濃州山中にて一戦に及び(8)
こんばんは
関ケ原シリーズも早くも8話目ですね。
今回は重要な局面だけに自分の文章力のなさが浮き彫りになってしまった感じです。
ネガティブなことばかり言っても仕方ないのでこのシリーズはちゃんと完結させたいと思ってます。。。
いつかちゃんと細部まで点検してリメイクしたいです!
以下本文です。
家康が伏見での騒動を知ったのは石田三成の護送を務めた佐竹義宣の訪問によってであった。佐竹は伏見城まで石田を送り届けると、今回の騒動の調停を願い出るために家康が居住している向島へと急行した。
この義理固い男は、石田が豊臣政権下において佐竹家に世話を焼いてくれた恩を、身命を賭して返すつもりでいた。徳川家とはそれ程付き合いはなく、むしろ領土問題によって多少の緊張関係にあったが、彼は石田のために迷わず、家康に調停を願い出たのだった。
「水戸侍従殿。要旨は分かりました。私は大老筆頭として、大名たちの私闘を取り締まる義務がありますし、伏見の統治者としても、今回の騒動を看過することはできません。今すぐにでも手を打ちましょう。」
家康はあくまで公正で中立な立場として今回の騒動を収束させるつもりであった。
襲撃側に池田輝政、福島正則ら徳川家の縁戚大名が多くいたことに衝撃を受けたが、ここで襲撃者側の肩を持っては、政治問題への武力解決を豊臣公儀として認めることになる。
「ありがたし。何卒、穏便に事が済むようお願い致す。」
佐竹義宣は家康が公正な仲裁者としての立場を表明したことに満足した。深々と頭を下げると、徳川屋敷を後にした。
家康にとって問題は、大坂から伏見へと三成を追ってきた七将が相当な興奮状態にあることだった。
佐竹義宣が徳川屋敷を後にするのと入れ替わりで、細川忠興ら七将から連盟で家康宛の書状が送られてきたが、そこには明確に石田三成への弾劾が記されており、主に二つの要求が書かれていた。それは「朝鮮の陣での蔚山倭城の裁定の取り消し」「石田三成および福原長尭の切腹」であった。
「切腹とはまた手厳しい。」
本多正信は失笑したが、家康は笑えるような事態には思えなかった。彼らは現在、治部少丸を包囲し、突入の時を今や遅しと待っている。家康が彼らの条件を許諾するまでおそらく兵を退かないつもりであろう。そうなればまた諸侯が石田派と弾劾諸将派に分かれ、前回の縁組騒動の二の舞になりかねない。
「とりあえず、七将への返書をしたためる。井伊兵部をここに。」
家康は七将への返書を認め、腹心の井伊直政に持たせ、宇治川の対岸で陣を張る七将の元に遣った。
伏見の治部少丸では、攻囲する弾劾諸将の軍勢と、石田三成麾下の手勢とが指呼の間で睨みあっていた。
特に、夜が明けてからは引っ切り無しに言葉合戦が行われていた。今回の軍事行動には政治的意味合いが多分に含まれていたがために、双方自分らの正当性を主張するのに躍起だった。
石田家の侍大将、舞兵庫は主人石田三成がいかに清廉で公正に奉行の職にあたってきたかを知っていたので、弾劾派の熾烈な雑言にもひるまず反論した。
「汝らは、豊家が天下を収めて以来。此の方(石田三成)が如何に滅私奉公してきたかを知らぬか。星を被き、月を戴くとは此のこと。その様を知っての狼藉か。」
言い終わるや否や、手元に抱えた八〇匁はあろうかという大鉄砲を放った。大鉄砲は轟と火を噴き、寄せ手の木盾を吹き飛ばした。
そのようなやり取りを繰り返しているうちに、家康の使者である井伊兵部少輔直政が、弾劾諸将らが本陣としていた伏見の細川上屋敷に到着した。
細川以下七将は家康からの書状を食い入るように見ていた。書状には七将が手紙をよこしたことへの礼が書かれており、仔細は井伊直政に聞くようにと述べられていた。
「して、内府殿は我らの要求には何と。」
「蔚山倭城の裁定について見直すことにつきましては、加賀大納言様御存命の折から大老間で議題にあがっており申した。図ってみる故、沙汰を待つようにとのことです。」
「石田と福原の切腹については。」
「両名の処分の儀つきましても只今思案中ゆえ、追って沙汰するとのことですが、我が主は、切腹は重過ぎるとの見解を持っています。」
