黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

【題名変更のお知らせ】

こんにちは

 

ずっと連載してきた関ケ原シリーズですが、題名を「関ケ原の真実」から「濃州山中にて一戦に及び」に変更いたしました。

 

そもそも「濃州山中にて一戦に及び」は当初想定していた題名でした。しかし、当ブログをご覧になる方になるべくなじみやすい題名をと思い「関ケ原の真実」という題名で連載を開始した次第です。

 

濃州とは美濃、現在の岐阜県という意味で、山中とは、実際に関ケ原の戦いが行われたという説が近年浮上している地です。(関ケ原よりやや西にずれます)

当時、「関ケ原」という地名はなかったと言われており、できるだけ作品中でも「関ケ原」という固有名詞を出したくないのが本音なのです。

 

この作品ではお気づきの方も多いかもしれませんが大きく次の点をコンセプトにしています

事実関係はできる限り当時の資料を参考にすること

・人物の内面描写をできるだけ説得力あるものにすること

 

第2部はいよいよ関ケ原の戦い本戦に突入していきます。お楽しみに

濃州山中にて一戦に及び(14)【第一部完】

こんばんは

 

関ケ原シリーズですが、これをもって第一部完結となります。

正直、一部だけで終わり!なんて事態になりかねませんが

今まで読んでくれている方、本当にありがとうございます。感謝いたします。

 

 大谷は石田から俄かな挙兵の告白を受け、少しの間、沈黙した。

 正直言って、大谷にとって慮外のことであった。彼は親徳川派として近年、中央政権に深く関わっており、あらゆる情報を耳にしていた。その中には前田や上杉の謀反の動きのような「きな臭い」挙動も含まれていた。しかし、大谷は石田の、そのような動きを聞いたことがなかった。

「私が徳川様に抜擢されたことを知って言っているのかね。」

「無論、知ったうえです。」

「なぜ徳川殿を討伐しようとなさる。」

「徳川の天下簒奪の意思は明らかです。前田、上杉への謀反の濡れ衣をかぶせるに始まり、諸将への私的な婚姻の数々、無断の褒賞。これらを弾劾するため挙兵せん。」

「太閤殿下ご存命の折から思っていたが、石田殿は才幹すぎる故にたまに突飛な思考にたどり着く。聞くところによると、信長公を討った明智儀もそうだったという。故に信長公への謀反というような思考の飛躍に至った。貴殿は明智に似ているのかも知れんね。」

「はっは。そうやも知れんな。」

「たかが佐和山十九万石で何の勝算がある。」

「既に毛利と約定を交わしている。」

 大谷ははっと目を見開いた。彼の脳裏に、あの胡散臭い顔をした禅僧が浮かんだ。

「安国寺を抱き込んだか。」

「毛利も親徳川派と反徳川派で割れている。反徳川派の安国寺は親徳川派の吉川広家の台頭をよく思っておらぬ。そこに付け込んだ。」

「されど毛利独力では徳川に太刀打ちできまい。」

「宇喜多、小西、島津維新らはすでに同心しておる。宇喜多中納言様が徳川内府をよく思っておられないのは大谷殿もよくご存じであろう。」

 宇喜多家が秀吉死後、家宰長船紀伊守の専横をめぐって家中不和に陥っていたことは述べた。この家中不和は深刻であり、長船を快く思わない戸崎達安、宇喜多詮家らは慶長四年に長船を毒殺するに至った。また、彼らは長船が抜擢した中村次郎衛門の処刑を当主の宇喜多秀家に求めたが、拒否されると大坂の宇喜多屋敷を占拠して立てこもるという慮外の挙に出た。

 大谷はこの騒動に対して奉行の一人として仲裁にあたっていた。

 大谷は双方の言い分を聞いたうえで、当主秀家側に有利な裁定を下すよう決定していた。結局のところ、戸崎らの行動は徒党を組んでの強訴であり、これを公儀が認めることは多分にアナーキーであった。

 しかし、決まりかけていた大谷の裁定を家康は鶴の一声で引っくり返した。戸崎らの言い分を認め、中村を蟄居させるとともに、戸崎をはじめとする宇喜多家の有力家臣に宇喜多家を出奔させ、こぞって徳川傘下に吸収したのである。これは徳川による専制体制を強化するため、宇喜多家の弱体化を図った家康の恣意的な決断であった。

 宇喜多秀家が家康を深く恨んだことは言うまでもないが、大谷もこの件で家康に不信感を抱いた。結局家康の頭にあるのは徳川の権力を高めることだけであり、豊臣恩顧の自分も走狗として利用されつくした後は煮られのではないかと感じたのである。

