濃州山中にて一戦に及び(10)
こんばんは。深夜に更新します。
この前、あるブログを読んだら、小説を書くのに最も必要な能力は「書き上げること」であると書いてあったのでとりあえず書き進めます。
今回は「決戦前夜」みたいな回です。太田長知というマイナー武将が出てくるので知らなければググってみてください。
深夜に書いたので誤字など保証できません。ではおやすみなさい、、、
石田三成が所領の佐和山に帰還したをもって、大名十名、および徳川や毛利ひいては高台院までを巻き込んだ騒動は一旦の幕引きとなった。
人々は前田利家の死、石田三成の引退による政治的空白を危惧したが、政治的な穴はことごとく徳川家康の手によって埋められた。彼は腹心の井伊直政および榊原康政を奉行同格の地位に置き、諸々の政務にあたらせた。彼らは政務を遂行する上で主の意図を多分に酌んだが、それはあくまで豊臣公儀の行動として処理された。
無断で伊達家や福島家、蜂須賀家と縁組したことを弾劾され、一時は前田利家に対して政治的に敗北した家康だったが、今回の石田襲撃騒動を高台院と共に調停した功、また前田、石田という豊家の大黒柱が立て続けに消失したことも相まって家康が政治を主導することに異を唱えることは誰もしなかった。 家康は家臣団と共に向島から伏見城本丸に移住し、大谷、増田、長束といった奉行衆を統括した。その様はまるで天下人の様であった。
執政者として天下人同様に振舞う家康を見て、本多正信はある時から(果たしてこの御方は天下簒奪の野望があるのか。)という疑問を持ち続けていた。果たして彼はそれを家康に尋ねた。家康は答えた。
「豊家の当主秀頼公は幼く、政治運営能力はない。前田大納言様が身罷り、石田治部が引退した今は徳川家が天下を治めていくのが最も天下のためである。」
「恐れながらお聞きしますが、それは当家が豊家になり変わることを含意しますか。」
「それは謀反であり、反発する大名と戦になるであろう。日ノ本を戦乱に巻き込む意図はない。」
家康は戦を起こしてまで天下を簒奪する積極性を持ち合わせてはいなかった。南蛮の帝国「ひすぱにあ」が強力な水軍を率いて今にも明や日本に攻め込んでくるやもしれぬという情報を彼も得ていたためである。
「豊家は代々関白職として公家化させ、形骸上の君主になってもらう。我ら徳川家は朝廷から征夷大将軍の職を貰い、武家の棟梁として諸大名をまとめる。」
家康はその政権構想を正信に語った。形骸上の君主をいただき、自らが実質上の君主として支配者となるその構図は鎌倉幕府の将軍と執権に近く、家康はこれにならうことで豊家との政権交代を平和裏に行おうとした。
「見事にございます。その着想、感服いたしました。」
正信は言った。
「されど、将軍職として諸大名をまとめていくには、他の力を持つ大名を全て徳川の傘下に収めなければなりませぬな。」
「そこよ。」
他の大老職にある大名、前田、毛利、上杉、宇喜多らは徳川が将軍となり、天下を戴くのを良しとしないだろう。
「どうすればよいと思う。」
「お気に召さぬやもしれませぬが、また他家と縁組を行うがよろしいかと。」
正信の言に家康は目を丸くした。
「先だって、縁組の件であれ程の騒動になったではないか。」
「存じております。しかし、あの時、騒動の嚆矢となった石田殿は政界から離れ、諸侯をまとめていた大納言様はすでに世を去りました。あの時の様に声高に非難してくるような気骨のある大名はおらぬでしょう。」
正信は続ける。
「此度の石田治部殿と諸大名の諍いを調停したことで殿の声望は否応なしに上がりました。『徳川内府なくして世は収まらぬ』ことを天下に示したのです。この流れに乗り、縁組によって勢力を肥やしに肥やし、他の大名との力の差をいかんともしがたいほどにするのです。そうしてしまえば天下の儀は殿の思うがままにございます。」
家康は結局、正信の言を容れた。豊臣恩顧の大名のうち、勢いの盛んである黒田長政、加藤清正に目をつけ、秘密裏に縁組を確約させた。そして黒田長政に娘の栄を、加藤清正に養女のかなを嫁がせ両家と婚姻関係を結んだのであった。
