黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(19)【第二部】

こんばんは。

前回まで完全に論文調だったので、今回からは人物描写を深めていきたい所存です。

明石全登が新登場人物ですね!

 

 石田率いる美濃方面軍は岐阜城陥落に動揺した。実際に、地味ではあるが、岐阜城の陥落はこの戦いにおける転換点であったといってもよい。犬山城岐阜城。竹ヶ鼻城など美濃城塞群における防衛線は食い破られたといってよく、当初石田が想定していた、畿内を補給線にしつつ、これらの城塞群で敵を食い止めるという作戦は修正せざるを得なかった。

 石田は島左近を含めた少数の供回りと共に大垣から墨俣へ疾駆していた。岐阜城が陥落したという報を受け、美濃各地に点在している西軍を一度大垣へ撤収させなければいけなかった。

 墨俣には主に島津軍千弱が取り残されており、孤軍と化している彼らを一刻も早く救う必要があった。石田たちは田んぼのあぜ道を駆けに駆けた。

 墨俣は揖斐川長良川の中州に位置する要衝で、織田信長が美濃斎藤家を攻めた折には秀吉がこの地に一夜城を築いている。それは彼の大下克上の嚆矢となった功績であり、石田もことあるごとに秀吉から話を聞いていた。

 しかし、今の石田には亡き秀吉の感傷に浸る余裕はなかった。岐阜城を攻略した福島、池田隊から分離した黒田長政率いる支隊が墨俣一帯にはびこる島津軍を駆逐せんと今まさに進軍している最中であったためである。

 島津軍は兵一人が上方の武者の三人分の働きをすると言われるほど勇猛であったが、如何せん千弱の寡兵であった。対して黒田長政軍は一万強であり、さすがにかなわないとみて撤退の準備をしている最中であった。

 石田は墨俣の島津陣に維新義弘の姿を認めると馬上のまま駆け寄った。

「維新殿。ここはもう支えきれぬゆえ。速やかに大垣へ撤退されよ。」

 それに対し、義弘は若干顔をしかめた。戦況は絶望的だが、神懸かり的な戦果を残し続けてきた歴戦の古豪である彼が、史僚あがりである石田から「退け」と言われるのは、(悪い言い方をすれば)癪に障るものがあった。

 しかし、事実は事実として、目の前の状況は撤退以外考えられないほど差し迫っていた。維新は「承知しており申す。」と大声で石田に返事し、撤退の下知を振るい始めた。

 石田は島津維新の微妙な表情から、先の自身の言が若干不味かったことを察した。彼は自身が忌憚のない性格故に、加藤清正細川忠興に代表されるような武人の遺恨深い気質が理解できなかった。今回の義弘とのやりとりもその延長にあると言っていい。

 石田はそのまま墨俣の北に陣を構える小西行長の陣にいって撤収の督促をしなければならなかったが、島津への配慮として、自家の家老である島左近を島津軍に預けた。島の働きもあり、島津軍は無事大垣へ撤退することができた。

 

 福島、池田らの奮戦により、岐阜城は陥落し、連鎖的に犬山城も東軍側に寝返った。これにより美濃の情勢は大きく東軍有利に傾いた。

 石田は焦った。福島ら東軍諸将の軍勢は合わせて五万を超え、それに対し西軍の美濃方面軍は石田、小西、島津および他の美濃国主の軍勢合わせて一万五千ほどしかいなかった。彼は毛利、吉川らの伊勢方面軍および大谷ら越前方面軍に合流を求めた。

 島津維新は狼狽する石田を若干、歯がゆい面持ちで眺めていた。

 なるほど石田が立てた戦略、つまりは畿内を静謐にして補給を張り巡らし、東軍を迎撃するという戦略自体は悪くはない。しかし、それを実行するならばいつ敵が防衛網に迫ってくるかを注視しなければいけなかった。防衛網が完全に構築される前に突破されては敵の後手に回ることは明白であり、石田は一番重要な敵の動きの捕捉をおろそかにしたと島津維新は思った。

 島津と石田では根本的に戦へのアプローチが大きく異なっていた。島津は幼少の頃より戦に明け暮れ、こなした戦の中には、少人数で大勢を打ち破らなければならない戦も多かった。

