黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(9)

こんばんは。

ようやく石田三成襲撃事件が終わりました。

今回は家康と三成が政治について激論を交わす回です(完全創作ですが)

 

次回からは前田討伐、直江状あたりをすっ飛ばすくらいのテンポで進む予定です笑

 

以下本文です

石田三成は、徳川家康の次男、結城秀康によって佐和山に護送される途上、伏見における家康との会談について回想していた。

細川、加藤らに大坂で襲撃されて以降、彼は佐竹の協力のもと、伏見までたどり着き、自邸でもある治部少丸に手勢と立てこもっていたが、家康、高台院の仲裁の元、武装解除に加え、居城の佐和山に蟄居することとなったのであった。

自身に蟄居という処分が下ったと知った時、石田は愕然とした。弾劾の焦点となっている「蔚山倭城の戦い」の裁定において石田は何ら関連がなく、完全たる濡れ衣なためであった。石田は自身の処分に徳川の恣意的なものが介在しないかを疑った。

向島の内府殿にお会いすることはできるであろうか。」

彼は同僚の増田長盛に聞いた。(彼は奉行として伏見城に登城している最中に、件の襲撃事件に巻き込まれたため、石田と同じく伏見城に籠城していた。)

「図ってみよう。だが、処分の件に関して徳川殿に問いただすとしたら筋違いであるぞ。今回は大谷刑部らも相当尽力してくれたし、徳川殿とて悪意をもって蟄居という裁定を下したわけではあるまい。」

「しかし、今回の件に関して私は濡れ衣であるし、このような力ずくでの強訴を認めては豊臣公儀の威信は地に落ちるではないか。」

石田は食い下がったが、これ以上増田に詰め寄っても無駄だと思い、とりあえずは増田を通じて向島に起居する徳川家康との会談を望んだ。

三月十日、果たしてその希望は容れられ、石田は密かに伏見の城を脱出し向島へと向かった。細川、加藤らの襲撃側は武装解除し始めているとは言え、鉢合わせるのは望ましくないため、伏見の東側から宇治川を伝って向島へと向かった。

「島左、儂が佐和山に蟄居すれば政局はどうなる。」

 石田は宇治川の船中で、同行している島左近に問うた。石田は流動化する現在の政局をできるだけ合理的に整理しようとしていた。

「前田大納言様がつい先日、鬼籍に入られました。殿までも失うとあれば豊臣政権はいよいよ徳川の傀儡と化しましょう。親徳川派である大谷殿が再び抜擢されるでしょう。」

「大谷殿が重用されることに不服はないが、儂の不在を埋めるために井伊や榊原といった徳川の家人も奉行として登用されるであろうな。」

「尤もかと。肥大化した徳川は前田や上杉らと共存できましょうや。」

「まさにそれについてと、徳川殿の今後の政治の理について問いただしに参るのだ。」

石田は自身の処遇の怪に加えて、これを機に徳川が今後どのような政を遂行していくのかについて議論を交わそうと試みていた。豊臣政権が徳川の専制化していく流れはもはや避けようがなさそうに感じたため、せめて徳川の政治、政策理念について忌憚ない意見を聞きたかった。

(驚くほど無私のお方だが。)

 島は主人、石田三成の、政治的に追い詰められてなお、公儀の体制を慮る姿勢に感銘を受けた。

(しかし、宰相の才ともまた異なるな。)

 石田の思考は、純粋な理をもって正解をはじき出す、まるで一種の機関の様であった。人の欲望や弱みを制御しながら政を行う宰相の役割とはまた異質な気がする。

 島は、主人石田三成の才能は秀吉や大谷吉継といった、人の操作に長ける人物と合わさってこそより活かされるものであると感じた。しかし秀吉は既に亡く、大谷も病身である。

 そう考えた時、理と情を程よく持ち合わせた徳川家康は宰相に適任と言えるのかもしれないという思考に島は至った。

 ともあれ、政治に対するアプローチや、大名としての経歴、立場も違う石田と徳川がどのような言葉を交わすのか島は純粋に興味をもった。

 

 石田らは向島の河岸で井伊直政本多正信らの出迎えを受けると、向島本丸の応接の間に通された。

 向島の徳川屋敷は、もとは秀吉が伏見城の支城として築いたものであり「向島城」と呼ばれるほど大規模なものであった。

 徳川家は先の縁組騒動によってその居場所を伏見の城下町から半ば追われる形で向島へ越したが、屋敷の大規模さは徳川二五〇万石の格にはむしろ相応だった。

 家康はやや急かす様な足で応接の間に踏み入れた。

「石田殿。御足労であった。この度はとんだ災難でした。」

「徳川殿。わざわざの御対面、恩に着ます。裁定のことも平に感謝いたす。」

 石田は一通りの社交辞令を言うと、本題を切り出した。

「此度、矢留の斡旋をしてくださった恩は山々なれど、朝鮮の儀に関して、私は一切関わっておりません。それを以て蟄居とはどのような思う仔細あってのことでしょう。」

「貴殿が無実なのは知っているし、仮に関わっていたとしても朝鮮のこと自体は亡き太閤殿下がお決めになったことだ。其方らが罪を被る理屈でないのも知っている。しかし、今回は連衡した大名が多すぎた。加藤、細川、池田、派閥を越えて十を超える大名が参画した。これを治めるのは誰かが詰め腹を斬らんと無理だ。」