大坂城の北西部には「下原」と呼ばれる低湿地帯が広がっている。そこは後に「梅田」と呼ばれる大坂一の繁華街となるのだが、それは江戸期以後の話であり、この時分は歩行のしづらいぬかるんだ土地でしかなかった。時節は文月(七月)の終わりに差し掛かっていたため、日が落ちて時間が経つにも関わらず窒息するかというくらい蒸し暑い。
その下原の湿地帯に掛けられた木道を一人の男が歩いている。
男の名を太田但馬守長知という。前田家の家老である。
家老といっても、当主前田利長の従弟にあたり、一門格といっていい。
前田家における武勲の人であり、特に前田利家の後半生における戦歴で、その手足として活躍した。
家老として前田家を差配するようになってからも、かつて戦場を共にした部下に対し分け隔てなく接する好漢であったが、直情型の武人であったがために、前田家にとっての政敵を憎むこと甚だしかった。
このころの前田家は、急速に天下の実権を握りつつある徳川家に対し、好意的な勢力と反発する勢力とで二分されていた。
特に、先代利家以来の家臣は、先の縁組騒動で前田と徳川がやりあった事情も相まって反徳川派が多かった。太田は反徳川派の中心人物であった。
細川忠興、加藤清正の主導により行われた石田三成襲撃事件の苛烈さゆえに、すっかりその印象を薄めてしまっているが、秀吉の死後、大老かつ秀頼の後見人として大坂を鎮護していた前田利家は閏三月二日、石田三成襲撃事件の直前に病死している。(その死による政治的空白が直後の襲撃事件を半ば収集困難なものにさせた。)
利家の後を継いだ肥前守利長は父譲りの人徳、そして母親芳春院譲りの利発さを併せ持った人物であった。しかし数多の戦歴を誇る父親と比較すると、そしてこの先、かの徳川家康と渡り合っていかねばならぬことを考慮すると、やや迫力に欠ける印象をぬぐえなかった。実際、彼は前田家中における親徳川派と反徳川派の反目を制止できないでいた。
以上のような家中の分裂もあり、前田家は中央政治への影響力を大きく後退させている。太田は、徳川家康の違約に対し気骨で渡りあった先代の利家を心底敬っていた。そのため、政権を専横し始めた徳川家に対して何もできない前田家の現状に我慢できないでいた。
彼は湿地に網目のように掛けられている木橋をしたたかに渡り継ぎ、下原の西のはずれにある寺に辿り着いた。太融寺という空海が創設した歴史ある寺だが、ここで他家の重役と会う手はずだった。
境内の中は外の蒸し暑さが嘘に思えるほどの涼やかさだった。太田は境内を横切ると重厚にそびえる本堂を仰ぎ見た。
本尊は嵯峨帝から寄贈された千手観音菩薩であり、本堂の奥に安置されているに違いない。信心深くもある太田は本尊の方に向かい合掌した。念じているうちに、件の人物が到着した。上杉家の執政、直江兼続であった。
「前田と上杉の軍事同盟の提案とは誠かね。」
直江は言ったが、これは彼の諧謔であった。実際には軍事同盟どころか密会の題目さえも決まっていない。
「直江殿。ご足労にござる。」
「宵闇に密会とは好色ですな。側女を持たぬゆえ誤解されるが直江山城に男色の趣向はござらぬ。」
直江はカラカラと高笑いした。身長六尺を誇る彼は当時にしてかなりの巨躯であり、太田は直江を仰ぎ見なければならなかった。
此度の会談は、徳川の専横に危機感を募らせた太田と直江が秘密裏に設けたものであり、徳川と渡り合うため、前田と上杉で何らかの連携を取ろうという趣旨であった。太田と直江自体は外交の都合上、幾たびも顔を合わせたことがあった。
二人は社交辞令を二、三言交わしたが、お互いどのように本題に切り込めばよいか躊躇っていた。直江は度胸のある男であるので、以下のように言った。
「徳川と戦をするかね。前田がその気なら上杉三万の侍は主、景勝の下知のもと悉く死ぬ気でいるが。」
直江としては彼自身、反徳川であったし、家中をそのように一統していた。このまま徳川の勢力が肥大化すればいずれ上杉家を抑圧し始めるのは目に見えていたためである。
「私、太田は政事を恣にする徳川と戦をも辞さぬ覚悟なのだが、恥ずかしながら前田は一枚岩ではござらんでな。」
「横山殿とかいう御仁が家中に親徳川を説いて回っておるらしいな。」
