黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(11)

こんにちは!

今回は割と短めで、前田利長の謀反の風聞が立つ部分ですね。

当ブログでは本当の謀反としていますが

顛末まで書きたかったですが、それは次回やります。

 

 家康は直江と太田の密約を当然知らない。

 上杉家と前田家は八月中に各々の領地へと帰還したが、家康はそれをあまり訝しげな眼では見なかった。というのも、もともと上杉家の帰国は既定のことであったし、前田家の帰国は、自らの権限を拡大するという意味で家康にとってはむしろ好都合であったためである。

 時は九月九日、時々吹き抜ける秋風が肌に冷たい季節だが、頑丈な体つき、程よい肉を備えた家康にとってはそれが程よかった。彼は今、伏見から大坂の途上にある。

 大坂にいる幼君秀頼に「重陽節句」の祝賀と称して拝謁するためであった。

 方便であった。彼はこれを機会に大坂に居座り、本拠地とするつもりでいる。

 秀吉の遺言により、前田家が大坂を、徳川家が伏見を鎮護することが規定されていたが、前田家が加賀へ帰国し、自ら大坂に政治的空白を生み出したのを好機として、拠点を伏見から大坂へ移す腹であった。

 家康が最後に大坂を訪問したのは秀吉生前まで遡る。以後、彼は豊臣家、および前田家の影響が強い大坂を訪れるのをやんわりと回避し続けてきたが、今回ついに彼の地に乗り込むことを決意した。

「もう少し、ましな理由はありませなんだか。」

 本多正信は道中、家康の訪問理由をおかしがった。これまで頑なに大坂を訪れなかった家康がにわかに「重陽節句」と称して訪問するのは確かに違和感がある。

「文句を垂れるほど力のある大名も気骨のある大名も最早いなかろうて。」

 家康は余裕を見せた。実際、前田家、上杉家が帰国した今、家康と対等に渡り合うことのできる大名は皆無に等しく、皆家康のことを天下人同然に敬った。

 大老宇喜多秀家などは前田利家の婿にして、大きく薫陶を受けた大名であると同時に、豊臣家の一門格でもあったがために家康の専横ぶりに露骨な不快感を示した。しかし、家老の長船が宇喜多家の他の譜代家臣と激しく不和であり、内乱同様の体を為していたため、家康の対抗勢力となるだけの余裕はなかった。

 前述したが、前田家も太田長知ら反徳川派と、横山長知ら若手を中心とした親徳川派で半ば分裂しており、前田家の行動力を大きく阻害していた。

 その点、徳川家は本多正信が、武闘派の本多忠勝榊原康政らからやや敬遠されてはいたものの、家康の元、強い団結を誇っていた。    

これは家臣団の基盤である三河武士が強烈な忠義心を持つ直情的な気質であったこと、また彼らと家康が幼少のころから無数の労苦を共有してきたことに起因するが、ともかく徳川家の結束は他家に抜きんでたものがあった。それは家中分裂に悩まされる他家と比較したとき、中央における家康の立場をも有利としていた。

 家臣団、という点で考えたとき、豊臣家は哀れであった。

 秀吉はそもそも下層民からの成り上がりものであったために安定した地盤を持つ家臣団を持たなかった。そして不運にも子を唯一秀頼しか為せなかったために婚姻によって一門衆を増やすこともできず、唯一取れた策が妻、高台院の血筋のもの(加藤清正など)を一門格として扱うことであった。

 その他にも黒田如水石田三成といった秀吉の天下統一事業の過程で成り上がった大名は数多くいるが、彼らにおいても豊家と地縁や血縁を持たないがために関係性はどこか空虚で、ふわふわと紙の風船の様だった。

 家康は道の先に顔をのぞかせている大坂城の豪奢な天守閣を眺めながら、豊臣家の脆さと空虚さを哀れに思った。

 

 家康達一行は大坂城大手で大野治長の出向かえを受けた。

 大野修理亮治長は秀頼の生母、淀殿の乳母の子にあたる。淀殿とは姉弟同然に育てられてきた経緯があり、淀殿が秀吉の寵愛を得、宮中で成り上がるとともに地位を拡大した。

 そつなく政務をこなす能史であるとともに、上背が高く、顔立ちも整っている好漢である。

人々は、大野の好漢ぶりと淀殿との親密さから二人の密通を噂した。また、秀吉がそれまで子を為せなかったにも関わらず、淀殿が突然懐妊した事実から、秀頼の誠の父は大野であるという醜聞まで流れた。真偽は定かではない。

淀殿織田信長の妹、市の娘であることは有名である。秀吉は淀殿後宮に入ってから、その美貌と織田の血を求めて寵愛した。(織田信長の弟、信包の未亡人を側室にしていることからも、秀吉は織田の血に焦がれていたように見える。)

秀吉からの寵愛はとめどなく、秀頼を出産し国母となった彼女であったが、大阪城内ではこの淀殿にまつわる集団、主に淀殿とその乳母、および大野修理によって構成されるグループをどことなく敬遠する風潮があった。

その原因は、もちろん秀吉の寵を得た淀殿に対する嫉妬心なども含まれるが、淀殿後宮の統率者としての資質にやや欠けていたためでもあった。

彼女は男を悦ばせる、華やかで煽情的顔立ちをした性的魅力にあふれる女性であったが、奥ゆかしい理性は持ち合わせていなかったために、その魅力はなかなか人望に結び付きにくかった。

