黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(7)

こんにちは

 

最近関ケ原シリーズばっかり更新してますね、、

作曲の方も更新できるようにしたいです!

引き続き石田三成襲撃事件を描いていきます。

文章が単調かつ繁雑な感じが否めませんが、、

 

 閏三月四日、決起当日、五奉行筆頭石田三成襲撃計画の発起人である細川忠興は兵を興しに密かに居城の宮津城へ帰城していた。彼の率いる三千の精兵は今回の計画の中核をなす部隊であった。

 細川忠興は若い時分より豊臣軍団の一翼を担う名将であったが、茶の湯や兜の意匠にも秀でた文化人としても知られていた。

 特に茶の湯は堺の巨匠にて秀吉の茶頭を務めた千利休肝煎りの弟子として知られており、利休が秀吉の不興を買って大坂を追放となった際も周囲の静止を振り切って大坂を立ち去るのを見送った程であった。

 しかし、彼は上記のように芸術家としての才能に恵まれていたが故に、芸術家特有の気難しさを持っていた。さらに武人としての血の気の多さも等しく持ち合わせていたがために、家臣たちはこの、数奇大名の虫の居所を掴むのに日々苦労させられた。

 今回の石田三成襲撃計画を発案したのも、前関白豊臣秀次の失脚に際して、石田に連座させられそうになったのを深く恨んでのことであった。怨恨を深く長く持続させることに関してこの数奇大名は突出している。

 が、その執念深い気質故、やることは徹底している。今回の挙兵準備も滞りなく進めており、その徹底ぶりが武人として、文化人としての細川忠興を評価せしめる所以でもあった。

「幽斎様より書状です。」

 家老の松井康之が差し出した手紙を細川は引っ手繰ると即座に広げた。

「ご隠居は今回の挙兵を思いとどまれと言ってきたわ。あの方は石田と共に島津への取次ぎをしておった故、石田を買っておるのよ。」

 細川は吐き捨てると、知らぬとばかり書状を炉にくべた。

「ご隠居とて主家たる足利将軍家や縁家である惟任日向守を見限ったのだ。俺も俺の考えをもって決めるわ。」

 細川忠興の言の通り、父幽齋は処世術の巧みな人物であった。

 元は室町足利将軍家の奉公衆として仕えていたが、明智光秀の誘いで斜陽の将軍家を見限り、信長に仕えた。信長が本能寺で明智の謀反で横死した際は、その明智に助力を求められたがそれを断り、家の命脈を保っている。

 細川の妻は明智光秀の娘、玉子である。牡丹の花が如き美貌とされ、父親譲りの利発さも有していた。忠興はこの才女を盲愛したが、嫉妬深い彼は妻の外出をほとんど制限し、自宅に軟禁するという挙に出た。玉子は父が謀反人として死を遂げたことも相まって、精神的に参ったのか、救いを求めるようにキリスト教に傾倒した。洗礼名をガラシャと言った。

 ガラシャは後に石田三成徳川家康弾劾のために挙兵する際、故あって非業の死を遂げることとなる。彼女に歪んだ愛情を注ぎ続けた忠興はその死を激しく悼み、悲しみに暮れた。彼はガラシャの生前、彼女が当時禁教とされていたキリスト教に傾倒しているのを非難し、彼女にそれを勧めた侍女らを切るなどしたが、彼女の葬儀の際はためらうことなくキリスト教式の葬儀を営んだという。

 以後そのような運命をたどる細川だが、今は英気に溢れ、今まさに伏見大坂へ押し出さんとしていた。

 細川は開門を命じ、宮津城から出立した。

 彼の役目は三成が伏見へ逃亡しないよう大坂、伏見間の街道の封鎖することであり、その為には山を越え、福知山を掠めた後、桂川の上流に出る必要があった。丸一日かかる。

 が、彼はその統率力をもって麾下の軍勢を静かにだが、迅速にそして確実に行軍させていた。これならば日没頃には山崎あたりへたどり着けるだろう。

 軍の先頭を駆ける細川はこの公でない行軍を愉しんでいる。自らの一歩一歩が着実に石田三成の喉元に迫っているのだという想像が彼の気を昂らせた。

明智日向守もこのような心地だったのだろうか。)

 丹後から出立し、隠密裏に行軍するあたり明智光秀本能寺の変との類似性を感じたが、(縁起でもない。それでは終いに謀反人として横死するではないか。)と細川はその妄想を打ち消した。

 行軍中、上方より早馬があった。

「加藤主計頭様より報せにございます。」

 加藤清正からの書状であった。細川は馬上でそれをひったくると急ぎ広げた。

 細川はしばらく読んでいたが、彼の表情がにわかに強張ったのを家老、松井康之は見逃さなかった。

「主計頭様は何と。」

 彼は松井の問いを黙殺し、一心不乱に手紙を読みふけった。読み終えると動揺しきった表情で言った。

「昨夜未明、加賀大納言様が大坂にて身罷られたらしい。」

「何と、前田様が。」

 松井は驚嘆した。細川忠興の嫡子、忠之は前田利家の娘を妻に娶っており、前田家と細川家は縁戚である。前田家には豊臣政権下で何かと面倒を見てもらっている恩もあった。

「いささか間が悪うございますな。」

「確かに縁戚として喪に服すべきやもしれぬが加藤殿らとしては予定通り決行したいらしい。」

 加えて前田利家の死はある意味好機でもあった。前田は死ぬ間際まで大坂の鎮護者としての役割を担い続けていたが、彼の死によってそれが無力化したといってよく、従って石田襲撃計画自体も成りやすくなったと言っていい。

「縁者として喪に服さず、このような行動を取るのは不本意だが致し方ない。予定通り行軍する。」

 前田の死を血で汚すようで心が傷むが石田の首をもって手向けとしよう、と細川は思い、軍を急がせた。

 

 しかし、大坂の石田三成は襲撃の情報を事前に知っていた。

 家老、島左近は浪人時代、京で有象無象の者と交流していた過去があり、謂わば「与太者」の知己も大勢いた。島はそれらを情報源として重宝していたが、その一人が島に知らせたところによると、細川忠興加藤清正ら十名の大名が談合し、大坂の石田邸を襲撃する手はずを取っているという。

 それ以前にも兆候はあった。

 徳川家の縁組騒動の直後、二月九日のことである、石田は大坂の備前島の自邸で茶会を開いた。招待したのは大老宇喜多秀家、懇意にしている小西行長、そして徳川家と無断で縁組したことが問題視された大名の一人たる伊達政宗であった。 

この茶会は縁組騒動によって冷え切った伊達家との関係を修復させる目標があり、ひいては大老宇喜多秀家等も誘うことで、騒動における徳川派、前田派を融和させるという意図もあった。

 石田と伊達は元来親しい。もともと伊達家の取次ぎは浅野長政が担っていたが、なにかと豊臣の権力を傘に着る浅野に伊達は我慢がならず、絶縁状を送り付けた過去があった。 

 その後を受けて伊達家の取次ぎとなったのが石田であった。以来、豊臣政権において何かと立場の弱い(伊達は秀吉に臣従した時期がかなり遅いため、豊臣政権において信を置かれることはほとんどなかった。)伊達家を取り成していた。

 石田が伊達を茶会に誘ったのはそのような背景もある。

 また華やかな英雄的気質の伊達は、思考が時に飛躍さえするような異才を愛する傾向があり、その点で石田のことを個人的に気に入っていた。

 茶会は終始和やかな雰囲気で行われた。茶会が終わりに近づいたとき、小西行長が「南蛮由来の葡萄酒を手に入れ申したが、方々如何かな。」と言い、そのまま場の流れで宴に突入した。

「石田殿。この度の騒動では何かと苦労をかけ申した。」

「左様。今後縁組の儀は必ず公儀に届け出るように願いたい。私も取り成します故。」

「承知した。しかし摂州殿、この南蛮酒とやらは大層美味ですな。」

 新しい物好きの伊達は葡萄酒の味が気に入ったらしかった。

葡萄酒から話題は南蛮のことへと移っていった。小西行長は熱心なキリスト教徒として知られており、多数の宣教師と交友を保っていたがために、南蛮の事情に精通している。

「摂州殿、麦島(肥後上部)での南蛮貿易でかなり儲けておるらしいではないか。」

 伊達が言った。彼の領地である仙台ではそれほど南蛮貿易は盛んでなかったが、彼自身南蛮貿易に強い興味があり、いずれは振興させたいと考えていた。

「左様、麦島、八代の改築によって一帯は多くの水利を成しております。」

 小西は溌剌と答えた。彼の父親は堺の大商人、小西隆左であり、小西行長自身も商家で育ったせいか、彼の物言いはどこか商人気質なところがある。上昇志向の男であり、宇喜多直家の使い番という身であったところ、その利発さを秀吉に買われ、水軍大将として登用された。

「やはり主な取引先は『ポルトガル』かね。」

「今のところは。」

「しかし、今南蛮で最も勢い激しいのは『ヒスパニア』だと聞く。彼らがいずれ通商を求めて来るのではないか。」

 石田も堺奉行を務める傍ら、小西ほどではないが南蛮事情に詳しい。文禄五年におこった土佐のスペイン船漂流事件のスペイン船乗員から聞く限り、日本が主な通商相手としている「ポルトガル」は「ヒスパニア」に屈服したともいう。

「二年もすれば『ヒスパニア』が通商を求めに日本に参るでしょう。彼らとの貿易は『ポルトガル』を悠に凌ぐと思います。しかし、その先、十年後は様子が変わってくると思います。」

 小西は低い声音で言った。

「どうやらその『ヒスパニア』が船戦で大いに負けたらしいのです。なんでも『アルマダの船戦』と申すらしく。我が師のオルガンティーノによれば、その『アルマダの船戦』で『ヒスパニア』を破った『ネーデルラント』なる国が今後台頭するだろうと。」

 小西の言うことは事実で、西暦一五八八年、日本でいう天正一六年、スペインの無敵艦隊イングランドネーデルラント連合艦隊に敗北した。スペインは往時の隆盛に影が走り、既に斜陽に差し掛かっていた。

 石田にしてみればスペインの敗北は都合が良かった。そもそも朝鮮出兵の理由の一つが、スペインがフィリピンに進出し、明を征服せんとしているとの情報があったからであり、「明を征服すれば次は必ず日本に攻めてくる、ならばいっそ、スペインに獲られる前にこちらが明を征服しておこう」という考えに至ったからであった。スペインが勢いを失ったとなればその心配もない。

「しかし当面は『ポルトガル』『ヒスパニア』との貿易が続くでしょう。」

 小西はそう言うと硝子杯の葡萄酒を飲み干した。

 宴も終わり、石田は伊達を玄関先まで自ら見送った。別れ際、伊達は愛用の煙管を吹かしながら(この男には煙管癖があった。)言った。

「石田殿。豊家に尽くすのも結構だが手前の身の上を案じられよ。」

「とは。」

「先の伏見、大坂の騒動で徳川屋敷に詰めた際、黒田、蜂須賀らが蔚山倭城の貴殿の裁定に熱っており申した。」

 誤解であった。先述の通り、蔚山倭城における黒田、蜂須賀両将の処分に石田は関わっていない。

「また細川、加藤殿らも貴殿のことをよく思っていない様子。彼らが連衡すれば貴殿とて厄介なことになりましょうな。」

 伊達はもう一度、ぷかりと煙管を吹かした。

「あまり敵は作らぬことですな。」

「貴殿に言われたくはない。」

 伊達政宗はその反骨心に富んだ性格から、蒲生、上杉、佐竹など領地を接している大名と悉く不仲だった。

「はっは。如何にも。」

 伊達はからからと笑い、そのまま供に付き添われて帰っていった。

 実際伊達の元には、諜報部隊である黒脛巾組がありとあらゆる情報を集めており、それから察するに諸侯の中から石田を弾劾する一派が形成されるのは時間の問題のように感じた。

 しかしそこまでを石田に教える義理もないであろう。秀吉生前、自家を取り成してもらった事情から前述のような情報を提供したが、徳川家と縁戚を結んだ以上、石田との関係に深入りするのは危険であろうと伊達は判断していた。

 伊達は帰路月に向かって煙を吐き出した。煙は一筋の雲のように立ち昇り、闇へと昇華していった。

 

 石田は島の報告を聞きながら以上のような伊達とのやり取りを逡巡していた。

(伊達殿の忠告が的中したか。)

 彼は途端に無力感に襲われた。

 というのも、悪政には毅然とした態度をとることで知られている石田だったが、彼自身、自らの身を巡っての政争というものを経験したことが無かったためである。

 豊臣政権下において彼は多くの大名の取次ぎや、諸奉行としての活動が主で、他所の政争に介入し、調停することは多々あっても自らが標的とされたことは無かった。

 また、彼は細川、加藤ら弾劾せんとする諸将に対し、ものをわきまえぬ狂人に接した時のような冷めた感情を覚えた。

 例えば、天下のためを思い、代替の政策理念を持って反抗するならわかる。しかし彼らのそれは私怨であろう。朝鮮での裁定や方針に不満があった鬱憤晴らしであり、さらに言えば朝鮮の陣で一欠けらの領土も奪えなかった腹いせと言ってもいい。

 そのような奴らを相手にできるかという気怠い気持ちが石田を襲った。

 しかしとりあえず急場を凌がねばならない。

「伏見の屋敷に籠る。」

 石田は言った。石田家の手持ちの兵ではとてもではないが弾劾諸将の軍勢を防ぎきれない。伏見の石田邸は西の丸に半ば付設されており、「治部少丸」と呼ばれていた。あそこならば籠城して時を稼げるであろう。

 しかし、今丸腰のまま伏見へ行けば弾劾諸将に捕捉され、首を刎ねられかねない。石田は島に策を乞うた。

「島左、如何せん。」

「恐れながら、某、佐竹家とは家老の車中書殿はじめ繋がりがあり申す。殿も水戸侍従様(佐竹義宣)様とは昵懇の間柄。佐竹殿に伏見までお送りいただくが最上の策かと。」

 石田三成は佐竹家の取次ぎも務めており、かつて佐竹家を秀吉の改易命令から救ったことがあった。以来、佐竹家当主の義宣は石田を慕い、共に千利休の茶会に出席するなどして友誼を深めた。義宣は石田を慕うあまり「治部がいなくては生き甲斐がないわ」とまで言っていた。

