濃州山中にて一戦に及び(20)【第二部】
こんばんは。
一日空きました。今回は閑話休題的に真田にフォーカスして書いています
美濃の戦況が香ばしくなる中、江戸はいつにもまして平和な状態を保っていた。この時期の江戸は灌漑、街道等が整備されておらず、後に事実上の都となるとは想像できない程の鄙地であった。家康は江戸が鄙地であることを承知の上で本拠とした。家臣団の調査の結果、江戸が大都市としての潜在性を備えていることは既に知っていたので、家康は江戸を長い期間かけて開発していくつもりであった。
尤も、彼の現在の関心事は、江戸の開発よりも目下の西軍を打ち破ることにあった。
八月二七日、家康は岐阜城陥落の報せを受けた。家康は意外な心地であった。毛利、宇喜多ら西国の大半の大名が西軍になびいている以上、自軍の苦戦を予想していたのである。
(福島、池田らは意外とやる。)
彼は現在、並み居る大名の中において最長の軍歴を自負していたため、福島正則、加藤清正ら若手の武断派の軍才を内心軽んじる傾向があった。しかし、兵力に差はあったといえど、堅城たる岐阜城を一日で陥落させたことで、家康は福島らの評価を上げざるを得なかった。
しかし、家康は福島、池田に以後の軍事行動は慎み、大垣城を包囲したうえで家康の到着を待つよう指示した。このまま、福島らに大坂まで雪崩れ込まれては彼らの権勢が強くなり、手綱を握り切れなくなる恐れがあった。
九月一日、家康は徳川旗下三万の兵と共にようやく江戸を出発した。一か月間、北の上杉家の脅威により江戸を発てないでいたが、福島らの奮戦によって美濃の戦況が好転し、家康が加勢すれば打ち払えそうな状況であることと、伊達、最上などの東北の大名によって上杉を封じ込める目途がついたためであった。
家康は八月の時点で三万八千の徳川兵を息子秀忠に率いさせ、中山道を進ませていた。彼らは中山道の途中に位置する信州上田を攻略する任務があった。
信州上田は真田家の領土である。真田家は一家で東軍、西軍に分裂していた。当主昌幸とその次男、信繁は西軍への味方を表明して上田の城に起居しており、長男信幸は東軍について秀忠に従軍している。
この真田という数奇かつ魅力的な家について語らねばなるまい。
真田家は元々信州海野家の流れを組む土豪で、上田のやや北東に位置する真田本城を根拠地としていた。戦国の荒波に飲まれ、所領を一時失うなどしたが、武田信玄に仕えることで旧領を回復したばかりか、大軍略家として天下に名を轟かせたのが昌幸の父、一徳斎幸隆であった。
一徳斎幸隆は信玄の元、数々の戦に従軍し、武田家中では外様の身ながら、譜代格の待遇を得るまでのし上がった。こうして彼は真田家の基盤を為し、中興の祖と呼ばれるまでに至った。
彼の後を継いだのは長男信綱であった。彼も武勇知略に傑出した一廉の人物であったが、天正三年、彼および真田家を悲劇が襲った。
世にいう長篠の戦いであった。詳細は割愛するが、織田家の火縄銃を駆使した巧妙な戦術に信玄の四男、勝頼率いる武田軍は大敗し、真田家も当主信綱および弟の昌輝が討ち死にするという甚大な被害を被った。
一徳斎幸隆の三男、昌幸は同母兄に前述の信綱、昌輝がいたため、家督を相続することはないとして、他家へと養子に出され、「武藤喜兵衛」と名乗っていたが、兄二人の討ち死にを受け、真田に復姓しての相続となった。
真田家を相続してからの昌幸はその天賦の才を以て大車輪の活躍を続けた。長篠の敗戦で動揺した信濃、上野の国衆を取りまとめると同時に、上野の北条方の城郭を調略、謀略、夜討ち朝駆け、奇計の類で切り崩し続けたのである。その活躍ぶりは目覚ましく、時の北条家当主、北条氏政をして「真田がおる限り北条は上野に手出しができぬ。」と言わしめた程であった。昌幸の活躍で、武田家は長篠の大敗にも関わらず最大版図を記録した。
しかし時勢は既に武田にはなく、織田にあった。武田家は天正十年、織田信長の軍勢の侵攻を受け、あっけなく滅亡した。
武田家の滅亡に際し、それまでの武田家中からは裏切り、降参が相次いだが、昌幸は決して敵になびかなかった。そればかりか在番であった岩櫃城に当主勝頼をいつでも迎え入れる準備をしていた。
