黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(23)【第二部】

こんばんは。

関ケ原の前哨戦として名高い「杭瀬川の戦い」を描いています。

 

 大垣城は東を一級河川である揖斐川、西を「杭瀬川」という揖斐川の支流に囲まれている。

 ここら一帯の盆地は河川よりも土地の高度が低い故に常々水害が起こりやすく、「輪中」と呼ばれる独自の水害対策が為されていた。

 この輪中というのは河川より高度の低い盆地を堤防で囲うことで構成され、その雛型は鎌倉時代の史料にも散見される。戦国期の輪中は江戸期のものに比べるとまだまだ簡素なものではあったが、水害を防ぐために、揖斐川と杭瀬川に囲まれる大垣一帯にもこの輪中が普請されていた。

 河川より低地だけに土は雨期でなくとも湿り気を帯びている。単騎で大垣周辺の物見に出向いていた島左近は杭瀬川の川縁の土を手ですくい握り潰した。

「やはりここら一帯は水はけが悪い。」

 彼は予想道理だと言わんばかりの顔をした。

 土の水はけが悪く、土地が河川より低地にある。大垣城は水攻めを行う上での条件があまりにも整いすぎていた。

 城攻めにおける「水攻め」とは、城周辺の河川等の水を城に向けて流し、城を水没させることで攻略するものである。戦国期で言うと、太閤秀吉はこれを好み、パフォーマンスの意味合いも兼ねて度々採用した。

 島は内心焦った。大垣に水攻めが為されれば、籠城する石田、小西、宇喜多ら三万の軍勢が無力化することになる。急ぎ城に戻り、敵が水攻めを仕掛けてくる可能性を石田に伝えねばならぬ、と島は思った。

 その時、背後から馬蹄の音が聞こえたため、島は反射的に刀の柄に手をかけた。

「島殿。拙者にござる。」

 騎馬武者の正体は石田家家臣、八十島助左衛門であった。彼は主に他家への取次や使い番を担っている将であった。

「助左か、これは相すまぬ。」

 島は刀の柄にあてた手を離した。

 八十島曰く、伊勢方面の毛利軍らが両日中にも大垣周辺に到着しそうであるということであった。毛利軍が到着次第、彼らを交えて軍議を開くことになるかもしれず、大垣に戻るよう八十島は島に伝えに来たのだった。八十島は加えていくらかの新規情報を島にもたらした。 

大垣城にいくつか良い報せが届きましたので貴殿にも報告いたす。一つは、大津城において、攻め手の立花殿の奮戦目覚ましく、両日にも開城する勢いとのこと。二つ目は丹後田辺城に籠る細川幽斎も、兵糧弾薬が尽き、遅かれ開城するであろうとのことです。」

「大津、田辺の城が落ちそうか。それは朗報じゃ。城攻めに加わっている者らの美濃合流も望めよう。」

 島は満足そうに髭を撫でた。彼は馬上の人となると八十島と轡を並べて大垣に帰還した。

「助左、江戸の内府について何か報せは受けてないか。」

 島は大垣への道中、八十島に尋ねた。八十島はかぶりを振った。

「何も報せは受けておりませぬ。」

 島はそうか、とつぶやくと遠く東に視点を移した。

(上杉、佐竹の抑えが成ったならば、家康はいつ江戸を発ってもおかしくはない。)

 彼は家康がすでに江戸を発っている可能性もあると見ていた。島は家康の挙動が掴めないことを不気味に感じ、東海道沿いにばらまいている間者の数を増やすことに決めた。

 

 九月七日、石田が待望していた毛利、吉川ら伊勢方面軍三万は美濃へ到着した。しかし大垣へは寄らず、杭瀬川を挟んで西の対岸にある南宮山に登りそのまま布陣してしまった。

 東軍との和議を模索する吉川は、大垣に合流しては石田、宇喜多らの行動に巻き込まれ、自らも戦わざるを得なくなると予期し、大垣を避けた。石田からは大垣の軍議に出席するよう督促を受けたが、伊勢の城攻めで疲労していることを理由に拒否してしまった。

 伊勢方面軍には西軍結成の立役者の安国寺恵瓊もいたが、彼は逆に軍事にはからきし疎かったため、吉川の方針に逆らえなかった。大将秀元も、実戦経験の浅さから吉川の言を覆すには至らなかった。

 伊勢方面軍はこうして、南宮山への不気味な滞陣を開始していた。

 

「南宮山の毛利勢は内府と通じておりますな。」

 島は大垣城内で南宮山に布陣する毛利勢の様子を見ながら石田に言った。

「毛利殿は此度の我らが軍の総帥ぞ。内府と通じるなどという馬鹿な話があろうか。」

「大坂の安芸中納言様(輝元)および秀元様は戦る気でしょう。おそらく軍を統括する吉川、福原らが内府と接触しています。返り忠というほどの意のものではなく、和睦の交渉でしょう。」

「和睦だと。吉川らが独断で和睦の交渉をしていると申すか。」

「如何にも。吉川侍従は兼ねてより内府と懇意でした。吉川の毛利家中での立場は内府の存在によって担保されていたといってもよい故、吉川にとって家康が政の場から消えては困るのでしょう。」

 石田は目を細めた。島は続けた。

「おそらく、安国寺殿も大坂の安芸中納言様も半ば黙認しておるのでしょう。当方としても、いずれ内府と和議を結ぶことになる可能性がないともわかりませぬ故、当面は捨て置かれるがよろしいかと。」

 島は、吉川を糾弾するより、有事の際の家康との交渉ルートに残しておくことを説いた。石田も外交に関しては精通していたので島の言うことが最もであると思い、その通りにした。

 

 伊勢から毛利軍が到着して以降、美濃大垣周辺の西軍の兵力は合計八万を数え、東軍西軍の兵力は逆転した。仮にこの時点で西軍が総力を挙げて東軍に襲い掛かったならば彼らを容易に駆逐できたであろう。が、彼らはそうしなかった。石田三成が、現時点で攻めかかるのは不確定事項が多すぎるとして反対したためであった。

 当時の西軍の指揮系統としては、山中村の大谷軍、南宮山の毛利軍、大垣の宇喜多、石田軍らがそれぞれ分かれて駐屯し、主に石田三成が放つ使い番を通じて連携している状態であった。

 美濃に居る将の中の序列としては、宇喜多中納言秀家が最上位にあり、石田三成はその元で参謀、及び諸隊の連絡を担っていた。

 西軍の作戦の大枠は島、大谷らの助言に基づき石田によって決定されていた。石田は秀吉の元で培った補給ノウハウを基にした戦略立案をした。補給を中心に据えた戦略は非凡だったが、史僚あがりの彼は不確定事項を嫌いすぎる気があった。

 勝ち目の薄い戦の中で、十に一つの勝ちを拾い続けてきた投機家の島津維新入道などはそれを苦々しい目で見ていた。彼は

「万に一つでも勝ちがあるなら、命ば捨てて戦えばいいりゃんせ。負けたりゃ死ねばよか。」

と手持ちの兵力での東軍急襲を具申したこともあったが、石田に却下されてしまった。石田としては、この日本史上類を見ない規模の戦いをできるだけ確実に勝利したかった。そのためには、現在より多くの兵力が必要であり、より多くの信頼に足る将が必要であると考えていた。彼は大津城、田辺城攻めに加わっている畿内の軍勢二万と大坂城に鎮座する毛利輝元本軍二万の到着を督促し、待った。

 

 しかし、西軍がことを起こさず手をこまねいている間に、事態は急変した。

 九月十四日、徳川家康率いる三万の直轄軍が美濃赤坂に到着したのである。家康は十一日清州に到着すると一日留まり、美濃の情報収集に努めた。十三日岐阜城に至り、十四日未明に東軍諸将の陣取る赤坂へ着陣したのだった。