 果たして佐竹義宣は石田の協力要請を快諾した。

「女人様の塗り輿を用意いたしました故、身をお隠しあれ。」

 佐竹は石田を塗り輿の中に隠し、島らを自らの家臣団に紛れさせると大坂から伏見へと出立した。

 

 中ノ島、加藤清正屋敷には石田襲撃のための諸将が集っている。彼らは石田らの大坂脱出を知らない。

 細川忠興がいないこの場を仕切るのは加藤清正であった。彼は石田三成弾劾のために参集した諸将一同に杯を持たせた。そしてなみなみと酒を注いでゆく。福島正則の番になった時、彼は言った。

「お主は悪酔いする故、少しだ、市松。」

 この言葉に場がどっと沸いた。もともと、秀吉が「羽柴」を名乗っていたころからの顔見知りが多く、みなお互いをよく知っていた。

 加藤は杯を掲げると、石田が挑戦で辛酸を舐めた諸将を軽んじたこと、数々の誤った裁定を下したことを檄した。檄し終わると酒を一気に飲み干し、杯を床に叩きつけて割った。諸将もみなそれに習った。

「開門。」

 加藤は馬上の人となると、朝鮮の戦で鍛え上げたその大音声をもって兵児を押し出した。

 福島、黒田ら諸将もそれに倣う。

 彼らは中之島から出て大坂の城下町に入り、本町まで直進するとそこから三部隊に分かれた。加藤清正福島正則藤堂高虎は大手の石田屋敷を襲撃、黒田長政蜂須賀家政浅野幸長備前島の石田屋敷を襲撃、そして池田輝政脇坂安治加藤嘉明石田三成大坂城に上って秀頼を戴くことのないよう、大坂城を占拠する手はずだった。

武州殿(池田輝政)。」

 加藤清正大坂城占拠部隊の長を務める池田輝政に馬上で呼びかけた。大坂城の警護を担う片桐且元はすでに調略済みであり、池田らを内側から招き入れてくれる算段であった。

「片桐助作が上手くやるで、お頼み申す。」

「委細承知。」

(すべてはうまくいく。)

 計画は順調に思えた。加藤は自慢の美髯をつるりと撫でると馬腹を蹴った。

 あとは石田の首を挙げるだけだ、と彼は思った。

 

 丹後宮津から迅速な行軍をしていた細川忠興が山崎、勝竜寺城付近に到達したのは亥の刻を過ぎたあたりであった。

 かつてここら一帯は細川家の所領であり、勝手知ったる土地である。大坂から伏見へ出るには山崎を通過せざるを得ないため、検問を敷くにはうってつけの場所であった。

「この場所に陣を敷く。怪しきものは例え女子供であろうと取り調べよ。治部少を決して伏見へ行かすまいぞ。」

 細川忠興は部下に厳命した。

 半刻ばかりが過ぎた。大坂方面から砂塵がすると、加藤清正以下六名の将(大坂を占拠している池田らを除く)が麾下をまとめてやってきた。

越中、治部少めは来たか。」

「それらしき者は通っておらぬ。大坂にはおらなんだのか。」

「捕らえた石田家ゆかりのものに吐かせたが既に水戸侍従めが伏見に護送したらしい。」

紙一重で逃したか。」

 細川忠興は怒りのあまり床几を蹴り上げた。

「激するな越中。」

 加藤清正は細川をなだめたが内心は彼同様気が気でなかった。

(奉行衆らで連衡されると厄介だ。)

 要は奉行衆全員を敵に回すのが得策でない故、標的を三成個人に絞ったのであり、全国の大名たちが石田派と反石田派に分かれ、事態が先だっての縁組騒動のように泥沼化するのは彼らとしても避けたかった。(この計画に参加している大名の内、そのような事態に対処可能な器量を持ち合わせているものはいなかった。)

清正は三成を追ってこのまま伏見に行くことを提案した。何としても次の一撃で石田三成を捕らえるか首を刎ねるかしないといけなかった。六将は同意し、彼らは兵を率い伏見へ続く京街道をあい駆けた。

 

 石田三成佐竹義宣に伴われて伏見に到着したのは朝方夜明け前だった。一行は山崎で細川勢が検問をしているのを察知すると淀城の手前で迂回し、巨椋池を回って南から伏見へ入ったのだった。

「佐竹殿、恩に着ます。」

「なに、貴殿とまた茶の湯を愉しみたいが故よ。しばし治部少丸で耐えられよ。坂東武者を率いて救援に参る。」

 佐竹は東国武士らしく、必要以上に着飾った会話を好まない。(そこが石田と気が合う所以でもあった。)以上を告げると自身は供回りと足早に伏見の屋敷へと去った。

 石田は島左近らと伏見城西の丸に付属する治部少丸に入ると、城の者に伏見在番の奉行である増田長盛前田玄以は既に登城しているか聞いた。彼らは大坂の雑説を早くも聞き、対応のために登城しているとのことだった。

 石田が治部少丸に入ったと聞くや否や増田、前田玄以の両名は彼の元に息を切らしてやってきた。目は血走っている。

「治部。これはどういうことだ。」

 前田玄以が聞いた。彼は五奉行の最年長で、主に神社仏閣、朝廷との外交の担当をしている。 

「仔細は彼らにお聞きください。」

 石田は城の西側を指さした。玄以は目を細めた。遠目に砂塵をまき散らしながら軍団が接近してくるのが見える。増田長盛は年来一線の武人として名を馳せただけあって堂々としているが、生涯においてたいした戦歴のない玄以は肩を震わせおののいた。

「ら、乱ではないか。」

「左様、細川忠興加藤清正以下十将が我を血祭りにあげようと画策した由にございます。朝鮮の役での私の裁定に不満があるとか。最もその蔚山倭城の裁定に私は関与していないのですが。」

 石田は扇をぱちりと閉じた。

「何ならあの者らに奉行職を肩代わりしてやったら如何か。さぞよき政事を行うのでしょう。」

「治部殿、皮肉はそこらで。」

 増田長盛が制した。彼は石田に同情した。増田は彼の妙な物慣れた性格に対し必ずしも好感を持ってはいなかった。しかし、同じ執政官として、決して三成に政治的落ち度があったことはないことは良く知っている。

 要は、石田は秀吉の晩年の失政の負の遺産を諸に蒙ったのであり、その三成の傍らで常時政事に関わり続けた増田にとって此度の騒動は決して他人事とは思えなかった。

(明日は我が身ぞ。)

 という恐怖が増田にはある。彼はこの哀れな同僚を助けるため、一つの解決策を提示した。

向島城の内府様に矢留の斡旋を願っては如何か。」

 家康が縁組騒動以来、伏見を出て宇治川を挟んで対面にある向島に移り住んでいることは述べた。彼は縁組騒動以来概しておとなしく勤めているが、以前、筆頭大老かつ政事の総責任者であることに変わりはない。

「いや。」

 石田は渋った。この男が豊臣政権下において常時家康の警戒役に当てられ、距離を置き続けたことは何度か書いた。彼はそのような事情も相まって家康に借りを作ることを嫌った。

「しかしこの場を取りなせるのは内府様以外居なかろう。」

 増田の言葉に石田は不承不承頷いた。彼の言うとおり、今は体裁を気にしている暇も余裕もなかった。

「大蔵(長束正家)が内府様の腹心、本多平八殿の妹婿故、執り成しを依頼しよう。」

 言うや否や増田は配下の渡辺了を密かに大坂へ遣った。

(しかし、石田はもうだめやも知れん。)

 この場を凌げたとしても、十名近い大名から弾劾を受けたという事実は覆しようがなく、政治的に挽回しようが無いのではないように思われた。

前田利家が身罷り、石田が失脚するとなると、政権運営はいよいよ家康の力に頼らざるを得ないのではないか。

(我も早めに内府様との伝手を築かねばなるまい。)

 増田はそのようなことを思った。

濃州山中にて一戦に及び(6)

こんにちは

割と情報量の多い回です。前田-徳川の諍いは終わり、すぐに石田襲撃事件が勃発します。首謀者はあの人です。

 

徳川家康が使者の任に充てたのは、腹心井伊直政であった。井伊は供回りと一路、大坂を目指した。徳川屋敷では四六時中、甲冑を着込んでいたが、使者の任にあたり、それを脱ぎ捨て、直垂を着込んでの出立であった。

 井伊はその日の夕刻に前田屋敷に到着した。

(多いな。)

 彼はその軍勢が想像よりも多いことに舌を巻いた。徳川家三万の軍勢が到着したら両軍合わせて十万は超える数の軍が伏見、大坂に集結するはずであり、戦になれば二つの町が荒廃することは必至であった。

 そう思うと井伊の任は天下国家の行方を決めるうえでも大事であり、それを自認した時、この軍事にも外交にもそつがない男の首筋に一縷の冷や汗が走った。

 井伊は前田屋敷の大広間に通された。利家を上座に頂き、毛利、上杉、宇喜多ら大老、それに続き五奉行を含んだ諸大名が井伊を威圧するように並んでいた。

 上座の前田が口を開いた。

「井伊殿、使者の任、ご苦労である。」

 井伊は一礼すると以下のように口上を述べた。

「此度の当家の縁組に関する騒動に関して、当家が豊家をないがしろにしている、もしくは邪な野心がある、と様々な雑説が飛び交っておりますが、すべて事実無根にござる。伊達家との縁組は東国での政事を行いやすくするため、福島、蜂須賀との縁組は豊臣恩顧の大名と友誼を深めることで当家と豊家との繋がりを深めるためでした。ならびに、我が主、家康は恐れ多くも太閤殿下から日ノ本の執政を任されており、此度の件も私的な婚姻には当たらないとの解釈でした。その解釈の違いが此度の騒動を招いたのは確かであり、事前にお伺いをたてなかったことに関しては当家に非があることとし、謝罪いたす。」

 井伊はここで言葉を区切ると、深々と頭を下げた。諸将の間にどよめきが走る。

「以後、太閤殿下の御遺言に一切背かないこと、前田様および諸将に遺恨なき旨を認めた誓書をお出しいたす故、今回の縁組に関しては事後承諾という形でお認めいただけないでしょうか。」

「和議を乞いたいのならば何故関東より大軍を上洛させたのだ。」

 井伊に問うたのは今関羽を称する加藤清正であった。

「当家を謀反人と断じ、討ち果たさんとする大名がいるという噂が飛び交っており、その警護のため家康麾下五万のうち、三万を上洛させ申した。当家はこうして天下国家のために頭を垂れている、それでもなお当家に異心ありと断じ、よからぬ噂を流す御仁あらば、それこそ世を乱す者と覚ゆ。徳川家二百五十万石をもってお相手いたす。」

 井伊は直垂の上からでもわかる分厚い肩肉をいからせて答えた。井伊の剣幕と、徳川二五〇万石という物量が前田方の諸将を黙らせた。

「井伊兵部少輔。」

 前田が立ち上がった。元々長身痩躯だが、近年病を得てさらに痩せ、立ちあがると違和感を覚えるほどに細くなってしまっていた。

 しかし数多の戦の場数により培われたその風格は万の兵を御するに余りあり、往年の「槍の又左」の異名を彷彿とさせた。

「井伊兵部少輔、見事な口上であった。内府殿が誓紙を提出次第、我ら四大老五奉行も徳川殿へ遺恨なき旨の誓書を提出いたす。」

 これにて手打ちである、と前田は言った。

「それにしても井伊兵部の胆の据わり様よ。諸人は皆、見習うべし。」

 前田はからからと笑った。井伊は普段、自らの役目について滅多に感想を述べない男だったが、この時ばかりは「肝を冷やした。」と周囲に漏らしたという。

 

 井伊の功もあって徳川家の縁組計画に端を発する違約騒動は解決する方向に向かった、家康から四大老五奉行宛に

一、此度の縁組の件は大老、奉行間の同意の元、これを進めること

一、太閤殿下の遺言、五大老五奉行の同意に以後背かないこと

一、此度の騒動で双方に加担したものに対し遺恨を持たないこと 

 以上を記した誓紙を提出した。七日後、四大老五奉行側も同様の誓紙を家康に提出し、また、さらなる和解のために前田利家徳川家康の双方がお互いの屋敷を訪問しあうということで手打ちとなった。参陣していた諸大名も徐々に兵を引き上げはじめ、大坂と伏見の町は活気を取り戻し始めた。

 石田三成と、その重臣島左近は騒動の収束に伴い、前田屋敷を引き払う最中であった。轡を並べ、大手の通りを行きながら彼らは今回の顛末に関して議論していた。

「しかし結果として内府殿はまんまとやりましたな。」

 島左近は主人、石田三成に言った。

 島の言う通り、今回結果的に家康が頭を下げる形で矛を収めたが、伊達、福島、蜂須賀らとの縁組は豊臣公儀にとって認められる形となり、家康は自勢力を肥やす結果となった。

「恐らく内府殿は最初からこの結末を描いていたのでしょう。」

「しかし、それだけかな。」

 石田は言った。そして彼自身の興味深い、そして滑稽でさえある憶測を述べた。

 曰く、家康は自身の秀吉に対する生殖能力についての優位性を示そうとしたのではないかということだった。

 豊臣秀吉はその好色ぶりから多くの側室を抱えていたが、晩年になるまで子を成せなかった。秀吉はそれによって実子による婚姻政策をほとんど行うことができず、「羽柴」「豊臣」の名字を乱発するに留まった。

 王家にとって跡取り問題は死活的問題であり、子が少ないことは世情不安を煽る原因にもなりかねなかった。

 実際豊臣政権がどこか収まりが悪く安定しないのも秀吉と血縁のある人物が少ないことに他ならない。

 それを受け、家康は先の天下人秀吉にたいして自身の繁殖能力の優位性を世間に示そうとしたのではないか、というのが石田の解釈であった。

(成る程、そういうものの見方をされるのか)

「果たしてそこまで考えますか。」

「分からぬ。おそらく考えまいが、内府殿の心根の奥底にそのような本能が眠っておるのやもしれぬ。」

 とすると、家康の心に無意識の内に天下簒奪の意思が兆しているということであり、家康がその旗幟を明らかにする日も近いかもしれない、と石田は思った。しかし、今回の騒動における誓書は事実上の不戦協定であり、当面は何事も起きなかろうと見た。