 しかし、だからと言って大谷は石田の挙兵に同調する気にはなれなかった。現行体制では徳川家の権限に依存しなければ天下を収めていけないのも事実であるし、何より徳川家の専横を弾劾してこれを討伐したところで代替の安定政権を築けるとは思わなかったためである。

「石田殿。今、徳川家を滅ぼしてもよりよい政を行えるようになるとは儂は思わぬ。混沌を導くのみぞ。徳川殿の政事構想を聞いているか。現在の中央集権を解消し、地方の大名に権限を委譲し、半ば独立させるという、かねてより儂と石田殿が描いておった構想に近い。」

「それに関する徳川殿のお考えは知っている。」

「なればこそ、徳川殿もいずれお主を奉行として復帰させる気でいる。徳川殿のもとでまた辣腕をふるえばよいではないか。」

「しかし、それは果たして豊臣の天下と言えるのか。」

 石田は言った。

「徳川様とて豊家を弑するおつもりはあるまい。」

「そうやもしれぬ、しかし現状、豊臣に天下人としての力も威もあるまい。天下万民、徳川を天下人だと思って居る。」

「それは」

 「世の摂理であり、仕方ないではないか。」と大谷が口を開きかけたところで、石田が畳みかけた。

「それが儂には耐えがたいことなのだ。」

 その口調には、大谷が知る石田とはまた別種の重みが込められていた。

「わしもかつては大谷殿と同じ意であった。例え徳川の天下となろうとも、等しく善政がしければよいではないかと。豊家も滅びるわけではなく、平和裏に禅譲がなれば良かろうと思っていた。しかし、毛利、前田、宇喜多らが徳川に屈伏していくのをこの佐和山で眺めていた時、豊臣から徳川の世になることを実感したとき、尋常ならざる耐えがたさを感じたのだ。やはり儂は徳川が天下を簒奪していくのを黙って見ているわけにはいかぬ。」

 石田三成にとって、豊臣政権とは一つの作品であった。秀吉の天下取りの性格上、天下を収める膨大な量の法度や枠組みを急造せざるを得ず。それらのほとんどは石田を中心に形作られた。それらの作品が徳川の手によって土足で踏み荒らされ、汚されるのはこの男にとって唯一耐えがたいことだった。

 石田の思考は政権運営について常に透明であった。何が最も効率的か、機能的か、正しいか、という尺度によってのみ決まるその思考は至極純粋なもので、例えば豊臣政権にとって石田が死ぬことが有益であると彼の頭脳がはじき出したならば、彼は間違いなく自身の首を掻き切ったであろう。

 しかし彼の思考は透明であるがゆえに、石田三成という個人の人格が介在する余地がなかった。もはや彼は自分の存在さえも天下国家という枠組みにおける一種の機関として捉えているかの様であった。

 大谷は、先ほどの石田の「耐えがたい」という言を聞いたときに、初めて石田の人格に触れた気がした。透明であった思考に、唯一不純なものを感じた。そして、それは石田と半生においてほぼ、同じキャリアを過ごした大谷にとって無視できない価値があるものだった。

 それを感じた時、大谷はこの圧倒的に分の悪い戦に加担することを決めた。

濃州山中にて一戦に及び(13)

こんばんは!

えー、いよいよ物語も佳境です。

今回は短めですが、大谷が佐和山を訪問する回です。司馬遼太郎好きにはわかる方が多いのではないでしょうか。

 

次回をとりあえずの最終回にしようと思います(第一部完的なノリです。次いつ再開できるかわからないので)

 

以下本文です

 

 家康は大坂城の広間に諸将を集めると、上杉家の叛意がまぎれもないことを直江状と共に解説し、討伐することを告げた。

 家康は当初、穏やかに、かつ理知的に討伐に至った経緯について説明していたが、途中から段々と檄した口調になり、最後の方はほぼ怒鳴りつけるような口調で「賊徒を討つ。」と宣言した。

 諸将はこのように檄した家康を目の当たりにしたことがなかったのではじめ面食らっていたが、武闘派の福島正則池田輝政といった面々はそれに共鳴したのか雄叫びをもってそれに応えた。諸将もそれに釣られるように次々と声を上げた。

 それを見た本多正信はほくそ笑んだ。彼は、主家康には二つの顔があるのを知っている。一つは理知的で穏やかな政治家としての面、二つ目は野性的で獰猛な軍人としての面であった。

