黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(22)【第二部】

こんばんは。筆が乗ったので連投します。

夜書いた文章ってひどいので多少心配ですが

 

 

 伊勢方面軍の総帥である毛利秀元(輝元の従弟)は戦意旺盛だった。その戦意は何らかの政治的意図からくるものではなく、純粋の若武者の闘志に因るものだったが、三万を率いる将帥の戦意が高いことは西軍にとって好材料だと言えるだろう。

 伊勢方面軍はこの毛利秀元および吉川広家福原広俊小早川秀秋ら毛利軍と、長宗我部盛親六千、長束正家二千、計三万の軍勢によって構成されていた。

 小早川軍が途中離脱したことは先に述べた。伊勢戦線を抜けた時点で小早川軍の戦意は非常に疑わしいものとなったが、毛利秀元を支える家老、吉川広家福原広俊においても積極的に西軍に加担するかは疑問だった。

 吉川は元々、毛利家中でも徳川派としての立場を明確にしており、反徳川派の外交僧安国寺恵瓊と対立していた。福原も同じく徳川派であった。

    彼らは西軍が結成されて以来、家康と対立姿勢をとる毛利家の行く末を案じ(彼らは毛利家が徳川家と正面から遣り合って勝てるとは思っていなかった)、徳川家中の井伊直政と書面を媒介としてたびたび接触している他、このころ半ば東軍の取次役と化していた豊前中津城主、黒田長政ともやり取りしていた。

 吉川、福原は彼らを通じて、家康に対して、毛利輝元安国寺恵瓊に良いように担がれているだけで主体的に西軍の総帥をしているわけではないこと、毛利軍に家康と戦う意思はないことを再三にわたって弁明していた。

 実はこれらの吉川らの行動は半ば安国寺や、大坂にいる当主輝元も知っていた。知っていたうえで、いつか徳川との和睦交渉が必要となった時を想定し、黙認した。

 吉川自身も黙認されていることを知っている。彼としても、戦況が圧倒的に西軍に傾いたならば東軍との折衝ルートは破棄するつもりであり、事態の推移を見ながらの二枚舌外交であった。

 しかし、かねてから徳川への同調を推してきた吉川、福原としては、西軍が勝利したら家中で立場が無くなるのは明白であり、むしろ東軍の勝利を望む気持ちさえあった。彼らはそのような複雑な胸中を以て従軍している。

 伊勢の方面軍は現在、伊勢安濃津城攻略を行っている。安濃津城が陥落すれば、伊勢の主要な城はすべて西軍のものとなるはずだった。

安濃津の城はそろそろ陥ちまするな。」

 吉川広家の陣を訪れていた福原広俊は言った。吉川は軍事に見識があるだけに、城攻略の度合いなどは瞬時に判断できた。彼は福原の言に同意した。

「うむ、これで我ら毛利軍は伊勢の主要な城をすべて落としたことになるな。」

「ここまで大坂に加担しておきながら内府様と和睦の交渉なぞ出来ましょうや。」

「実質的な返り忠よ。内府様とて渡りに船だろう。」

 福原は小早川が伊勢の戦線から離脱している件を持ち出した。

「金吾殿は我ら同様、内府様と通じておるのでしょうか。」

「小早川家に左様な取次の伝手があっただろうか。存ぜぬが、仮に通じておるとすれば家老の平岡石見によるものであろうな。」

 その時、吉川陣へ注進が舞い込んだ。美濃岐阜城を陥落させ、大垣城を包囲中の黒田長政からの密書であった。吉川らは徳川家家臣の井伊直政およびこの黒田長政と和睦の折衝をしていた。

 黒田からの密書を見て、吉川は「あっ」と驚きの声を上げた。

甲州黒田長政)殿は何と。」

「内府殿が江戸を発ったとの由。」

「何と。」

 家康が美濃に到着すれば戦況は一気に東軍に傾くように吉川は感じていた。

    彼はできれば毛利軍を戦場となるであろう美濃へ行かせず、単体で東軍と和睦させてしまいたかったが、問題は伊勢方面軍大将の毛利秀元が戦意旺盛であることであった。

 若干二十一歳の彼は、まだ外交の素養がなく、吉川らが東軍と接触している事実も知らなかった。加えて、伊勢方面軍は毛利軍だけで構成されているわけではなく、長曾我部、長束らの目も気にする必要があった。

