黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(23)【第二部】

こんばんは。

関ケ原の前哨戦として名高い「杭瀬川の戦い」を描いています。

 

 大垣城は東を一級河川である揖斐川、西を「杭瀬川」という揖斐川の支流に囲まれている。

 ここら一帯の盆地は河川よりも土地の高度が低い故に常々水害が起こりやすく、「輪中」と呼ばれる独自の水害対策が為されていた。

 この輪中というのは河川より高度の低い盆地を堤防で囲うことで構成され、その雛型は鎌倉時代の史料にも散見される。戦国期の輪中は江戸期のものに比べるとまだまだ簡素なものではあったが、水害を防ぐために、揖斐川と杭瀬川に囲まれる大垣一帯にもこの輪中が普請されていた。

 河川より低地だけに土は雨期でなくとも湿り気を帯びている。単騎で大垣周辺の物見に出向いていた島左近は杭瀬川の川縁の土を手ですくい握り潰した。

「やはりここら一帯は水はけが悪い。」

 彼は予想道理だと言わんばかりの顔をした。

 土の水はけが悪く、土地が河川より低地にある。大垣城は水攻めを行う上での条件があまりにも整いすぎていた。

 城攻めにおける「水攻め」とは、城周辺の河川等の水を城に向けて流し、城を水没させることで攻略するものである。戦国期で言うと、太閤秀吉はこれを好み、パフォーマンスの意味合いも兼ねて度々採用した。

 島は内心焦った。大垣に水攻めが為されれば、籠城する石田、小西、宇喜多ら三万の軍勢が無力化することになる。急ぎ城に戻り、敵が水攻めを仕掛けてくる可能性を石田に伝えねばならぬ、と島は思った。

 その時、背後から馬蹄の音が聞こえたため、島は反射的に刀の柄に手をかけた。

「島殿。拙者にござる。」

 騎馬武者の正体は石田家家臣、八十島助左衛門であった。彼は主に他家への取次や使い番を担っている将であった。

「助左か、これは相すまぬ。」

 島は刀の柄にあてた手を離した。

 八十島曰く、伊勢方面の毛利軍らが両日中にも大垣周辺に到着しそうであるということであった。毛利軍が到着次第、彼らを交えて軍議を開くことになるかもしれず、大垣に戻るよう八十島は島に伝えに来たのだった。八十島は加えていくらかの新規情報を島にもたらした。 

大垣城にいくつか良い報せが届きましたので貴殿にも報告いたす。一つは、大津城において、攻め手の立花殿の奮戦目覚ましく、両日にも開城する勢いとのこと。二つ目は丹後田辺城に籠る細川幽斎も、兵糧弾薬が尽き、遅かれ開城するであろうとのことです。」

「大津、田辺の城が落ちそうか。それは朗報じゃ。城攻めに加わっている者らの美濃合流も望めよう。」

 島は満足そうに髭を撫でた。彼は馬上の人となると八十島と轡を並べて大垣に帰還した。

「助左、江戸の内府について何か報せは受けてないか。」

 島は大垣への道中、八十島に尋ねた。八十島はかぶりを振った。

「何も報せは受けておりませぬ。」

 島はそうか、とつぶやくと遠く東に視点を移した。

(上杉、佐竹の抑えが成ったならば、家康はいつ江戸を発ってもおかしくはない。)

 彼は家康がすでに江戸を発っている可能性もあると見ていた。島は家康の挙動が掴めないことを不気味に感じ、東海道沿いにばらまいている間者の数を増やすことに決めた。

 

 九月七日、石田が待望していた毛利、吉川ら伊勢方面軍三万は美濃へ到着した。しかし大垣へは寄らず、杭瀬川を挟んで西の対岸にある南宮山に登りそのまま布陣してしまった。

 東軍との和議を模索する吉川は、大垣に合流しては石田、宇喜多らの行動に巻き込まれ、自らも戦わざるを得なくなると予期し、大垣を避けた。石田からは大垣の軍議に出席するよう督促を受けたが、伊勢の城攻めで疲労していることを理由に拒否してしまった。

 伊勢方面軍には西軍結成の立役者の安国寺恵瓊もいたが、彼は逆に軍事にはからきし疎かったため、吉川の方針に逆らえなかった。大将秀元も、実戦経験の浅さから吉川の言を覆すには至らなかった。

 伊勢方面軍はこうして、南宮山への不気味な滞陣を開始していた。

 

「南宮山の毛利勢は内府と通じておりますな。」

 島は大垣城内で南宮山に布陣する毛利勢の様子を見ながら石田に言った。

「毛利殿は此度の我らが軍の総帥ぞ。内府と通じるなどという馬鹿な話があろうか。」

「大坂の安芸中納言様(輝元)および秀元様は戦る気でしょう。おそらく軍を統括する吉川、福原らが内府と接触しています。返り忠というほどの意のものではなく、和睦の交渉でしょう。」

