黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(12)

こんにちは

はやめの更新になります。

今回は著名な直江状の回です。直江状の意図とは、、、?

 

    結論から言うと、前田家は家康に屈した。

    謀反の計画が漏れ、家康が前田家の討伐も視野に対策を検討していることがわかると、前田家家老の横山長知は、反徳川派の太田但馬らを徹底的に糾弾した。

    当主利長は三日三晩考え込んだが、母、芳春院の後押しもあり、家康に謝罪し、人質を差し出すことを決めた。これによって前田家は完全に徳川家の傘下に置かれることとなった。

    実質的、豊臣政権で第二の権勢を誇ってきた前田家の屈伏は世間に少なからず衝撃を与えた。大野、浅野の失脚も相まって家康の権限は益々圧倒的なものとなっていた。

「しかし、今回の前田殿の叛意は果たして前田殿のみのお考えでしょうか。」

 本多正信は家康に言った。

「上杉が同時期に帰国しているのが腑に落ちませぬ。」

「前田と上杉とに何らかの密約が交わされ、連衡して兵を興そうと思ったてか。」

「不自然ではないかと。」

 家康は思案した。確かに、前田独力で挙兵を思い立つとは考えにくく、同盟勢力が存在するというのが自然であろう。

「伊賀者に探らせるか。」

 彼はこの件について、伊賀者に探らせようとした。しかし、上杉家も徳川家の伊賀者同様、「軒猿」という強力な忍組織を抱えており、特に直江兼続はその運用と統率を徹底していたため、会津領国の情報をなかなか探れなかった。

 伊賀者を統率する服部半蔵から、会津の上杉家に関する情報が報告されたのは年明けのことであった。

 それによると、上杉家領国の会津では、城や街道の普請、武具の収集、浪人の登用などが積極的に行われており、戦支度さながらの様相を呈しているという。

 家康と本多正信は、前田家が家康に屈してなお、戦の意を捨てない上杉家の方針に驚いた。しかし、ある意味好機とも感じた。前田家同様、恫喝で屈伏してしまえば話は早く、北の上杉家が徳川に従えば主だった大名はすべて徳川の手中に収まったと言ってよい。

 家康は果たして上杉家の大坂在番であった藤田信吉を会津にやった。

 上杉家の家臣団は直江の強権によって反徳川一色でまとめられていたが、例外もある程度いた。藤田はその一人で、徳川との融和を家中に説いて回っていたため直江に冷遇されていた。

 家康はそのことを知っていたため、藤田に「もし上杉を抑えきれなかったときは出奔して徳川家に来るように」と極秘に言っていた。

 

 藤田は会津に帰国すると、身支度もそのままに急いで登城し、上杉家当主景勝に拝謁した。

 そして俄かな城の普請、浪人衆の登用を大坂から不審な目で見られていることを告げ、さらに大坂は景勝、兼続主従の上坂、釈明を求めていることを述べた。

 直江との激論になった。直江は藤田が大坂側に自ら何も弁明しないまま帰国したことを咎め、藤田の方も、謀反を疑われるような直江の施策を責めた。

「ともかく、殿と旦那様に上坂していただかない限り、上杉家は中央から目をつけられたままに御座る。」

 藤田は吐き捨てるように言うと、その場から下がった。直江はその背に向けて

「そなた、徳川の走狗となり下がったか。」

 と怒鳴った。藤田は憤怒の形相で振り返ったが、反論はせず足早にその場を去った。

 その様子をみて、当主の景勝は直江に言った。

「藤田はあの様子だと出奔するのではないか。」

「するでしょう。すでに徳川にかなり入れ込んでいるように見えます。」

「良いのか。」

「むしろ奴が出奔したほうが家中はまとまり申す。捨て置きましょう。」

「上洛の件は如何する。」

「私が大坂に書状を認めます。おそらく戦になるでしょうが、先日お話しした通り、お覚悟はよろしいか。」

 景勝は「うむ。」と一言うなずくとそれ以上不要なことは言わなかった。景勝は上杉家の舵取りをほぼ全て直江に任せていた。景勝は凡庸な大名ではなかったが、直江の積極的で剛毅な性格を前に、政に関して自身が出る幕はないと早々に悟ると、むしろ直江が手腕をふるいやすい環境を構築するのに腐心した。結果、上杉家は執政、直江兼続のもとに団結している。

