黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(13)

こんばんは!

えー、いよいよ物語も佳境です。

今回は短めですが、大谷が佐和山を訪問する回です。司馬遼太郎好きにはわかる方が多いのではないでしょうか。

 

次回をとりあえずの最終回にしようと思います(第一部完的なノリです。次いつ再開できるかわからないので)

 

以下本文です

 

 家康は大坂城の広間に諸将を集めると、上杉家の叛意がまぎれもないことを直江状と共に解説し、討伐することを告げた。

 家康は当初、穏やかに、かつ理知的に討伐に至った経緯について説明していたが、途中から段々と檄した口調になり、最後の方はほぼ怒鳴りつけるような口調で「賊徒を討つ。」と宣言した。

 諸将はこのように檄した家康を目の当たりにしたことがなかったのではじめ面食らっていたが、武闘派の福島正則池田輝政といった面々はそれに共鳴したのか雄叫びをもってそれに応えた。諸将もそれに釣られるように次々と声を上げた。

 それを見た本多正信はほくそ笑んだ。彼は、主家康には二つの顔があるのを知っている。一つは理知的で穏やかな政治家としての面、二つ目は野性的で獰猛な軍人としての面であった。

 むしろ後者が家康の本性に近いのかもしれない。

彼は幼少時代の多くを他家の人質として過ごした過去があった。当時は徳川ではなく、松平姓を名乗っていたが、その松平家の勢力が薄弱であったために近隣の大国に従属せざるを得ず、駿河の今川家の人質として長くを過ごした。彼が家督を継いでから松平家は独立し織田家と同盟したが、その織田家からも家臣同然の扱いを受けるなど、幼少期同様他家から抑圧されることが多かった。

彼にとって戦は唯一、抑圧から解放される場所だった。戦をしている時だけは複雑な他家との関係、外交、謀略といった、考えるだけで反吐がでそうな類のものから解き放たれる。家康は合戦時、おのれの獣性を存分に発揮し、その激しい戦いぶりから大名の中でも屈指の戦上手だった。

本多正信ら徳川家の家臣らは、家康の戦時に見せる激しい気性を知っていたが、他家の人々にはそれが新鮮に見えたのであろう。しかし寧ろ、家康が見せた熱量は諸将の共鳴を呼び。信頼を勝ち取っているように見えた。

正信は「家康が戦に負けることはない。」と感じ、安堵した。

 家康の吠えるような上杉討伐宣言の後、その熱量のまま軍議が行われたが、作戦らしき作戦はほぼ何も詰められなかった。諸将が口々に自らの武威を喧伝する場と化したが、家康はそれで満足していた。この場で詳細な作戦を決めても意味がなく、ただ諸将の士気を上げられさえすればよかった。

 結局、関東方面から家康本軍が、奥州から伊達政宗が、北陸から前田利長が攻め込むことと、先方を福島正則細川忠興とすること、諸将はできるだけ早く兵馬を整えて江戸に参陣することのみが決まり、軍議は終了した。

 

 上杉討伐が決定してからの家康の行動は迅速そのものであった。六月六日の軍議から九日後の十五日に秀頼に出陣のあいさつに伺候すると、翌十六日に大坂を発ち、翌七月一日には江戸入りし、軍容を整えている。

 諸将は各自、国許で陣容を整え、家康を追うようにして江戸に向かうこととなった。

 敦賀の大名、大谷吉継もその一人である。病をおしての参陣であり、例のごとく輿に乗って行軍していた。

彼は二千の兵を率いて敦賀から北国街道を南下している。途中、石田三成の領国である近江佐和山を通る。

 大谷は佐和山城へ寄るつもりでいた。表向きは石田三成の嫡男、重家を自軍に合流して江戸まで同伴することを願い出るためであったが、本音としては去年の政変(石田三成襲撃事件)以来顔を合わせていない石田に出陣のあいさつをしておきたかった。

「石田殿は謹慎の身。私的に会うことは控えられては。」

 大谷家重臣湯浅五助は大谷を諫めた。

「倅殿を連れてゆくという名分がある。それに東国へ向かう前に友の顔を一度見ておきたい。」

 湯浅は意外に感じた。大谷と石田は、秀吉生前、政務においては無類の意気投合さを見せたが、友人というよりは信頼しあっている同僚という関係性だと思っていた。

 実際、大谷も石田もお互いに「友」という表現を使ったことはなかった。それを今になって「友」と呼んだことに湯浅は驚いたのである。さらに言うと、当時、衆道を除けば、男同士の友情という概念は薄く、「友」という言葉を使うことも一般的に稀であった。

「石田殿はやはり信のおける方だったのですか。」

「『友』という言を使ったことに関してかね。」

 大谷は湯浅の心を読むと先回りしていった。

「深く考えずとも口から出てきた。儂自身、やや驚いている。が、やはり儂の半生はあの男なしには語れないのは確かだ。」

 大谷の史僚としての人生が当時堺奉行であった石田の副官であったことは前に述べた。それ以降、二人のキャリアは常に共にあり、お互いの政務に対する思考法などもよくわかっていたし、同僚として最も信頼していた。

 大谷は昨今の政局で徳川が台頭するにあたり奉行として再び抜擢されたが、政治の表舞台で腕を振るうにおいて、やはり石田ほど馬の合う存在はいないと思わざるを得なかった。そのような事情が先ほどの「友」という発言をさせたのだろう。

 とまで、大谷は自己分析できてはいなかったが、純粋に久方ぶりに石田に会っておきたかった。彼は佐和山を訪問した。

 

 佐和山城は元来、北近江の土豪浅井家の所有する山城であった。織田家が浅井家を滅ぼすに至って、織田家重臣丹羽長秀の居城となり、以降何度か城主を変え、石田の居城となった。石田が何度も改築を繰り返したこの城は恐ろしく質素で機能的な造りをしている。

 門や櫓にも防戦に不要な装飾品の類は一切なく、防戦しやすいとの理由で大手の道も恐ろしく細く、簡素である。本丸の居間なども飾り気のない板張りで、壁は漆喰の塗っていない荒壁のままであった。

 大谷が通された石田の居室も、そうとしらねば平民の民家と見紛うばかりの質素さである。

 石田は書状を書いている。大谷が来訪しても止めない。

「誰への書状かね。」

 大谷は挨拶を略し、言った。石田はそれに妙な答えをした。

「大谷殿である。」

「はて、送り主はここにおるが。」

「出そうと思っていた書状である。そなたの訪問を知らなんだ故な。今、書き終える。」

「存じておるように、儂は病で目が見えぬ。読み上げてくれるか。」

 石田は書状を書き終えるとそれを読み上げた。大谷は座して黙ってそれを聞いた。

 簡潔に言うと、石田は徳川を弾劾するべく挙兵するつもりであり、大谷に同心を依頼する書状であった。