島は政治的案件について生物学的でさえある見地から考える石田の思考を感心と数奇の入り混じった心地で聞いていた。

 石田は奉行職にあたっても、時々このような、独特な、透明感のある思考をした。その思考は時に滑稽でさえあったが、織田家の一部将であった秀吉が、信長の死後、約五年という短期間で統一国家の体を整えるという離れ業をやってのけるにおいて、彼のこの透明な思考回路は不可欠であった。

(学者的素質をお持ちなのやもしれぬ。)

 島は石田の思考法に、物事のありのままの姿を見出す学者的なものを感じた。もしかすると自分の主人は学者としても大成できたのかもしれないと島は思った。

 

 二月十五日の夜、豊前中津城黒田長政

自身の「大水牛桃型兜」を肴に一人、伏見の黒田屋敷居室で晩酌を楽しんでいた。

 伸びやかな曲線を描く二本の角を戴くこの兜は黒田も気にいっており、愛用していた。長きにわたる異国の地での戦を共にしたこの兜を眺めながら彼はつかの間の安らぎを享受していた。 

 しばらくして、家臣、後藤又兵衛から取次ぎがあった。何と肥後熊本城主、加藤清正が俄かに尋ねに来ているという。

 黒田は突然の来訪に驚いた。彼は父、如水が荒木村重との戦で囚われの身になっていた時、秀吉の妻、高台院に養育してもらっていた過去があった。同じく高台院に養育されていた加藤清正福島正則は彼にとって先輩格にあたり、丁重に応対しなければいけない相手であった。

「粗相のないようにせよ。」

 黒田は後藤に命じた。

 しばらくすると、加藤清正がその巨躯を揺らしながら黒田の居室にやってきた。

「松寿。俄かにすまぬ。」

 加藤は、黒田が成人してからもなお、幼名の「松寿」という名で呼んでいた。決して彼を侮っているわけではなく、彼は同じく高台院に養育された福島正則のことも幼名の「市松」という名で呼んでいた。

 加藤からして、福島と黒田は同じ釜の飯を食った朋友であり、大名という立場になってからもそのあどけない友情を胸に抱き続けていたが、父、如水から理性的な感性を受け継いでいた黒田はそれをどこか冷めた目で見ていた。

 とはいえ、黒田は先輩格にあたる加藤を丁重にもてなした。二人は朝鮮での思い出を肴に一刻ばかり飲んだ。

 ほどよく酔いも回った頃、加藤は本意を切り出した。

「松寿、俺は石田治部を弾劾しようと思っている。」

 黒田は目を見張った。

「やはり小西摂州との件ですか。」

 加藤は忌々しいと言わんばかりの表情をした。先にも述べたが、加藤清正小西行長は朝鮮の陣における和睦交渉の方針で対立した経緯があった。その時、石田三成小西行長の肩を持ち、清正は政治的に敗北したのだが、加藤はそれを根に持ち続けていた。

「当然よ。彼奴らのせいで我らが異国で流した血汗が無意味と化したわ。」

 加藤はぐいと杯を飲み干した。

「松寿、其方と蜂須賀殿も石田の讒言で太閤殿下の咎めを受け、謹慎に処されたそうではないか。」

 黒田は押し黙った。朝鮮の陣で、蔚山倭城を守備する加藤清正隊を救援する戦があったが、その時の救援軍の大将が黒田とその義兄の蜂須賀家政であった。

 朝鮮方の猛攻は凄まじく、日本軍は救援に手間取ったのだが、その時の一連の戦の過程を秀吉が激怒し、大将である黒田と蜂須賀を謹慎処分にしたことがあった。

 その時、黒田らの戦いぶりを秀吉に報告したのが軍監福原長尭(石田三成の妹婿)であり、彼の歯に衣着せぬ報告も処分を誘引した原因となっていた。

 そして何より黒田、蜂須賀の怒りを呼び込んだのは秀吉がその福原の報告を賞し、加増褒賞を与えたことであった。

 この件と石田は直接の関係はなかったのだが、黒田、蜂須賀らは石田が妹婿である福原に何らかの口添えをしたのではないかと疑った。

「儂は蔚山倭城中で籠城しながらそなたらの戦の手立てを見ておったが朝鮮の猛攻相手に見事かつ堅実な戦いぶりであった。それをあげつらい、落ち度のみを指摘するとは憤懣やるかたない。」

「それがしとて蔚山倭城の裁定には納得しており申さん。」

 黒田も加藤に負けじと酒をぐいと飲み干した。そもそも彼は父、如水が豊臣政権から不遇に処されたことも相まって豊臣政権そのものに不信感を抱いていた。

「松寿よ、殿下子飼いの将たる我らが、朝鮮で血反吐を吐いた我らが何故こうも政事から遠ざけられねばならん。儂は朝鮮の件以来、小西を討ってやろうかとも思ったが小西を討っても何も変わらん。奉行衆筆頭たる石田を政事の場から消さねば我らはこのまま中央から疎外されたままぞ。」

 前述のように、加藤清正には同じ行政官僚として、石田や中央奉行衆への嫉妬があった。

「しかし加藤殿、弾劾というのは訴訟の沙汰に持ち込むということでしょうか。」

「訴訟しても石田に揉み消されるだけよ。」

 加藤は目を据えて言った。

「兵を興す。あ奴の屋敷を取り囲み、あわよくば詰め腹を切らせるわ。」

「豊臣公儀が石田に牛耳られている以上貴殿が謀反人として討伐されかねますまい。それに大名同士の私闘は太閤殿下が生前に出された総撫事令で禁じられております。」

「わかっている。それ故、味方を増やす。」

 加藤が言うにはこうだった。確かに加藤、黒田ら一、二の大名が決起してもそれは謀反として片付けられてしまうだろう。しかし六、七、八と同志を集め、政治的派閥を形成すればそれは謀反ではなく、政治を正さんがための弾劾として扱われるであろうとのことであった。

「すでに長岡越中細川忠興)とは意を一つにしておる。」

 加藤清正細川忠興は先の家康の縁組騒動で共に前田派に属した同志であることもあり、密に連絡をとっていた。

「というより、この話は奴から持ち掛けてきたというのが正しい。奴は前関白の失脚の際、関白に借金していたのを石田に咎められ、連座しかけたことがあるだろう。以来、石田を恨んでおったらしい。」

 この計画が細川忠興の発案であることは事実であった。政敵を憎むこと甚だしい彼は朝鮮の陣で石田が加藤と不和になったのを聞きつけてこの計画を加藤に持ち掛けたのだった。

越中殿らしい。)

 黒田は細川忠興のこうした粘着質な性格を知っていたので一連の流れに納得した。

 しかし事情がどうであれ、黒田も、自分を陥れた(事実はどうであれ黒田はそう思っていた。)石田を弾劾することには賛成であった。

「蜂須賀殿は間違いなく与力してくれましょう。藤堂殿も、処分こそ受けておりませんが蔚山倭城では共に戦った中ゆえ、お味方してくれないか計らってみます。」 

 蔚山倭城の件を弾劾する以上、当時現場にいた将を味方に引き入れておくのは得策であろう。

「また、奉行間でも浅野様と石田が対立しているとの噂をよく耳にします。」

「それは誠よ。浅野の親父殿は朝鮮の陣以降、会うたびに石田の愚痴を言うわ。」

「浅野様を味方にできれば奉行の一人を味方にできたことになり、我々の正当性も増します。」

「なるほど、よき策じゃ。」 

加藤は首肯した。黒田の父親譲りの才覚に下を巻いたが、黒田と話しているうちにこの計画が予期している以上に上手く運ぶしてきて上気分になった。加藤は現時点で味方に付きそうな武将を指折り数え始めた。

 加藤清正

 黒田長政

 蜂須賀家政

 細川忠興

 藤堂高虎

 浅野長政

「市松(福島正則)にもこの件、話してみようと思うがどう思う。」

「福島殿ですか。」

 黒田は渋い顔をした。彼は直近、福島正則と些細なことで争い、仲違いした経緯があった。

「そういえばお主ら、下らぬ言い争いをしたらしいな。この謀りを機に、和すれば良いではないか。」

「私とのつまらぬ諍いに関してはそれで良いのですが、石田と大して対立しておらぬ福島殿が果たしてお味方してくれるでしょうか。」

福島正則が加藤らと共に高台院に育てられた仲であることは述べたが、朝鮮の役のさなか、国内在番を命じられていた彼は、石田三成と表立った政治的衝突をしたことが無かった。

「市松は儂が説得してみよう。先の縁組騒動で奴とは袂を分かたねばならなかった故、今回は同心したいと思ってのう。」

 福島は、秀吉死後家康と縁組した大名の内の一人であり、先の騒動の張本人ともいえる人物であった。

「それに徳川様の御縁戚がおられた方が、上手く運ぶやもしれませぬな。あわよくば徳川様のご助力も望めましょう。細川様が前田様の縁戚であられる手前、派閥の均衡も取れます。」

「できるだけ多くの派閥から同心するものを得られた方が我らの正当性も保てるわ。松寿、蜂須賀殿や藤堂殿の説得を任せる。我は浅野殿と市松をあたって見るわ。」

「承りました。石田を弾劾して朝鮮の件での我らの正当性を天下に知らしめましょう。」

 加藤と黒田は強かに笑うと残り酒を飲み干した。

 

 ことは(彼らが当初想像していた以上に)上手く進んだ。

 蔚山倭城で黒田と戦いを共にした蜂須賀家政藤堂高虎は二つ返事でこの話を了承した。

 しかも藤堂の調略によって伊予、淡路の領主である加藤嘉明脇坂安治らが与力することになったことも嬉しい誤算だった。

 石田と対立している奉行の浅野長政は加藤から同心を依頼された時、手を打って喜んだが、自身の立場上、軍勢を率いて決起するのは良しとせず、その代わり息子の幸長を遣わすことを確約した。

(世がそれを望んでおる。)

 加藤は思った。朝鮮の陣で出陣を強いられた諸将は皆、多重の出費を強いられ、領国は荒廃している。世は秀吉の死後、その責任を豊臣公儀、ひいてはそれを統括する奉行衆に求めた。今回の計画は上手くその流れに乗れている。

加藤は自身の生い立ちもあって太閤秀吉を敬愛していたが、いや、敬愛していたがゆえに、その失政を秀吉の責任とは思わず、奉行衆、ひいてはその筆頭の石田三成の咎であると思うようにしていた。

彼は潜在思考の中で諸悪の根源は不毛な外征を強行した秀吉にあることを理解していたが、彼は程よい鈍さを持ち合わせていたがゆえに自身の潜在思考に気付くことなく、責任を石田らに転嫁することに成功していた。

加藤は今、伏見の福島屋敷にきていた。竹馬の友である福島正則を今回の件に加担させるためであった。

 福島は朝鮮慶長の役において留守居役を命じられており、加藤らと労苦は共にしていない。朝鮮での日本軍の苦境をしった秀吉が増援方の大将として派遣しようとしたが秀吉の死によって遂に叶わなかった。

 性格は加藤同様、豪宕である。また酒乱でもあり、酔うと場所をわきまえず暴れるので細川忠興のような文化人気質の武将からは迷惑がられていた。

「虎。久方ぶりよ。」

「帰国して以来なかなか会う機会がありなんだ。不慮の騒動もあった故な。」

 不慮の騒動、とは先の縁組騒動であり、加藤は前田方に加担していた経緯がある。

「虎はちっちぇえ時から又左様にべた惚れだったで、無理もみゃあよ。」

 福島は尾張訛り丸出しで言った。虎、とは加藤の幼名、虎之助の略称であり、二人は幼名で呼び合う中であった。

 加藤は黒田に伝えた時同様、福島に今回の内々の計画を伝えた。

 福島は逡巡した。

(はて。)

 彼自身石田と対立しておらず、恨みもなかった。積極的な加担の意思はなかったが、ここは朋輩の政治行動に賛同するべきであろうか。

 もう一つ、彼の判断基準として、縁組をした先の徳川家がこれに賛意を示すか、という点があった。徳川家の不興を買うような行動はできるだけ避けたかった。

 福島はそれを加藤に素直に尋ねた。加藤は言った。

「徳川派のお主が加担を表明してくれることで我らの立場も良くなるのだ。それに内府様にとっても石田が政界から消えることは悪いことじゃなかろうて。」

「それもそうか。」

 福島は首肯した。先述したが石田は秀吉から徳川の警戒役を任された節があり、徳川にとってみれば石田が消えることは自身に吠え掛かる番犬が駆逐されるに等しかった。

「池田武州池田輝政)とは縁組騒動以来昵懇故、同心を依頼しよう。」

「それはありがたい。」

 願ってもない願いだった。

「虎。朝鮮の留守でなまった腕を振るうとするわ。」

「おう、松寿とはそれまでに仲直りしておけよ。」

 

 石田三成弾劾のための決起は閏三月四日と決まった。同心した大名は以下の十名である。

 丹後宮津城主 細川忠興(提案者)

 肥後熊本領主 加藤清正

 豊後中津城主 黒田長政

阿波徳島城主 蜂須賀家政

 伊予宇和島領主 藤堂高虎

 伊予正木城主 加藤嘉明

 淡路洲本城主 脇坂安治

 甲斐甲府城主 浅野幸長

 尾張清洲城主 福島正則

 三河吉田城主 池田輝政

 計画はまず、大坂城北西に位置する中ノ島加藤清正藤堂高虎の屋敷に兵を集め、決起すると同時に、計画発起人の細川忠興が丹後の領内で挙兵して南下、伏見、大坂間の連絡を絶つ。大坂城に籠られないよう、加藤嘉明脇坂安治池田輝政の三将が城を封鎖し、他の七将が石田屋敷を包囲するというものであった。

 弾劾の要旨は三つ。

一、          奉行衆に豊臣公儀としての権力濫用がたびたび見られること

二、          朝鮮の役での蔚山倭城の裁定は石田三成およびその妹婿、福原長尭両名の讒言の結果であり、裁定を見直すこと

三、          以上につき石田三成、福原長尭を切腹に処すること

 

濃州山中にて一戦に及び(5)

こんにちは、前田、徳川の対立も佳境です。

政宗、如水、清正など重要人物が続々登場します。。。

 

 