この井伊直政の発言に対し、弾劾諸将でも反応が割れた。主犯格の細川忠興、加藤清正の二人はその短気さも相まって激昂した。
「我らの要求はあくまで石田らの切腹。この機に石田を葬らねば、奴は必ずや復権を企てよう。」
床几に両手を叩きつけたのは加藤清正であった。
「もし我らの要求が容れられぬのであれば、その時は内府殿と一戦交える覚悟ぞ。」
「その言葉、そのまま我が主にお伝えするがよろしいか。」
井伊直政が凄んだ。平時こそ有能な政務官、外交官として振舞っているものの、この男の根底にあるものは赤備え三千余騎を従える武人であった。加藤の言に対しへりくだる気は毛頭ない。
結局その場は徳川家の縁家である福島、蜂須賀らが収め、事なきを得た。(彼らとしては徳川家と極力諍いを起こしたくなかったのである。)しかし、井伊直政は細川、加藤らの激昂ぶりをそのまま家康に報告してしまった。
家康は内心不愉快であった。が、それよりも事態が収拾しないことへの心配が勝った。
先にも述べたが、此度の騒動で石田三成を切腹、という裁定を下せば、武力による弾劾を公儀として認めた状態となり、現行の秩序は大きく乱される。執政者として家康はその判決を下すわけにはいかなかった。
しかし弾劾諸将は伏見と大坂に残留した者を含めて十名おり、徳川家の縁家も数多く含まれているが故に、その対応は難しいところであった。
謀臣、本多正信は言った。今回の事件には加藤清正、福島正則ら豊臣家子飼いの武将が多く、彼らは多かれ少なかれ高台院、寧々から恩を受けている。加藤、福島などは少年期、高台院に育てられたも同然であり、母のように慕っている。
「それは良いな。」
高台院預かりの裁定とすることで、彼らと徳川家との無用の衝突も防ぐことができるであろう。
「佐渡。大坂の高台院様のもとにすぐに使いをやってくれるか。処分の内容はこちらで決定する故、仲裁にたってくれる様、お頼み申すのだ。」
「承知しました。すぐさま嫡子の本多正純を大坂に遣りましょう。」
細川忠興、加藤清正らが奉行の石田三成を弾劾、その屋敷を襲撃したことは大坂でも大きな騒ぎとなっていた。
細川らが石田屋敷を襲撃すると同時に、池田輝政、脇坂安治、加藤嘉明ら三人の将が片桐助作と謀り、大坂城を占拠したことは前に述べた。その計画は巧妙かつ迅速に行われたため、奉行方も成す術がなかったのだが、この一連の騒動に対し強い警戒心を持った毛利家が国許から兵を急募し、尼崎に陣を敷く事態となっていたのだった。
毛利家は秀吉が羽柴姓の時分から縁があり、豊臣政権にも早くから恭順の姿勢をとるなど、外様大名の中では親豊臣系の大名として知られていた。中でも秀吉は、毛利一族でもあり、大きな勢力を持つ小早川家に、自身の縁者である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子として送り込むなど重用していた。
そのような歴史もあり、秀吉の死後、八月十八日に石田三成ら四奉行は毛利家と「豊家に仇成すものがあれば連衡してこれを排斥する。」という旨の誓紙を特別に交わしている。これは毛利家の信頼と、百二十万石の実績を買ってのことだが(徳川家康の専横への警戒の意味もあった。)、いずれにしても今回の尼崎への出兵にはこのように、毛利家が昔から豊臣との繋がりが深いという背景があった。
毛利輝元は国許から急行させた六千の兵をもって尼崎に陣を敷くと、取り急ぎ軍議を行った。大坂の状況は家臣、内藤隆春(齢七十に近い老齢であったが物に聡く、慧眼であったため、引き続き重用していた。)から逐一報告されていた。
「池田武州以下三千余りの兵が大坂城に拠っており、立ち入れないようですな。」
当主輝元の叔父、毛利元康が言った。安芸毛利家中興の祖である毛利元就は多くの子を残した。元康は齢七十を過ぎてから産ませている。
「池田輝政は家康の婿だが、此度の騒動は家康の指図に因るものなのか。」
「その可能性はあるでしょう。内藤の報告にも以前、『奉行衆と内府、些か不和』と書かれており申した。」