 大垣城からも赤坂に三万の軍勢が布陣し、無数の白旗と共に厭離穢土欣求浄土の旗と金の馬印が立てられるのが見て取れた。紛れもなく家康本軍であった。場内からはその武威を恐れて、悲鳴ともうめき声ともつかぬ声が上がった。

 家康は東海道を行軍中、自軍の先を服部半蔵率いる伊賀者に進ませ、西軍の間諜と思われるものを片っ端から始末していた。それゆえ、西軍は家康の迅速な行軍をつかめていなかった。

 それだけに、家康が忽然と赤坂に現れたことは、西軍にとって奇襲攻撃とほとんど同等の、(主に精神面での)損害を与えた。

 島左近はこの情勢を危ぶみ、士気回復のため東軍に局地戦を仕掛けることを石田に具申した。

「殿。精兵五百をこの島左にお預け下さい。敵の何れかの将の首を上げて参ります。」

「それは良いが五百は少なすぎはしないか。」

「いえ、家康への恐怖がある現状、私が率いて士気を保てる最大人数が五百人と踏んだまでです。」

    島は宇喜多家侍大将の明石全登と共に精兵五百を率い出陣した。

 島が標的としたのは赤坂西、大垣城から見て西北の位置に陣取る中村一氏の陣であった。

 島は三百の歩兵及び虎の子鉄砲部隊百を明石に任せ杭瀬川の葦が生い茂る河縁に伏せさせると、彼自身は騎馬隊を率いて杭瀬川を渡った。

 そのまま蹄の音も慎ましやかに、息を殺して中村隊の陣まで近づいた。残り一町の距離まで近づくと、彼らは島を先頭にして吶喊した。

 島隊の急進撃はすさまじかった。中村隊の第一陣は野一色頼母という侍大将が受け持っていたが、島率いる騎馬隊の突破力の前には何もできずただ逃げ惑うことしかできなかった。彼らは多くの足軽を踏み倒された挙句、島隊の突破を許した。

 島の軍装は、黒塗りの甲冑に緋色の天頂前立てのついた兜という格好だった。ただでさえ長身の島が天頂の前立ての兜をつけて馬上槍を振るう姿は壮観で、中村家の武者達は後々まで、この時の島の姿が忘れられなかったという。

 島は中村隊の第一陣を以上の要領で突き崩すと、第二陣に侵入し、それを深く抉るようにして自身の隊を反転させた。

「頃合いぞ。退け。」

 彼は全軍に大音声で退却を命じた。一転して、騎馬隊は退却を始めた。杭瀬川を渡っての退却であるため、百人の内のいくらかが討たれた。

 島は騎馬隊の最高尾で中村隊相手に奮戦を続けた。先に渡河するよう近習から何度も進められたが、彼は自身を最後尾に置くことで中村隊を追撃におびき出すつもりであった。彼は自身を餌としていたのだった。

 島の思惑通り、中村隊第一陣の野一色頼母は、あの高名な島左近を討ち取る好機とばかりに隊を押し出してきた。

 野一色は島隊が河を渡り切って対岸に退却しても追撃をやめなかった。いや、島左近の采配によって、追撃するよう巧妙にいざなわれていたと言っていい。

 野一色隊は追撃する勢いのまま対岸に乗り上げた時、明石全登率いる百の鉄砲隊が葦原の中から一斉に身を乗り出し、野一色隊の側面を斉射した。野一色隊の隊列はそれまで見事な二列縦隊であったが、この斉射で乱れに乱れた。明石は続けて伏せていた歩兵三百を以て混乱する野一色隊を急襲した。戦の潮目が完全に変わったのを見て、島左近も騎馬隊を再び敵に向けて突撃させた。

 そこからは西軍の一方的な展開であった。杭瀬川の対岸に乗り上げた中村隊の兵はことごとく討たれ、首を取られた。

「退け。」

 野一色頼母はほとんど悲鳴に近い声で叫んだ。彼は部下に支えらえて杭瀬川を渡り、退却しようとしていた。島左近はそれを補足した。島は鐙の上で両足を踏ん張ると全身を伸縮させ、槍を野一色めがけて投擲した。槍は野一色の背中から腹を鎧越しに貫き、彼は絶命した。

 中村隊は前線に繰り出た侍大将のほとんどが討ち死にしたため、杭瀬川からの撤退さえ満足に行えない状況であった。家康はこの惨状を見かねて井伊直政に五十騎をつけて送り出し収拾にあたらせた。

 島の方も、それ以上の成果は求めなかった。彼は器用に隊をまとめると明石と共に大垣城へ撤収した。

 

 井伊直政は赤備えの軍装をきらめかせながら杭瀬川の河原を駆けずり回り、何とか中村隊の敗残兵を収容した。彼は五十騎と共に家康の本営に帰還した。つい先ほどまで馬上で中村隊の収集にあたっていたため、体は熱く、息は荒い。

「兵部、大儀であった。」

 家康は井伊を労った。井伊は表情を変えないまま、中村隊の損害、そして敵の損害の見積もりを報告した。中村隊の損害は士卒含めて二百、対する敵の損害は数十名であり、戦果だけ見たら東軍の圧倒的敗北であった。

 家康は舌打ちをしたが、そこまで事態を重く受け止めてはいなかった。杭瀬川での合戦は所詮小競り合い、局地戦であり、大局に影響を与えるものではなかった。

「それより、兵部。そろそろ小早川の小倅に戦後恩賞の誓紙をくれてやろうと思うがどう思う。」

「金吾中納言の内応は確実になったのですか。」

「黒田甲州が監視として自身の家臣を送り込んでおるらしい。儂も東海道を行軍中、書状にて小早川とやり取りをしていたが、その所感として内応自体は間違いないと見て良いだろう。」

「小早川軍一万五千が此方に寝返るとなればお味方の勝利は間違いなしですな。」

「うむ。加えて、儂は書面にて小早川にある任を授けておる。」

「任とは?」

「いずれわかる。早ければ今日にもな。」

 井伊は家康の言っている意味がわからず、困惑した表情で彼を仰ぎ見た。家康は含み笑いをするのみで何も答えなかった。

濃州山中にて一戦に及び(22)【第二部】

こんばんは。筆が乗ったので連投します。

夜書いた文章ってひどいので多少心配ですが

 

 

 伊勢方面軍の総帥である毛利秀元(輝元の従弟)は戦意旺盛だった。その戦意は何らかの政治的意図からくるものではなく、純粋の若武者の闘志に因るものだったが、三万を率いる将帥の戦意が高いことは西軍にとって好材料だと言えるだろう。

 伊勢方面軍はこの毛利秀元および吉川広家福原広俊小早川秀秋ら毛利軍と、長宗我部盛親六千、長束正家二千、計三万の軍勢によって構成されていた。

 小早川軍が途中離脱したことは先に述べた。伊勢戦線を抜けた時点で小早川軍の戦意は非常に疑わしいものとなったが、毛利秀元を支える家老、吉川広家福原広俊においても積極的に西軍に加担するかは疑問だった。

 吉川は元々、毛利家中でも徳川派としての立場を明確にしており、反徳川派の外交僧安国寺恵瓊と対立していた。福原も同じく徳川派であった。

    彼らは西軍が結成されて以来、家康と対立姿勢をとる毛利家の行く末を案じ(彼らは毛利家が徳川家と正面から遣り合って勝てるとは思っていなかった)、徳川家中の井伊直政と書面を媒介としてたびたび接触している他、このころ半ば東軍の取次役と化していた豊前中津城主、黒田長政ともやり取りしていた。

 吉川、福原は彼らを通じて、家康に対して、毛利輝元安国寺恵瓊に良いように担がれているだけで主体的に西軍の総帥をしているわけではないこと、毛利軍に家康と戦う意思はないことを再三にわたって弁明していた。

