかを知っていたので、弾劾派の熾烈な雑言にもひるまず反論した。

「汝らは、豊家が天下を収めて以来。此の方(石田三成)が如何に滅私奉公してきたかを知らぬか。星を被き、月を戴くとは此のこと。その様を知っての狼藉か。」

 言い終わるや否や、手元に抱えた八〇匁はあろうかという大鉄砲を放った。大鉄砲は轟と火を噴き、寄せ手の木盾を吹き飛ばした。

 そのようなやり取りを繰り返しているうちに、家康の使者である井伊兵部少輔直政が、弾劾諸将らが本陣としていた伏見の細川上屋敷に到着した。

 細川以下七将は家康からの書状を食い入るように見ていた。書状には七将が手紙をよこしたことへの礼が書かれており、仔細は井伊直政に聞くようにと述べられていた。

「して、内府殿は我らの要求には何と。」

蔚山倭城の裁定について見直すことにつきましては、加賀大納言様御存命の折から大老間で議題にあがっており申した。図ってみる故、沙汰を待つようにとのことです。」

「石田と福原の切腹については。」

「両名の処分の儀つきましても只今思案中ゆえ、追って沙汰するとのことですが、我が主は、切腹は重過ぎるとの見解を持っています。」

 この井伊直政の発言に対し、弾劾諸将でも反応が割れた。主犯格の細川忠興加藤清正の二人はその短気さも相まって激昂した。

「我らの要求はあくまで石田らの切腹。この機に石田を葬らねば、奴は必ずや復権を企てよう。」

 床几に両手を叩きつけたのは加藤清正であった。

「もし我らの要求が容れられぬのであれば、その時は内府殿と一戦交える覚悟ぞ。」

「その言葉、そのまま我が主にお伝えするがよろしいか。」

 井伊直政が凄んだ。平時こそ有能な政務官、外交官として振舞っているものの、この男の根底にあるものは赤備え三千余騎を従える武人であった。加藤の言に対しへりくだる気は毛頭ない。

 結局その場は徳川家の縁家である福島、蜂須賀らが収め、事なきを得た。(彼らとしては徳川家と極力諍いを起こしたくなかったのである。)しかし、井伊直政は細川、加藤らの激昂ぶりをそのまま家康に報告してしまった。

 家康は内心不愉快であった。が、それよりも事態が収拾しないことへの心配が勝った。

 先にも述べたが、此度の騒動で石田三成切腹、という裁定を下せば、武力による弾劾を公儀として認めた状態となり、現行の秩序は大きく乱される。執政者として家康はその判決を下すわけにはいかなかった。

 しかし弾劾諸将は伏見と大坂に残留した者を含めて十名おり、徳川家の縁家も数多く含まれているが故に、その対応は難しいところであった。

高台院様(北政所)預かりの裁定としてはいかがでしょう。」

 謀臣、本多正信は言った。今回の事件には加藤清正福島正則ら豊臣家子飼いの武将が多く、彼らは多かれ少なかれ高台院、寧々から恩を受けている。加藤、福島などは少年期、高台院に育てられたも同然であり、母のように慕っている。

「それは良いな。」

 高台院預かりの裁定とすることで、彼らと徳川家との無用の衝突も防ぐことができるであろう。

佐渡。大坂の高台院様のもとにすぐに使いをやってくれるか。処分の内容はこちらで決定する故、仲裁にたってくれる様、お頼み申すのだ。」

「承知しました。すぐさま嫡子の本多正純を大坂に遣りましょう。」

 

 細川忠興加藤清正らが奉行の石田三成を弾劾、その屋敷を襲撃したことは大坂でも大きな騒ぎとなっていた。

 細川らが石田屋敷を襲撃すると同時に、池田輝政脇坂安治加藤嘉明ら三人の将が片桐助作と謀り、大坂城を占拠したことは前に述べた。その計画は巧妙かつ迅速に行われたため、奉行方も成す術がなかったのだが、この一連の騒動に対し強い警戒心を持った毛利家が国許から兵を急募し、尼崎に陣を敷く事態となっていたのだった。

 毛利家は秀吉が羽柴姓の時分から縁があり、豊臣政権にも早くから恭順の姿勢をとるなど、外様大名の中では親豊臣系の大名として知られていた。中でも秀吉は、毛利一族でもあり、大きな勢力を持つ小早川家に、自身の縁者である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子として送り込むなど重用していた。

 そのような歴史もあり、秀吉の死後、八月十八日に石田三成ら四奉行は毛利家と「豊家に仇成すものがあれば連衡してこれを排斥する。」という旨の誓紙を特別に交わしている。これは毛利家の信頼と、百二十万石の実績を買ってのことだが(徳川家康の専横への警戒の意味もあった。)、いずれにしても今回の尼崎への出兵にはこのように、毛利家が昔から豊臣との繋がりが深いという背景があった。