  結局、今後の出方について結論の出なかった家康はとりあえず広間に味方してくれた諸侯を集め、今回駆け付けてくれたことへの謝辞を述べることにした。

「なんの。執政者たる家康殿の決定が何故問責されるのか。我らは大坂方が詰問を取り消すまで徳川様をお守り申し上げる。」

と述べたのは伊達政宗だった。

 彼は野心旺盛な性格で、秀吉が諸侯の私的な戦を禁ずる「総無事令」を発令した後も、それに従わず奥州に覇を唱え続けたがために豊臣政権下で危険視され続けた。しかし同時に織田信長豊臣秀吉といった天下人が持っているものと同等の気質、どこか痛快で子供っぽい野心の持ち主であったため、秀吉や家康といった大物からは寧ろ好かれていた。

伊達は尚武の家である徳川から友誼を求められ、縁組まで申し込まれたのが純粋に嬉しかったらしい。前大名の中でも真っ先に徳川屋敷に駆け付けていた。

その後、諸大名は大坂方との戦を想定し、やれここを攻めろだの、あそこを陥とせなどといった議論に熱鬥した。

(諸将は威勢の良いことを言っているが、今仕掛けたら負ける。)

 ということは家康も正信もわかっていた。兵力は大坂方に大きく劣っている。

 議論の最中、屋敷の廊下から「カツン、カツン」という音が聞こえてきた。諸将は議論を中断し、音の鳴る方を見た。その音に聞き覚えがあったためである。

黒田如水様および甲斐守様(長政)、御着到にございます。」

 井伊に連れられて豊前中津の領主である黒田如水と息子の長政が広間に入ってきた。広間の諸将からはどよめきと歓声があがり、二人の参陣を歓迎した。

 豊前中津は十二万石に過ぎないが、黒田如水の影響力は甚だしいものがあった。というのも、彼はかつて豊臣秀吉の軍事顧問を務めた天才武将であり、その天下統一事業においてほとんど筋書きを描いた人物だったからである。

「蜂須賀殿がお味方したと聞き及び、参上いたしました。」

如水は言った。息子長政の妻は蜂須賀家の娘であり、黒田蜂須賀両家は縁戚かつ昔から昵懇の仲である。朝鮮の役における蜂須賀家の謹慎処分に関しても連衡して奉行衆に異を唱えていた。

「天下の知恵者、如水殿がお味方したとあれば心強い。」

 諸将は口々にはやし立てた。それに対し、如水は若干の笑みを見せながら「はて、綺羅星が如き大大名の皆様に対し中津十二万石がどれほどご尽力できるか定かではありませんが。」というエスプリの効いた言葉でもって応答した。

彼は決して暗い気質の持ち主ではなかったが、このように会話の端々にエッジの効いた言葉、才能のあるものがよく使うある種の皮肉、を織り交ぜる癖があった。

しかし、石田三成大谷吉継らの奉行衆と違い、如水は第一線に立ち続けた軍事畑の人間であり、前述のように彼自身が果てしない実力を有していることも相まって、その皮肉は決して「勘に触る」響きにはならなかった。如水にはそのような人間的魅力がある。

 彼が秀吉の天下統一事業に大きく関わり、その功績が比類なかったことは書いたが、秀吉は晩年にあたり、如水を不遇に処した。彼がキリシタンだったためである。

如水の功からし豊前中津は少なすぎるほどの領地であり、周囲もそれに同情したが、如水自身はそれに不満を唱えるようなことはしなかった。彼は元々道家めいたところがあり、広大な領土、権力といった類のものに興味が無かったためである。彼は「黒田如水」という人間が表現できる場があれば満足であり、それは秀吉の天下統一事業においてやりきったと感じていたため、領地が如何程であろうと構わなかったのである。

しかし、その後、彼の運命はさらに暗転する。朝鮮の役の折、彼は晋州城攻めについての準備を整えるため、名護屋へ一時帰国したが、その時の手違いにより、その帰国が無断帰国扱いとなり、秀吉の勘気を蒙ったのだった。

彼は剃髪し、家督を長政に譲り、謹慎しなければならなかった。普通ならば鬱屈、怒りといった感情が沸き起こるはずだが、彼が感じたのは寧ろ滑稽さであった。太閤に尽くし、太閤のために軍略を練り、天下を取らせた自分が不遇に処され、豊前中津にもらった僅かな領地さえも隠居して手放さなければならないとはなんたる数奇であろう。

 謹慎を経て、如水はそれからも諸事精力的に働いたが、太閤に尽くした顛末の馬鹿らしさから、前から持ち合わせていたシニカルな態度を加速させた。(彼は賢かったので、それは政治的影響を及ぼさない程度にとどめられた)

とは言え、如水は隠居した後もその素晴らしい実力から万人の尊敬を集めていた。彼の着到の際、諸将がどよめいたのはそういう訳である。

 家康は如水、長政に助力を感謝すると、改めて如水の容貌を見た。

 彼は荒木村重との戦において、地下に幽閉された経験があり、その時患った皮膚病が原因で顔は右上にかけておよそ三分の一が瘡蓋におおわれていた。また、片足が不自由だったため常に歩行補助のための杖を使っていた。「カツン、カツン」と廊下に響き渡る音は如水が来た合図として人々に認識されていた。

 如水ほどの実力者となると、もはや上記のような障害でさえ才気の一部分のように思われてくる。家康はこのびっこひきの才人に以前から興味があったが、政治的に関わる機会が無かったために繋がりは希薄であった。

 しかし、今回の騒動で頭を悩ましている件において、思い切ってこの男に聞いてみるのも良いかもしれないと家康は思った。自家の舵取りを他家の人間、しかも大名に尋ねるのは本意ではないが、如水の場合あらゆる政治的側面を考慮し、上手く織り込んで返答するであろう。家康は言った。

「如水殿。此度の騒動。これからいかなる筋書きをもって臨めばよろしいと思うか。」

 如水はやや逡巡した。家康が大して縁のない自分に上記のような重い質問をぶつけたことがやはり意外なようであった。この男は自分の回答が徳川家黒田家間のみならず広く政治的に重要な意味を持つことを瞬時に把握すると、十分な間をもって思案し、答えた。

「大坂に秀頼君がいる以上、大坂を攻めれば謀反になります。軍勢もあちらの方が多い以上、戦を仕掛けるのは愚でしょう。」

「これは異なこと。」

 伊達政宗が口を挟んだ。

「謀反人たるは幼君を擁して天下の宰相たる徳川家を葬らんとする大坂方ではござらぬか。また、兵力で劣れども、天下無双の将帥たる内府殿の下知に従えば決して負けることはございますまい。」

「越前守殿。」

 家康は伊達を制した。

「貴殿の言い分、尤もありがたいが、今は天下の知恵者たる如水殿の意見を拝聴したいな。」

「出過ぎた真似をしました。」

 伊達は素直に引き下がった。元より自分の勢いが鬥鬥たることを諸将に誇示したいだけで、伊達も本気で戦を始めたいとは思っていない。

「やはり和睦を探るのが賢明でござりましょう。しかしこれだけの騒ぎになった以上、どう和睦を結ぶかが要です。むやみに下手に出るのも下策でしょう。恐れながら貴下の統治下である関八州から大軍を上洛なさりませ、成さった上で和議を結ぶがよろしいかと。」

 如水は言い終えると一礼した。

(なるほど)

 家康は既に自身の手勢を伏見に集めてはいたが、大軍を動員すればそれこそ有無を言わさず戦になるため、軍勢は少数に留めていた。屋敷警護の名目で関東から大軍を上洛させ、同時に和議を乞えば立場を損なうことなく交渉できるであろう。

 家康は如水の言を容れることにした。次男の結城秀康と配下の榊原康政に命じ、関東から三万の兵を率いて上洛する様、命じた。

また、これを契機に徳川家と黒田家は急速な接近を見せることとなった。後に前田利家が病死し、石田三成が奉行から排斥された後、家康は再び婚姻による勢力拡大に奔るが、その時、家康は養女、栄を黒田長政に嫁がせている。

 

 前田屋敷は大坂城三の丸に位置している。周囲には細川、宇喜多といった前田派閥の大名屋敷が立ち並んでおり、一帯が詰所として兵馬で溢れていた。

 屋敷内には陣幕が張られあたかも合戦さながらの様子である。

 その人馬をかき分けるようにして一人の武将が参陣していた。その男は身長六尺三寸を誇り、立派な美髯を蓄えていたことから人々は「今関羽」と噂していた。

 肥後熊本城主加藤清正であった。彼は若い頃から武勲著しい前田利家を尊敬しており、今回与力することにしたのだった。

 彼は諸将が集まる広間に通されるとそのままどかりと床に腰を下ろした。

「加藤主計頭清正、只今参陣仕った。」

 彼は朝鮮での過酷な戦を通じて指示を飛ばすうえで声帯が発達を遂げたのか声が割れんばかり大きい。広間中どころか屋敷中に響き渡るような声で言った。

 しかし前田利家の見事なところはこの割れんばかりの大喝に大喝をもって返したところだった。彼は武人の気質をよくわかっていた。

「主計頭、遅いわ。さては日和っておったか。」

「滅相もございませぬ。ただ朝鮮より戻って日も浅く、参陣に手間取った次第。」

 清正は低頭して言った。この豪宕な性格の男は遅いと言われたことが気に要らなかったのか

「此度の一件、内府殿の違約に端を発していると伺いました。仮に内府殿が豊家に仇なすおつもりとあらばこの主計頭、大納言様のお下知の元で伏見へ攻め上り、内府殿のお心を正しに参りましょう。」

「よくぞ申した。心意気あっぱれである。」

 「応」と加藤は野太い声で返事をした。そして石田ら五奉行の方を見ながら「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」と付け加えた。

 朝鮮の陣では一番隊を小西行長、二番隊を加藤清正が率いた。二人を競い合わせることを見越しての人事だったが、もともと領国肥後の統治を巡って諍いのあった両者は作戦を巡って激しく反目した。

 そして両者の対立が決定的になったのは和議を結ぶにおいてだった。加藤は朝鮮の陣そのものには消極的反対の姿勢だったが、戦が始まったからには全身全霊をもって戦い、史にその名を刻んでやるつもりだった。

 しかし、小西行長はこの不毛な戦いを、和議で譲歩してでも終わらせたいと考えていた、石田三成も同意見だったので和議において小西の意見を採用した。清正は小西と対立するとともに、自らの方針を一顧だにしなかった石田はじめとする奉行衆にも不信感を持った。

 「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」という発言には上記のような意味合いが込められていた。

 前田利家はその発言を叱りこそしなかったが、愉快な気持ちにはならなかった。

 前田、徳川陣営で割れている以上、事態がどう転ぶにせよ、同陣営で仲間割れするのは敵を利するだけである。加藤もそれに気づいていないはずないのだが、異国の過酷な環境で培われた怨恨は、それを無視できるほどには深いのだろう。先述の通り、黒田長政蜂須賀家政も朝鮮の陣の奉行衆らの対応に関して怒りを持っており、前田は彼らが連衡して奉行衆に対して何らかの政治的行動をとるのではないかということを危惧した。

 そしてまた、前田は加藤に恨まれている石田達奉行への同情を覚えた。というのも、加藤の奉行たちへの恨みの根本はある種の嫉妬心に起因していたためである。

 加藤清正というと朝鮮での苛烈な戦ぶりから武人としての印象が強いが、秀吉は加藤清正福島正則といった子飼いの武将たちに当初行政官としての役割を望んでいた。

 実際彼らは荒々しい性格のわりに行政をよく理解しており、秀吉の代表的な施策である太閤検地の遂行においても滞りなく事にあたった。

 結局、加藤はその行政能力を買われて肥後の統治を任されたが、結局彼の豊臣政権での役割は行政官の中でも地方の行政官に終始した。それに比べ、中央で政事を取り仕切る石田や大谷らの華々しさはどうであろう。加藤は口にこそ出さなかったが、地方官僚が中央の官僚に持つ種の妬みという感情を手放せないでいた。

(しかしそれは匹夫の妬みではないか。)

と前田は思った。それ故に前田は石田に同情したのである。

 前田がそのようなことを考えていると、大慌てで注進が舞い込んできた。

 前田邸の諸将はその報せに愕然とした。

 何と葵の旗印を掲げた徳川軍三万が東海道筋から上洛しており、今日二十九日中には伏見に着きそうだという。前田邸では上へ下への大騒ぎとなった。あるものは即時開戦を主張し、あるものはその武威を恐れた。

 しかしその騒ぎは長くは続かなかった。徳川家家臣井伊直政が伏見から使者として向かっているという知らせが入ったからである。

 前田は言った。

「丁重にお迎えせよ。」

濃州山中にて一戦に及び(4)

こんにちは。

分かってはいたのですが、授業が再開するとどうしても更新頻度が遅くなってしまいます。特にピアノ引く暇ないっす汗汗

出来る範囲で更新するのでお付き合いください~

 

今回は前田利家にだいぶフォーカスを当てています、少し書き方がくどいかもしれませんが、、、

秀吉死後の前田、徳川の対立を描いていきます~

 

大谷は件の縁組問題について「諸将は黙認するだろう。」という見立てをしていたが、その見立ては(群集心理に長けている彼にしては珍しく)外れた。

五大老筆頭の前田利家が激怒したのである。

前田利家は石田から徳川家の縁組計画について聞くと初めは

「果たして誠か。」

とむしろ真偽を疑った。しかし徐々にそれが事実であることを理解すると、憤懣やるかたないといった表情で激怒した。

「太閤殿下が身罷られて未だ半年も絶たぬというに、よりにもよって執政者たる徳川内府が縁組にて徒党を組もうとは言語道断である。」

手勢を率いて自ら内府を討つとまで言ったが、周囲が必死に押しとどめたため、とりあえずは家康を除く四大老五奉行連署の上、詰問状を送ることにした。

 石田は前田の怒り様を意外に感じた。前田は豊臣政権内においては、心根の優しい仲裁者的存在として知られていたためである。前田は石田の知る限り、政務時にこのような激し方をしたことがなかった。(尤も、戦時の彼は勇猛な軍人である。)

例えば、前田は奥州の大名である伊達政宗が秀吉の召集に従わず、勘気を被ったときはこれを取りなしたし、秀吉の甥の関白秀次が粛清された時は多くの連座しかけた武将を救った。彼の温情を施された武将は数知れない。