 実はこれらの吉川らの行動は半ば安国寺や、大坂にいる当主輝元も知っていた。知っていたうえで、いつか徳川との和睦交渉が必要となった時を想定し、黙認した。

 吉川自身も黙認されていることを知っている。彼としても、戦況が圧倒的に西軍に傾いたならば東軍との折衝ルートは破棄するつもりであり、事態の推移を見ながらの二枚舌外交であった。

 しかし、かねてから徳川への同調を推してきた吉川、福原としては、西軍が勝利したら家中で立場が無くなるのは明白であり、むしろ東軍の勝利を望む気持ちさえあった。彼らはそのような複雑な胸中を以て従軍している。

 伊勢の方面軍は現在、伊勢安濃津城攻略を行っている。安濃津城が陥落すれば、伊勢の主要な城はすべて西軍のものとなるはずだった。

安濃津の城はそろそろ陥ちまするな。」

 吉川広家の陣を訪れていた福原広俊は言った。吉川は軍事に見識があるだけに、城攻略の度合いなどは瞬時に判断できた。彼は福原の言に同意した。

「うむ、これで我ら毛利軍は伊勢の主要な城をすべて落としたことになるな。」

「ここまで大坂に加担しておきながら内府様と和睦の交渉なぞ出来ましょうや。」

「実質的な返り忠よ。内府様とて渡りに船だろう。」

 福原は小早川が伊勢の戦線から離脱している件を持ち出した。

「金吾殿は我ら同様、内府様と通じておるのでしょうか。」

「小早川家に左様な取次の伝手があっただろうか。存ぜぬが、仮に通じておるとすれば家老の平岡石見によるものであろうな。」

 その時、吉川陣へ注進が舞い込んだ。美濃岐阜城を陥落させ、大垣城を包囲中の黒田長政からの密書であった。吉川らは徳川家家臣の井伊直政およびこの黒田長政と和睦の折衝をしていた。

 黒田からの密書を見て、吉川は「あっ」と驚きの声を上げた。

甲州黒田長政)殿は何と。」

「内府殿が江戸を発ったとの由。」

「何と。」

 家康が美濃に到着すれば戦況は一気に東軍に傾くように吉川は感じていた。

    彼はできれば毛利軍を戦場となるであろう美濃へ行かせず、単体で東軍と和睦させてしまいたかったが、問題は伊勢方面軍大将の毛利秀元が戦意旺盛であることであった。

 若干二十一歳の彼は、まだ外交の素養がなく、吉川らが東軍と接触している事実も知らなかった。加えて、伊勢方面軍は毛利軍だけで構成されているわけではなく、長曾我部、長束らの目も気にする必要があった。

「内記様(毛利秀包)や立左殿(立花宗茂)が我ら伊勢攻略の軍勢に加わるという噂もある。美濃へ赴くことは避けられまい。」

 吉川は苦虫を嚙み潰したような顔でもって言った。彼は黒田長政に対する返書を丁寧に認め、家臣三浦常友に持たせた。

 結果論にはなるが、この大戦中の吉川の態度は終始あいまいであった。彼個人の感情としてはそもそも毛利中心に西軍を立ち上げること自体が不本意であった。西軍結成を止められなかったとしても、毛利軍が東軍とぶつかり合うことなく和睦に持ち込みたかった。しかし、戦意旺盛な大将秀元や他家の目を気にしなければならない状況、そして吉川自身が毛利家の軍事顧問として前線に送り出されている事実が彼の態度を煮え切らないものにさせた。

 彼自身、元来軍事専門の将であったために多少武骨な面があり、二枚舌でもって複雑な局面を乗り切るほどの器用さは持ち合わせていなかった。結果的に吉川の外交の不味さが戦後の毛利家の処遇に大きく響くことになる。

 

 九月一日に江戸を発ってからの家康の行軍は迅速で、九月三日には小田原、九日には岡崎にまで至っている。

 行軍は迅速にすべし、というものは彼が生涯を通じて戦について得た知見の一つであった。織田信長武田信玄等、彼が人生において関わってきた名将はここぞという時に軍の機動力を発揮し、勝利してきた。

 彼も人生の後半においてそれを発揮し始め、甲斐をめぐっての後北条氏との戦いや、秀吉との小牧長久手の戦いにおいて勝利している。(この二つの戦いが家康の戦上手としての地位を決定づけたと言っていい。)

 家康麾下の三河武士団は強行軍に慣れていたので、これほどの進度は苦にすることもなく、粛々と行軍した。

 家康は小田原、岡崎間を行軍中、大津の京極高次が西軍を離反し、籠城した報せを受けた。

「戦の怖さが遅れてやってきたな。」

 家康はカラカラと笑った。西軍は家康が畿内を空にしている間に、家康を公儀から追放の上、新政権を発足させ、軍事上は「西軍」を結成した。この「西軍」は家康ら上杉征伐軍が遠く関東にいる間はなるほど、周辺大名の支持を得たかも知れぬ。しかし、東軍として畿内へ舞い戻り、家康らと戦わねばならぬという実感が湧いたとき、例えば京極高次などは現実としての死の恐怖が呼び起されたのだろう、と家康は思った。

「今、軍を率いている世代は実戦経験の浅い者も多い。今後もそのような将が出てくるだろう。」

と家康は予想していた。

 果たして、予想はあたった。

 西軍に属している小早川秀秋から、東軍に寝返りたいという旨の密書が送られてきたのである。家康はその書状を遠江掛川に滞在している間に受けた。

(どうするかな。)

 本来なら、このような機微を要する案件はすべて本多正信に相談するが、彼は中山道を進む秀忠の補佐役につけていたため不在であった。井伊直政福島正則らと共に先発させていた。

 家康は熟慮の結果、黙殺することに決めた。

 一万五千の寝返りの申し出を蹴った理由として、徳川が小早川家と外交上関わったことが無いということが大きかった。

 毛利家において徳川家と折衝してきたのは徳川派の吉川と福原であり、小早川家は徳川家との外交ルートを持たなかった。それだけに家康はこの俄かな接触を信じ切ることができなかった。

 また、この戦の終結後を見据えたとき、家康はできるだけ信頼できる大名のみを加増し、残したかった。小早川には未だ信を置けず、戦後残す気にもなれなかった。

「金吾の一万五千の兵なくても十分勝てるわ。捨て置いて良し。」

 家康は言い放った。この言は半分本心で、美濃の状況からして現在の兵力でも十二分に勝利できると彼は見ていた。彼は小早川の使者に会わず追い返した。

 文字通りの門前払いに、小早川家家老、平岡石見は動揺した。彼は主君秀秋に西軍から提示されているような関白の器がないことを熟知していた。そのため、西軍について関白となり、いずれ破綻するよりも、東軍について確実に勝利し、一領主としての確実な権限を得ることを望んでいた。彼は再三家康に使者を送り続けたが、拒まれ続けたため、送り先を東軍の外交担当と化している黒田長政に変更した。黒田長政は懇切丁寧に対応し、小早川の内応を家康に取り成した。家康もここにきて小早川の受け入れを決め、小早川軍は正式に東軍の内応軍と化した。彼らはまるで西軍にとっての腹中の毒のように近江に滞留している。

濃州山中にて一戦に及び(21)【第二部】

こんばんは。

大谷が松尾山の麓に到着しました。いよいよ本戦の足音が、、、

本戦まであと3、4話ですかね、、、

 

 

 大谷吉継率いる越前方面軍が美濃山中村に到着し、布陣したのは九月二日のことだった。

 彼らは越前において北陸諸侯の調略、および徳川方に着いた加賀前田利長軍の足止めをするため、流言工作などをしていた。彼らの工作が功を奏し、前田軍はこの戦の最中北陸を離れることができないで終わった。