 その中で彼が編み出した戦の方法論は、ずばり「将の撃破」であった。

 例えば百人で千人の敵を相手にするにおいて、百人に勝機があるとすれば敵の大将の首をとることであった。いかなる剛の者でも正面から戦って十倍の敵を討つことはできないことを彼は現場で体感していた。その点、いかに敵の数が多かろうと敵の司令官の数は一人(中枢のピラミッドの頂点に位置する人物はおそらく一人)であり、島津義弘は厳しい戦に際しては乾坤一擲、敵の大将の首をとることに目標を絞った。

 石田は戦に深く関わりだしたのが豊臣政権後期の、天下統一事業においてであり、従軍した戦は大をもって小を併呑する戦ばかりであった。自然、島津のように小で大を打ち破るような戦略思考は育まれにくかった。その代わり、兵站を主に任された彼は補給に関するスペシャリストであり、兵站、補給についての考えが同時代の武将と比べ、はるかに進んでいた。

 彼は戦を、感覚的には面で捉えていた。例えば今回の戦に際しても、大坂城を本拠とし、そこから京、大和を通過して近江、越前、美濃、伊勢へと延びる補給線を想像し、それらが相互に連携して面になることで強固な防衛網を構築する想定であった。このような戦略の立て方は中世というよりはもはや近代の軍事に近い概念であり、島津維新のような乾坤一擲で将の首を狙うような戦とは真逆であった。

 しかし、肝要なのは、この時代は将の首をとるという行為が近代より有効であること、また軍が(戦国期でだいぶ組織化されたとはいえ)近代に比べると十分に組織化されていないがために、戦そのものに不確定要素が多いことであった。それがどういうことかというと、戦術によって戦略が覆る可能性を多分に含んでいるということであった。

 島津義弘は生涯において右記のことを体現し続けてきた人物であったため、石田の采配を鼻白む思いで見ていた。

 

 美濃大垣に籠る石田の救援要請に真っ先に応じたのは備前五十五万国の主、宇喜多秀家の軍勢だった。一万五千の軍勢を有する彼の軍は西軍でも最大勢力であり、単独で行動していた。尾張と伊勢の境に位置する長島城を攻略途中、岐阜城が陥落したことを聞き、大垣へと急行した。

 宇喜多秀家は前述の通り、慶長四年の初めにお家騒動を経験している。この時、家康の恣意的制裁により、家臣団が大量に流出したことは述べた。それゆえ、西軍の中でも反徳川の感情はとりわけ高いほうであり、宇喜多自身、積極的に加担していた。

 しかし、軍団の方まで戦意旺盛とはいかなかった。家臣団が大量に流出したため、一万五千の軍勢を編成するために大量の浪人を登用せざるを得ず、軍の質は低い。実質八千程度の戦力と見て良いだろう。これらを統括する侍大将、明石全登が器用かつ戦上手であることが救いであった。

 明石は敬虔なキリシタンである。彼は今回の大戦で功績をあげ、主人宇喜多の権限を高めたうえでキリスト教の全国許可を得るつもりであった。(キリスト教は秀吉の統治の元禁教とされていた。)彼にとってこの戦は聖戦であり、必ず勝利する必要があるものだった。

 宇喜多軍は驟雨の中、大垣に到着した。石田は島を伴って大手で出迎えた。石田が宇喜多らに感謝の辞を述べるのをよそに、明石は石田家の軍事顧問を務める島に歩み寄った。

「ここら一帯は河と葦が多い。うまく使えそうですな。」

 島は地形を一目見ただけで戦術に繋げる思考を持つ明石の慧眼に驚いた。が、島も同じ思いだった。

「大垣の北に杭瀬川という川があり申す。河瀬には葦が生い茂り、意外と川底も深い。兵を伏せて戦をするには絶好の場所ですな。」

「如何にも。敵に仕掛ける折は私もお連れください。」

 明石は「ゼウスのご加護を以て・・」と言いかけてやめた。島は熱心な浄土教徒であった。

 宇喜多軍の大垣入城で大垣城に詰める兵は三万を超えた。これは大垣城の収容人数を大きく超えており、ある程度の軍勢は大垣周辺に転宿した。

 ともあれ、美濃に集結した西軍が三万を超えたことに石田は安堵した。岐阜城を落とした東軍は約五万であり、劣勢には変わりないが大垣城をうまく使えばしのげないこともなかった。石田はいずれ来るであろう越前方面軍、伊勢方面軍を待った。