黒田官兵衛の野望

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濃州山中にて一戦に及び(18)【第二部】

こんばんはー

 

過去の連載読み返していたら、ちょくちょく整合性が取れないところ(真田信繁が上杉討伐に従軍していなかったり)があるので訂正していきますね

 

今回は岐阜城攻めの下りです。割と省略気味です。次回からガッツリ目で描写するつもりです

 

 

 西軍は前述の通り、伏見城を陥落させた後軍を越前方面、美濃方面、伊勢方面の三つに分割した。

 そうして畿内を西軍一色に平定した後、美濃大垣あたりで合流して尾張に雪崩れ込む算段であった。

 実際には、尾張清洲城主の福島正則の調略を同時並行的に進めていた。八月中旬の時点で福島正則他多数の東軍諸将が清洲上に集結しているという情報は西軍首脳部も把握していた。

 しかしながら、それらの将に去年の石田弾劾事件の中心的人物が多く含まれること、石田が西軍の統括に大きく関わっていることから調略に大きな期待は望めなさそうだった。

 石田は美濃方面軍に先行して単身美濃に向かい、各城主を調略して回っていた。美濃は織田信長が天下統一に際し、当初根拠地とした場所であり、織田、羽柴恩顧の大名を多く抱えていたがために比較的調略はうまくいき、八月中旬には大部分の国主を西軍に引き入れることに成功していた。具体的には、美濃の中心に鎮座する大垣城岐阜城をはじめ、それらを支える犬山城、竹ヶ鼻城を手中に収めた。

 位置関係としては木曽川の上流から犬山城岐阜城、竹ヶ鼻城の順番で築かれている。また、木曽川の河口には伊勢長島城が位置しており、前述した三城と合わせ、尾張の清須城を取り囲むかのような配置となっていた。西軍はこれらの諸城に軍勢を詰めて清須城を圧迫する作戦をとった。

 しかし美濃方面軍の誤算は、清州に敵方が予想以上に多く、迅速に集結していることであった。このままではいつ美濃の防衛網を食い破られるかわからず、石田は毛利、吉川、小早川らの伊勢方面軍、大谷が管轄する越前方面軍に合流を督促した。

 

 一方、東軍諸将が数多く集結する清須城も円満な雰囲気ではなかった。

 江戸の家康本軍がなかなか出立する様子を見せなかったためである。

 福島、池田、黒田など、徳川家の縁戚を主力としたこの軍はある程度戦意も旺盛であったが、石田らが発行した「内府違いの条々」は目にしており、自分らが逆賊となりかねない危険性は察知していた。それだけに彼らは家康が臆して自分たちを尾張清洲に捨て置くつもりではないかと危惧した。

 彼らをなだめるのは、彼らに同行した井伊直政の役目であったが、井伊はそのような、人をなだめる役割が唯一苦手であった。平時の彼は徳川家中にあってどちらかというと武断派としての威厳をもって場を鎮める役割を求められており、彼は福島、黒田といった自分と同じく尚武の気質を持った将をなだめるのに苦労した。(普段、主にそれは本多正信の役割であった。)

 ともあれ、井伊が苦労して彼らを抑えているうちに、江戸から家康の急使が来た。口上を任せられたのは村越茂助という取次、折衝に慣れている武者で、彼は福島、黒田、池田らの前でつらつらと口上を述べた。

 口上の内容は、要約すると

・家康は伊達、上杉への工作のためこの一週間江戸を離れられなかったこと

・まもなく家康は江戸を出立すること

・かくなる上は各々先んじて美濃尾張にて戦端を開くべし

という内容だった。特に三つ目の煽情的とも言える内容は、福島らを焚きつけて自ずから戦端を開かせる意図があり、ある種、家康の賭けであった。実際、一、二つ目で書いたように家康は直ちに江戸を離れられず(家康が江戸を出立すると決めたのは上杉が最上と開戦し、江戸には攻めてこないということが確定した九月一日のことであった。)彼としては清洲の諸将にはやめに戦端を開いてもらい、西軍の防衛線を踏み破ってもらいたかった。

