黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(21)【第二部】

こんばんは。

大谷が松尾山の麓に到着しました。いよいよ本戦の足音が、、、

本戦まであと3、4話ですかね、、、

 

 

 大谷吉継率いる越前方面軍が美濃山中村に到着し、布陣したのは九月二日のことだった。

 彼らは越前において北陸諸侯の調略、および徳川方に着いた加賀前田利長軍の足止めをするため、流言工作などをしていた。彼らの工作が功を奏し、前田軍はこの戦の最中北陸を離れることができないで終わった。

 彼らが布陣した山中村は大垣城から南宮山を挟んでやや西に位置し、伊吹山、南宮山、松尾山、および天満山に囲われた盆地のはずれに位置する村であった。

 そこら一帯の盆地は、当時の呼称では「青野ヶ原」、後世では「関ケ原」の名称で有名であった。中山道、および伊勢街道、北国街道が交差するまさに要衝で、古代の壬申大乱、南北朝時代の青野ヶ原合戦等、過去にも何度か大戦の舞台となっている場所であった。

 大谷らは大垣を囲む東軍諸隊が中山道を抜けて西進してきた際の備えとして山中村に布陣した。

 石田は大垣から山中村の大谷陣を訪問した。大谷吉継の本陣は村に点在するあばら屋を利用して建てられている。(一帯の住民は大戦を予感しすでに退去していた。)

 石田は数ある陣屋のうち、大谷自身の居館となっている小屋を訪れた。

「大谷殿、越前からの後詰め感謝いたす。」

「いずれ合流するのが早まっただけだ。お気に召されるな。」

「そちらの軍の中に京極殿の姿が見えぬが。」

京極高次殿は殿として一日遅れで布陣する手はずとなっている。」

 京極高次は大津六万国の城主である。大谷率いる越前方面軍に属していたが、殿として一日遅れでの行軍をしていた。

 実はこの頃、西軍から東軍に変心し、居城の大津に戻って西軍へ反旗を翻すべく支度をしているのだが、その行動を石田と大谷はまだ知らない。

「石田殿、岐阜が敵に落ちたと聞いた。当初は木曽川一帯を守りとして使う算段であったが、それは適わなくなったであろう。これから敵をどのような策で食い止めるおつもりじゃ。」

「それについての議を交えるべく訪問しました。大垣城に入城した備前宰相様(宇喜多秀家)とも話しあったのですが、まさにここ山中村一帯。青野ヶ原(関ケ原)を要衝とし、大垣と連携して敵を防ぐという策を用いようかと思います。」

「敵が西進するにはここ青野ヶ原(関ケ原)を通らねばならぬ。しかも青野ヶ原は四方を山に囲まれ攻めるに難く、守るには易き場所。よき策と心得る。」

「はい、要は当初の作戦が木曽川の守りから青野ヶ原の守りに代わるのみにございます。さすれば、来たる敵に備えるべく、山中村及び青野ヶ原一帯に陣城を築くようお願いしたい。」

「心得た。我が麾下に伝え申す。」

 大谷は越前方面軍として平塚為広、脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直忠らの大名を従えていた。彼らは翌日以降、青野ヶ原一帯に陣城を築くべく腐心した。

「して、石田殿。物見によると敵はいかばかりか。」

「ざっと五万程かと。」

「大垣の備えは三万、我ら越前からの後詰めは一万。伊勢にいる毛利勢四万がいずれ来るとして計八万か、敵の内府本隊が西進してくるとなると厳しいな。内府本隊は既に江戸を発っただろうか。」

「それはないでしょう。上杉、佐竹が家康を江戸にくぎ付けにして離し申さん。」

「いや、江戸に留守を残しての西進は大いに考えられよう。」

 大谷は往年の家康の戦ぶりを分析するに、彼は軍の機動に関して非常に長けていると感じていた。

 例えば、本能寺の変後、北条軍と甲斐で戦った際は敵の四分の一の軍勢を縦横無尽に駆けまわさせて互角にやりあったし、秀吉を打ち破った小牧長久手の戦の折は、これまた敵より少数ながら機動力を駆使した奇襲でこれを撃破している。

 大谷はこれらの過去から、家康が江戸から電撃的に西進してくることも多分にあり得ると読んでいた。

 しかしこの思考は石田に伝わりにくいようだった。戦術的要素への理解に乏しい彼は、江戸の守りが不安定なまま家康が西進してくることをそこまで想定していなかった。(自身が采配を振るうとしたら、そのような投機的な戦術はおそらく採用しなかったためであった。)

「例え家康が西進してきたとしても大垣及び青野ヶ原には八万の味方がおる故、たやすくは破られまい。睨みあっているうちに畿内に分散せし味方、大坂城の毛利中納言の本隊、地方の上杉佐竹らが後詰めに来るであろう。」

 大谷は石田の弁を聞いて黙った。彼は仮に家康が徳川軍を率いて西進するとなると、徳川軍四、五万の物量に加え、この戦国期において桶狭間の時代からの戦歴を誇る名将家康の武威を恐れ、味方の戦意が喪失することを恐れた。

 しかし大谷は、石田自身が家康の江戸出馬に懐疑的だったため、以上の思考を開示はしなかった。

 彼はもう一つの重要な話題を提示した。一万五千を率いる味方である、小早川秀秋の軍勢が伊勢方面軍から離脱した件についてであった。

 小早川秀秋は秀吉の義理の甥であり、小早川家に養子に出されてはいたが、豊臣政権において一門格としての待遇を受けていた。彼は一九歳という若年ながら筑前筑後六十万国を有しており、率いる軍勢も一万五千人と西軍の中でも指折りの多さであった。

 石田は間の悪い顔をした。七月に西軍結成して以後、伏見城攻め等を通じて小早川とは何度か接触してきたが、彼自身好印象をもっていなかった。

 小早川は酒乱であった。若年にも関わらず以前から酒に溺れる生活をしていたがために体を病み、平時の政務は家老の平岡頼勝が行っている。

 加えて、彼は稀に南蛮から齎される阿片の中毒も患っていた。当然、軍の統率においてもまともな判断は望めそうになかった。

 以上は小早川秀秋という人物の個人的資質の問題だが、差し迫った問題はその小早川軍が伊勢の方面軍を離脱して近江石部の地に滞留していることであった。

「金吾中納言殿は何を考えている。もしや江戸と通じておるのか。」

「有体に言えば小早川軍を統率しているのは家老の平岡石見殿であろう。」

「平岡が江戸の内府に通じている可能性はあるな。」

 石田と大谷は顔を見合わせた。

「とりあえず平岡殿に使いを派遣しよう。」

「うむ。伊勢の戦いからの離脱を問いただすと共に、懐柔として金吾殿に関白の位を約束するがよい。」

「金吾殿に関白だと。」

 石田は怪訝な表情をした。あの酒乱に関白の役が務まるとはとても思えない。大谷は石田の反応を見て補足した。

「なに。建前よ。金吾など戦が終われば煮るなり焼くなりどうとでもなるわ。」

「はっは。相違ない。」

 石田は破顔し、頷いた。