 むしろ後者が家康の本性に近いのかもしれない。

彼は幼少時代の多くを他家の人質として過ごした過去があった。当時は徳川ではなく、松平姓を名乗っていたが、その松平家の勢力が薄弱であったために近隣の大国に従属せざるを得ず、駿河の今川家の人質として長くを過ごした。彼が家督を継いでから松平家は独立し織田家と同盟したが、その織田家からも家臣同然の扱いを受けるなど、幼少期同様他家から抑圧されることが多かった。

彼にとって戦は唯一、抑圧から解放される場所だった。戦をしている時だけは複雑な他家との関係、外交、謀略といった、考えるだけで反吐がでそうな類のものから解き放たれる。家康は合戦時、おのれの獣性を存分に発揮し、その激しい戦いぶりから大名の中でも屈指の戦上手だった。

本多正信ら徳川家の家臣らは、家康の戦時に見せる激しい気性を知っていたが、他家の人々にはそれが新鮮に見えたのであろう。しかし寧ろ、家康が見せた熱量は諸将の共鳴を呼び。信頼を勝ち取っているように見えた。

正信は「家康が戦に負けることはない。」と感じ、安堵した。

 家康の吠えるような上杉討伐宣言の後、その熱量のまま軍議が行われたが、作戦らしき作戦はほぼ何も詰められなかった。諸将が口々に自らの武威を喧伝する場と化したが、家康はそれで満足していた。この場で詳細な作戦を決めても意味がなく、ただ諸将の士気を上げられさえすればよかった。

 結局、関東方面から家康本軍が、奥州から伊達政宗が、北陸から前田利長が攻め込むことと、先方を福島正則細川忠興とすること、諸将はできるだけ早く兵馬を整えて江戸に参陣することのみが決まり、軍議は終了した。

 

 上杉討伐が決定してからの家康の行動は迅速そのものであった。六月六日の軍議から九日後の十五日に秀頼に出陣のあいさつに伺候すると、翌十六日に大坂を発ち、翌七月一日には江戸入りし、軍容を整えている。

 諸将は各自、国許で陣容を整え、家康を追うようにして江戸に向かうこととなった。

 敦賀の大名、大谷吉継もその一人である。病をおしての参陣であり、例のごとく輿に乗って行軍していた。

彼は二千の兵を率いて敦賀から北国街道を南下している。途中、石田三成の領国である近江佐和山を通る。

 大谷は佐和山城へ寄るつもりでいた。表向きは石田三成の嫡男、重家を自軍に合流して江戸まで同伴することを願い出るためであったが、本音としては去年の政変(石田三成襲撃事件)以来顔を合わせていない石田に出陣のあいさつをしておきたかった。

「石田殿は謹慎の身。私的に会うことは控えられては。」

 大谷家重臣湯浅五助は大谷を諫めた。

「倅殿を連れてゆくという名分がある。それに東国へ向かう前に友の顔を一度見ておきたい。」

 湯浅は意外に感じた。大谷と石田は、秀吉生前、政務においては無類の意気投合さを見せたが、友人というよりは信頼しあっている同僚という関係性だと思っていた。

 実際、大谷も石田もお互いに「友」という表現を使ったことはなかった。それを今になって「友」と呼んだことに湯浅は驚いたのである。さらに言うと、当時、衆道を除けば、男同士の友情という概念は薄く、「友」という言葉を使うことも一般的に稀であった。

「石田殿はやはり信のおける方だったのですか。」

「『友』という言を使ったことに関してかね。」

 大谷は湯浅の心を読むと先回りしていった。

「深く考えずとも口から出てきた。儂自身、やや驚いている。が、やはり儂の半生はあの男なしには語れないのは確かだ。」

 大谷の史僚としての人生が当時堺奉行であった石田の副官であったことは前に述べた。それ以降、二人のキャリアは常に共にあり、お互いの政務に対する思考法などもよくわかっていたし、同僚として最も信頼していた。

 大谷は昨今の政局で徳川が台頭するにあたり奉行として再び抜擢されたが、政治の表舞台で腕を振るうにおいて、やはり石田ほど馬の合う存在はいないと思わざるを得なかった。そのような事情が先ほどの「友」という発言をさせたのだろう。

 とまで、大谷は自己分析できてはいなかったが、純粋に久方ぶりに石田に会っておきたかった。彼は佐和山を訪問した。

 

 佐和山城は元来、北近江の土豪浅井家の所有する山城であった。織田家が浅井家を滅ぼすに至って、織田家重臣丹羽長秀の居城となり、以降何度か城主を変え、石田の居城となった。石田が何度も改築を繰り返したこの城は恐ろしく質素で機能的な造りをしている。

 門や櫓にも防戦に不要な装飾品の類は一切なく、防戦しやすいとの理由で大手の道も恐ろしく細く、簡素である。本丸の居間なども飾り気のない板張りで、壁は漆喰の塗っていない荒壁のままであった。