 彼らが布陣した山中村は大垣城から南宮山を挟んでやや西に位置し、伊吹山、南宮山、松尾山、および天満山に囲われた盆地のはずれに位置する村であった。

 そこら一帯の盆地は、当時の呼称では「青野ヶ原」、後世では「関ケ原」の名称で有名であった。中山道、および伊勢街道、北国街道が交差するまさに要衝で、古代の壬申大乱、南北朝時代の青野ヶ原合戦等、過去にも何度か大戦の舞台となっている場所であった。

 大谷らは大垣を囲む東軍諸隊が中山道を抜けて西進してきた際の備えとして山中村に布陣した。

 石田は大垣から山中村の大谷陣を訪問した。大谷吉継の本陣は村に点在するあばら屋を利用して建てられている。(一帯の住民は大戦を予感しすでに退去していた。)

 石田は数ある陣屋のうち、大谷自身の居館となっている小屋を訪れた。

「大谷殿、越前からの後詰め感謝いたす。」

「いずれ合流するのが早まっただけだ。お気に召されるな。」

「そちらの軍の中に京極殿の姿が見えぬが。」

京極高次殿は殿として一日遅れで布陣する手はずとなっている。」

 京極高次は大津六万国の城主である。大谷率いる越前方面軍に属していたが、殿として一日遅れでの行軍をしていた。

 実はこの頃、西軍から東軍に変心し、居城の大津に戻って西軍へ反旗を翻すべく支度をしているのだが、その行動を石田と大谷はまだ知らない。

「石田殿、岐阜が敵に落ちたと聞いた。当初は木曽川一帯を守りとして使う算段であったが、それは適わなくなったであろう。これから敵をどのような策で食い止めるおつもりじゃ。」

「それについての議を交えるべく訪問しました。大垣城に入城した備前宰相様(宇喜多秀家)とも話しあったのですが、まさにここ山中村一帯。青野ヶ原(関ケ原)を要衝とし、大垣と連携して敵を防ぐという策を用いようかと思います。」

「敵が西進するにはここ青野ヶ原(関ケ原)を通らねばならぬ。しかも青野ヶ原は四方を山に囲まれ攻めるに難く、守るには易き場所。よき策と心得る。」

「はい、要は当初の作戦が木曽川の守りから青野ヶ原の守りに代わるのみにございます。さすれば、来たる敵に備えるべく、山中村及び青野ヶ原一帯に陣城を築くようお願いしたい。」

「心得た。我が麾下に伝え申す。」

 大谷は越前方面軍として平塚為広、脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直忠らの大名を従えていた。彼らは翌日以降、青野ヶ原一帯に陣城を築くべく腐心した。

「して、石田殿。物見によると敵はいかばかりか。」

「ざっと五万程かと。」

「大垣の備えは三万、我ら越前からの後詰めは一万。伊勢にいる毛利勢四万がいずれ来るとして計八万か、敵の内府本隊が西進してくるとなると厳しいな。内府本隊は既に江戸を発っただろうか。」

「それはないでしょう。上杉、佐竹が家康を江戸にくぎ付けにして離し申さん。」

「いや、江戸に留守を残しての西進は大いに考えられよう。」

 大谷は往年の家康の戦ぶりを分析するに、彼は軍の機動に関して非常に長けていると感じていた。

 例えば、本能寺の変後、北条軍と甲斐で戦った際は敵の四分の一の軍勢を縦横無尽に駆けまわさせて互角にやりあったし、秀吉を打ち破った小牧長久手の戦の折は、これまた敵より少数ながら機動力を駆使した奇襲でこれを撃破している。

 大谷はこれらの過去から、家康が江戸から電撃的に西進してくることも多分にあり得ると読んでいた。

 しかしこの思考は石田に伝わりにくいようだった。戦術的要素への理解に乏しい彼は、江戸の守りが不安定なまま家康が西進してくることをそこまで想定していなかった。(自身が采配を振るうとしたら、そのような投機的な戦術はおそらく採用しなかったためであった。)

「例え家康が西進してきたとしても大垣及び青野ヶ原には八万の味方がおる故、たやすくは破られまい。睨みあっているうちに畿内に分散せし味方、大坂城の毛利中納言の本隊、地方の上杉佐竹らが後詰めに来るであろう。」

 大谷は石田の弁を聞いて黙った。彼は仮に家康が徳川軍を率いて西進するとなると、徳川軍四、五万の物量に加え、この戦国期において桶狭間の時代からの戦歴を誇る名将家康の武威を恐れ、味方の戦意が喪失することを恐れた。

 しかし大谷は、石田自身が家康の江戸出馬に懐疑的だったため、以上の思考を開示はしなかった。

 彼はもう一つの重要な話題を提示した。一万五千を率いる味方である、小早川秀秋の軍勢が伊勢方面軍から離脱した件についてであった。

 小早川秀秋は秀吉の義理の甥であり、小早川家に養子に出されてはいたが、豊臣政権において一門格としての待遇を受けていた。彼は一九歳という若年ながら筑前筑後六十万国を有しており、率いる軍勢も一万五千人と西軍の中でも指折りの多さであった。

 石田は間の悪い顔をした。七月に西軍結成して以後、伏見城攻め等を通じて小早川とは何度か接触してきたが、彼自身好印象をもっていなかった。

 小早川は酒乱であった。若年にも関わらず以前から酒に溺れる生活をしていたがために体を病み、平時の政務は家老の平岡頼勝が行っている。

 加えて、彼は稀に南蛮から齎される阿片の中毒も患っていた。当然、軍の統率においてもまともな判断は望めそうになかった。

 以上は小早川秀秋という人物の個人的資質の問題だが、差し迫った問題はその小早川軍が伊勢の方面軍を離脱して近江石部の地に滞留していることであった。

「金吾中納言殿は何を考えている。もしや江戸と通じておるのか。」

「有体に言えば小早川軍を統率しているのは家老の平岡石見殿であろう。」

「平岡が江戸の内府に通じている可能性はあるな。」

 石田と大谷は顔を見合わせた。

「とりあえず平岡殿に使いを派遣しよう。」

「うむ。伊勢の戦いからの離脱を問いただすと共に、懐柔として金吾殿に関白の位を約束するがよい。」

「金吾殿に関白だと。」

 石田は怪訝な表情をした。あの酒乱に関白の役が務まるとはとても思えない。大谷は石田の反応を見て補足した。

「なに。建前よ。金吾など戦が終われば煮るなり焼くなりどうとでもなるわ。」

「はっは。相違ない。」

 石田は破顔し、頷いた。

濃州山中にて一戦に及び(20)【第二部】

こんばんは。

一日空きました。今回は閑話休題的に真田にフォーカスして書いています

 

 美濃の戦況が香ばしくなる中、江戸はいつにもまして平和な状態を保っていた。この時期の江戸は灌漑、街道等が整備されておらず、後に事実上の都となるとは想像できない程の鄙地であった。家康は江戸が鄙地であることを承知の上で本拠とした。家臣団の調査の結果、江戸が大都市としての潜在性を備えていることは既に知っていたので、家康は江戸を長い期間かけて開発していくつもりであった。

 尤も、彼の現在の関心事は、江戸の開発よりも目下の西軍を打ち破ることにあった。

 八月二七日、家康は岐阜城陥落の報せを受けた。家康は意外な心地であった。毛利、宇喜多ら西国の大半の大名が西軍になびいている以上、自軍の苦戦を予想していたのである。

(福島、池田らは意外とやる。)

 彼は現在、並み居る大名の中において最長の軍歴を自負していたため、福島正則加藤清正ら若手の武断派の軍才を内心軽んじる傾向があった。しかし、兵力に差はあったといえど、堅城たる岐阜城を一日で陥落させたことで、家康は福島らの評価を上げざるを得なかった。