「内記様(毛利秀包)や立左殿(立花宗茂)が我ら伊勢攻略の軍勢に加わるという噂もある。美濃へ赴くことは避けられまい。」

 吉川は苦虫を嚙み潰したような顔でもって言った。彼は黒田長政に対する返書を丁寧に認め、家臣三浦常友に持たせた。

 結果論にはなるが、この大戦中の吉川の態度は終始あいまいであった。彼個人の感情としてはそもそも毛利中心に西軍を立ち上げること自体が不本意であった。西軍結成を止められなかったとしても、毛利軍が東軍とぶつかり合うことなく和睦に持ち込みたかった。しかし、戦意旺盛な大将秀元や他家の目を気にしなければならない状況、そして吉川自身が毛利家の軍事顧問として前線に送り出されている事実が彼の態度を煮え切らないものにさせた。

 彼自身、元来軍事専門の将であったために多少武骨な面があり、二枚舌でもって複雑な局面を乗り切るほどの器用さは持ち合わせていなかった。結果的に吉川の外交の不味さが戦後の毛利家の処遇に大きく響くことになる。

 

 九月一日に江戸を発ってからの家康の行軍は迅速で、九月三日には小田原、九日には岡崎にまで至っている。

 行軍は迅速にすべし、というものは彼が生涯を通じて戦について得た知見の一つであった。織田信長武田信玄等、彼が人生において関わってきた名将はここぞという時に軍の機動力を発揮し、勝利してきた。

 彼も人生の後半においてそれを発揮し始め、甲斐をめぐっての後北条氏との戦いや、秀吉との小牧長久手の戦いにおいて勝利している。(この二つの戦いが家康の戦上手としての地位を決定づけたと言っていい。)

 家康麾下の三河武士団は強行軍に慣れていたので、これほどの進度は苦にすることもなく、粛々と行軍した。

 家康は小田原、岡崎間を行軍中、大津の京極高次が西軍を離反し、籠城した報せを受けた。

「戦の怖さが遅れてやってきたな。」

 家康はカラカラと笑った。西軍は家康が畿内を空にしている間に、家康を公儀から追放の上、新政権を発足させ、軍事上は「西軍」を結成した。この「西軍」は家康ら上杉征伐軍が遠く関東にいる間はなるほど、周辺大名の支持を得たかも知れぬ。しかし、東軍として畿内へ舞い戻り、家康らと戦わねばならぬという実感が湧いたとき、例えば京極高次などは現実としての死の恐怖が呼び起されたのだろう、と家康は思った。

「今、軍を率いている世代は実戦経験の浅い者も多い。今後もそのような将が出てくるだろう。」

と家康は予想していた。

 果たして、予想はあたった。

 西軍に属している小早川秀秋から、東軍に寝返りたいという旨の密書が送られてきたのである。家康はその書状を遠江掛川に滞在している間に受けた。

(どうするかな。)

 本来なら、このような機微を要する案件はすべて本多正信に相談するが、彼は中山道を進む秀忠の補佐役につけていたため不在であった。井伊直政福島正則らと共に先発させていた。

 家康は熟慮の結果、黙殺することに決めた。

 一万五千の寝返りの申し出を蹴った理由として、徳川が小早川家と外交上関わったことが無いということが大きかった。

 毛利家において徳川家と折衝してきたのは徳川派の吉川と福原であり、小早川家は徳川家との外交ルートを持たなかった。それだけに家康はこの俄かな接触を信じ切ることができなかった。

 また、この戦の終結後を見据えたとき、家康はできるだけ信頼できる大名のみを加増し、残したかった。小早川には未だ信を置けず、戦後残す気にもなれなかった。

「金吾の一万五千の兵なくても十分勝てるわ。捨て置いて良し。」

 家康は言い放った。この言は半分本心で、美濃の状況からして現在の兵力でも十二分に勝利できると彼は見ていた。彼は小早川の使者に会わず追い返した。

 文字通りの門前払いに、小早川家家老、平岡石見は動揺した。彼は主君秀秋に西軍から提示されているような関白の器がないことを熟知していた。そのため、西軍について関白となり、いずれ破綻するよりも、東軍について確実に勝利し、一領主としての確実な権限を得ることを望んでいた。彼は再三家康に使者を送り続けたが、拒まれ続けたため、送り先を東軍の外交担当と化している黒田長政に変更した。黒田長政は懇切丁寧に対応し、小早川の内応を家康に取り成した。家康もここにきて小早川の受け入れを決め、小早川軍は正式に東軍の内応軍と化した。彼らはまるで西軍にとっての腹中の毒のように近江に滞留している。