「しかし、それでは豊臣公儀として武力による謀反を認めた形になっております。それで政権の体を成していると言えましょうや。」

「左様。成していないのだよ。もはや豊家は政権ではない。統一された意思決定能力が失われているからな。」

 家康は重大な私見を告げると、手元の茶を飲み干した。

「殿下の死によって、政権は瓦解したに等しい。よって政権を新たに再構築する必要がある。近々安芸の毛利殿と徳川で私的な和議を結ぶ予定がある。実質的に毛利は徳川の与力となる覚悟があるらしい。」

「大谷殿が毛利を説得したと聞きました。」

「左様。かくなる上は豊家を関白家として上に戴き、徳川を宰相とした統治を再構築するつもりである。石田殿は不運にも朝鮮の役への不満等を諸将に向けられた立場であるが、一旦自領で謹慎願いたい。そのお力が必要となった暁には政権に呼び戻そう。」

 家康は、石田が朝鮮の役に一貫して反対していたのを知っていたので、朝鮮の役が豊臣政権の失敗であるというニュアンスは濁さなかった。

「私の処分の動機と仔細はわかりました。しかし、政権再構築の表現が気になります。貴殿の構想ではもはや豊家は徳川の傀儡であり、それは豊家の政権と言えましょうや。」

「そなたは『豊家を上に戴き、徳川が宰相として政を主導する』という言葉以上のものを欲さない人物だと思っていたが。ここでは『豊臣の政権』であると言った方が良いのか。」

 家康は秀吉の生前、石田と政治的に接触する機会がほとんどなかったが、朝鮮の役への態度にもみられるように彼には建前の理屈や世辞が不要であることは知っていた。

 石田の言は、執政者として徳川が豊臣をないがしろにすることを危惧してのものであったが、相手に言質を求める問い方は彼らしからぬものだった。石田自身も自ら出た言葉に半ば驚いた。

「いえ、徳川殿が政治的公平性を保てるのかを案じたまでです。」

「徳川も二五〇万石を治める大名故、須らくは不可能であろうな。よって、政権の在り方を変動させる必要があるように思う。織田信長公以来、中央に為政者が君臨し、地方は中央の令を受ける体制が続いた。しかしそれでは中央の揺らぎを全国が諸に被ることになろう。よって、中央が持っていた統治の権限を地方大名にいくらか移譲する必要があるように思う。そのうえで中央は上に豊臣、下に徳川が担う。どうかね。」

 家康は兼ねてから本多正信と共有していた政治構想を石田に話した。秀吉時代の政治を牽引した才子の意見を聞きたかったし、謹慎の身になる石田にこの考えが漏洩することは何ら痛手にならないためであった。

「地方への権限移譲は実は兼ねてから私も構想していたことでした。」

 石田は言った。これは事実で、石田自身もかつての秀吉政権のような中央独裁型の政治の脆さを認識していた。

「徳川殿の構想は徳川殿が豊臣家を弑逆しない限り上手くいくでしょう。」

「それはありえないし、貴殿にはやはり折をみて中央に復帰して頂く。大谷殿はあのような状態だし、有能な奉行は多く欲しい。」

「かしこまりました。佐和山に謹慎中、中央には嫡男の重家を出仕させます。」

「承知した。佐和山へは次子の結城秀康に送らせましょう。人質同然のものと受け取ってもらって構わん。これで細川、加藤も手出しはしまい。」

 

 以上が石田三成徳川家康の会談の顛末であった。島はこの二人が、理でもって思考するところにとても類似するものを感じた。

 島は主人、石田三成が完全に理の人、政治問題に私情を介在させない人であると思っていたが、家康が掲げる政治構想に対しやや難色を示したのは、やはり些か豊家への情があるからなのかもしれないと思った。

 ともあれ、会談はおおむね両者齟齬なく無事終わったことにこの浅黒い肌をした、軍事顧問は安堵した。

 気づけば石田家一行は伏見から瀬田の端のところまで来ていた。石田は、自身を護送した結城秀康に礼として、自らの脇差を抜いて渡した。「正宗」という名のこの脇差は、後世まで受け継がれることとなる。