 大谷が通された石田の居室も、そうとしらねば平民の民家と見紛うばかりの質素さである。

 石田は書状を書いている。大谷が来訪しても止めない。

「誰への書状かね。」

 大谷は挨拶を略し、言った。石田はそれに妙な答えをした。

「大谷殿である。」

「はて、送り主はここにおるが。」

「出そうと思っていた書状である。そなたの訪問を知らなんだ故な。今、書き終える。」

「存じておるように、儂は病で目が見えぬ。読み上げてくれるか。」

 石田は書状を書き終えるとそれを読み上げた。大谷は座して黙ってそれを聞いた。

 簡潔に言うと、石田は徳川を弾劾するべく挙兵するつもりであり、大谷に同心を依頼する書状であった。

濃州山中にて一戦に及び(12)

こんにちは

はやめの更新になります。

今回は著名な直江状の回です。直江状の意図とは、、、?

 

    結論から言うと、前田家は家康に屈した。

    謀反の計画が漏れ、家康が前田家の討伐も視野に対策を検討していることがわかると、前田家家老の横山長知は、反徳川派の太田但馬らを徹底的に糾弾した。

    当主利長は三日三晩考え込んだが、母、芳春院の後押しもあり、家康に謝罪し、人質を差し出すことを決めた。これによって前田家は完全に徳川家の傘下に置かれることとなった。

    実質的、豊臣政権で第二の権勢を誇ってきた前田家の屈伏は世間に少なからず衝撃を与えた。大野、浅野の失脚も相まって家康の権限は益々圧倒的なものとなっていた。

「しかし、今回の前田殿の叛意は果たして前田殿のみのお考えでしょうか。」

 本多正信は家康に言った。

「上杉が同時期に帰国しているのが腑に落ちませぬ。」

「前田と上杉とに何らかの密約が交わされ、連衡して兵を興そうと思ったてか。」

「不自然ではないかと。」

 家康は思案した。確かに、前田独力で挙兵を思い立つとは考えにくく、同盟勢力が存在するというのが自然であろう。

「伊賀者に探らせるか。」

 彼はこの件について、伊賀者に探らせようとした。しかし、上杉家も徳川家の伊賀者同様、「軒猿」という強力な忍組織を抱えており、特に直江兼続はその運用と統率を徹底していたため、会津領国の情報をなかなか探れなかった。

 伊賀者を統率する服部半蔵から、会津の上杉家に関する情報が報告されたのは年明けのことであった。

 それによると、上杉家領国の会津では、城や街道の普請、武具の収集、浪人の登用などが積極的に行われており、戦支度さながらの様相を呈しているという。

 家康と本多正信は、前田家が家康に屈してなお、戦の意を捨てない上杉家の方針に驚いた。しかし、ある意味好機とも感じた。前田家同様、恫喝で屈伏してしまえば話は早く、北の上杉家が徳川に従えば主だった大名はすべて徳川の手中に収まったと言ってよい。

 家康は果たして上杉家の大坂在番であった藤田信吉を会津にやった。

 上杉家の家臣団は直江の強権によって反徳川一色でまとめられていたが、例外もある程度いた。藤田はその一人で、徳川との融和を家中に説いて回っていたため直江に冷遇されていた。

 家康はそのことを知っていたため、藤田に「もし上杉を抑えきれなかったときは出奔して徳川家に来るように」と極秘に言っていた。

 

 藤田は会津に帰国すると、身支度もそのままに急いで登城し、上杉家当主景勝に拝謁した。

 そして俄かな城の普請、浪人衆の登用を大坂から不審な目で見られていることを告げ、さらに大坂は景勝、兼続主従の上坂、釈明を求めていることを述べた。

 直江との激論になった。直江は藤田が大坂側に自ら何も弁明しないまま帰国したことを咎め、藤田の方も、謀反を疑われるような直江の施策を責めた。

「ともかく、殿と旦那様に上坂していただかない限り、上杉家は中央から目をつけられたままに御座る。」

 藤田は吐き捨てるように言うと、その場から下がった。直江はその背に向けて

「そなた、徳川の走狗となり下がったか。」

 と怒鳴った。藤田は憤怒の形相で振り返ったが、反論はせず足早にその場を去った。

 その様子をみて、当主の景勝は直江に言った。

「藤田はあの様子だと出奔するのではないか。」

「するでしょう。すでに徳川にかなり入れ込んでいるように見えます。」

「良いのか。」

「むしろ奴が出奔したほうが家中はまとまり申す。捨て置きましょう。」

「上洛の件は如何する。」

「私が大坂に書状を認めます。おそらく戦になるでしょうが、先日お話しした通り、お覚悟はよろしいか。」

 景勝は「うむ。」と一言うなずくとそれ以上不要なことは言わなかった。景勝は上杉家の舵取りをほぼ全て直江に任せていた。景勝は凡庸な大名ではなかったが、直江の積極的で剛毅な性格を前に、政に関して自身が出る幕はないと早々に悟ると、むしろ直江が手腕をふるいやすい環境を構築するのに腐心した。結果、上杉家は執政、直江兼続のもとに団結している。