 しかし、家康は福島、池田に以後の軍事行動は慎み、大垣城を包囲したうえで家康の到着を待つよう指示した。このまま、福島らに大坂まで雪崩れ込まれては彼らの権勢が強くなり、手綱を握り切れなくなる恐れがあった。

 九月一日、家康は徳川旗下三万の兵と共にようやく江戸を出発した。一か月間、北の上杉家の脅威により江戸を発てないでいたが、福島らの奮戦によって美濃の戦況が好転し、家康が加勢すれば打ち払えそうな状況であることと、伊達、最上などの東北の大名によって上杉を封じ込める目途がついたためであった。

 家康は八月の時点で三万八千の徳川兵を息子秀忠に率いさせ、中山道を進ませていた。彼らは中山道の途中に位置する信州上田を攻略する任務があった。

 信州上田は真田家の領土である。真田家は一家で東軍、西軍に分裂していた。当主昌幸とその次男、信繁は西軍への味方を表明して上田の城に起居しており、長男信幸は東軍について秀忠に従軍している。

 この真田という数奇かつ魅力的な家について語らねばなるまい。

 真田家は元々信州海野家の流れを組む土豪で、上田のやや北東に位置する真田本城を根拠地としていた。戦国の荒波に飲まれ、所領を一時失うなどしたが、武田信玄に仕えることで旧領を回復したばかりか、大軍略家として天下に名を轟かせたのが昌幸の父、一徳斎幸隆であった。

 一徳斎幸隆は信玄の元、数々の戦に従軍し、武田家中では外様の身ながら、譜代格の待遇を得るまでのし上がった。こうして彼は真田家の基盤を為し、中興の祖と呼ばれるまでに至った。

 彼の後を継いだのは長男信綱であった。彼も武勇知略に傑出した一廉の人物であったが、天正三年、彼および真田家を悲劇が襲った。

 世にいう長篠の戦いであった。詳細は割愛するが、織田家の火縄銃を駆使した巧妙な戦術に信玄の四男、勝頼率いる武田軍は大敗し、真田家も当主信綱および弟の昌輝が討ち死にするという甚大な被害を被った。

 一徳斎幸隆の三男、昌幸は同母兄に前述の信綱、昌輝がいたため、家督を相続することはないとして、他家へと養子に出され、「武藤喜兵衛」と名乗っていたが、兄二人の討ち死にを受け、真田に復姓しての相続となった。

 真田家を相続してからの昌幸はその天賦の才を以て大車輪の活躍を続けた。長篠の敗戦で動揺した信濃、上野の国衆を取りまとめると同時に、上野の北条方の城郭を調略、謀略、夜討ち朝駆け、奇計の類で切り崩し続けたのである。その活躍ぶりは目覚ましく、時の北条家当主、北条氏政をして「真田がおる限り北条は上野に手出しができぬ。」と言わしめた程であった。昌幸の活躍で、武田家は長篠の大敗にも関わらず最大版図を記録した。

 しかし時勢は既に武田にはなく、織田にあった。武田家は天正十年、織田信長の軍勢の侵攻を受け、あっけなく滅亡した。

 武田家の滅亡に際し、それまでの武田家中からは裏切り、降参が相次いだが、昌幸は決して敵になびかなかった。そればかりか在番であった岩櫃城に当主勝頼をいつでも迎え入れる準備をしていた。

 主家、武田を失った真田家はその後しばらく独立し、どの家にも属さない方針をとった。

 これには当主昌幸の意向が大きく働いていた。昌幸は幼少の折から、真田から武田本家への人質として預けられ、甲府で育った。それゆえ亡き主、信玄に接した時間が長く、思い入れも人一倍大きかった。

 また、信玄死後の武田家の哀れなほど悲劇的な末路も、かえって信玄への憧憬を増す要因となった。彼にとって真の主家は信玄率いる武田家のみであり、それ以外に容易に従う気にはなれなかった。

 そのような柔軟性のない家は周辺の強国に併呑されるのがオチだが、昌幸はめっぽう戦が強く、周辺諸国のたびたびの攻略をその都度、鮮やかな軍略でもって撃退している。

 こうして信州上田にて暴れ続けていた昌幸であったが、秀吉から天下総撫時令が発布され、活動に限界を感じて豊臣に従属した。

 秀吉は、深層心理では決して頭を下げない昌幸の心根を見抜き「表裏比興の者」とからかったが、彼は昌幸のそのような武骨な一面を愛し、厚遇した。上田を安堵すると共に、他家と揉めていた上州沼田も真田に封じた。

 豊臣政権における真田の状況は以上の様であった。

 時は遡るが、毛利、宇喜多らが大坂で挙兵し、家康を公儀から追放したとの報を得た際、真田家もまた去就を迫られていた。

 彼らはその報を受け取った際、宇都宮の手前の下野犬伏の地に陣を張っていた。

 当主昌幸、および嫡男信幸、次男信繁は人払いの上、付近の寺にある堂に籠り、今後の真田家の舵取りを議した。

 信幸と信繁には大きな立場の違いがあった。

長男信幸は真田家、徳川家の友好のあかしとし

て妻に家康の養女、小松姫を娶っていた。立場

上、今回の密議でも東軍への加担を表明した。

 対して次男の信繁の妻は西軍首脳の一人である大谷吉継の娘であった。当然西軍へ着くことを主張した。

「声望、石高、権力どれをとっても天下に徳川内府様の右に出るものはありもうさん。当然此度の戦も内府様が勝利されよう。」

という信幸の主張に

「長年政を司ってきた石田様、大谷様が挙兵為されたというのは余程のお覚悟あってこそ。大坂方にこそ大義があるかと。」

と信繁がやり返す。兄弟の応酬はしばらく続いた。たまりかねて信幸は昌幸に尋ねた。

「父上は徳川様と大坂方のいずれに加担されるおつもりで。」

 昌幸はじっと押し黙っていたがようやく口を開いた。

「わしは大坂方につこうと思う。」

 徳川派の信幸はたまらず聞き返した。

「何故にございますか。」

「儂は三方ヶ原の戦いにおいて亡き信玄公の采配の元、内府家康と戦った。武田は大勝し、儂は逃げる家康を追った。その時の家康の無残さは目に焼き付いておる。家康恐るるに足らず。」

「お言葉ですが三方ヶ原のような敗戦を経験されたからこそ、今の強き徳川家があるのではないでしょうか。あの頃の内府様と今の内府様ではわけが違い申す。必ず徳川が勝ちます。大坂に着くのは修羅の道です。」

「修羅の道だろうが何だろうが儂に言わせれば長篠の戦よりはマシよ。」

 昌幸にとって長篠の戦は人生最大の屈辱にして原点であった。彼は人生において修羅場を迎えるたびに兄二人を失った戦を引き合いに出し、「長篠の戦よりはマシよ。」と言っていた。これはもはや昌幸の口癖であった。

 信幸は、時勢がうつろってもなお、信玄時代の感覚でもって生きる昌幸の頑固さをむしろ愛していた。しかし今回においては家康の養女を娶っている彼自身の立場上、父や弟とたもとを分かたねばならなさそうであった。

 こうして昌幸、信繁は大坂方につくことを決めた。彼らは陣を引き払って上田へ帰還してしまった。

 対して徳川に加担することを決めた信幸は、中山道を進む秀忠軍に従軍している、というのが現在の状況であった。

 家康は美濃の戦況が自軍有利になったことを鑑み、上田を攻略予定の秀忠軍に、上田を捨て置いて美濃へと急ぐよう早馬を出した。

 話が前後するが、結果的に秀忠は家康の命令を無視した。真田昌幸のあの手この手の挑発を受けて上田攻めを開始してしまったのだった。しかし昌幸の軍略の前に上田城はびくともせず、家康の再三の督促を前にして美濃へ急行した。戦後家康は自身の美濃行きの命を無視した秀忠に激怒し、一定期間謹慎に処した。

濃州山中にて一戦に及び(19)【第二部】

こんばんは。

前回まで完全に論文調だったので、今回からは人物描写を深めていきたい所存です。

明石全登が新登場人物ですね!