元々前田は、織田信長清洲城主だった時代、謂わば尾張以来の家臣であり、秀吉の同僚的存在であった。秀吉とは多くの戦線を共にし、キャリアも共にあったが、信長の天下統一事業の過程で一軍団長として望外の覚醒を見せた秀吉に対し、どこか不器用で非常になりきれない性格の彼は最終的に柴田勝家傘下の一部将に甘んじた。

信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立するとその仲裁に奔走したが衝突を止めることはできず、柴田を半ば見捨てる形で秀吉側に投降し、厚遇されて今に至る。

前田はその戦歴の煌びやかさから諸将から羨望の眼差しを向けられていたし(当時の武将達にとって桶狭間の役に参加したというキャリアは半ば伝説的だった)、かつて秀吉の軍門に下った経緯のナイーブさから秀吉も前田の意見には耳を貸さざるを得なかった。

 石田は上記のように、豊臣政権最大の長者である前田と最大勢力たる徳川の衝突を憂えた。詰問状の件で合意が成ると、大坂城の城中で前田に言った。

「徳川殿と前田殿の間に亀裂が入ればそれこそ豊家の災いとなります。徳川殿が謝罪なさればお受入れ下さります様。」

 前田はしわがれた声で言った。

「治部、俺は賤ヶ岳の様なことはもうしたくないのだよ。」

 その言葉を前に石田は黙さざるを得なかった。

 前田利家という武将は、当時の大名級の武将としては稀有な程、義侠心に富んだ武将だった。先に述べたように豊臣政権においては仲裁によって数多くの人物を救ったし、その人格を買われて秀頼の傅役を任された。

 しかし彼は反面、戦国武将としてのリアリスト的側面も併せ持っていた。織田信長の統一事業の過程では一向一揆を容赦なくなで斬りにしているし、敵に対して不必要な甘さをもつ男でもなかった。浪漫とリアリズムが同居している点、彼は大いに信長の影響を受けていた。(彼は生涯を通じて信長に心酔していた。)

 賤ヶ岳に於ける、柴田勝家の陣営から秀吉の陣営にくら替えした半ば裏切りとも言える行為は彼のリアリスト的側面がそうさせたが、これは同時に義に厚くもある彼を以後の人生において大いに苦しめた。

 柴田を裏切って以降、前田はより義侠に富んだ行動を好むようになったが、それは賤ヶ岳における自らの行動がしこりとして残り続けているためであった。

 今回、徳川家康の無断な諸将との縁組行為に対し毅然とした態度を見せたのもそのような訳がある。前田は言った。

「今までのご奉公が認められた結果、恐れ多くも秀頼君の傅役という職におる。俺は傅役として、幼君をないがしろにして徒党を組もうとする輩を黙認はできぬ。それは俺の生き方の理屈に合わぬ。」

 石田は前田の生き方の美学は人を魅了する痛快さがあると感じた。

 そして何より、政治的に同派に属する訳では決してない(前田利家の血縁を中心とし、宇喜多秀家細川忠興などで派閥が形成されていた。)石田に対して自身の心根を惜しげもなく話すその正直さこそ前田の魅力であり、仲裁者といて重きを為してきた所以でもあった。

「無論、内府が太閤殿下生前、律義に奉公し、それが認められ、執政を任されておる理屈もわかっている。内府がしかるべく対応をすれば事を収める。細かいことは其方らが図れ。」

「承知仕りました。詰問状を送った後、和解する手はずを整えましょう。」

 石田は一礼しその場を後にした。

 徳川屋敷での大谷との一件以来、石田の心にはどこか寂寞な思いが巣くっていた。が、前田のカラッとした忠義(というより義侠心といった方が良いのかもしれない)にふれ、幾分かその思いが晴れるように感じた。石田自身、種は違えどわだかまりを好まない素直な気質であったので共鳴するところもあった。

 しかし、聡明すぎる彼は前田の豊家を重んじる姿勢が彼自身の美意識に起因し、秀吉に対する情からではないことを見抜いた。

 事実、前田利家に、自身を裏切らざるを得ない状況へ追い込んだ秀吉個人への義理の感情はそれほど多くなかった。彼が心酔した主は生涯信長一人であり、遺言状にも豊家への言及はなく、織田への忠義のみが記されている。

 

 

 伏見の徳川家康の屋敷に詰問の使者が送られたのは一月十九日のことであった。

 使者に充てられたのは遠江浜松城堀尾吉晴であった。秀吉が「木下」を名乗っていた時から仕えている豊臣家の重鎮であり、かつ浜松城は以前徳川家康の本拠地であったことから何かと引継ぎの縁で家康と関わりがあったことを考慮しての人選であった。

 堀尾は家康を除く四大老五奉行連署の詰問状を差し出し、今回の縁組騒動に関していかなる伺候もなかったことについて遺憾の意を表明した。 家康は自分が亡き太閤より尸政を任されており、また自身が太閤の義弟であることから今回のことが私的な婚姻にあたらないという解釈でいたことを穏やかに述べた。しかし、その婚姻を大老奉行間で事後承諾してくれるならば、今回の件について謝罪し、和解する用意があることも言った。

 堀尾は胸を撫でおろした。家康に譲歩の準備がある以上、事は半ば解決したといってよく、後は前田らを説得すれば収束に向かうだろう。

 実際家康は二十日に和解に応じる旨の簡単な覚書を大坂の前田屋敷に送っており、事態は解決するかのように思えた。

 しかしながら、事態は暗転した。

 一連の婚姻騒動は伏見、大坂の諸大名の間を瞬く間に駆け巡ったが、どこからともなく前田、徳川間の戦が始まるという噂が立ち、それを聞いた諸大名が国許の兵を上洛させ始めたのであった。

 右で前田、徳川間の戦が始まるという「噂」と書いたが、あながち噂でもなかった。先述の通り、前田利家は今回の騒動に関して激怒し、かなり厳しい態度で臨んでおり、徳川家が不誠実な対応をしてきた場合、もはや採算度外視で排斥するつもりだった。大老の一人である宇喜多秀家前田利家の婿であり、その人柄に心酔していたので全くの同意見だったし、上杉家も前田に同調するつもりだった。

 そして前田ら四大老は万が一徳川が武力で大坂を攻撃してくる可能性に備え、大坂を警護の兵で固めていた。それを伏見の親徳川系の大名が

「大坂方が今にも攻めかかってくるらしい、兵を率いて徳川様の屋敷の警護にあたろう。」

と考え、逆にそれを見た前田利家に近しい武将達は

「伏見の徳川屋敷に諸大名が参集しているらしい。我らは前田様の屋敷に参り、お守りしよう。」

と判断したのだった。結果、伏見の徳川屋敷と大坂の前田屋敷は兵馬で溢れんようになり、人々は店を閉めて恐ろしさのあまり震えていた。

 

 

 伏見の徳川家康は慮外の事態拡大に動揺していた。

 元より前田利家らが反発し、詰問使が送られる程度は想定していたが、このように諸将が兵を率いて徳川派と前田派に分裂し、大戦さながらの騒ぎになることは見越していなかったのである。

 しかしここまで騒ぎが大きくなった以上、下手に出ることは政治的に敗北した印象を天下に与えることになるし、大坂方が諸将を糾合している以上こちらだけ武装解除するわけにもいかなかった。

佐渡。如何する。」

家康は参謀の本多正信に聞いた。この縁組計画の発案者もここまでの事態を想定はしていなかったらしく、苦虫を噛み潰したような顔で思案していた。

「もう少し様子を見ましょう。恐らくまだまだ屋敷に参集する諸侯はでて来るでしょうし、それによって有事が起こった時に諸大名が当家のお味方をしてくれるかどうかを見極められます。」

 その時、井伊直政が大股で部屋に入ってきた。井伊はこの騒動が起こって以来、赤備えの甲冑を着込み、戦の陣中さながらに動き回っていた。

「藤堂和泉守様(藤堂高虎)および脇坂中書様(脇坂安治)、加藤左馬助様(加藤嘉明)」がお越しになりました。恐らく藤堂様が中書様と左馬助様をお誘いしたものと見受けられます。」

 藤堂高虎は伊予宇和島の大名だが、秀吉の死後、次天下の実権を握るのは徳川家康であると見越して何かと家康に接近していた。

 脇坂安治加藤嘉明は共に領国が藤堂高虎と接しており、二人が徳川に味方したのは藤堂の調略によるものが大きかった。

「藤堂殿は心強いお味方ですな。」

 正信は言った。伊予、淡路の大名が味方してくれたことは地理的な面でも、毛利、宇喜多らの中国地方の大名の牽制になり、ありがたい。

今まで伏見の徳川屋敷に参集した大名は、池田輝政(池田家と徳川家は秀吉の生前から縁戚である)、伊達政宗福島正則蜂須賀家政藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明真田昌幸、信幸父子、そして大谷吉継などであった。

 大谷は徳川屋敷に参じて以来、家康に早急に前田側と講和する様に働きかけており、諸将にも無用の騒ぎを起こさないよう呼び掛けていたが、大谷の努力虚しく時が経つにつれますます両派に駆け付ける諸大名が増え、事態は大きくなる一方であった。

(むしろいっそのこと戦をしてしまうか。)

戦をし、前田側の派閥を全て討ち果たしてしまおうかとさえ家康は思ったが、しかし肝心なことは、総兵力が大坂方に負けているということであった。やはり豊臣政権下において前田利家の人望というものは凄まじく、派閥を越えた勢力が前田屋敷に参集していた。家康も武勇の誉れ高く、名将としての声望は高かったが、今回の縁組騒動に関しては家康側に非を感じている諸侯も多いらしかった。

 家康は頭を悩ませた。

(迷いが招いた結果がこれか。)

 家康が秀吉の死後、身を削って天下を簒奪するか、自己保全に努めるかどちらが最良の選択か見極めかねていることは既に述べた。迷った結果、婚姻による自勢力拡大という布石を選んだのだが、それによって他大名の想像以上の反発を招いたことを悔いもしていた。

 思えば彼の人生はそのような選択の連続であった。武田信玄との三方ヶ原の合戦や、本能寺の変後の伊賀越え、そして秀吉との小牧長久手の戦など、常に紙一重の選択を迫られてきており、そしてまた紙一重で生き残ってきたが、未だに彼は選択の方法論というものを見つけられていなかった。例えば武田信玄との三方ヶ原の戦いは勇んで名将、信玄に挑んだ結果惨敗を喫したが、逆に豊臣秀吉との小牧長久手の戦いは、無理してでも戦い、(局地戦ではあったが)勝利したことで、家康および徳川家の声望は一気に高まった。戦いを挑むにしても正反対の結果となったのであった。

 選択をすることについての方法論を見出すことを半ばあきらめた彼は、自ら確実に操作できる範囲の事を重視するようになった。例えばそれは小さいことで言うと自身の健康管理、武術鍛錬であったり(彼は乗馬、射的、居合全て達人の腕前である)、大きいことで言うところ領国統治であったりした。

来たる運命の選択のために己を鍛えるという家康のスタンスは徳川家臣団の気質に合っていた。元々の質実剛健の家風と相まって徳川家を史上最強の軍団にしていた。

濃州山中にて一戦に及び(3)

  3話目です。今回はちょっと小難しい回ですかね。直江の諜報の下りがわからない方は2話をご覧ください

  石田三成の親友が登場します。(本作では最も信頼する同僚という表現をしています。)

 

 

 こうして直江は石田に、何か事態が動けば直ちに報せることを確約した。直江はすこぶる有言実行の男であることを石田は承知していたので、この件は直江の報告を待つことにした。

 

 正月、諸大名は出仕して秀吉、および秀頼に新年祝いの挨拶をするのが慣例となっていたが、その年は秀吉の喪に臥すため祝賀は行われず、十日の大坂への引っ越しの準備のみが粛々と行われていた。

 一月十日、大坂、伏見間は諸大名の引っ越し行列で溢れていた。石田ら五奉行の面々は一足先に大坂への移住を済ませており、秀頼および利家が大坂城へ入る手はずを整えていた。

 家康が伊達らとつぶさに連絡を取っている件で直江から報せが来たのは石田が丁度大坂城で引っ越しの監督をしている時だった。

 直江の使い番曰く、石田の所在が不明で連絡が遅れたらしい。石田は使いの差し出した書を受け取ると、物慣れた手つきで封を切り、そして広げた。

 石田は全て読み終わると言った。

「急ぎ伏見の徳川屋敷へ向かう。島左、ついて来てくれ。」

 石田は表面上冷静さを装っていたが、その瞳には(彼にしては珍しく)動揺が表れていた。石田は八十島を徳川屋敷にやり、今から面会に行く旨を報告させた。

「城州様からは何と。」

 島左近は廊下を早足で移動する主人に歩調を合わせつつ問うた。

「件の徳川の件で調査したことを知らせてくれた。曰く、徳川家は伊達家、福島家、および蜂須賀家との縁組を計画しているそうだ。」

「大名同士での縁組は太閤殿下生前より禁じられていますな。」

 直江の書状は家康が縁組を計画しているというおおまかな概要が書かれていると同時に、その縁組計画の詳細も事細かに記載されていた。

 各家との縁組に関しては次のとおりである

 

 ・松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)

 ・満天姫(家康の養女)と福島正之(福島正則の養子)

 ・万姫(家康の養女)と蜂須賀至鎮蜂須賀家政の嫡男)

 

これら三組がそれぞれ祝言をあげることになっているらしかった。

 石田はこの件を他の奉行、大老に報告しなければいけないと思ったものの、前田利家らの出方によっては伏見、大坂間の戦になりかねないと思った。故にまず、石田は直江の報告書を更に要点だけまとめたものを、「上記の疑いあり」という但し書きを付けて前田利家のもとに送るに留めた。

そして自らは直接徳川屋敷へ赴き、審議を直接問いただすと共に、直江の報告が誠であれば今後の対応を(ことが公になる前に)秘密裏に交渉したかった。

 

 石田と島は淀川を諸大名の引っ越しの列を時にかき分けつつ、遡った。馬の吐き出す息が炊煙のようであり、寒さは身を切る様であったが、全速力で駆けた。伏見城下に入ってからも駆けに駆けた。二人の顔を知ったる者が「治部殿」「左近殿」と振り向けざまに呼びかけたが構うことなく過ぎ去り、徳川屋敷が建つ通りへ駆け入った。

 そのまま徳川屋敷へ押しとおろうかとも思ったが、二人とも盥沐していたかのように汗で体が濡れたくっていたのでまずは自邸に戻り、体裁を整えた後、二人は徳川屋敷の門を叩いた。