 徳川との外交についても、直江に開戦する方向性を告げられると、当主として覚悟を決めた。見方によっては直江の傀儡ともいえる当主であったが、名君上杉謙信の次代として、形はどうあれ立派に勤め上げていこうという覚悟をこの主従は共有しており、その信頼感が彼らの関係性を担保していた。

 

 大坂の家康は、上杉家の藤田信吉の出奔と、直江が返事として書状を送ったという報せを受けた。藤田に関しては想定していたことであり特段感想を抱かなかったが、直江の書状は興味の対象であった。

 書状は、上杉家との取次役を務めていた西笑承兌臨済宗の禅僧)のもとに送られていた。家康は承兌を召すと、書状を彼に読ませた。 は淡々と書状を読み始めた。

 

一、東国についてそちらで噂が流れていて内府様が不審がっておられるのは残念なことです。しかし、京都と伏見の間においてもいろいろな問題が起こるのはやむを得ないことです。とくに遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり、問題にしていません。内府様にはご安心されるよう。

一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。

一、景勝に逆心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう。

一、秀吉様以来景勝が律儀者であると家康様が思っておられるなら、今になって疑うことはないではないですか。世の中の変化が激しいことは存じていますが。

一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。

一、前田利長殿のことは家康様の思う通りになりました。家康様の御威光が強いということですね。結構なことです。

一、増田長盛大谷吉継がご出世されたことはわかりました。これも結構なことです。用件があればそちらに申し上げます。榊原康政は景勝の公式な取次です。もし景勝に逆心があるなら、意見をするのが榊原康政の役目です。それが家康様のためにもなるのに、それをしないばかりか讒言をした堀監物(直政)の奏者を務め、様々な工作をして景勝のことを妨害しています。彼が忠義者か、奸臣か、よく見極めてからお願いすることになるでしょう。

一、武器についてですが、上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄と思っていただければ不審はないでしょう。景勝が不届きであって、似合わない道具を用意したとして何のことはありません。そんなことを気にするなんて、天下を預かる人らしくない。

一、道や船橋を造って交通の便を良くするのは、国を持つ者にとっては当然です。越後国においても船橋道をつくりましたが、それは(自分達が)国に移って来た時に全然作られていなかったからで、堀監物は良くご存知のはずです。越後は上杉家の本国ですから、堀秀治ごときを踏みつぶすのに道など造る必要はありません。景勝の領地は様々な国と接していますが、いずれの境でも同じように道を造っています。それなのに道を造ることに恐れをなして騒いでいるのは堀監物だけです。彼は戦のことをまったく知らない無分別者と思ってください。謀反の心があれば、むしろ道を塞ぎ、堀切や防戦の支度を整えるでしょう。あちこちに道を作って謀反を企てたところで、大人数で攻められた護りようもないじゃありませんか。いくら他国への道を造ろうとも、景勝も一方にしか軍勢を出せないというのに、とんでもないうつけ者です。江戸からの御使者は白河口やその奥を通っておられますので、もし御不審なら使者を下されて見分させてください。そうすれば納得されるでしょう。

一、今年の三月は謙信の追善供養にあたります。景勝はその後夏頃お見舞いのために上洛するおつもりのようです。武具など国の政務は在国中に整えるよう用意していたところ、増田長盛大谷吉継から使者がやってきて、景勝に逆心がなければ上洛しろとの家康様のご意向を伝えられました。しかし、讒言をするものの言い分をこちらにお伝えになった上で、しっかりと調べていただければ、他意はないとわかります。ですが逆心はないと申し上げたのに、逆心がなければ上洛しろなどと、赤子の言い方で問題になりません。昨日まで逆心を持っていた者も、知らぬ顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には似合いません。逆心はないとはいえ、逆心の噂が流れている中で上洛すれば、上杉家代々の弓矢の誇りまで失ってしまいます。ですから、讒言をする者を引き合わせて調べていただけなくては、上洛できません。この事は景勝が正しいことはまちがいありません。特に景勝家中の藤田信吉が7月半ばに当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは承知しています。景勝が間違っているか、家康様に表裏があるか、世間はどう判断するでしょうか。