 

 石田率いる美濃方面軍は岐阜城陥落に動揺した。実際に、地味ではあるが、岐阜城の陥落はこの戦いにおける転換点であったといってもよい。犬山城岐阜城。竹ヶ鼻城など美濃城塞群における防衛線は食い破られたといってよく、当初石田が想定していた、畿内を補給線にしつつ、これらの城塞群で敵を食い止めるという作戦は修正せざるを得なかった。

 石田は島左近を含めた少数の供回りと共に大垣から墨俣へ疾駆していた。岐阜城が陥落したという報を受け、美濃各地に点在している西軍を一度大垣へ撤収させなければいけなかった。

 墨俣には主に島津軍千弱が取り残されており、孤軍と化している彼らを一刻も早く救う必要があった。石田たちは田んぼのあぜ道を駆けに駆けた。

 墨俣は揖斐川長良川の中州に位置する要衝で、織田信長が美濃斎藤家を攻めた折には秀吉がこの地に一夜城を築いている。それは彼の大下克上の嚆矢となった功績であり、石田もことあるごとに秀吉から話を聞いていた。

 しかし、今の石田には亡き秀吉の感傷に浸る余裕はなかった。岐阜城を攻略した福島、池田隊から分離した黒田長政率いる支隊が墨俣一帯にはびこる島津軍を駆逐せんと今まさに進軍している最中であったためである。

 島津軍は兵一人が上方の武者の三人分の働きをすると言われるほど勇猛であったが、如何せん千弱の寡兵であった。対して黒田長政軍は一万強であり、さすがにかなわないとみて撤退の準備をしている最中であった。

 石田は墨俣の島津陣に維新義弘の姿を認めると馬上のまま駆け寄った。

「維新殿。ここはもう支えきれぬゆえ。速やかに大垣へ撤退されよ。」

 それに対し、義弘は若干顔をしかめた。戦況は絶望的だが、神懸かり的な戦果を残し続けてきた歴戦の古豪である彼が、史僚あがりである石田から「退け」と言われるのは、(悪い言い方をすれば)癪に障るものがあった。

 しかし、事実は事実として、目の前の状況は撤退以外考えられないほど差し迫っていた。維新は「承知しており申す。」と大声で石田に返事し、撤退の下知を振るい始めた。

 石田は島津維新の微妙な表情から、先の自身の言が若干不味かったことを察した。彼は自身が忌憚のない性格故に、加藤清正細川忠興に代表されるような武人の遺恨深い気質が理解できなかった。今回の義弘とのやりとりもその延長にあると言っていい。

 石田はそのまま墨俣の北に陣を構える小西行長の陣にいって撤収の督促をしなければならなかったが、島津への配慮として、自家の家老である島左近を島津軍に預けた。島の働きもあり、島津軍は無事大垣へ撤退することができた。

 

 福島、池田らの奮戦により、岐阜城は陥落し、連鎖的に犬山城も東軍側に寝返った。これにより美濃の情勢は大きく東軍有利に傾いた。

 石田は焦った。福島ら東軍諸将の軍勢は合わせて五万を超え、それに対し西軍の美濃方面軍は石田、小西、島津および他の美濃国主の軍勢合わせて一万五千ほどしかいなかった。彼は毛利、吉川らの伊勢方面軍および大谷ら越前方面軍に合流を求めた。

 島津維新は狼狽する石田を若干、歯がゆい面持ちで眺めていた。

 なるほど石田が立てた戦略、つまりは畿内を静謐にして補給を張り巡らし、東軍を迎撃するという戦略自体は悪くはない。しかし、それを実行するならばいつ敵が防衛網に迫ってくるかを注視しなければいけなかった。防衛網が完全に構築される前に突破されては敵の後手に回ることは明白であり、石田は一番重要な敵の動きの捕捉をおろそかにしたと島津維新は思った。

 島津と石田では根本的に戦へのアプローチが大きく異なっていた。島津は幼少の頃より戦に明け暮れ、こなした戦の中には、少人数で大勢を打ち破らなければならない戦も多かった。

 その中で彼が編み出した戦の方法論は、ずばり「将の撃破」であった。

 例えば百人で千人の敵を相手にするにおいて、百人に勝機があるとすれば敵の大将の首をとることであった。いかなる剛の者でも正面から戦って十倍の敵を討つことはできないことを彼は現場で体感していた。その点、いかに敵の数が多かろうと敵の司令官の数は一人(中枢のピラミッドの頂点に位置する人物はおそらく一人)であり、島津義弘は厳しい戦に際しては乾坤一擲、敵の大将の首をとることに目標を絞った。

 石田は戦に深く関わりだしたのが豊臣政権後期の、天下統一事業においてであり、従軍した戦は大をもって小を併呑する戦ばかりであった。自然、島津のように小で大を打ち破るような戦略思考は育まれにくかった。その代わり、兵站を主に任された彼は補給に関するスペシャリストであり、兵站、補給についての考えが同時代の武将と比べ、はるかに進んでいた。

 彼は戦を、感覚的には面で捉えていた。例えば今回の戦に際しても、大坂城を本拠とし、そこから京、大和を通過して近江、越前、美濃、伊勢へと延びる補給線を想像し、それらが相互に連携して面になることで強固な防衛網を構築する想定であった。このような戦略の立て方は中世というよりはもはや近代の軍事に近い概念であり、島津維新のような乾坤一擲で将の首を狙うような戦とは真逆であった。

 しかし、肝要なのは、この時代は将の首をとるという行為が近代より有効であること、また軍が(戦国期でだいぶ組織化されたとはいえ)近代に比べると十分に組織化されていないがために、戦そのものに不確定要素が多いことであった。それがどういうことかというと、戦術によって戦略が覆る可能性を多分に含んでいるということであった。

 島津義弘は生涯において右記のことを体現し続けてきた人物であったため、石田の采配を鼻白む思いで見ていた。

 

 美濃大垣に籠る石田の救援要請に真っ先に応じたのは備前五十五万国の主、宇喜多秀家の軍勢だった。一万五千の軍勢を有する彼の軍は西軍でも最大勢力であり、単独で行動していた。尾張と伊勢の境に位置する長島城を攻略途中、岐阜城が陥落したことを聞き、大垣へと急行した。

 宇喜多秀家は前述の通り、慶長四年の初めにお家騒動を経験している。この時、家康の恣意的制裁により、家臣団が大量に流出したことは述べた。それゆえ、西軍の中でも反徳川の感情はとりわけ高いほうであり、宇喜多自身、積極的に加担していた。

 しかし、軍団の方まで戦意旺盛とはいかなかった。家臣団が大量に流出したため、一万五千の軍勢を編成するために大量の浪人を登用せざるを得ず、軍の質は低い。実質八千程度の戦力と見て良いだろう。これらを統括する侍大将、明石全登が器用かつ戦上手であることが救いであった。

 明石は敬虔なキリシタンである。彼は今回の大戦で功績をあげ、主人宇喜多の権限を高めたうえでキリスト教の全国許可を得るつもりであった。(キリスト教は秀吉の統治の元禁教とされていた。)彼にとってこの戦は聖戦であり、必ず勝利する必要があるものだった。