 結果的に、家康の思惑どおり福島、池田、黒田らはすっかり戦をする気になり、美濃の城郭を収めた地図を指しながらあれこれと活発に議論を始めるに至った。

 軍議の結果、福島正則率いる軍勢は木曽川下流を渡河し、竹ヶ鼻城を抑えつつ岐阜城を目指し、池田輝政率いる軍勢は木曽川の上流を渡河して岐阜城を攻めることに決まった。

 軍議の最中、福島は池田の物言いが気に入らなかったのか、言いがかりをつけ、どちらの軍勢が岐阜城を陥落させるかの勝負を池田に申し入れた。池田輝政も断っては自らの武が廃ると思いこれを受けたが、内心馬鹿馬鹿しい気持ちだった。仮に今回の戦、大坂方と徳川方の戦に勝利し、石田らを駆逐すれば徳川の婿である池田、福島らが加増し大身になるのは既定のことであり、ならば今彼らが為すべくは一致団結して目の前の敵を打ち払うことである。それにもかかわらず小さな見栄を気にして下らぬ勝負を挑む福島を、池田は見下した。

(まさに匹夫の勇よの。)

とまで池田は思った。

 池田と福島に関して、おもしろい逸話がある。

 関ケ原の大戦後、福島は安芸五十五万国、池田は播磨五十万国のそれぞれ大加増となった。福島は岐阜城攻めの折から池田のことをよく思っておらず、播磨五十万国を貰った池田に対し「わしは槍先で国をとったが、そなたは逸物でとったのう。」と発言した。

 これは、自らは武働きで国を貰ったが、そなたが立身したのは家康の婿であるが故であるという嫌味である。これは当時、人刃沙汰になってもおかしくない程の嫌味であったが、池田は激することなくこう言った。

「いかにも、拙者は槍先ではなく逸物で国をとった。槍先であれば天下を取ってしまうからのう。」

 これには福島も一言も反論できず、つまらない顔をするのみであった。

 池田輝政はこのように、事を俯瞰するのに長けた人物で、物事に対してあまり深いこだわりをもたず、諧謔も解する人物であったため、家康も自派の将として重宝した。さらに、彼はそれらを理論的にではなく、感覚に頼って行う人物であったため、武断派の将からも信頼を得やすかった。

 その池田は二万の軍勢を率い、木曽川の上流から渡河を試みた。渡河して攻撃目標である岐阜城に進軍するためであったが、対岸には岐阜城主、織田秀信の軍勢が防御態勢を整えて布陣している。 

 織田秀信、とは織田信長嫡流の孫である。今でこそ美濃の一城主に成り下がっているが、仮に織田信長が天寿を全うしその後も織田の天下が続いたならば池田や福島らを顎で使える権勢の持ち主であったはずである。

 その織田秀信の軍勢に対し、何の遠慮もなしに攻めかかるあたりにこの時代の武士の気質が見れる。織田の権威はすでに失墜しており、過去の人、過去の大名であった。

 池田軍、二万に対し織田軍はたった九千であり、一刻も立たず勝敗は決した。むろん池田軍の大勝であり、織田軍は算を乱して岐阜城へ敗走した。

 下流から木曽川を渡河した三万の福島勢も、竹ヶ鼻城を陥落させ、破竹の勢いで岐阜城へと迫った。

 翌日、福島勢と池田勢で競うように岐阜城攻めが行われた。織田勢は寡勢なりによく耐えたが、衆寡敵せず、降伏した。攻め手の諸将には切腹を迫る声もあったが、やはり織田信長嫡流を敗死させるのは気が引けるとしてとりあえず高野山に追放するという措置をとった。

 なお、本丸に一番乗りを果たしたのは池田勢であったが、池田は福島が癇癪を起してつまらぬ騒ぎを起こすのを嫌い、一番乗りの功をあっさり彼に譲った。こうして岐阜城は陥ちた。