「お待ち申しておりました。」

 応対したのは若き家老の井伊直政であった。井伊は洗練された所作で石田と島の二人を応接の間に通した。

 応接間に通されると、石田は一人の白頭巾を被った男が家康と話していることに気付いた。その白頭巾の男にはよく見覚えがあった。否、馴染みがあった。

「刑部殿ではないか。」

「その声は治部殿か。これは数奇な時機に来られたものよ。」

 白頭巾の男の名を大谷吉継といった。

 石田同様、豊臣秀吉の天下統一事業の過程で官僚としての能力を買われ立身した大名であった。

 この男の経歴はほとんど石田と共にあったと言っていい。石田が豊臣政権創成期に堺の奉行に就任するとその与力としてあてがわれ、職にあたった。四国、九州、朝鮮の役と大戦ではそろって兵站の確保に努め、小田原征伐では石田と共に兵を率いて武蔵国忍城を水攻めにした。

 大谷は石田同様、経済や兵站への理解が深く、要領も良かったが、彼の特筆すべき長所の一つとして群集心理を把握するのに長けていた点がある。

 どう命令を下せば人がどのように行動するかを理解すること巧みであり、また逆に嫉妬心や猜疑心といった、人の心の弱みもよく把握していたので大きな事業を統括するにあたっても失敗が無かった。

 石田も決して群集心理が理解できない質ではなかったが、彼自身が才幹である故に若干理想に固執してしまう傾向があり、実際働く工夫や舎人が石田の想像より愚かであったがために予測を誤ることが時たまあった。秀吉は以上の両者の人柄を熟知した上で組ませた。この人選は秀吉の数々の人選の中でも肯綮に中ると言っていい。

 石田は政事において判断に迷ったときは何事も大谷に意見を求めるようになり、逆に大谷も石田の才を求めてよく相談した。

 要は大谷は石田が最も信頼している同僚であった。

 しかし不条理なことに、彼は小田原の役が終わったあたりから難病に苦しめられていた。その病は壮絶なもので、全身の皮膚に悪瘡ができ、また失明するというものだった。細菌や糖など体にとって善くないものが全身をめぐると右のような症状がでることから細菌感染症、糖尿病など様々な説があるがはっきりとはしない。

 彼はその病のせいでここ五、六年は奉行職を退いていたが、最近は小康状態を保っているのか中央の政界に復帰していた。諸大名同士の連絡や奉行の輔佐をよくこなしており、石田とも以前のようによく連携していた。

 しかしなぜ大谷がここにいるのか石田は解せなかった。石田の表情を察したのか家康が言った。

「儂がお呼びしたのだ。」

 大谷は一礼した。先述の通り、徳川とつかず離れずの関係だった石田と違い、大谷は奉行の中でも浅野と共に親徳川の立場であった。大谷が政界に復帰したのは家康が執政の立場になったために自身の重要性が増したからでもあった。

「石田殿が来られたのは当家と伊達家との縁組の件かな。」

「いかにも。」

 石田は大谷が徳川屋敷にいる理由を察した。縁組の件は遅かれ早かれ諸侯の耳に入ることであり(あるいは徳川自身が露見したことを察したのかもしれない)、独断での縁組計画となれば大老、奉行の反発・糾弾を受けるのは必至である。

 それを見越し、自家と親しい奉行である大谷を味方に抱き込み、利用しようという腹に違いなかった。

「太閤殿下生前より諸大名の勝手な縁組は禁じられております。」

「治部殿。徳川殿はただ今の日ノ本の宰相にござる。どころか太閤殿下の義弟、および秀頼公の義理の祖父ともあろうお方にござれば、『勝手な縁組』には当てはまらず、公儀としての縁組にござろう。」

 大谷が言った。彼は病に陥る前は軽妙洒脱でエスプリの効いた語り口で知られていたが、病を患って以来、動作は緩慢となり、病人特有の歯切れの悪い口調となっていた。

 加えて、大谷にとってこの空間は間が悪いようであった。縁組の件について、政治的立場は異とするが長年の職場の朋友である石田と言い争いたくはないらしい。

 石田は家康の方に向き直って言った。

「されど今の刑部殿の言は建前の理屈にござろう。いくら徳川殿が豊家のご縁戚であろうと日ノ本の宰相であろうと、諸将は今回の件を勝手な縁組と解釈します。そうなれば今後もそれにつづく大名が出て参りましょう。そうなれば法度が軽視される。そうなれば世が乱れる。」

 石田はたびたび見せる、悪政に対する毅然とした態度を垣間見せた。

家康は返答に窮した。石田は流石に頭の回転が速く、事の本質を突くのが上手い。家康は論点を変えた。

「しかしそなたもご息女を高台院様の養女とされたそうではないか。」

 石田は黙した。

 確かに石田は秀吉の死後、正妻として方々に影響力を持つ北政所と繋がりを持つため、自分の三女の辰姫を養女として送り込んでいた。大名同士の私的な婚姻とは性質が違うため違約には当たらないが、衝かれると若干後ろめたい点でもあった。

「しかしそれは大名同士にも私的な婚姻にもあたりますまい。此度の徳川殿が成されたこととは性質が異なります。」

「では治部殿。徳川殿を排斥なさるか。そうなればこそ世が乱れるではないか。」

 確かに現在の政治体制は大谷の言う通り、家康あってのものであり、家康を除外しようとすれば反対派との戦になりかねない。

「確かに今回の件で徳川殿に落ち度はあった。しかし訳を話し説得すれば諸将は黙りましょう。ことを荒げてはそれこそ豊家の御ためになりますまい。」

 以上の大谷の発言を引き継いで家康が言った。

「石田殿、この件を事後承諾という形で通すことはできまいか。必要とあらば大納言殿には私の方から謝罪に参る故。」

 石田はやや逡巡したが言った。

「私としても事を荒げたくはない故、今貴殿が申された方向で調整するよう試みます。しかし事後承諾を見越した法度破りは今後一切慎みいただきたい。今回の件でも恐らく加賀大納言様はご立腹なさるでしょうし再度このようなことがあれば私としても取り成しかねます。」

「わかりました。取りあえずは大坂の方々に諮ってみてください。」

 

 石田と大谷は徳川屋敷を後にした。屋敷を出ると石田は大谷に詰め寄った。

「刑部殿。いくら貴殿が徳川殿と親しかろうとあの場では私に同調するべきであった。仮にも豊臣の奉行の職にあった其方が法度破りに同調しては天下に示しがつかぬではないか。」

「お主の言い分は正しい。そして私もわかっている。」

 大谷は言った。

「しかし奉行衆が全員徳川弾劾に回ってしまってはそれこそ事が収まりにくくなる。儂が徳川の言い分を聞いてやることで奉行衆との橋渡しにもなるではないか。」

 要は匙加減が重要である、と大谷は言った。石田は理屈の上では納得したがやはり釈然としないところがあった。

要は、かつては諸問題全てを独裁者秀吉が裁断したため、石田大谷らはそれを善し悪しの尺度として従えばよかった。しかし秀吉が死に、その絶対的な善悪尺度が揺らいだ以上、大谷の言ったように諸将が和する様、万事加減を大事にしてものにあたらなければいけなくなった。物事の本質を衝くのが上手いこの男は、その釈然としない理由がそこに起因することを悟ったが、それに増して、今まで何事においても心根を同じくした大谷と今後政治的に別行動を取らなければいけないか思うと寂しさを感じた。

「病の方は如何かね。」

 石田は大谷の体調を気遣った。大谷は病で足が萎えたのか移動には家臣の介添えを必要とし、外出の際は輿を使用している。

「相変わらずだね。眼病に加え、足もすっかり萎えてしまった。体の節々も常に痛んでいる。目も足も利かなくとも仕事はできるが、体の痛みで頭の周りが鈍くならんかが気掛かりさ。」

「しかし仮に君が以前のようには政をこなせなくなったとしても、それが病のせいであることは方々承知しているし、君が今までに積んだ徳はそれを補って余りあるものだ。」

「そうはならんよ。」

 大谷は輿に乗り込み、頭巾の中でくぐもった笑い声を響かせた。

「石田殿は儂と仮にも私人としての付き合いがあるから表裏なき温情を向けてくれるのであろうが、そうでない大名方は表面的な哀れみこそ向けれ、本心から同情なぞせんよ。むしろこれを機に儂の既得権を簒奪せんとするものも多かろう。それが豊家に仇なさぬよう注意せねばならん。」

 以前から衆人の心理には長けていた大谷であったが、大病を患い、なお一層視えるようになった景色があるらしい。石田は黙って大谷の輿を見送った。

濃州山中にて一戦に及び(2)

2話目です。

上杉の宰相、直江兼続が出てきます。

中途半端なところで終わっていますが悪しからず

文章書くの曲作るよりムズイ、、もっと上達させたいです

 

以下本文です↓

 

 

 家康は而して自らの屋敷に帰った。先述の通り本丸と徳川屋敷は指呼の間にあり、健康を好む家康は徒歩で帰ることも多かったが、衆司に姿を晒しては秀吉の死を悟られる恐れもあったので駕籠で帰った。

 屋敷に帰ると家康は直ちに息子の秀忠、そして本多正信井伊直政を一室に集めた。

 家康は開口一番で本題を切り出した。

「秀忠を江戸に帰そうと思う。」

 下座の三人ははっと家康を見た。しばらく押し黙っていたが、井伊直政が口を開いた。「太閤殿下が卒し、いつなん時、変事が起こるとも限らぬゆえ、上策でしょう。」

「うむ。秀忠、直ちに江戸に帰り政務を取る様。」

「承知仕りました。万事大久保長安らと相談し、推し進めまする」

 秀忠は一礼し部屋を後にした。秀忠が部屋を後にしてからも正信、井伊はしばらく押し黙っていた。

(この危急の折に江戸に遣るとは、やはり嫡子は秀忠様か。)

 という思いが両名にはある。

 徳川家の嫡子の件で、正信は次男の結城秀康を推しており、井伊直政は四男松平忠吉を推していた。

本多正信にとっては三男秀忠は大久保家との縁が強く、四男松平忠吉井伊直政の婿であったため、どちらの影響もない結城秀康が後継者となるのが最も都合がよかった。(後に正信は家康に結城秀康大老の端に加える献策をし、容れられたが他の大老の反対で実現しなかった。)

 二人の沈黙の意を家康は知っていたが、知らぬふりをした。この世継ぎの件だけは家康も側近の彼らとも腹を割れない問題であった。

 沈黙の後、ようやく正信が口を開いた。正信は城でのことを家康に尋ねた。

「城中はどのようなご様子でしたか。」

「落ち着かない様子だったが石田、増田らの奉行がどうにか体裁を整えておった。殿下の死は朝鮮への影響を鑑みてしばらく伏せる。朝鮮の陣は即時撤兵し、監督には石田殿と浅野殿があたる。」

「石田治部と浅野弾正は不仲と伺いまするが。」

「危急の折だ、両者腹の中に収めておくだろう。」

「しかし、文禄の役の和平交渉以来、石田殿と加藤殿との間にもわだかまりがあると聞きまする。いずれ浅野殿と加藤殿が連衡して石田殿を排斥する運動をせぬとも限りますまい。」

 正信の言に家康は黙した。彼は少なからず石田に同情するところもあった。

 朝鮮の戦は諸大名の誰もが望まない戦であり、その重い負担は確実に諸侯の領国経営を蝕んだ。それは紛れもなく豊臣政権の責任であったが、諸人はその恨みを太閤に向けることはできず、必然的に奉行衆に向けられることになる。奉行衆の象徴的存在である石田が多くの非難を被ることになったのである。

「ともかく、殿が先ほど仰せられた通りいつ変事が起こるやもわかりませぬ。そこでこの佐渡守、策があり申す。」

「何だ。」

「は、政局がいずれに転ぶにせよ。今は当家にとってお味方を増やすが肝要にござる。さればこそ、当家と縁戚となる大名を増やすべきかと。」

 家康は神妙な顔をした。

「大名同士の勝手な婚姻は太閤殿下の生前より禁じられている。」

 これは秀吉の遺命ではなく生前の文禄四年に掟で定められたものであり、大名同士が徒党を組むことを防ぐものであった。

「殿は太閤殿下の義弟であらせます。そのうえ、太閤殿下から秀頼公が成人するまでの政事を託されており申す。その殿が決定した縁組を『諸大名同士の勝手な縁組』とは申しますまい。公儀としての婚姻でござる。」

「なるほど。その理屈で通すか。」

 ここで家康は井伊直政に意見を求めた。謀事に関しての密議を家康、正信、井伊直政の三人で行うことは以前からよくあった。正信は以前書いたように徳川家一の謀将であるし、井伊も諸大名との外交を担うなど時勢に長けていたからである。それのみに留まらず、徳川家の最強部隊である「赤備え」(旧武田家の遺臣で構成され、鎧袖を緋色で染めた部隊)を率いている井伊の意見は軍事面からでも参考になった。(正信は軍事に疎かった。)

大概会話を主導するのは正信であり、井伊はその大半を黙して聞いていた。彼は井伊谷と呼ばれる遠江の郷里の土豪出身であり、徳川家においては外様であった。それ故、徳川家の譜代家臣以上に徳川の士たろうと気負っている面があった。普段口数は少なく、家中の軍規は随一厳しかった。しかし戦になると誰よりも猛り、厳しく戦ったし、政務においても所作が洗練されていて淀みなかったため、家康のみならず譜代の家臣からも非常に信頼されていた。

井伊は家康との密議においても非常に口数は少なかったが、意見を求められれば的確に答えたため、家康は要所では彼に必ず意見を求めた。井伊は決して口下手だから黙していたのではなく、自分の思考を煮詰め、推敲しきってから発言するようにする質だった故に、たまに飛び出す意見は非常に要点が凝縮されていた。

佐渡守殿の申した通り、今はお味方を増やすが最優先にございましょう。私的な婚姻でおそらく他の大老、奉行方の反発を買うでしょうが無理にでも通してしまえば後々、御家にとって良いように効いてきましょう。当家におかれまして一番血縁の濃い御家は恐れながら豊家(豊臣家)にござります。その豊家の太閤殿下が亡き今、必然的に当家の立場も盤石では無くなりました。新たな血縁を作るのは上策かと考えます。」