輝元と元康の会話を制したのは若くして家老職に準じている吉川広家であった。
「お待ちあれ、奉行衆と内府が不和であるという噂は太閤殿下が身罷られた去年八月の時点のものに御座ろう。太閤様の死後、内府様は一貫して豊家への忠義をもってご精勤なされておる。あまり食って掛かるのはよろしからず。」
「伊達や福島らと勝手に婚姻するのが忠義かね。」
毛利元康は冷笑した。吉川広家は反論しようとしたが、輝元は「もうよい」と制した。
(小早川の叔父上が往生して以来、万事この具合よ。)
輝元は心の中で嘆いた。豊臣政権下において、毛利家を導き、全てを取り仕切っていたのは叔父、小早川隆景であった。彼は抜群の思慮深さと多大な仁愛をもって国を治め、また早期から豊臣家と毛利家の架け橋ともなった。そのため毛利家は家中に混乱もなく、豊臣家との仲も良好だった。
しかし小早川隆景が卒して以来、家中は不協和音を奏で続けている。
その原因の一つは小早川家の遺領問題にあった。
輝元の叔父、小早川隆景は毛利家の宰相でありながら、伊予の一部や備後の三原などに領地を与えられ、半ば独立した大名として扱われていた。しかし慶長二年、丁度秀吉より一年ほど前に死去した。秀吉は小早川隆景の遺領を吉川広家に継がせ、広家の現在の封土には毛利秀元を入れるという遺領分配案を突き付けた。
秀吉の死後、石田三成はこの案をもって遂行しようとしたのだが、まとまらない毛利家は輝元、秀元、広家が三者三様に反対したため、問題はこじれにこじれていた。
そのようなこともあり、毛利家は三本の矢に代表されるような往時の結束を失っている。
「そもそも此度の騒動のは、諸将が石田の今専横を弾劾せんとするものだと聞き申した。諸将の言い分は至極尤もなことであり、石田に助力する必要はありもうさん。」
吉川広家は言った。この男は隆景の遺領問題の件でかなり石田へ鬱憤が溜まっており、むしろ弾劾一派と心を同じくしたい位の感情を持ち合わせていた。この男としては、毛利家の豊臣家に必要以上に媚びへつらうスタンスが以前から気に喰わない。(彼の父、吉川元春は大の秀吉嫌いであり、その生い立ちも理由の一つである。)
「我らは太閤殿下が身罷られた直後、石田殿らと誓紙を交わした義理もある。ここはやはり、大坂を抜いて伏見へ上り、石田殿らをお救いするのが筋であろう。」
と言ったのは輝元の養子で遺領問題にも関わる毛利秀元であった。それに吉川広家が返す。
「しかし大坂城は池田らの兵で満ちており、立ち入れません。」
吉川が若くして重用されているのはその軍事的見識の高さにあった。彼の用兵術は現在の毛利家中でも随一であり、朝鮮でも毛利家を幾度となく救った。
「大坂城には三千の兵が詰めておると聞く。あの城を落とすには十倍の兵が要るわ。我が方は六千しかおらぬ。兵が足りぬ。」
「まあよい吉川侍従。」
輝元が手で制した。
「もとより弓箭にて解決するつもりはない。
瑶甫殿が大谷刑部らと石田殿を外交にてお助けする手立てを探っておる。」
瑶甫、とは毛利家の外交顧問、安国寺恵瓊の字である。輝元はこの外交を担う禅僧を「猊下、猊下」と呼び慕い、半ば父の様に敬愛していた。
しかし吉川にとって当主輝元の寵愛を受けるこの禅僧は政争における敵であり、また、安国寺恵瓊の方もこの一本気すぎる吉川広家の気質を好まなかったことから、両者は激しく反目していた。
広家は、恵瓊の名が出たことに気を悪くした。しかし、今のままでは大坂に押し入れないのも確かであり、恵瓊の外交手腕に頼る以外に方法がないのも確かだったので、以降は口を一文字に結んで押し黙った。
大谷吉継は不自由な体に鞭打って大坂を駆け回っている。というのも、前述したように、石田三成を救済するための交渉の糸口を探るためであり、また毛利家の出兵によって逆に複雑化した事態を収束させるためでもあった。
徳川家康が今朝、伏見から大坂の高台院のもとに飛脚を出し、事態の仲裁を頼んだ。弾劾諸将も高台院の調停を拒むわけにはいかないであろうから、調停自体は成るであろう。
大谷吉継の考えは、これを機に家康と輝元を引き合わせて同盟させ、大老の勢力を盤石にすることで、乱れつつある秩序を再構築しようというものであった。