加えて、彼女は浅井、柴田という二つの滅亡した家に在するという特殊な経験をした割には、驚くほど政事への興味関心が薄かった。彼女の関心事は子、秀頼の「お召し物」や、自身の香といった些事に限定された。

後宮の人々の多くは、このような調子の淀殿についていく気になれず、正妻の北政所を頼った。北政所淀殿のように派手な外見、用紙は持ち合わせていなかったが、全ての人に対して誠実で、理性の範囲を超えない博愛精神をもって臨んだため、後宮では無比の人望を誇った。

しかし、北政所は、その人望をもって淀殿の勢力を攻撃するという行動は決して起こさなかった。(そのような不和は北政所が最も嫌うところであった。)北政所淀殿を時々呼び出しては、国母としての心がけについていくつか窘めたが、淀殿がそれを素直に聞くと(淀殿もその窘めに歯向かうほどの積極性はなかった。)元の博愛に富んだ表情に戻った。

大坂城内はそのような調子で平穏を保っている。

家康は大野修理に本丸御殿まで案内され、秀頼と淀殿に拝謁した。

家康が一通り重陽節句の祝賀の辞を述べると、淀殿が秀頼に何かを耳打ちした。秀頼はあどけない声で

「徳川内府、大儀である。」

と言った。場は和やかな笑いで包まれ、家康もいささかの愛想笑いをした。

「内府殿。伏見からわざわざ足のお運び、感謝します。」

 淀殿は上座から家康に呼び掛けた。家康は一礼し、淀殿の方を仰ぎ見た。

 家康は、華やかな容姿を持ちながら政治的に無能なこの女に対し、何も魅力を感じていなかった。彼は阿茶局(彼女は時に戦陣で助言さえしてくれた)に代表するような才女に惹かれる傾向があり、淀殿のような女は最も不得手とした。

 しかし家康はそれをおくびにも出さず、秀頼、淀殿との会見を和やかに終えた。豊家から完全に権力を吸い尽くすまでは彼らにも慇懃に接しておく必要があった。

 会見を終え、本丸御殿を後にすると、奉行の増田長盛長束正家が何やら慌てた様子で家康のもとに駆け寄ってきた。

「増田殿、長束殿。大坂に着いて早々、何用かな。」

「それが火急の知らせに御座いまして。」

 増田と長束は間の悪いような表情で顔を見合わせると、家康に告げた。

「どうやら前田肥前守様に謀反の兆しがあるとのこと。」は

「謀反?確かな知らせかね。」

「はい。家老の横山長知からの密告です。前田家の中で、徳川様主導の政を良しとせん派閥が力を握っておるとのことで。」

「加賀に帰還するといったのは前田殿のほうであるのに片腹痛いな。」

「尤もです。そしてその太田但馬主導のもと、加賀にて挙兵し、京、大坂に攻め入らんとする計画が進められているとのことです。」

 前田家の親徳川派筆頭、横山長知は、前田家の反徳川の流れを止められぬと見るや、主家を売るともいえる思い切った挙に出た。このまま徳川との戦になりにでもしたら家が滅びるという危機感が彼をそうさせた。

 実際、前田家は太田と直江の約定に従い、水面下で挙兵の準備を整えつつあった。横山は前田家の内部を知り尽くしている分、密告は詳細であった。

 増田はさらに言った。

「また、今回の前田殿の謀反の動きに大坂城大野修理、およびに奉行の浅野弾正様が同調しているとの由。」

 家康はこの報告に顔色を変えた。

「それは誠か。」

 大野も浅野も、徳川派とまではいかなかったが、徳川主導の政事にわりかし素直に従ってきた人物だったためである。

 実は、大野と浅野に関しては虚偽の讒訴であった。

 増田と長束は、かねてより淀殿を盾に権勢を振りかざそうとする大野と、石田と対立し、失脚の一端を担った浅野を政務における障害として見ていた。彼らは今回の前田の謀反にかこつけて彼らの政からの阻害を図った。

 家康は前田の謀反を情報として提供された手前、彼らの讒訴を信じ切るしかなかった。

「大野、浅野の件は直ちに対処できるであろう。前田に関しては討伐も視野に考える。今日、大谷殿はご登城かな。」

「大谷刑部は体調がすぐれぬらしく、今日は屋敷におりますが。」

「うむ、加賀から京へ上るには北国街道を封じねばならぬ。敦賀城主の大谷どのと佐和山城主の石田殿で連携してことに当たっていただきたい。」

「石田治部は謹慎の身ですが。」

「嫡子の重家殿が代わりにあたればよい。」

「かしこまりました。大谷と石田に報せましょう。」

 増田、長束は直ちに家康の命を実行した。彼らは今や完全に家康の手先となって動いており、奉行衆は大谷を筆頭に徳川派であるといってよかった。

 前田利長が万が一、上京してくるのを防ぐため、大谷吉嗣と石田三成の嫡男、重家率いる千の軍が北国街道の封鎖にあたった。大野と浅野はそれぞれ徳川領内の下総と武蔵に肺流となった。

大野が配流されたのは淀殿との密通が明るみになったためであるという噂が瞬時に流れたことに家康は世情のおかしみを感じた。

浅野などは、家のとりつぶしだけは勘弁してほしいと家康に懇願した。石田と長い期間対立していた彼は奉行衆の中でも孤立がちであり、精神的にも追い詰められている状態だった。家康は、これまで関東の外交において浅野と連携したことが多くあったので彼に少なからず同情し、浅野家の将来を保証した。