「和睦だと。吉川らが独断で和睦の交渉をしていると申すか。」

「如何にも。吉川侍従は兼ねてより内府と懇意でした。吉川の毛利家中での立場は内府の存在によって担保されていたといってもよい故、吉川にとって家康が政の場から消えては困るのでしょう。」

 石田は目を細めた。島は続けた。

「おそらく、安国寺殿も大坂の安芸中納言様も半ば黙認しておるのでしょう。当方としても、いずれ内府と和議を結ぶことになる可能性がないともわかりませぬ故、当面は捨て置かれるがよろしいかと。」

 島は、吉川を糾弾するより、有事の際の家康との交渉ルートに残しておくことを説いた。石田も外交に関しては精通していたので島の言うことが最もであると思い、その通りにした。

 

 伊勢から毛利軍が到着して以降、美濃大垣周辺の西軍の兵力は合計八万を数え、東軍西軍の兵力は逆転した。仮にこの時点で西軍が総力を挙げて東軍に襲い掛かったならば彼らを容易に駆逐できたであろう。が、彼らはそうしなかった。石田三成が、現時点で攻めかかるのは不確定事項が多すぎるとして反対したためであった。

 当時の西軍の指揮系統としては、山中村の大谷軍、南宮山の毛利軍、大垣の宇喜多、石田軍らがそれぞれ分かれて駐屯し、主に石田三成が放つ使い番を通じて連携している状態であった。

 美濃に居る将の中の序列としては、宇喜多中納言秀家が最上位にあり、石田三成はその元で参謀、及び諸隊の連絡を担っていた。

 西軍の作戦の大枠は島、大谷らの助言に基づき石田によって決定されていた。石田は秀吉の元で培った補給ノウハウを基にした戦略立案をした。補給を中心に据えた戦略は非凡だったが、史僚あがりの彼は不確定事項を嫌いすぎる気があった。

 勝ち目の薄い戦の中で、十に一つの勝ちを拾い続けてきた投機家の島津維新入道などはそれを苦々しい目で見ていた。彼は

「万に一つでも勝ちがあるなら、命ば捨てて戦えばいいりゃんせ。負けたりゃ死ねばよか。」

と手持ちの兵力での東軍急襲を具申したこともあったが、石田に却下されてしまった。石田としては、この日本史上類を見ない規模の戦いをできるだけ確実に勝利したかった。そのためには、現在より多くの兵力が必要であり、より多くの信頼に足る将が必要であると考えていた。彼は大津城、田辺城攻めに加わっている畿内の軍勢二万と大坂城に鎮座する毛利輝元本軍二万の到着を督促し、待った。

 

 しかし、西軍がことを起こさず手をこまねいている間に、事態は急変した。

 九月十四日、徳川家康率いる三万の直轄軍が美濃赤坂に到着したのである。家康は十一日清州に到着すると一日留まり、美濃の情報収集に努めた。十三日岐阜城に至り、十四日未明に東軍諸将の陣取る赤坂へ着陣したのだった。

 大垣城からも赤坂に三万の軍勢が布陣し、無数の白旗と共に厭離穢土欣求浄土の旗と金の馬印が立てられるのが見て取れた。紛れもなく家康本軍であった。場内からはその武威を恐れて、悲鳴ともうめき声ともつかぬ声が上がった。

 家康は東海道を行軍中、自軍の先を服部半蔵率いる伊賀者に進ませ、西軍の間諜と思われるものを片っ端から始末していた。それゆえ、西軍は家康の迅速な行軍をつかめていなかった。

 それだけに、家康が忽然と赤坂に現れたことは、西軍にとって奇襲攻撃とほとんど同等の、(主に精神面での)損害を与えた。

 島左近はこの情勢を危ぶみ、士気回復のため東軍に局地戦を仕掛けることを石田に具申した。

「殿。精兵五百をこの島左にお預け下さい。敵の何れかの将の首を上げて参ります。」

「それは良いが五百は少なすぎはしないか。」

「いえ、家康への恐怖がある現状、私が率いて士気を保てる最大人数が五百人と踏んだまでです。」

    島は宇喜多家侍大将の明石全登と共に精兵五百を率い出陣した。

 島が標的としたのは赤坂西、大垣城から見て西北の位置に陣取る中村一氏の陣であった。

 島は三百の歩兵及び虎の子鉄砲部隊百を明石に任せ杭瀬川の葦が生い茂る河縁に伏せさせると、彼自身は騎馬隊を率いて杭瀬川を渡った。

 そのまま蹄の音も慎ましやかに、息を殺して中村隊の陣まで近づいた。残り一町の距離まで近づくと、彼らは島を先頭にして吶喊した。

 島隊の急進撃はすさまじかった。中村隊の第一陣は野一色頼母という侍大将が受け持っていたが、島率いる騎馬隊の突破力の前には何もできずただ逃げ惑うことしかできなかった。彼らは多くの足軽を踏み倒された挙句、島隊の突破を許した。