一、遠国なので推量しながら申し上げますが、なにとぞありのままにお聞き下さい。当世様へあまり情けないことですから、本当のことも嘘のようになります。言うまでもありませんが、この書状はお目にかけられるということですから、真実をご承知いただきたく書き記しました。はしたないことも少なからず申し上げましたが、愚意を申しまして、ご諒解をいただくため、はばかることなくお伝えしました。侍者奏達。恐惶敬白。

        直江山城守

            兼続

慶長

  四月一四日

  豊光寺

    侍者御中」

 

 冒頭は淡々と読み進め始めた承兌だったが、書状の内容の辛辣さから、最後の方は声が震えていた。彼は読み終えると家康の方を盗み見た。

 家康に怒りの感情は皆無だった。皆無だったが、このような無礼な書状を送り付けた直江の意図を瞬時には見抜けず、困惑した。彼は冷静にそれを分析しようとしていた。

 家康はそばに控えている本多正信に尋ねた。

佐渡、この書状をどう見る。」

「無礼千万かと。」

「ではなく、直江の意図よ。」

「上様を立腹させたいように見えますな。少なくとも、天下の宰相として『立腹しなければならぬ状況』に置かせたいのでしょう。これで上杉を討伐しなければ上様の威信は落ちます。」

「戦をしたいてか。」

「はい、加えて、上様自らの討伐を望んでいるように見えますな。」

「大坂に空白を作り、挟み討つ気か。」

 ここで、家康は上杉が謀反を起こしたときに同調する大名を想像した。前田家は既に人質を出して屈伏し、宇喜多家は家中が泥沼の抗争を繰り広げていてとても上杉に与力する余裕はない。毛利家は石田三成襲撃事件の時、徳川と和睦し、屈した過去があった。

佐和山の石田がございますが。」

「わしもそれは考えた。直江と石田の友誼は存じているからな。しかし高々佐和山十九万石に何ができよう。」

 家康と正信は結局、上杉の詳細な狙いをつかみかねた。しかし確かなことは、このような無礼な書状をよこされたからには、家康の威信にかけて日ノ本の大名をことごとく参集し、上杉を討伐しなければならないことだった。

 家康はただちに秀頼に上杉討伐を上奏し、これを認めさせた。そしてと大坂城下に在番している諸将をことごとく参集し、上杉を討伐する旨を告げた。

濃州山中にて一戦に及び(11)

こんにちは!

今回は割と短めで、前田利長の謀反の風聞が立つ部分ですね。

当ブログでは本当の謀反としていますが

顛末まで書きたかったですが、それは次回やります。

 

 家康は直江と太田の密約を当然知らない。

 上杉家と前田家は八月中に各々の領地へと帰還したが、家康はそれをあまり訝しげな眼では見なかった。というのも、もともと上杉家の帰国は既定のことであったし、前田家の帰国は、自らの権限を拡大するという意味で家康にとってはむしろ好都合であったためである。

 時は九月九日、時々吹き抜ける秋風が肌に冷たい季節だが、頑丈な体つき、程よい肉を備えた家康にとってはそれが程よかった。彼は今、伏見から大坂の途上にある。

 大坂にいる幼君秀頼に「重陽節句」の祝賀と称して拝謁するためであった。

 方便であった。彼はこれを機会に大坂に居座り、本拠地とするつもりでいる。

 秀吉の遺言により、前田家が大坂を、徳川家が伏見を鎮護することが規定されていたが、前田家が加賀へ帰国し、自ら大坂に政治的空白を生み出したのを好機として、拠点を伏見から大坂へ移す腹であった。

 家康が最後に大坂を訪問したのは秀吉生前まで遡る。以後、彼は豊臣家、および前田家の影響が強い大坂を訪れるのをやんわりと回避し続けてきたが、今回ついに彼の地に乗り込むことを決意した。

「もう少し、ましな理由はありませなんだか。」

 本多正信は道中、家康の訪問理由をおかしがった。これまで頑なに大坂を訪れなかった家康がにわかに「重陽節句」と称して訪問するのは確かに違和感がある。

「文句を垂れるほど力のある大名も気骨のある大名も最早いなかろうて。」

 家康は余裕を見せた。実際、前田家、上杉家が帰国した今、家康と対等に渡り合うことのできる大名は皆無に等しく、皆家康のことを天下人同然に敬った。

 大老宇喜多秀家などは前田利家の婿にして、大きく薫陶を受けた大名であると同時に、豊臣家の一門格でもあったがために家康の専横ぶりに露骨な不快感を示した。しかし、家老の長船が宇喜多家の他の譜代家臣と激しく不和であり、内乱同様の体を為していたため、家康の対抗勢力となるだけの余裕はなかった。