 毛利輝元は国許から急行させた六千の兵をもって尼崎に陣を敷くと、取り急ぎ軍議を行った。大坂の状況は家臣、内藤隆春(齢七十に近い老齢であったが物に聡く、慧眼であったため、引き続き重用していた。)から逐一報告されていた。

「池田武州以下三千余りの兵が大坂城に拠っており、立ち入れないようですな。」

 当主輝元の叔父、毛利元康が言った。安芸毛利家中興の祖である毛利元就は多くの子を残した。元康は齢七十を過ぎてから産ませている。

池田輝政は家康の婿だが、此度の騒動は家康の指図に因るものなのか。」

「その可能性はあるでしょう。内藤の報告にも以前、『奉行衆と内府、些か不和』と書かれており申した。」

 輝元と元康の会話を制したのは若くして家老職に準じている吉川広家であった。

「お待ちあれ、奉行衆と内府が不和であるという噂は太閤殿下が身罷られた去年八月の時点のものに御座ろう。太閤様の死後、内府様は一貫して豊家への忠義をもってご精勤なされておる。あまり食って掛かるのはよろしからず。」

「伊達や福島らと勝手に婚姻するのが忠義かね。」

 毛利元康は冷笑した。吉川広家は反論しようとしたが、輝元は「もうよい」と制した。

(小早川の叔父上が往生して以来、万事この具合よ。)

 輝元は心の中で嘆いた。豊臣政権下において、毛利家を導き、全てを取り仕切っていたのは叔父、小早川隆景であった。彼は抜群の思慮深さと多大な仁愛をもって国を治め、また早期から豊臣家と毛利家の架け橋ともなった。そのため毛利家は家中に混乱もなく、豊臣家との仲も良好だった。

 しかし小早川隆景が卒して以来、家中は不協和音を奏で続けている。

 その原因の一つは小早川家の遺領問題にあった。

 輝元の叔父、小早川隆景は毛利家の宰相でありながら、伊予の一部や備後の三原などに領地を与えられ、半ば独立した大名として扱われていた。しかし慶長二年、丁度秀吉より一年ほど前に死去した。秀吉は小早川隆景の遺領を吉川広家に継がせ、広家の現在の封土には毛利秀元を入れるという遺領分配案を突き付けた。

 秀吉の死後、石田三成はこの案をもって遂行しようとしたのだが、まとまらない毛利家は輝元、秀元、広家が三者三様に反対したため、問題はこじれにこじれていた。

 そのようなこともあり、毛利家は三本の矢に代表されるような往時の結束を失っている。

「そもそも此度の騒動のは、諸将が石田の今専横を弾劾せんとするものだと聞き申した。諸将の言い分は至極尤もなことであり、石田に助力する必要はありもうさん。」 

 吉川広家は言った。この男は隆景の遺領問題の件でかなり石田へ鬱憤が溜まっており、むしろ弾劾一派と心を同じくしたい位の感情を持ち合わせていた。この男としては、毛利家の豊臣家に必要以上に媚びへつらうスタンスが以前から気に喰わない。(彼の父、吉川元春は大の秀吉嫌いであり、その生い立ちも理由の一つである。)

「我らは太閤殿下が身罷られた直後、石田殿らと誓紙を交わした義理もある。ここはやはり、大坂を抜いて伏見へ上り、石田殿らをお救いするのが筋であろう。」

 と言ったのは輝元の養子で遺領問題にも関わる毛利秀元であった。それに吉川広家が返す。

「しかし大坂城は池田らの兵で満ちており、立ち入れません。」

 吉川が若くして重用されているのはその軍事的見識の高さにあった。彼の用兵術は現在の毛利家中でも随一であり、朝鮮でも毛利家を幾度となく救った。

大坂城には三千の兵が詰めておると聞く。あの城を落とすには十倍の兵が要るわ。我が方は六千しかおらぬ。兵が足りぬ。」

「まあよい吉川侍従。」

 輝元が手で制した。

「もとより弓箭にて解決するつもりはない。

瑶甫殿が大谷刑部らと石田殿を外交にてお助けする手立てを探っておる。」

 瑶甫、とは毛利家の外交顧問、安国寺恵瓊の字である。輝元はこの外交を担う禅僧を「猊下猊下」と呼び慕い、半ば父の様に敬愛していた。

 しかし吉川にとって当主輝元の寵愛を受けるこの禅僧は政争における敵であり、また、安国寺恵瓊の方もこの一本気すぎる吉川広家の気質を好まなかったことから、両者は激しく反目していた。

 広家は、恵瓊の名が出たことに気を悪くした。しかし、今のままでは大坂に押し入れないのも確かであり、恵瓊の外交手腕に頼る以外に方法がないのも確かだったので、以降は口を一文字に結んで押し黙った。

 

 大谷吉継は不自由な体に鞭打って大坂を駆け回っている。というのも、前述したように、石田三成を救済するための交渉の糸口を探るためであり、また毛利家の出兵によって逆に複雑化した事態を収束させるためでもあった。  