 宇喜多軍は驟雨の中、大垣に到着した。石田は島を伴って大手で出迎えた。石田が宇喜多らに感謝の辞を述べるのをよそに、明石は石田家の軍事顧問を務める島に歩み寄った。

「ここら一帯は河と葦が多い。うまく使えそうですな。」

 島は地形を一目見ただけで戦術に繋げる思考を持つ明石の慧眼に驚いた。が、島も同じ思いだった。

「大垣の北に杭瀬川という川があり申す。河瀬には葦が生い茂り、意外と川底も深い。兵を伏せて戦をするには絶好の場所ですな。」

「如何にも。敵に仕掛ける折は私もお連れください。」

 明石は「ゼウスのご加護を以て・・」と言いかけてやめた。島は熱心な浄土教徒であった。

 宇喜多軍の大垣入城で大垣城に詰める兵は三万を超えた。これは大垣城の収容人数を大きく超えており、ある程度の軍勢は大垣周辺に転宿した。

 ともあれ、美濃に集結した西軍が三万を超えたことに石田は安堵した。岐阜城を落とした東軍は約五万であり、劣勢には変わりないが大垣城をうまく使えばしのげないこともなかった。石田はいずれ来るであろう越前方面軍、伊勢方面軍を待った。

濃州山中にて一戦に及び(18)【第二部】

こんばんはー

 

過去の連載読み返していたら、ちょくちょく整合性が取れないところ(真田信繁が上杉討伐に従軍していなかったり)があるので訂正していきますね

 

今回は岐阜城攻めの下りです。割と省略気味です。次回からガッツリ目で描写するつもりです

 

 

 西軍は前述の通り、伏見城を陥落させた後軍を越前方面、美濃方面、伊勢方面の三つに分割した。

 そうして畿内を西軍一色に平定した後、美濃大垣あたりで合流して尾張に雪崩れ込む算段であった。

 実際には、尾張清洲城主の福島正則の調略を同時並行的に進めていた。八月中旬の時点で福島正則他多数の東軍諸将が清洲上に集結しているという情報は西軍首脳部も把握していた。

 しかしながら、それらの将に去年の石田弾劾事件の中心的人物が多く含まれること、石田が西軍の統括に大きく関わっていることから調略に大きな期待は望めなさそうだった。

 石田は美濃方面軍に先行して単身美濃に向かい、各城主を調略して回っていた。美濃は織田信長が天下統一に際し、当初根拠地とした場所であり、織田、羽柴恩顧の大名を多く抱えていたがために比較的調略はうまくいき、八月中旬には大部分の国主を西軍に引き入れることに成功していた。具体的には、美濃の中心に鎮座する大垣城岐阜城をはじめ、それらを支える犬山城、竹ヶ鼻城を手中に収めた。

 位置関係としては木曽川の上流から犬山城岐阜城、竹ヶ鼻城の順番で築かれている。また、木曽川の河口には伊勢長島城が位置しており、前述した三城と合わせ、尾張の清須城を取り囲むかのような配置となっていた。西軍はこれらの諸城に軍勢を詰めて清須城を圧迫する作戦をとった。

 しかし美濃方面軍の誤算は、清州に敵方が予想以上に多く、迅速に集結していることであった。このままではいつ美濃の防衛網を食い破られるかわからず、石田は毛利、吉川、小早川らの伊勢方面軍、大谷が管轄する越前方面軍に合流を督促した。

 

 一方、東軍諸将が数多く集結する清須城も円満な雰囲気ではなかった。

 江戸の家康本軍がなかなか出立する様子を見せなかったためである。

 福島、池田、黒田など、徳川家の縁戚を主力としたこの軍はある程度戦意も旺盛であったが、石田らが発行した「内府違いの条々」は目にしており、自分らが逆賊となりかねない危険性は察知していた。それだけに彼らは家康が臆して自分たちを尾張清洲に捨て置くつもりではないかと危惧した。

 彼らをなだめるのは、彼らに同行した井伊直政の役目であったが、井伊はそのような、人をなだめる役割が唯一苦手であった。平時の彼は徳川家中にあってどちらかというと武断派としての威厳をもって場を鎮める役割を求められており、彼は福島、黒田といった自分と同じく尚武の気質を持った将をなだめるのに苦労した。(普段、主にそれは本多正信の役割であった。)

 ともあれ、井伊が苦労して彼らを抑えているうちに、江戸から家康の急使が来た。口上を任せられたのは村越茂助という取次、折衝に慣れている武者で、彼は福島、黒田、池田らの前でつらつらと口上を述べた。

 口上の内容は、要約すると

・家康は伊達、上杉への工作のためこの一週間江戸を離れられなかったこと

・まもなく家康は江戸を出立すること

・かくなる上は各々先んじて美濃尾張にて戦端を開くべし

という内容だった。特に三つ目の煽情的とも言える内容は、福島らを焚きつけて自ずから戦端を開かせる意図があり、ある種、家康の賭けであった。実際、一、二つ目で書いたように家康は直ちに江戸を離れられず(家康が江戸を出立すると決めたのは上杉が最上と開戦し、江戸には攻めてこないということが確定した九月一日のことであった。)彼としては清洲の諸将にはやめに戦端を開いてもらい、西軍の防衛線を踏み破ってもらいたかった。

 結果的に、家康の思惑どおり福島、池田、黒田らはすっかり戦をする気になり、美濃の城郭を収めた地図を指しながらあれこれと活発に議論を始めるに至った。

 軍議の結果、福島正則率いる軍勢は木曽川下流を渡河し、竹ヶ鼻城を抑えつつ岐阜城を目指し、池田輝政率いる軍勢は木曽川の上流を渡河して岐阜城を攻めることに決まった。

 軍議の最中、福島は池田の物言いが気に入らなかったのか、言いがかりをつけ、どちらの軍勢が岐阜城を陥落させるかの勝負を池田に申し入れた。池田輝政も断っては自らの武が廃ると思いこれを受けたが、内心馬鹿馬鹿しい気持ちだった。仮に今回の戦、大坂方と徳川方の戦に勝利し、石田らを駆逐すれば徳川の婿である池田、福島らが加増し大身になるのは既定のことであり、ならば今彼らが為すべくは一致団結して目の前の敵を打ち払うことである。それにもかかわらず小さな見栄を気にして下らぬ勝負を挑む福島を、池田は見下した。

(まさに匹夫の勇よの。)

とまで池田は思った。

 池田と福島に関して、おもしろい逸話がある。

 関ケ原の大戦後、福島は安芸五十五万国、池田は播磨五十万国のそれぞれ大加増となった。福島は岐阜城攻めの折から池田のことをよく思っておらず、播磨五十万国を貰った池田に対し「わしは槍先で国をとったが、そなたは逸物でとったのう。」と発言した。

 これは、自らは武働きで国を貰ったが、そなたが立身したのは家康の婿であるが故であるという嫌味である。これは当時、人刃沙汰になってもおかしくない程の嫌味であったが、池田は激することなくこう言った。

「いかにも、拙者は槍先ではなく逸物で国をとった。槍先であれば天下を取ってしまうからのう。」

 これには福島も一言も反論できず、つまらない顔をするのみであった。

 池田輝政はこのように、事を俯瞰するのに長けた人物で、物事に対してあまり深いこだわりをもたず、諧謔も解する人物であったため、家康も自派の将として重宝した。さらに、彼はそれらを理論的にではなく、感覚に頼って行う人物であったため、武断派の将からも信頼を得やすかった。

 その池田は二万の軍勢を率い、木曽川の上流から渡河を試みた。渡河して攻撃目標である岐阜城に進軍するためであったが、対岸には岐阜城主、織田秀信の軍勢が防御態勢を整えて布陣している。 

 織田秀信、とは織田信長嫡流の孫である。今でこそ美濃の一城主に成り下がっているが、仮に織田信長が天寿を全うしその後も織田の天下が続いたならば池田や福島らを顎で使える権勢の持ち主であったはずである。

