黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(14)【第一部完】

こんばんは

 

関ケ原シリーズですが、これをもって第一部完結となります。

正直、一部だけで終わり!なんて事態になりかねませんが

今まで読んでくれている方、本当にありがとうございます。感謝いたします。

 

 大谷は石田から俄かな挙兵の告白を受け、少しの間、沈黙した。

 正直言って、大谷にとって慮外のことであった。彼は親徳川派として近年、中央政権に深く関わっており、あらゆる情報を耳にしていた。その中には前田や上杉の謀反の動きのような「きな臭い」挙動も含まれていた。しかし、大谷は石田の、そのような動きを聞いたことがなかった。

「私が徳川様に抜擢されたことを知って言っているのかね。」

「無論、知ったうえです。」

「なぜ徳川殿を討伐しようとなさる。」

「徳川の天下簒奪の意思は明らかです。前田、上杉への謀反の濡れ衣をかぶせるに始まり、諸将への私的な婚姻の数々、無断の褒賞。これらを弾劾するため挙兵せん。」

「太閤殿下ご存命の折から思っていたが、石田殿は才幹すぎる故にたまに突飛な思考にたどり着く。聞くところによると、信長公を討った明智儀もそうだったという。故に信長公への謀反というような思考の飛躍に至った。貴殿は明智に似ているのかも知れんね。」

「はっは。そうやも知れんな。」

「たかが佐和山十九万石で何の勝算がある。」

「既に毛利と約定を交わしている。」

 大谷ははっと目を見開いた。彼の脳裏に、あの胡散臭い顔をした禅僧が浮かんだ。

「安国寺を抱き込んだか。」

「毛利も親徳川派と反徳川派で割れている。反徳川派の安国寺は親徳川派の吉川広家の台頭をよく思っておらぬ。そこに付け込んだ。」

「されど毛利独力では徳川に太刀打ちできまい。」

「宇喜多、小西、島津維新らはすでに同心しておる。宇喜多中納言様が徳川内府をよく思っておられないのは大谷殿もよくご存じであろう。」

 宇喜多家が秀吉死後、家宰長船紀伊守の専横をめぐって家中不和に陥っていたことは述べた。この家中不和は深刻であり、長船を快く思わない戸崎達安、宇喜多詮家らは慶長四年に長船を毒殺するに至った。また、彼らは長船が抜擢した中村次郎衛門の処刑を当主の宇喜多秀家に求めたが、拒否されると大坂の宇喜多屋敷を占拠して立てこもるという慮外の挙に出た。

 大谷はこの騒動に対して奉行の一人として仲裁にあたっていた。

 大谷は双方の言い分を聞いたうえで、当主秀家側に有利な裁定を下すよう決定していた。結局のところ、戸崎らの行動は徒党を組んでの強訴であり、これを公儀が認めることは多分にアナーキーであった。

 しかし、決まりかけていた大谷の裁定を家康は鶴の一声で引っくり返した。戸崎らの言い分を認め、中村を蟄居させるとともに、戸崎をはじめとする宇喜多家の有力家臣に宇喜多家を出奔させ、こぞって徳川傘下に吸収したのである。これは徳川による専制体制を強化するため、宇喜多家の弱体化を図った家康の恣意的な決断であった。

 宇喜多秀家が家康を深く恨んだことは言うまでもないが、大谷もこの件で家康に不信感を抱いた。結局家康の頭にあるのは徳川の権力を高めることだけであり、豊臣恩顧の自分も走狗として利用されつくした後は煮られのではないかと感じたのである。

 しかし、だからと言って大谷は石田の挙兵に同調する気にはなれなかった。現行体制では徳川家の権限に依存しなければ天下を収めていけないのも事実であるし、何より徳川家の専横を弾劾してこれを討伐したところで代替の安定政権を築けるとは思わなかったためである。

「石田殿。今、徳川家を滅ぼしてもよりよい政を行えるようになるとは儂は思わぬ。混沌を導くのみぞ。徳川殿の政事構想を聞いているか。現在の中央集権を解消し、地方の大名に権限を委譲し、半ば独立させるという、かねてより儂と石田殿が描いておった構想に近い。」

「それに関する徳川殿のお考えは知っている。」

「なればこそ、徳川殿もいずれお主を奉行として復帰させる気でいる。徳川殿のもとでまた辣腕をふるえばよいではないか。」

「しかし、それは果たして豊臣の天下と言えるのか。」

 石田は言った。

「徳川様とて豊家を弑するおつもりはあるまい。」

「そうやもしれぬ、しかし現状、豊臣に天下人としての力も威もあるまい。天下万民、徳川を天下人だと思って居る。」

「それは」

 「世の摂理であり、仕方ないではないか。」と大谷が口を開きかけたところで、石田が畳みかけた。

「それが儂には耐えがたいことなのだ。」

 その口調には、大谷が知る石田とはまた別種の重みが込められていた。

「わしもかつては大谷殿と同じ意であった。例え徳川の天下となろうとも、等しく善政がしければよいではないかと。豊家も滅びるわけではなく、平和裏に禅譲がなれば良かろうと思っていた。しかし、毛利、前田、宇喜多らが徳川に屈伏していくのをこの佐和山で眺めていた時、豊臣から徳川の世になることを実感したとき、尋常ならざる耐えがたさを感じたのだ。やはり儂は徳川が天下を簒奪していくのを黙って見ているわけにはいかぬ。」

 石田三成にとって、豊臣政権とは一つの作品であった。秀吉の天下取りの性格上、天下を収める膨大な量の法度や枠組みを急造せざるを得ず。それらのほとんどは石田を中心に形作られた。それらの作品が徳川の手によって土足で踏み荒らされ、汚されるのはこの男にとって唯一耐えがたいことだった。

 石田の思考は政権運営について常に透明であった。何が最も効率的か、機能的か、正しいか、という尺度によってのみ決まるその思考は至極純粋なもので、例えば豊臣政権にとって石田が死ぬことが有益であると彼の頭脳がはじき出したならば、彼は間違いなく自身の首を掻き切ったであろう。

 しかし彼の思考は透明であるがゆえに、石田三成という個人の人格が介在する余地がなかった。もはや彼は自分の存在さえも天下国家という枠組みにおける一種の機関として捉えているかの様であった。

 大谷は、先ほどの石田の「耐えがたい」という言を聞いたときに、初めて石田の人格に触れた気がした。透明であった思考に、唯一不純なものを感じた。そして、それは石田と半生においてほぼ、同じキャリアを過ごした大谷にとって無視できない価値があるものだった。

 それを感じた時、大谷はこの圧倒的に分の悪い戦に加担することを決めた。