 島の軍装は、黒塗りの甲冑に緋色の天頂前立てのついた兜という格好だった。ただでさえ長身の島が天頂の前立ての兜をつけて馬上槍を振るう姿は壮観で、中村家の武者達は後々まで、この時の島の姿が忘れられなかったという。

 島は中村隊の第一陣を以上の要領で突き崩すと、第二陣に侵入し、それを深く抉るようにして自身の隊を反転させた。

「頃合いぞ。退け。」

 彼は全軍に大音声で退却を命じた。一転して、騎馬隊は退却を始めた。杭瀬川を渡っての退却であるため、百人の内のいくらかが討たれた。

 島は騎馬隊の最高尾で中村隊相手に奮戦を続けた。先に渡河するよう近習から何度も進められたが、彼は自身を最後尾に置くことで中村隊を追撃におびき出すつもりであった。彼は自身を餌としていたのだった。

 島の思惑通り、中村隊第一陣の野一色頼母は、あの高名な島左近を討ち取る好機とばかりに隊を押し出してきた。

 野一色は島隊が河を渡り切って対岸に退却しても追撃をやめなかった。いや、島左近の采配によって、追撃するよう巧妙にいざなわれていたと言っていい。

 野一色隊は追撃する勢いのまま対岸に乗り上げた時、明石全登率いる百の鉄砲隊が葦原の中から一斉に身を乗り出し、野一色隊の側面を斉射した。野一色隊の隊列はそれまで見事な二列縦隊であったが、この斉射で乱れに乱れた。明石は続けて伏せていた歩兵三百を以て混乱する野一色隊を急襲した。戦の潮目が完全に変わったのを見て、島左近も騎馬隊を再び敵に向けて突撃させた。

 そこからは西軍の一方的な展開であった。杭瀬川の対岸に乗り上げた中村隊の兵はことごとく討たれ、首を取られた。

「退け。」

 野一色頼母はほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。彼は部下に支えらえて杭瀬川を渡り、退却しようとしていた。島左近はそれを補足した。島は鐙の上で両足を踏ん張ると全身を伸縮させ、槍を野一色めがけて投擲した。槍は野一色の背中から腹を鎧越しに貫き、彼は絶命した。

 中村隊は前線に繰り出た侍大将のほとんどが討ち死にしたため、杭瀬川からの撤退さえ満足に行えない状況であった。家康はこの惨状を見かねて井伊直政に五十騎をつけて送り出し収拾にあたらせた。

 島の方も、それ以上の成果は求めなかった。彼は器用に隊をまとめると明石と共に大垣城へ撤収した。

 

 井伊直政は赤備えの軍装をきらめかせながら杭瀬川の河原を駆けずり回り、何とか中村隊の敗残兵を収容した。彼は五十騎と共に家康の本営に帰還した。つい先ほどまで馬上で中村隊の収集にあたっていたため、体は熱く、息は荒い。

「兵部、大儀であった。」

 家康は井伊を労った。井伊は表情を変えないまま、中村隊の損害、そして敵の損害の見積もりを報告した。中村隊の損害は士卒含めて二百、対する敵の損害は数十名であり、戦果だけ見たら東軍の圧倒的敗北であった。

 家康は舌打ちをしたが、そこまで事態を重く受け止めてはいなかった。杭瀬川での合戦は所詮小競り合い、局地戦であり、大局に影響を与えるものではなかった。

「それより、兵部。そろそろ小早川の小倅に戦後恩賞の誓紙をくれてやろうと思うがどう思う。」

「金吾中納言の内応は確実になったのですか。」

「黒田甲州が監視として自身の家臣を送り込んでおるらしい。儂も東海道を行軍中、書状にて小早川とやり取りをしていたが、その所感として内応自体は間違いないと見て良いだろう。」

「小早川軍一万五千が此方に寝返るとなればお味方の勝利は間違いなしですな。」

「うむ。加えて、儂は書面にて小早川にある任を授けておる。」

「任とは?」

「いずれわかる。早ければ今日にもな。」

 井伊は家康の言っている意味がわからず、困惑した表情で彼を仰ぎ見た。家康は含み笑いをするのみで何も答えなかった。