 徳川との外交についても、直江に開戦する方向性を告げられると、当主として覚悟を決めた。見方によっては直江の傀儡ともいえる当主であったが、名君上杉謙信の次代として、形はどうあれ立派に勤め上げていこうという覚悟をこの主従は共有しており、その信頼感が彼らの関係性を担保していた。

 

 大坂の家康は、上杉家の藤田信吉の出奔と、直江が返事として書状を送ったという報せを受けた。藤田に関しては想定していたことであり特段感想を抱かなかったが、直江の書状は興味の対象であった。

 書状は、上杉家との取次役を務めていた西笑承兌臨済宗の禅僧)のもとに送られていた。家康は承兌を召すと、書状を彼に読ませた。 は淡々と書状を読み始めた。

 

一、東国についてそちらで噂が流れていて内府様が不審がっておられるのは残念なことです。しかし、京都と伏見の間においてもいろいろな問題が起こるのはやむを得ないことです。とくに遠国の景勝は若輩者ですから噂が流れるのは当然であり、問題にしていません。内府様にはご安心されるよう。

一、景勝の上洛が遅れているとのことですが、一昨年に国替えがあったばかりの時期に上洛し、去年の九月に帰国したのです。今年の正月に上洛したのでは、いつ国の政務を執ったらいいのでしょうか。しかも当国は雪国ですから十月から三月までは何も出来ません。当国に詳しい者にお聞きになれば、景勝に逆心があるという者など一人もいないと思います。

一、景勝に逆心がないことは起請文を使わなくても申し上げられます。去年から数通の起請文が反故にされています。同じことをする必要はないでしょう。

一、秀吉様以来景勝が律儀者であると家康様が思っておられるなら、今になって疑うことはないではないですか。世の中の変化が激しいことは存じていますが。

一、景勝には逆心など全くありません。しかし讒言をする者を調べることなく、逆心があると言われては是非もありません。元に戻るためには、讒言をする者を調べるのが当然です。それをしないようでは、家康様に裏表があるのではないかと思います。

一、前田利長殿のことは家康様の思う通りになりました。家康様の御威光が強いということですね。結構なことです。

一、増田長盛大谷吉継がご出世されたことはわかりました。これも結構なことです。用件があればそちらに申し上げます。榊原康政は景勝の公式な取次です。もし景勝に逆心があるなら、意見をするのが榊原康政の役目です。それが家康様のためにもなるのに、それをしないばかりか讒言をした堀監物(直政)の奏者を務め、様々な工作をして景勝のことを妨害しています。彼が忠義者か、奸臣か、よく見極めてからお願いすることになるでしょう。

一、武器についてですが、上方の武士は茶器などの人たらしの道具をもっていますが、田舎武士は鉄砲や弓矢の支度をするのがお国柄と思っていただければ不審はないでしょう。景勝が不届きであって、似合わない道具を用意したとして何のことはありません。そんなことを気にするなんて、天下を預かる人らしくない。

一、道や船橋を造って交通の便を良くするのは、国を持つ者にとっては当然です。越後国においても船橋道をつくりましたが、それは(自分達が)国に移って来た時に全然作られていなかったからで、堀監物は良くご存知のはずです。越後は上杉家の本国ですから、堀秀治ごときを踏みつぶすのに道など造る必要はありません。景勝の領地は様々な国と接していますが、いずれの境でも同じように道を造っています。それなのに道を造ることに恐れをなして騒いでいるのは堀監物だけです。彼は戦のことをまったく知らない無分別者と思ってください。謀反の心があれば、むしろ道を塞ぎ、堀切や防戦の支度を整えるでしょう。あちこちに道を作って謀反を企てたところで、大人数で攻められた護りようもないじゃありませんか。いくら他国への道を造ろうとも、景勝も一方にしか軍勢を出せないというのに、とんでもないうつけ者です。江戸からの御使者は白河口やその奥を通っておられますので、もし御不審なら使者を下されて見分させてください。そうすれば納得されるでしょう。