 その織田秀信の軍勢に対し、何の遠慮もなしに攻めかかるあたりにこの時代の武士の気質が見れる。織田の権威はすでに失墜しており、過去の人、過去の大名であった。

 池田軍、二万に対し織田軍はたった九千であり、一刻も立たず勝敗は決した。むろん池田軍の大勝であり、織田軍は算を乱して岐阜城へ敗走した。

 下流から木曽川を渡河した三万の福島勢も、竹ヶ鼻城を陥落させ、破竹の勢いで岐阜城へと迫った。

 翌日、福島勢と池田勢で競うように岐阜城攻めが行われた。織田勢は寡勢なりによく耐えたが、衆寡敵せず、降伏した。攻め手の諸将には切腹を迫る声もあったが、やはり織田信長嫡流を敗死させるのは気が引けるとしてとりあえず高野山に追放するという措置をとった。

 なお、本丸に一番乗りを果たしたのは池田勢であったが、池田は福島が癇癪を起してつまらぬ騒ぎを起こすのを嫌い、一番乗りの功をあっさり彼に譲った。こうして岐阜城は陥ちた。

濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】

えーこんにちは

 

関ケ原本戦に入ってからわりとだらけるかと思ったら、意外とサクサク進みます(筆が)

本稿では、家康の小山評定なるものは存在しなかったという仮定の下、進めさせていただきます。

 

 細川討伐と伏見城攻めをもって西軍は軍事行動を開始した。編成は以下の通りである。

 伏見城攻撃部隊・・・宇喜多秀家小早川秀秋小西行長大谷吉継毛利秀元島津義弘、長曾我部盛親、立花宗茂

 細川討伐部隊・・・小野木重勝織田信包、前田茂勝

 西軍の基本作戦は、まず畿内の制圧と安定であった。家康が西進してくることを予想し、美濃尾張までを制圧して防衛線としつつ、畿内全体に巨大な補給線を張り巡らして戦うという作戦を立てていた。

 この作戦を立てたのは石田三成であった。彼は軍事戦略に関して、補給を中心に考える点、多分に近代的な考えを持っていたといっていい。この時代の戦いにおいて、補給を中心に据えた戦略はいまだ一般的ではなかった。日本という国が山がちであるがために長距離の陣替えが難しく、長期的な滞陣が困難であったことが理由として挙げられる。

 石田は、豊臣秀吉の天下統一事業に際し、主に補給の確保に充てられたことが多かったため、この点誰よりも補給について深く理解していた。彼が補給を含めた近代的な思考を持っていたことは、このことに起因すると考えてよい。

 伏見城を攻める西軍の数は八万を超えた。想像以上の数に伏見城城番鳥居元忠は面食らったが、彼は忠烈で知られる徳川三河武士団の中でも家康幼少の時から付き従う古参中の古参中であったため、手持ち千八百の兵で十日粘った。粘った末にどうとも敵を防げなくなり、八月一日に全兵玉砕した。鳥居自身は当時豊臣家の鉄砲組頭を務めていた雑賀孫市に打ち取られた。享年六一年と言われる。

 

 石田はともあれ伏見城が陥落し、京大坂が西軍の支配下に収まったことに満足した。次の段階として、彼は軍勢を三つに分けた。一つは大谷率いる越前方面軍、もう一つが毛利秀元率いる伊勢方面軍、最後の一つが、石田が率いる美濃方面軍であった。

 彼はこの三つの方面軍が各担当国を平定したあと、尾張にて合流し、分厚い畿内の補給線の元で家康を尾張で迎え撃つという戦略を描いていた。

 大谷吉継や、伏見城攻めの実質総司令官であった宇喜多秀家もこの作戦を支持した。しかし島津維新、立花宗茂といった九州の名将たちはこの作戦に半ば懐疑的であった。

 島津、立花ともに戦では少数の兵で大勢を打ち破ることを得意とした。さらに概念的に言えば、彼らは戦術で戦略を打破し続けてきた将たちであった。それだけに石田の戦略先行主義が理解できず、もっと単純に言うならば「これだけ兵站を強固しようがしまいが一たび戦で大利を得れば良いだけの話ではないか。」という心地でいた。

 しかし島津勢はわずか千五百程度、立花軍も三千程度であったため、彼らは西軍の中において強い発言権を有さなかった。もっとも彼らも石田の戦略について彼に口論を挑むほどの嫌悪は持ち合わせていなかったので、それに従った。

 

 伏見城が陥落したのは八月一日のことだが、家康は石田の挙兵を七月一五日の時点で聞いている。

 当初、石田と大谷は佐和山で挙兵し、これは彼ら単体の謀反であるかの様に思われた。実際これは安国寺およびその主家である毛利と画策したものだったのだが、そうとは知らない増田長束ら奉行は、石田大谷の謀反の動きを江戸の家康に報告していた。

 この報告には家康も面食らった。石田、大谷の兵力を合わせても高々八千程度であり、畿内の真ん中で謀反を起こすのは無謀以外の何物でも無いからである。

 家康はむしろ石田、大谷にいずれの勢力が与しているのかを気にした。前田は当主の母、芳春院を人質とし、毛利は不戦同盟を交わし、宇喜多は家中分裂に付け込んで骨抜きにしたつもりであった。

 毛利家家老の吉川広家から榊原康政宛てに書状が送られてきたのは七月二〇日のことであった。そこには毛利家、宇喜多家、小西家といった西国の大名がことごとく家康を弾劾し挙兵したという戦慄すべき内容が書かれていた。

 さらに驚いたのは、大坂において毛利主導による新政権が発足し、石田草案のもと家康を公儀から追放の上、弾劾する書状が全国の諸大名にばらまかれているということであった。

 この弾劾状は「内府違いの条々」と呼ばれ、家康の元にも届けられた。これが二三日のことであり、家康は上杉勢と対峙するため、宇都宮まで進軍していた。

 その弾劾状を家康は陣屋で読んだ。陣屋には本多正信井伊直政しかおらず、体面を気にする必要がなかったため、家康は気を静めるために「エイッ」という掛け声のもと、俄かに抜刀して目の前の虚空を切った。脂汗を流しながら肩で息をする家康の背に本多正信が話しかけた。

「恐れながら、上杉討伐軍はここで解散とし、一旦諸将を領地へ帰すべきかと存じまする。」

「それでは諸将はことごとく大坂方に奔るのではないか。」

「弾劾状はおそらく上杉討伐軍に従軍している者たちも手にして居り申す。このまま戦っても諸将の迷いを残したまま戦うことになり申す。」

 家康は考え込んだ、この状況下では本多佐渡の言うことが最もであるかのように聞こえた。

 その時、ずっと押し黙っていた井伊が口を開いた。

「恐れながら、戦には勢いというものがあり申す。われらは討伐軍として一軍を為しております。この一軍をそのまま西に向け、並み居る大坂方をなぎ倒して大坂城になだれこむしかありますまい。」

 家康は二人の意見を聞いて熟慮した挙句、井伊の戦勘を信じることにした。

 彼は上杉討伐に従軍している諸将のうち、徳川家と縁戚である将、すなわち池田、福島、黒田を宇都宮の徳川陣家に呼び出した。そして、周知のとおり大坂が毛利らに乗っ取られ、自身が豊臣公儀から追放されたこと、そしてかくなる上は大坂奪還のため西上する意向を告げた。

 池田、福島、黒田の三将は、自分らも賊の汚名を着せられることを心配しつつ、去年石田三成を襲撃した以上、現在の大坂方に寝返ったところで自分たちに明るい未来はないことを理解していたので、家康の意向に従うことを決めた。

 彼らは徳川家の勇将、井伊直政本多忠勝を伴って先発して西上することとなった。ほかに細川忠興藤堂高虎加藤嘉明ら昨年石田三成を襲撃した大名、および山内一豊東海道を領地に持つ大名が彼らに従った。(家康とこれらの将からなる集団を以後東軍と呼ぶ。)