 井伊はさらに続けた。

「政事を恙なく致すは重要なれど、万が一、太閤殿下の死に乗じて徳川家を追い落とそうとする邪な輩がおりますればこの井伊兵部、赤備えを国許から呼び起こし、兵馬の争いにて八つ裂きにしてくれましょう。」

 

 石田三成は少数の供回りとともに尼崎から大阪への街道を疾駆していた。朝鮮の陣の撤収が一段落つき、大阪に舞い戻ってくる途上であった。

 大老と奉行で明との和議に関する合意が九月四日には、徹兵に関する合意が十月十五日には形成できた。石田は十月下旬には浅野とともに博多に飛んだが、ここで覚悟はしていたものの、最悪の事態が生じた。

 秀吉の死が明側に漏洩したのだった。(おそらく平戸に起居していた宣教師か南蛮人経由であった。)朝鮮の諸将は中央の支持で和平を結ぶべく奔走していたが、明側はそれを保護にし、再び戦を開始した。

 結局、九州の島津家や立花家等の伝説的な奮戦ぶりによって日本軍はかろうじて撤退することができたが、博多に着いた諸将はほとんどみな精気を失い歩くのもやっとな状態だった。

 日本軍の先鋒大将を務めていた加藤主計頭清正も撤退の監督者の石田を見つけると、件の対立事項について二、三言文句を垂れたが、疲労がそれに勝っているのかその場でそれ以上は追及しなかった。

 殿軍の小西行長が無事撤退し、全軍帰国の目途がついたのを見届けると石田は急ぎ伏見に戻ることにした。撤退事業も多くの政治問題と並行して行われていたが、自身の大阪留守で政治的空白が生まれるのは避けたかった。特に彼の担当案件である小早川隆景の遺領相続問題は博多でも書状でやり取りしていたが、吉川広家の反発などもあり、解決していなかった。

「島左」

 石田は馬を飛ばしつつ、傍らの大柄な、浅黒い肌の武者に向かって呼びかけた。石田家家老である島左近清興であった。左近という通称はありふれているため、石田は平素、島のこと島左と略称で呼んでいた。

「伏見に戻ったら急ぎ諸々の政務にあたる故、そなたも心せよ。」

「承知いたした。」

 島は元々筒井家の前線指揮官であったが、洞ヶ峠に代表されるような筒井家の消極的な家風を嫌い、浪人していた。以降天涯無禄でいるつもりだったが、自家に兵馬に明るい大将が少ないことを案じた石田三成に懇願され、(そして島の方も石田の才幹かつわだかまりのない性格を気に入ったため)石田家の軍事顧問として召し抱えられることになった。

 しかし島には(今まで発揮する場が無かっただけで)政務の才もあった。他の石田家臣の多くがそうしていたように、主人の奉行としての仕事を助けることも多々あった。

 淀川に差し掛かったところで左折し、そのまま遡った。一行はその日のうちに伏見に着いた。十二月十二日のことであった。伏見の自邸に着くと八十島が「内々の儀である」と言い、耳打ちしてきた。

 内容は、最近、伏見の徳川屋敷からの使いが伊達屋敷、福島屋敷、蜂須賀屋敷を頻繁に訪れているとのことだった。その上、使いのみならず当主自らが行き来することもしばしばであり、昨夜などは伊達家の当主、越前守政宗自らが徳川屋敷を訪問したらしい。

 伏見の徳川屋敷は石田屋敷(伏見城に組み込まれる形となっているため治部少丸と呼ばれている)のほぼ隣に位置しているため、そして石田屋敷は徳川屋敷を若干見下ろす形となっていたため、往来の様子がよくわかるのだという。

「年を改め、諸侯は伏見から大阪に移ることとなっている。その挨拶ではないのか。」

 秀吉の遺言で、現在秀頼含め諸将の拠点は伏見になっているが、その拠点を慶長四年の一月に大阪に移すよう指示されていた。先の取り決めでその日付は十日とされていた。

 伊達、というのが腑に落ちなかった。伊達政宗豊臣秀吉の統一事業の末期にその軍門に下ったが、その後も大崎葛西の一揆に一枚噛むなど、豊臣政権にとっては警戒の対象となっていた。

(探るか。)

 石田は島に言った。

「島左、探れるか。」

 島は浪人時代の伝手で行商や遊女など種々の経歴の者と繋がりを持っており、石田家の家老となってからはそれらの人脈を諜報目当てで使っていた。

「やれぬことは無いと思いますが、徳川家においては服部半蔵正成由来の伊賀者が常に小物に紛れて屋敷の警備をしているため、いささか心許なく存じます。ここは一つ長束様にお頼みになった方がむしろ早いやもしれませぬ。」

 五奉行の一人である長束正家は近江水口十二万石の領主だが、領国に忍びの里で知られる甲賀を含んでいたため、配下に甲賀衆を多く抱えていた。それを借りればよいと島は言っている。

 その日は既に夕刻だったので、翌々日の二十七日(翌二十六日は高台院に、三女辰姫を養女として世話をしてもらう件について伺い事があった。)石田は伏見城北にある長束屋敷へと向かった。長束屋敷に着くと家宰の家所帯刀によって迎えられ、長束の元へ通された。

 石田は件の噂について長束に告げた。

「某も聞き申したが徳川殿からは何も知らされておりません。」

 長束は拠点移動を見越した挨拶だいう石田と同様の見解を持っていた。

 石田は長束に甲賀衆の件を切り出した。すると長束は途端に渋い顔をした。長束にとって徳川は縁戚に近く、長束は徳川家に忍びを使ったことが露見することこそを恐れた。

「謀反を疑っておられるのか。」

 長束は苦笑しながら尋ねた。

「それは万が一にもないと思うが、下らぬ噂が立つよりは、件の訪問のわけがわかった方が内府様のためにもなろう。」

 石田は言ったが、長束の態度からして協力してもらうのは難しいと思った。

 長束は奉行の中でも理財面の担当に特化しており、元来職人気質のようなところがあったため、五奉行でありながら政局に深く関わるのを嫌う面があった。

石田は長束にとって奉行における先輩格にあたり豊臣政権の初期において何かと面倒を見てやったことも多かったので、石田の頼みは快諾してくれることがほとんどであったが、今回は無理強いしないことに石田は決めた。

石田はそもそも自分と長束では置かれている立場が大きく違うことに気付いた。

石田は豊臣家の取次ぎとして、上杉家や毛利家、島津家など、徳川家と縁の薄い大名との外交を担当していた。石田は公的に徳川家の外交を担当することは無かったが、それは既に上杉など大大名の取次ぎをしている石田が徳川との外交をも担うとなると権力が集中しすぎることを秀吉が危惧したためでもあった。

また、秀吉は徳川家と婚姻関係を結びつつ警戒することも怠らなかったため、むしろ石田に徳川家を警戒する役割を望んでいた。石田自身そのことをわかっていたので、家康とは五大老五奉行制が組まれてからもつかず離れずの距離を保ってきた。(盾ついて対立するような愚は起こさなかった。)

今回の石田の行動の背景には以上のような事情もあった。それに比べて先述の通り長束は徳川家臣本多忠勝と縁戚であり、関りが深かった。石田は長束を頼るのをやめることにした。

 伝手はまだあった。石田は長束家の屋敷を後にすると今度は伏見城を下って西側にある上杉屋敷へと向かった。

 石田と上杉家との関わりは深い。豊臣家(当時は羽柴家)と上杉家は賤ケ岳の戦いの頃から緩やかな同盟関係を保っており、秀吉に恭順した時期も早かったため、諸大名の内でも親豊臣の大名として認識されていた。石田は早くからその取次ぎを任されており、半ば事務的なものを超えた信頼関係のようなものが生まれていた。

 秀吉薨去の際、上杉が国許にいたことは述べた。上杉は秀吉の訃報を聞くと翌四月の葬式のために上洛したが、石田は朝鮮の撤退事業に追われており、満足に挨拶を交わす暇もなかったのである。

 石田が上杉屋敷に向かったのは、上杉の諜報組織「軒猿」を使わせてもらうためだった。そもそも上杉家が会津に転封されたのも、伊達家と徳川家とを牽制するためであったため、今回の用件を上杉家に頼むのは妥当であった。

 それ以上に、石田には会っておきたい男がいた。

 上杉家の宰相直江兼続であった。

 大名との取次ぎといっても直接大名と交渉するのでは無く、大名側にも窓口があった。上杉家にとってそれは直江の役割であり、必然的に石田も直江と連絡を取り合うことが多かった。年も近い石田と直江に友誼のようなものが育まれるのは自然の流れであった。

 馬も合った。直江は了見が広く開放的な性格であったため、誰からも好感を持たれる性格であったが(上杉家臣団からは『旦那』と呼ばれていた。)何より頭の回転が速く、相手の話の要点を掴むのが上手かった点が石田の心を掴んだ。

「上杉家においては城州殿(直江兼続)に万事頼まれよ。」

と常々公言していた。最も、石田は一番信頼していた同僚である大谷吉継にだけは

「城州殿は勇気も才智も比類ないが、中央で政事を行ったことがないので、その点たまに見当を外す。」

 という愚痴を言っていたが(石田は大谷吉継にだけはこの種の愚痴を時たま言った。)、それも直江のことを高く評価し期待していることの裏返しでもあった。

 

 上杉家の門番は石田三成が供も連れず尋ねてきたことに驚いたようだったが、彼と直江の友誼は知っていたので、早急に取り次いだ。

而して石田は応接部屋に通された。

「やあ治部殿、息災か。」

「城州殿、暫く。」

「重畳重畳。博多の魚は美味かったかね。」

「味わっている暇など露ほども無かったさ。おまけに色々大時化ときた。もう博多には当分行きたくないね。」

「同じく。朝鮮にはもっと行きたくない。」

 石田は早速用件を持ち出した。直江はうなずきながら聞いていたが、やはり徳川と伊達に何らかの政治的繋がりができ始めている点が釈然としない様だった。

「諜報の件は承った。どちらも上杉家の仮想敵国ゆえ、ご尽力いたそう。」

 石田は頼もしく思いながらも、一種の危うさを感じた。中央官僚の石田、増田らは同様の場合でも「仮想敵国」とまで断ずる物言いは平素しないように心がけている。直江の剛毅さは一国の統率には優れていても中央の政局には枷となりかねないと石田は感じた。

「しかし今回の件は軒猿を使わない方が良い。」

 直江は、徳川家においては服部半蔵正成由来の伊賀者が常に小物に紛れて屋敷の警備をしているため、軒猿を送っても看破されかねないということを言った。

「ではどうする。」

伏見城下に顔見知りの遊女がいる。その者の兄が徳川屋敷の庭師だったはずだ。そいつに探らせる。」

濃州山中にて一戦に及び(1)

関ケ原の真実に関して小説形式でお送りします。

 

第一話です。文章書くの難しいですね、思ったより全然上手く書けませんでした。

話は秀吉が身罷るところからです。ポイントは石田と徳川の関係性ですね

↓以下本文です

 

 慶長三年八月十八日未明、時の天下人である太閤秀吉が伏見城の寝室にてこの世を去った。

 八月に直筆の遺言状を書き残して以来、人前で話すこともままならなくなった秀吉は、自らと諸人との面会を厳しく制限した。面会には側室や親族でさえも北政所及び奉行集の許可が必要としたほどであったため、十八日未明床の傍に侍っていたのも北政所と数名の近習のみであった。

 秀吉は十五日の夜からひどくうなされ、意識も失ったが、十七日には小康状態を保ち、かろうじてではあるが意思疎通もできる程度には回復していた。その日は水を所望し、医者により投薬された後、眠りについた。

 しかし十八日未明、秀吉の呼吸、胸の上下がないことに北政所が気づいた。(それまでも何度か無呼吸状態になってはいたが、その時は『遂に』といういわゆる虫の勘が働いた。)直ちに次の間で仮眠を取っていた医者が呼びだされた。医者は脈、呼吸、瞳孔ひとしきり確認した後、かぶりを振って死亡を告げた。

 北政所は夫の死を聞くや否や、屍に駆け寄り、その痩せこけた体に顔をうずめながら泣き叫んだ。そうしてしばらく偽りのない悲しみを表現し続けたが、聡明でよく気が付く彼女は侍女に、西の丸の詰所にいるであろう奉行衆を呼びに行かせることを忘れなかった。

 伏見の奉行衆の詰所には石田三成増田長盛が仮眠をとっていた。(石田、増田の屋敷どちらも伏見城内にあるのだが、西の丸の一角が奉行衆の詰所となっており、政務が立て込んでいるときはそこに寝泊まりすることもあった。)秀吉が危篤である旨を医者から知らされて以来、ずっとこの詰所に寝泊まりしており、奉行としての業務をこなすとともに、いつ「悪い報せ」が届いても対応できるようにしていた。

 二人は侍女から秀吉薨去との報せを受けると、同時に跳ね起きた。増田は直ちに部屋を出て大股で現場に向かおうとしたが、石田が立ちながら静かに合掌しているのを見て歩みを止め、自らもそれに倣った。増田は石田の妙にこなれている性分を若干苦々しく思ったが、そのような感情を長く留めるには事態が苛烈すぎたため(なにしろ王の死である)、次の瞬間にはやましい感情は拭い去られ、もとの公人としての増田長盛に戻った

 寝所には、顔を伏せる侍女たち、泣き崩れる北政所、そしてつい先ほどの瞬間まで日本国を統治する唯一の人間、であった亡骸がいた。石田と増田は座ってその亡骸に対して再び合掌した。

十分すぎる時間合掌した後、石田が北政所に他に「この不幸」を知らせた人物はいるかどうか尋ねた。北政所はかぶりを振ったが「奥方衆には知らせた方がよいでしょう。」と言った。

「多くの側女を抱えていた分、残されるもの、悲しむものも多いというのもなんだか可笑しい気がしてきましたわ。」

 北政所が冗談めかして言った。石田と増田は同調して笑ったが若干反応に窮した。もともと二人共そのような諧謔には反応が鈍い気質である上に、秀吉の死に際して処理しなければいけない膨大な量の施策が彼らに対していかなる冗談も通じなくさせていた。北政所も二人の態度からそれらを察したため、それ以上付き合わせることはしなかった。彼女は黙って亡骸の髀肉を撫でることを繰り返した。