一、今年の三月は謙信の追善供養にあたります。景勝はその後夏頃お見舞いのために上洛するおつもりのようです。武具など国の政務は在国中に整えるよう用意していたところ、増田長盛大谷吉継から使者がやってきて、景勝に逆心がなければ上洛しろとの家康様のご意向を伝えられました。しかし、讒言をするものの言い分をこちらにお伝えになった上で、しっかりと調べていただければ、他意はないとわかります。ですが逆心はないと申し上げたのに、逆心がなければ上洛しろなどと、赤子の言い方で問題になりません。昨日まで逆心を持っていた者も、知らぬ顔で上洛すれば褒美がもらえるようなご時世は、景勝には似合いません。逆心はないとはいえ、逆心の噂が流れている中で上洛すれば、上杉家代々の弓矢の誇りまで失ってしまいます。ですから、讒言をする者を引き合わせて調べていただけなくては、上洛できません。この事は景勝が正しいことはまちがいありません。特に景勝家中の藤田信吉が7月半ばに当家を出奔して江戸に移った後に上洛したということは承知しています。景勝が間違っているか、家康様に表裏があるか、世間はどう判断するでしょうか。

一、遠国なので推量しながら申し上げますが、なにとぞありのままにお聞き下さい。当世様へあまり情けないことですから、本当のことも嘘のようになります。言うまでもありませんが、この書状はお目にかけられるということですから、真実をご承知いただきたく書き記しました。はしたないことも少なからず申し上げましたが、愚意を申しまして、ご諒解をいただくため、はばかることなくお伝えしました。侍者奏達。恐惶敬白。

        直江山城守

            兼続

慶長

  四月一四日

  豊光寺

    侍者御中」

 

 冒頭は淡々と読み進め始めた承兌だったが、書状の内容の辛辣さから、最後の方は声が震えていた。彼は読み終えると家康の方を盗み見た。

 家康に怒りの感情は皆無だった。皆無だったが、このような無礼な書状を送り付けた直江の意図を瞬時には見抜けず、困惑した。彼は冷静にそれを分析しようとしていた。

 家康はそばに控えている本多正信に尋ねた。

佐渡、この書状をどう見る。」

「無礼千万かと。」

「ではなく、直江の意図よ。」

「上様を立腹させたいように見えますな。少なくとも、天下の宰相として『立腹しなければならぬ状況』に置かせたいのでしょう。これで上杉を討伐しなければ上様の威信は落ちます。」

「戦をしたいてか。」

「はい、加えて、上様自らの討伐を望んでいるように見えますな。」

「大坂に空白を作り、挟み討つ気か。」

 ここで、家康は上杉が謀反を起こしたときに同調する大名を想像した。前田家は既に人質を出して屈伏し、宇喜多家は家中が泥沼の抗争を繰り広げていてとても上杉に与力する余裕はない。毛利家は石田三成襲撃事件の時、徳川と和睦し、屈した過去があった。

佐和山の石田がございますが。」

「わしもそれは考えた。直江と石田の友誼は存じているからな。しかし高々佐和山十九万石に何ができよう。」

 家康と正信は結局、上杉の詳細な狙いをつかみかねた。しかし確かなことは、このような無礼な書状をよこされたからには、家康の威信にかけて日ノ本の大名をことごとく参集し、上杉を討伐しなければならないことだった。

 家康はただちに秀頼に上杉討伐を上奏し、これを認めさせた。そしてと大坂城下に在番している諸将をことごとく参集し、上杉を討伐する旨を告げた。