 前述したが、前田家も太田長知ら反徳川派と、横山長知ら若手を中心とした親徳川派で半ば分裂しており、前田家の行動力を大きく阻害していた。

 その点、徳川家は本多正信が、武闘派の本多忠勝榊原康政らからやや敬遠されてはいたものの、家康の元、強い団結を誇っていた。    

これは家臣団の基盤である三河武士が強烈な忠義心を持つ直情的な気質であったこと、また彼らと家康が幼少のころから無数の労苦を共有してきたことに起因するが、ともかく徳川家の結束は他家に抜きんでたものがあった。それは家中分裂に悩まされる他家と比較したとき、中央における家康の立場をも有利としていた。

 家臣団、という点で考えたとき、豊臣家は哀れであった。

 秀吉はそもそも下層民からの成り上がりものであったために安定した地盤を持つ家臣団を持たなかった。そして不運にも子を唯一秀頼しか為せなかったために婚姻によって一門衆を増やすこともできず、唯一取れた策が妻、高台院の血筋のもの(加藤清正など)を一門格として扱うことであった。

 その他にも黒田如水石田三成といった秀吉の天下統一事業の過程で成り上がった大名は数多くいるが、彼らにおいても豊家と地縁や血縁を持たないがために関係性はどこか空虚で、ふわふわと紙の風船の様だった。

 家康は道の先に顔をのぞかせている大坂城の豪奢な天守閣を眺めながら、豊臣家の脆さと空虚さを哀れに思った。

 

 家康達一行は大坂城大手で大野治長の出向かえを受けた。

 大野修理亮治長は秀頼の生母、淀殿の乳母の子にあたる。淀殿とは姉弟同然に育てられてきた経緯があり、淀殿が秀吉の寵愛を得、宮中で成り上がるとともに地位を拡大した。

 そつなく政務をこなす能史であるとともに、上背が高く、顔立ちも整っている好漢である。

人々は、大野の好漢ぶりと淀殿との親密さから二人の密通を噂した。また、秀吉がそれまで子を為せなかったにも関わらず、淀殿が突然懐妊した事実から、秀頼の誠の父は大野であるという醜聞まで流れた。真偽は定かではない。

淀殿織田信長の妹、市の娘であることは有名である。秀吉は淀殿後宮に入ってから、その美貌と織田の血を求めて寵愛した。(織田信長の弟、信包の未亡人を側室にしていることからも、秀吉は織田の血に焦がれていたように見える。)

秀吉からの寵愛はとめどなく、秀頼を出産し国母となった彼女であったが、大阪城内ではこの淀殿にまつわる集団、主に淀殿とその乳母、および大野修理によって構成されるグループをどことなく敬遠する風潮があった。

その原因は、もちろん秀吉の寵を得た淀殿に対する嫉妬心なども含まれるが、淀殿後宮の統率者としての資質にやや欠けていたためでもあった。

彼女は男を悦ばせる、華やかで煽情的顔立ちをした性的魅力にあふれる女性であったが、奥ゆかしい理性は持ち合わせていなかったために、その魅力はなかなか人望に結び付きにくかった。

加えて、彼女は浅井、柴田という二つの滅亡した家に在するという特殊な経験をした割には、驚くほど政事への興味関心が薄かった。彼女の関心事は子、秀頼の「お召し物」や、自身の香といった些事に限定された。

後宮の人々の多くは、このような調子の淀殿についていく気になれず、正妻の北政所を頼った。北政所淀殿のように派手な外見、用紙は持ち合わせていなかったが、全ての人に対して誠実で、理性の範囲を超えない博愛精神をもって臨んだため、後宮では無比の人望を誇った。

しかし、北政所は、その人望をもって淀殿の勢力を攻撃するという行動は決して起こさなかった。(そのような不和は北政所が最も嫌うところであった。)北政所淀殿を時々呼び出しては、国母としての心がけについていくつか窘めたが、淀殿がそれを素直に聞くと(淀殿もその窘めに歯向かうほどの積極性はなかった。)元の博愛に富んだ表情に戻った。