「お耳がはやいことで。」
「昨日の軒猿の報告で初めてその名を知った。」
直江の言に太田はその表情に影を落とした。前田家が親徳川派と反徳川派で割れていることは先述した。太田は反徳川派の筆頭格だったが、横山長知という若手の家老が親徳川派の中心人物であった。横山は先代利家の時代は全く用いられていなかったが、跡を継いだ利長の寵を得、家老として重用されるに至った。自然、横山率いる親徳川派も、前田家の中で新興的な勢力が多くを占めている。
太田の懸念は、横山の弁舌の才が想像より見事であったがために、反徳川派が親徳川派にやや押され始めていることであった。
加え、当主利長は横山に信を置いているため、徳川との融和路線に傾きかけている。
彼は自身が上杉の宰相と交渉しているという立場を利用し、上杉との盟役という既成事実を作ることで家中を説得しようと考えていた。
直情型の軍人はこのような政治的な場において、思い切った手を打てない者と、考えのない見切り発車の手をうつ者とに大別されるが、彼は後者であった。
「直江殿、上杉と前田で共闘することを願いたい。前田家は私が反徳川でまとめる故。」
「承知も承知だが、それは弓箭の沙汰になることを想定してのことか。」
「無論。」
「相分かった。」
直江は懐紙を取り出すと、脇差で親指をぷつりと刺した。そして自身の血でもって懐紙に大きく×の字を書いた。そしてそれを太田に差し出しながら言った。
「上杉は来月国許に帰る。」
上杉家はもともとの封土の越後から会津へ移されて日が浅い。上杉景勝とその家臣団は秀吉の葬儀(四月に既に行われた。)のために上洛していたが、領国の政務のために八月に帰国することは既定のことだった。
「仮にことを起こすなら備えに半年はかかる。」
「承知した。」
「前田はどうする。」
「我らも一度領国に帰ろうと考えている。」
太田は直江の書いた×の横に、再び血の×を書きながら言った。
「家中を一統し、上杉殿と合わせて兵を興す。」
「相違ないな。」
直江は満足そうな顔をすると、より具体的な話をしたがった。
彼は軍陣においても書を嗜むほどの文愛家で、その言動や行動も創作の世界に影響された部分が少なからずあったが、政治の舵取りにおいては、それに終始しない緻密で強かな思考を見せた。
「前田家と元来昵懇な宇喜多、細川はまず同心させたいと覚ゆ。」
太田は言った。大老の一角を占める宇喜多、先の石田三成襲撃事件を主導した細川は代表的な前田派の大名であり、先の家康の起こした縁組違約騒動でも前田家に与力している。
「宇喜多、細川の調略はお任せいたす。上杉家は佐竹を内々に調略しておく。」
直江は佐竹の調略を確約すると、謀略の全体を総括した。
「上杉と前田はそれぞれ領国で挙兵の支度をする。来年の五月か睦月に諸大名を巻き込んで一斉に蜂起し、徳川内府の専制を弾劾する旗印のもと、これを討つ。太田殿、謀の是非は前田家中の一統にかかっておる。くれぐれもよろしゅう頼む。」
「先代利家の名にかけて確約いたす。」
太田は果たして家中の取りまとめを直江に約束した。結論から言うと、この約定は半ば果たされる。太田ら旧臣の熱意ある説得で当主利長も家康との対決姿勢を鮮明することを決めた。上杉、前田の両家は、同じ八月に領国整理の名目のもとそれぞれ会津、加賀に帰国することとなる。
「太田殿。」
直江は境内のよく冷えた空気を味わいながら言った。
「儂は今高揚している。我らが生まれた時分は乱世も遂に終焉し、満足に采を振るったことがなかった。」
「如何にも。しかも相手は今日ノ本で最も戦上手とされている男です。」
直江はうなずくと、太田と残された確認事項に関して幾ばくかの打ち合わせをした。それも終わると無駄にその場に留まることはせず、寺を後にした。太田は直江の背を見送りながら
(将帥の背中である。)
と感じた。将は兵を率いる時、自然と背中を見せることが多くなる。そのため、太田は人の将としての力量をその人の背中の醸す雰囲気で判断するようにしていた。直江の背中は兵を従える苛烈さと名将がもつ類の浪漫を感じさせた。太田は直江を信頼にたる将であると確信した。