主家、武田を失った真田家はその後しばらく独立し、どの家にも属さない方針をとった。
これには当主昌幸の意向が大きく働いていた。昌幸は幼少の折から、真田から武田本家への人質として預けられ、甲府で育った。それゆえ亡き主、信玄に接した時間が長く、思い入れも人一倍大きかった。
また、信玄死後の武田家の哀れなほど悲劇的な末路も、かえって信玄への憧憬を増す要因となった。彼にとって真の主家は信玄率いる武田家のみであり、それ以外に容易に従う気にはなれなかった。
そのような柔軟性のない家は周辺の強国に併呑されるのがオチだが、昌幸はめっぽう戦が強く、周辺諸国のたびたびの攻略をその都度、鮮やかな軍略でもって撃退している。
こうして信州上田にて暴れ続けていた昌幸であったが、秀吉から天下総撫時令が発布され、活動に限界を感じて豊臣に従属した。
秀吉は、深層心理では決して頭を下げない昌幸の心根を見抜き「表裏比興の者」とからかったが、彼は昌幸のそのような武骨な一面を愛し、厚遇した。上田を安堵すると共に、他家と揉めていた上州沼田も真田に封じた。
豊臣政権における真田の状況は以上の様であった。
時は遡るが、毛利、宇喜多らが大坂で挙兵し、家康を公儀から追放したとの報を得た際、真田家もまた去就を迫られていた。
彼らはその報を受け取った際、宇都宮の手前の下野犬伏の地に陣を張っていた。
当主昌幸、および嫡男信幸、次男信繁は人払いの上、付近の寺にある堂に籠り、今後の真田家の舵取りを議した。
信幸と信繁には大きな立場の違いがあった。
長男信幸は真田家、徳川家の友好のあかしとし
て妻に家康の養女、小松姫を娶っていた。立場
上、今回の密議でも東軍への加担を表明した。
対して次男の信繁の妻は西軍首脳の一人である大谷吉継の娘であった。当然西軍へ着くことを主張した。
「声望、石高、権力どれをとっても天下に徳川内府様の右に出るものはありもうさん。当然此度の戦も内府様が勝利されよう。」
という信幸の主張に
「長年政を司ってきた石田様、大谷様が挙兵為されたというのは余程のお覚悟あってこそ。大坂方にこそ大義があるかと。」
と信繁がやり返す。兄弟の応酬はしばらく続いた。たまりかねて信幸は昌幸に尋ねた。
「父上は徳川様と大坂方のいずれに加担されるおつもりで。」
昌幸はじっと押し黙っていたがようやく口を開いた。
「わしは大坂方につこうと思う。」
徳川派の信幸はたまらず聞き返した。
「何故にございますか。」
「儂は三方ヶ原の戦いにおいて亡き信玄公の采配の元、内府家康と戦った。武田は大勝し、儂は逃げる家康を追った。その時の家康の無残さは目に焼き付いておる。家康恐るるに足らず。」
「お言葉ですが三方ヶ原のような敗戦を経験されたからこそ、今の強き徳川家があるのではないでしょうか。あの頃の内府様と今の内府様ではわけが違い申す。必ず徳川が勝ちます。大坂に着くのは修羅の道です。」
「修羅の道だろうが何だろうが儂に言わせれば長篠の戦よりはマシよ。」
昌幸にとって長篠の戦は人生最大の屈辱にして原点であった。彼は人生において修羅場を迎えるたびに兄二人を失った戦を引き合いに出し、「長篠の戦よりはマシよ。」と言っていた。これはもはや昌幸の口癖であった。
信幸は、時勢がうつろってもなお、信玄時代の感覚でもって生きる昌幸の頑固さをむしろ愛していた。しかし今回においては家康の養女を娶っている彼自身の立場上、父や弟とたもとを分かたねばならなさそうであった。
こうして昌幸、信繁は大坂方につくことを決めた。彼らは陣を引き払って上田へ帰還してしまった。
対して徳川に加担することを決めた信幸は、中山道を進む秀忠軍に従軍している、というのが現在の状況であった。
家康は美濃の戦況が自軍有利になったことを鑑み、上田を攻略予定の秀忠軍に、上田を捨て置いて美濃へと急ぐよう早馬を出した。
話が前後するが、結果的に秀忠は家康の命令を無視した。真田昌幸のあの手この手の挑発を受けて上田攻めを開始してしまったのだった。しかし昌幸の軍略の前に上田城はびくともせず、家康の再三の督促を前にして美濃へ急行した。戦後家康は自身の美濃行きの命を無視した秀忠に激怒し、一定期間謹慎に処した。