大坂城内はそのような調子で平穏を保っている。

家康は大野修理に本丸御殿まで案内され、秀頼と淀殿に拝謁した。

家康が一通り重陽節句の祝賀の辞を述べると、淀殿が秀頼に何かを耳打ちした。秀頼はあどけない声で

「徳川内府、大儀である。」

と言った。場は和やかな笑いで包まれ、家康もいささかの愛想笑いをした。

「内府殿。伏見からわざわざ足のお運び、感謝します。」

 淀殿は上座から家康に呼び掛けた。家康は一礼し、淀殿の方を仰ぎ見た。

 家康は、華やかな容姿を持ちながら政治的に無能なこの女に対し、何も魅力を感じていなかった。彼は阿茶局(彼女は時に戦陣で助言さえしてくれた)に代表するような才女に惹かれる傾向があり、淀殿のような女は最も不得手とした。

 しかし家康はそれをおくびにも出さず、秀頼、淀殿との会見を和やかに終えた。豊家から完全に権力を吸い尽くすまでは彼らにも慇懃に接しておく必要があった。

 会見を終え、本丸御殿を後にすると、奉行の増田長盛長束正家が何やら慌てた様子で家康のもとに駆け寄ってきた。

「増田殿、長束殿。大坂に着いて早々、何用かな。」

「それが火急の知らせに御座いまして。」

 増田と長束は間の悪いような表情で顔を見合わせると、家康に告げた。

「どうやら前田肥前守様に謀反の兆しがあるとのこと。」は

「謀反?確かな知らせかね。」

「はい。家老の横山長知からの密告です。前田家の中で、徳川様主導の政を良しとせん派閥が力を握っておるとのことで。」

「加賀に帰還するといったのは前田殿のほうであるのに片腹痛いな。」

「尤もです。そしてその太田但馬主導のもと、加賀にて挙兵し、京、大坂に攻め入らんとする計画が進められているとのことです。」

 前田家の親徳川派筆頭、横山長知は、前田家の反徳川の流れを止められぬと見るや、主家を売るともいえる思い切った挙に出た。このまま徳川との戦になりにでもしたら家が滅びるという危機感が彼をそうさせた。

 実際、前田家は太田と直江の約定に従い、水面下で挙兵の準備を整えつつあった。横山は前田家の内部を知り尽くしている分、密告は詳細であった。

 増田はさらに言った。

「また、今回の前田殿の謀反の動きに大坂城大野修理、およびに奉行の浅野弾正様が同調しているとの由。」

 家康はこの報告に顔色を変えた。

「それは誠か。」

 大野も浅野も、徳川派とまではいかなかったが、徳川主導の政事にわりかし素直に従ってきた人物だったためである。

 実は、大野と浅野に関しては虚偽の讒訴であった。

 増田と長束は、かねてより淀殿を盾に権勢を振りかざそうとする大野と、石田と対立し、失脚の一端を担った浅野を政務における障害として見ていた。彼らは今回の前田の謀反にかこつけて彼らの政からの阻害を図った。

 家康は前田の謀反を情報として提供された手前、彼らの讒訴を信じ切るしかなかった。

「大野、浅野の件は直ちに対処できるであろう。前田に関しては討伐も視野に考える。今日、大谷殿はご登城かな。」

「大谷刑部は体調がすぐれぬらしく、今日は屋敷におりますが。」

「うむ、加賀から京へ上るには北国街道を封じねばならぬ。敦賀城主の大谷どのと佐和山城主の石田殿で連携してことに当たっていただきたい。」

「石田治部は謹慎の身ですが。」

「嫡子の重家殿が代わりにあたればよい。」

「かしこまりました。大谷と石田に報せましょう。」

 増田、長束は直ちに家康の命を実行した。彼らは今や完全に家康の手先となって動いており、奉行衆は大谷を筆頭に徳川派であるといってよかった。

 前田利長が万が一、上京してくるのを防ぐため、大谷吉嗣と石田三成の嫡男、重家率いる千の軍が北国街道の封鎖にあたった。大野と浅野はそれぞれ徳川領内の下総と武蔵に肺流となった。

大野が配流されたのは淀殿との密通が明るみになったためであるという噂が瞬時に流れたことに家康は世情のおかしみを感じた。

浅野などは、家のとりつぶしだけは勘弁してほしいと家康に懇願した。石田と長い期間対立していた彼は奉行衆の中でも孤立がちであり、精神的にも追い詰められている状態だった。家康は、これまで関東の外交において浅野と連携したことが多くあったので彼に少なからず同情し、浅野家の将来を保証した。

【弾いてみた】丸の内サディスティック(東京事変・椎名林檎)

こんばんは。

弾いてみたシリーズが連続になってしまいますが、弾いたのでとりあえずあげます。 ずっと米津玄師さんの曲をカバーしてみましたが、今回は趣向を変えて椎名林檎さんの曲、丸の内サディスティックを弾いてみました。

是非聞いてみてください。