 徳川家康が今朝、伏見から大坂の高台院のもとに飛脚を出し、事態の仲裁を頼んだ。弾劾諸将も高台院の調停を拒むわけにはいかないであろうから、調停自体は成るであろう。

 大谷吉継の考えは、これを機に家康と輝元を引き合わせて同盟させ、大老の勢力を盤石にすることで、乱れつつある秩序を再構築しようというものであった。

 彼は今、毛利屋敷で安国寺恵瓊と会談している。

 安国寺恵瓊とは毛利家の外交を司る禅僧だが、毛利家から多くの封土を貰っている上に、高僧として全国から多額の寄進も受けていたために、大名並みの経済力を有していた。

 毛利家は本能寺の変でかの織田信長が横死した際、明智光秀を討ちに京へ戻りたい秀吉と瞬時に和議を結んだが、その和議を主導しまとめたのがこの恵瓊であった。秀吉の躍進を見込んでの行為であったが、秀吉はこれを恩に着、毛利家を彼の政権下において厚遇した。

 それ以降も恵瓊は外交僧として小早川隆景らと共に豊臣家と毛利家を繋ぐ役割を担い続けた。

 要は今日の毛利家が豊臣政権下において重用されているのはこの恵瓊のおかげと言っても過言ではなく、当主輝元は恵瓊を父の様に慕っていた。

 大谷はその恵瓊に言った。

「毛利殿が石田殿を救わんと出兵成されたこと、石田殿に代わり御礼申す。」

「いえ、去年取り交わした誓紙の約定を守ったまでのことです。」

 そう言うと恵瓊は目の前の茶を一気に飲み干した。

 大谷は頭巾の中から、恵瓊の顔をじっと見据えた。

 眉は太く、丸々としており、目は小さい。黒々としたその目が絶えずきょろきょろと左右に動いている。

 大谷は豊臣政権下で何度か恵瓊と顔を合わせているのでその遇し方をよく理解していた。大谷から見て、安国寺恵瓊という僧は、物事の建前と本音を見抜く慧眼を有しているが、己を頼みにする自尊心が過大であるために、意見や弁舌にどうしても自意識のバイアスがかかる人物であった。

 彼にはあえて忌憚のない意見を述べると同時に、半ば泣きつくことで自尊心を満たしてあげた方が良い。

 大谷は言った。

「安芸中納言様に伏見へお越しいただくわけには参りませぬか。内府様と面会して頂きたいのです。」

「急ですな。」

「実は徳川殿が今朝、高台院様に矢留の斡旋を頼み申した。高台院様の力あれば和睦自体は成るでしょう。肝心なのはその後です。安芸中納言様に内府様と面会し、同盟の誓紙を交わしていただくことで政権の威光を盤石にし、秩序を再構築して頂きたいのです。」

 恵瓊は大谷の言に即座に返答することはできなかった。伏見に行くということはある意味家康の格下に準ずるということでもある。

「加賀大納言様が亡くなられた今、内府様と安芸中納言様が同盟することは天下のためにも必要なのです。万事は加減が肝要なのです。何卒。」

 大谷の嘆願に恵瓊は頷かざるを得なかった。

「承知しました。輝元は私が説得いたしましょう。」

「ありがたい。」

 大谷はほっと息をついた。

 高台院の名のもと和睦を成し、徳川毛利の名のもとに天下を治めれば今回の騒ぎは完全に収束するであろう。

(後は石田殿の処遇だが)

 伏見城増田長盛からの知らせによると、どうも今回の騒動は石田が政界から身を退かねば収まらなさそうとのことであった。

(惜しいな。あれ程の才人を。)

 大武勲者、前田利家についで天下の大番頭、石田三成も失うとあっては、豊臣政権は早くも座礁したと言っても過言ではない。

(この身も忙しくなるやもしれぬ。)

 石田の穴を埋める人材として、自分が再び奉行として働かねばいけない可能性を考えた時、彼は自由にならない病身を嘆いた。

 

 閏三月九日、細川以下十将が石田屋敷を襲撃してから五日の後、秀吉の正妻、高台院大老筆頭徳川家康連署により、石田三成方と弾劾諸将派への仲裁が行われた。

 和議の条件は以下の様であった。

一、黒田長政蜂須賀家政両名に対する蔚山の戦いにおける裁定を取り消すこと

一、石田三成佐和山にて蟄居。福原長尭は減俸に処する

一、弾劾諸将は裁定に納得し、速やかに兵を退くこと

 

 細川忠興加藤清正の両名はなおも食い下がり、石田の切腹を家康に直談判したが、家康は「そなたらはこの家康をも討とうと企んだ無用の者である。」と怒り、取り合わなかった。清正らもそれ以上は抗議の仕様がなく、仲裁を受け入れた。

 石田三成佐和山への護送は徳川家康次男、結城秀康の監督のもと行われたが、そのすぐ後ろを加藤清正黒田長政の軍勢が後をつけていった。家康の気が変わったならばすぐにでも石田を殺す腹であったが、家康の裁定が揺るぐことは無かった。