 石田は傍にいた近習の一人に言った。

「前田、徳川の上屋敷に使いを頼む。大納言様(前田利家)と内府様(徳川家康)に出仕していただく。」

「毛利、宇喜多殿はお呼びしなくて良いのか。」

「今後の儀について数点あらためるだけだ。とりあえずは大老職の一、二たるお二人でよい。」

石田は答えた。程なくして同じく奉行の浅野長政前田玄以長束正家が着倒した。

 浅野長政は秀吉と義理の兄弟でもあったのでねね同様の悲しみをみせた。

 前田、長束も同様に言葉を失った様子を見せたが、十分な時間感傷に浸ると彼らは取るべき次の行動に移った。

 彼らはこれから、秀吉の死に付随する膨大な量の政治案件を裁かなければいけなかったのだった。

 

 

 伏見の徳川屋敷は伏見城西の丸から出てすぐのところにある

 即座に登城できる点では都合がいいが、関東二百五十万石を有する大名としては決して大きくない屋敷である。

 その屋敷の廊下を一人の老臣が小走りで渡っていた。彼は主人家康の寝所までくると襖ごしに告げた。

佐渡めにござりまする。」

 中から布団の帰る音と二、三の男女の会話が聞こえた後、「入れ」という腹の底に響くような太い声の返事が返ってきた。

「失礼仕る。」

 その老臣は慇懃に麩を開けると家康の寝所に入った。

老臣の名を本多佐渡守正信という。若いころから家康に仕え、信仰の理由で一時(彼は一向宗門徒であった)徳川家を出奔したが、帰参を許され、側近として仕えている。

 家康の寝所に帯刀を許されていることからも、家康の彼に対する信頼の厚さが伺える。家康は正信を謀略や外交の良き相談相手としていた。

 正信は徳川家を出奔していた一時期、梟雄として名高い松永久秀に仕えていたが、松永は正信を評して曰くこう言った。

「剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非情の器である。」

 彼は徳川の侍の多くが身に着けていた武勇を持ち合わせてはいなかったが、流浪の日々の中で揉まれて培った、人の心の機微を見抜く目と、それを言語化する弁舌の才能を持っていた。徳川家は武勇に秀でた家臣は多かったが、こういった謀将の類は少なかったため家康は大変重宝した。

寝所では主人、徳川家康とその側室、尾万の方が横並びに寝ており、その様子から二人とも今起きたばかりのようだった。正信は寝所に入ると今朝、石田三成より使いが来たことを述べ、使いの内容まで述べようとしたが、そうはせず、言葉を途切れさせると口を開けたまま間の悪いような表情をした。 

 お万の方は自分の存在がこの空間に望まれていないことを察すると、場を外す旨を告げ、部屋を後にした。

 徳川家康はお万が部屋を出る際、優しい言葉をかけることを忘れなかった。彼女を見送ると、彼は正信に向かい合い言った。

「報せとは殿下のことか。」

「いかにも。今朝未明に崩御されたとの由。石田殿の家来である八十島殿より報せがあり申した。しかるに前田大納言様と殿に登城頂き、奉行衆らと今後の施策について話し合われたいとのこと。」

「行こう。儂と前田殿のみとなると、五大老での合議は明日以降か。」

「恐らく。上杉様は国許に御座いますので、四大老での詮議となりましょうが。」

 家康は頷き、出仕しようと体を起こしかけて、やめた。正信が何か言おうとしたからである。正信は囁くように、あたかも「ここだけの話」であることがわかるように言った。

「信長公が本能寺で横死の折、黒田如水が太閤殿下に『御運が開けましたな』と申したようですが。」

 右の言葉は本能寺の変の報に接したとき、秀吉の参謀であった黒田如水(当時は官兵衛)が秀吉に対して言ったものである。つまり信長を討った明智を討つことで織田の一部将という今までの立場を超え、天下人になる可能性が開けるではないかという意のことだが、正信が言いたいことは、まさに秀吉が死んだ今は徳川家にとって同じような状況であるということであった。家康は苦笑した。

「ことはそう単純じゃないさ。」

 家康のこの言葉には深い意味があった。

 確かに徳川家は日ノ本最大の二五〇万石を有しており、大名の中でも軍事力は突出しているが、秀吉が後事を託した五大老には百五十万石の毛利氏を筆頭に上杉、前田、宇喜多といった大大名達が名を連ねており、徳川のみでそれら全てを敵に回すのは危険行為であろう。

 しかし同時に、家康は徳川家の置かれている政治的状況が決して安全ではないことも承知していた。鎌倉幕府が有力御家人を次々と討伐したように、室町幕府守護大名をいくつも潰したように、そしてなにより数多の戦国大名が執政を粛清してきたように、有力大名である徳川家も(家康の代ではないにせよ将来的に)粛清される可能性は十分あった。

 要は他の大名達を敵に回す危険を冒してでも天下を窺ったほうが良いのか、将来的に粛清される危険を残してでも協調に走るべきなのか。慎重な性格の家康は選択肢を前に決めかねていた。

 ともあれ、当面は登城して太閤の亡骸を拝むとともに奉行の石田らと打ち合わせをしなければならず、(そして数多の戦線を共にし、また時に対立もした太閤の死に対し寂寥の念があったのも事実だったので)彼はできるだけ早く出立の支度をすることにした。

「念には念をと申します。兵部殿(井伊直政)を連れていかれるが好いかと。」

「そうする。」

 秀吉の死の混乱に乗じた変事を正信は案じた。普段登城の際の家康の護衛は本多忠勝が担うが、登城の事情の繊細さを鑑みて井伊直政を推した。井伊は猛将の誉れ高い反面、取次ぎとして外交を担う政治力も持ち合わせている器用な武将であった。彼ならばどんな事態にも対処できるであろう。家康は小姓に井伊を呼ぶように申し付けると自らも支度をするべく部屋を出た。

 

 石田と増田は主の死の感傷に浸る間もなく、周囲に指示を飛ばし続けていた。伏見にいる有力大名には秀吉の死をまず報せなければならず、(時には外戚を含めた)親族衆を亡骸に面会させる必要があった。また、できるだけ早急に、朝鮮に出兵している諸将を撤収させる手はず、算段を整える必要があった。

 石田はその膨大な処理量にしばしば手を止めそうになったが、史僚として今まで様々な修羅場をくぐりぬけてきたという自負が彼を支えた。程なくして徳川家康前田利家が(それぞれ供を伴って)到着した。既に増田の案内で二人とも秀吉との対面は済ませたらしかった。

「最後に会った時、どえらく痩せてたで、これ以上痩せんと思っとったが。」

 前田利家尾張訛りで言った。秀吉の亡骸の小ささに驚いたようだった。

 石田は緊急の登城について感謝の辞を述べた後、改めて秀吉が卒したこと、朝鮮の陣への影響を鑑みて死はしばらく伏せること、今後の大老の仕事について重要なものを確認した。(特に家康と利家の二人は執政と秀頼の傅役というそれぞれ特別な役割をふられていた。)

「ともあれ緊急すべきは朝鮮の陣払いでござろう。」

 家康の言葉に石田が頷いた。

「如何にも。それは早急に対処しなければならない故、会津におわす上杉様を除く四大老五奉行全員を招集し、明との和議、そして撤兵の合意を取ります。合意が取れ次第、某と浅野殿で博多に急行し徹兵の手はずを整えます。」

「朝鮮との和議はどうするのだ。」

「明が和議を容れれば朝鮮独力で戦を継続はしないでしょう。さしあたり明との単独講和を目指します。」

「成る程、それと博多に赴いて撤退を監督するのは奉行のみでは心許ないのではないか。仮の統率者として儂が赴こうか。」

 家康の言葉を石田が制した。

「伏見では太閤殿下が床に臥せるようになられて以来、やれ乱だの誰々が謀反だのという雑言が絶えません。徳川殿が伏見を離れられてはそれこそ無用の騒ぎを起こす輩が出てくるやもしれませぬ。」

 家康は石田の言に従うことにした。石田はその他、五大老で合意するべきいくつかの細かい政治案件についてよどみなく確認をした。家康と利家はただただ頷くのみであった。細かい施政に関しては石田ら奉行衆に任せた方がよく、口を出す気にはなれなかった。

 要は五大老とは存在そのものが役割なのであり、秀吉が死んだ今、奉行衆らの施策に対して大大名五人がこれを承認しているという謂わば「箔」が重要なのであった。その構造を石田は初めから理解していたし、前田利家も、家康もよく承知していた。

 確認すべき点は全て網羅したので、家康と利家はひとまず屋敷へ戻ることにした。帰り際、家康は石田を呼び止め言った。

「治部殿、諸事何かと取りまとめ大儀にござる。」

「いえ。」

 石田は物慣れた笑みをもって対した。毛利、上杉など多くの大名の取次ぎを担ってきた彼は、大大名と相対するときの所作、振る舞いをよく心得ている。

「徳川様こそ、実質的な宰相としてのお勤めをしていかねばならぬこと、ご苦労存じ上げる。なにせ関東二五〇万石を統べながら豊臣公儀としての任もこなさなければならないのですから。」

 家康は目を他人には気づかれない程度に細めた(本多正信の洞察力ならば気づいたであろう。)

五大老はそれぞれが広大な領地を抱える大大名であり、地方大名としての性格も有していた。その中で豊臣家(主家とはいえ別の家)の公儀として政策を執行しなければいけない立場にあり、かなりのバランス感覚を必要とするものであった。

 つまり五大老とて時には自家の都合を優先させなければならず、どこまで公平性を保てるかは疑問であった。石田はその点に気付いている。しかし家康は以上の思考を悟られまいとした。

「領地には愚息をやるつもりです。大納言様をはじめ方々と合力して大老の職にあたるつもりでござる。」

「愚息などと申されないでください。殿下も生前、権中納言(秀忠)様におかれましては頼りにしておられました。なにせ秀頼公の御義兄におなり遊ばすのですから。」

「恐縮の限りです。」

 家康は流麗な石田の言にやや押され気味になった。この男が豊臣政権で権力の座に上り詰めたわけが分かった気がした。家康は話題を変えた。

「博多へは浅野殿と行かれるのか。」

「はい。そのつもりです。」

 家康は間をおいて言った。

「そうか。いや、儂はそなたと弾正殿(浅野長政)や主計殿(加藤清正)との対立を憂いておるのだ。」

 石田の顔が曇った。

(ほう)

 家康は意外に思った。石田の器量ならばにべもなく受け流すと想定していたからである。

 いや、にべもなく受け流せない程には石田三成浅野長政の対立は根深く、複雑だった。

 二人はどちらも豊臣政権下で抜擢された史僚であった。二人とも多くの大名の取次ぎを担ってきたため諸大名に対しての影響力もかなり大きかったが、浅野は東国の取次ぎ、石田は西国の取次ぎを任されることが多く、二人とも力を蓄える過程で(そして二人とも否応なく人にへりくだるほど慎み深くもなかったので)張り合いのような気持ちが育まれた。

 また、浅野は秀吉の甥の関白豊臣秀次が失脚し切腹に追い込まれた事件に連座し、一時謹慎させられたことがあった。それから浅野が復帰するまでの間、奉行衆は石田以下四人体制で回していたのだが、そうすると自然と奉行は石田が仕切るようになっていった。

 浅野の謹慎が解けてからは元の通り、年齢と秀吉の縁戚である地位もあって浅野が奉行の筆頭となったのだが、石田としては決して公言こそしないがそれが面白くはなかった。

 それでも二人とも奉行衆の柱石であるし、豊臣家を背負っているその立場をよくわかっていたので表面上の友好を保っていた。

 しかし一度だけ互いへの憎悪が剥き出しになった場面があった。慶長の役について、毛利家と渡航に関して打ち合わせの使者が来ており、毛利家との取次ぎを担っていた石田は対応していた。

 その時、毛利の使者から「朝鮮を平定した暁には知行を貰えるのか」問われたが、朝鮮出兵には以前から反対の立場であった石田は言った。

「朝鮮の情勢は険しく、朝鮮に土地を封ぜられることはありえないだろう。うつけ共が色々申しておるが気にしないでほしい。」

 この「うつけ共」とは浅野を指していた。というのも、浅野自身出兵している取次ぎ先の大名や加藤清正、息子浅野幸長らをなだめるのに必死で出兵に引き換えの恩賞を約束はしないにしても、ちらつかせていたからである。

 石田の発言は浅野の耳に入り、当然浅野は激怒した。直接石田に詰め寄ったり、報復したりということは無かったが、二人の不仲は城中で公然と噂された。

 浅野が秀吉の縁戚であることは先に述べた。尾州出身であり、縁戚のつてで登用されたあたり、加藤清正福島正則ら秀吉子飼いの武将と類似している。加藤は朝鮮の陣での奉行の裁定に関して不満を持っており、小西行長、福原長尭ら石田三成と懇意にしている武将たちと対立していた。浅野と同郷であることもあり、緩やかな反石田の同盟を形成していた。

「お気遣い、感謝いたす。されど弾正殿も主計殿も『無用の戦』にて思う仔細もございましょう。今後は力を携え、秀頼公をお守りする所存にて。」

 家康は笑った。仮にも主秀吉が取り決めた朝鮮への出兵を『無用の戦』とは手厳しい。

 しかし石田は秀吉の生前から朝鮮の戦には公然と反対していた。

「六州で十分に兵馬を養えるのになぜ異国を切り取る必要があるのか。」

 としきりに言っており、秀吉にも諫言していたが容れられなかった。

 石田は普段は柔和だが、悪政に関しては毅然とした態度をとることで知られていた。朝鮮の儀でも強硬に反対したため半ば政治的に孤立しかけたが、秀吉は浅野や増田にはないその骨のある性格を買い、奉行として用い続けた。

「ともあれ、返事あれば何なりと申されよ。お助けいたそう。茶阿の縁の分はな。(石田家と徳川家は遠い縁戚関係にある。)」

 石田は本丸を後にする家康を見送った。

(信用能うか。)

 石田は考えていた。秀吉の義弟にあたり、関東二五〇万石を有する奉行筆頭の家康は、秀吉の生前はかなり献身的に政権を支え続けてきたが、秀吉が死んだ今どこまで政治的公正さを保つか疑問だった。

 しかし彼が太閤の遺言によって秀頼の成人までの執政を任されているのは事実であり、今後年寄としては彼と協力していくしかないと石田は思った。徳川家を粛清するのは少なくとも家康が荼毘に付された後であろう。