彼は今、毛利屋敷で安国寺恵瓊と会談している。
安国寺恵瓊とは毛利家の外交を司る禅僧だが、毛利家から多くの封土を貰っている上に、高僧として全国から多額の寄進も受けていたために、大名並みの経済力を有していた。
毛利家は本能寺の変でかの織田信長が横死した際、明智光秀を討ちに京へ戻りたい秀吉と瞬時に和議を結んだが、その和議を主導しまとめたのがこの恵瓊であった。秀吉の躍進を見込んでの行為であったが、秀吉はこれを恩に着、毛利家を彼の政権下において厚遇した。
それ以降も恵瓊は外交僧として小早川隆景らと共に豊臣家と毛利家を繋ぐ役割を担い続けた。
要は今日の毛利家が豊臣政権下において重用されているのはこの恵瓊のおかげと言っても過言ではなく、当主輝元は恵瓊を父の様に慕っていた。
大谷はその恵瓊に言った。
「毛利殿が石田殿を救わんと出兵成されたこと、石田殿に代わり御礼申す。」
「いえ、去年取り交わした誓紙の約定を守ったまでのことです。」
そう言うと恵瓊は目の前の茶を一気に飲み干した。
大谷は頭巾の中から、恵瓊の顔をじっと見据えた。
眉は太く、丸々としており、目は小さい。黒々としたその目が絶えずきょろきょろと左右に動いている。
大谷は豊臣政権下で何度か恵瓊と顔を合わせているのでその遇し方をよく理解していた。大谷から見て、安国寺恵瓊という僧は、物事の建前と本音を見抜く慧眼を有しているが、己を頼みにする自尊心が過大であるために、意見や弁舌にどうしても自意識のバイアスがかかる人物であった。
彼にはあえて忌憚のない意見を述べると同時に、半ば泣きつくことで自尊心を満たしてあげた方が良い。
大谷は言った。
「安芸中納言様に伏見へお越しいただくわけには参りませぬか。内府様と面会して頂きたいのです。」
「急ですな。」
「実は徳川殿が今朝、高台院様に矢留の斡旋を頼み申した。高台院様の力あれば和睦自体は成るでしょう。肝心なのはその後です。安芸中納言様に内府様と面会し、同盟の誓紙を交わしていただくことで政権の威光を盤石にし、秩序を再構築して頂きたいのです。」
恵瓊は大谷の言に即座に返答することはできなかった。伏見に行くということはある意味家康の格下に準ずるということでもある。
「加賀大納言様が亡くなられた今、内府様と安芸中納言様が同盟することは天下のためにも必要なのです。万事は加減が肝要なのです。何卒。」
大谷の嘆願に恵瓊は頷かざるを得なかった。
「承知しました。輝元は私が説得いたしましょう。」
「ありがたい。」
大谷はほっと息をついた。
高台院の名のもと和睦を成し、徳川毛利の名のもとに天下を治めれば今回の騒ぎは完全に収束するであろう。
(後は石田殿の処遇だが)
伏見城の増田長盛からの知らせによると、どうも今回の騒動は石田が政界から身を退かねば収まらなさそうとのことであった。
(惜しいな。あれ程の才人を。)
大武勲者、前田利家についで天下の大番頭、石田三成も失うとあっては、豊臣政権は早くも座礁したと言っても過言ではない。
(この身も忙しくなるやもしれぬ。)
石田の穴を埋める人材として、自分が再び奉行として働かねばいけない可能性を考えた時、彼は自由にならない病身を嘆いた。
閏三月九日、細川以下十将が石田屋敷を襲撃してから五日の後、秀吉の正妻、高台院と大老筆頭徳川家康の連署により、石田三成方と弾劾諸将派への仲裁が行われた。
和議の条件は以下の様であった。
一、黒田長政、蜂須賀家政両名に対する蔚山の戦いにおける裁定を取り消すこと
一、弾劾諸将は裁定に納得し、速やかに兵を退くこと
細川忠興、加藤清正の両名はなおも食い下がり、石田の切腹を家康に直談判したが、家康は「そなたらはこの家康をも討とうと企んだ無用の者である。」と怒り、取り合わなかった。清正らもそれ以上は抗議の仕様がなく、仲裁を受け入れた。
石田三成の佐和山への護送は徳川家康次男、結城秀康の監督のもと行われたが、そのすぐ後ろを加藤清正、黒田長政の軍勢が後をつけていった。家康の気が変わったならばすぐにでも石田を殺す腹であったが、家康の裁定が揺るぐことは無かった。