黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(15)【第二部】

こんばんは。

いよいよ、世にいう関ケ原の戦いが幕を開けます。

最初は説明調になってしまいますがご容赦ください。 

なお、ご感想等は切にお待ちしております!!ぜひ!

 

 時はやや遡る。上杉家宰相直江兼続が極秘に佐和山城の石田の元を訪れたのは去年の八月。会津への帰国途上であった。

 謹慎中の石田に公に会うのはあらぬ風聞を立てかねないため、直江は道中平民の姿に身をやつした。

 佐和山城の石田の居室に通されるなり、直江は「治部殿、戦をするぞ。」と第一声のたまった。

 直江は前田家家老の太田長知と軍事同盟を結びはしたが、一枚岩ではない前田家に全幅の信は置いておらず、彼は家康に対抗するにおいて長年の朋友ともいえる石田を頼った。石田は家康の専横に対し、前記した大谷への吐露のような思いを抱いていたので、ついに首を縦に振った。

 直江が石田に頼んだのは、石田がかつて主な取次先としていた毛利家の抱き込みだった。

 毛利家もまた、家中で親徳川派と反徳川派の抗争が起こっていた。(この時期の徳川を取り巻く大大名においては、どの家も徳川に与同するか否かで家中の統一に苦しめられた。)

 親徳川家の筆頭は毛利の若き武官であった吉川広家であり、反徳川の筆頭は外交僧の安国寺であった。石田は安国寺を煽り、秘密裏に対徳川決起の密約を取り付けたのだった。

 決起の手はずは以下の様であった。

 まず、上杉家が家康を挑発し、会津征伐につり出す。(直江状をかくも煽情的な内容にしたのはそのためだった。)畿内が手薄になったのを見計らって石田がまず佐和山で挙兵する。毛利は石田討伐の名目をもって上坂し、大坂に乗り込む。

 大坂城を制圧して秀頼を制圧した後は、奉行衆の連署を以て家康の弾劾と公儀追放を宣告し、会津征伐軍の瓦解を待って家康を討伐するという算段である。

 石田の佐和山での挙兵は端的に言えば毛利軍が大坂城に乗り込むための口実であり、石田が大谷を口説いたのはまさに挙兵せんとしていた時であった。

 先述のように大谷は石田と意を一つにしたが、家中の説得のために二、三日時を要した。

 大坂城にはその間、早くも謀反の石田、大谷の謀反の風聞が飛び交っていた。実はこの風聞は、前述した毛利の大坂入りを滞りなくするため、石田自身が島左近の手のものに命じて流させたものなのだが、これを聞いた石田の元同僚である増田、長束らは仰天した。

 特に、大谷刑部とはつい昨日まで城内で業務を共に遂行していた間柄だったのでひどく狼狽した。

「江戸の内府殿に急ぎお知らせするのだ。」

 増田は江戸へ石田、大谷の謀反の風聞を伝える急使を送った。

「伏見、大坂の兵力では石田、大谷を防ぎきれぬかもしれぬ。前田、毛利らに後詰めの要請を致しては。」

 長束の意見に増田はやや渋い表情を見せた。彼としてはできるだけ家康の意向に沿う形で今回の事件を収束させたかった。前田、毛利らを巻き込んでは家康の不興を買う恐れがある。

「伏見には鳥居殿はじめ内府殿が残された精兵がおるし、大坂には島津維新殿や小西摂州もおる。容易には崩れまい。」

 増田は言った。

 その時、豊臣家馬廻り役の真田信繁が増田にある大名の大坂来訪を告げた。彼は信州上田の大名である真田昌幸の次男であり、後に大坂夏の陣で神懸かり的な戦ぶりを披露し、その後四百年にわたる伝説を為すに至るが、当時は真田家から豊臣家の奉公に出されていた若武者だった。

 彼が来訪を告げた人物は、彼の毛利家の外交顧問である安国寺恵瓊である。

 安国寺は上杉征伐のため、毛利軍本隊に先んじて、それこそ渦中の佐和山付近まで進軍しているはずであった。増田は安国寺が俄かに大坂まで引き返してきたことを不審に思った。

 安国寺は城内において、増田、長束ら史僚のたまり場を訪れると、慇懃に頭を下げた。

「この度はとんだ事態になりまして。」

「安国寺殿、其方佐和山あたりまで進軍したと聞くが、石田大谷らの様子はどうであった。」

「石田殿らの様子を見るに、明らかに戦支度にてございました。謀反の風聞は誠で御座ろう。」

「何と。」

 彼らはあまりの事態に思考を停止せざるを得なかった。

 増田は若い時分は槍働きでものを言わせた男であり、史僚にしては変事に際しての肝が据わっていたが、この時ばかりは泡を喰って狼狽した。安国寺はそのような増田を尻目につらつらと発言し続けている。

「謀反の理由は不明だが、石田大谷の反乱鎮圧のために我が主、毛利輝元に大坂入城を命じられてはいかがかな。」

 増田は前述のとおり、毛利への後詰めの要請には消極的であった。しかし、佐和山から大坂は指呼の間にあり、事態対処のためにはなりふり構っていられないのも確かであった。

 増田はついに折れ、安国寺の提案通り、安芸の毛利輝元に大坂入りを求めた。

 これが七月十五日のことである。

 毛利輝元の行動は迅速であった。彼は三万の大軍を水路発進すると瀬戸内海を横断し、2日後の十七日には大坂入りした。毛利家の当主輝元は増田の出迎えの元、仮の鎮護者として大坂に起居することとなった。

 増田は三万という物量に安堵した。これならば石田、大谷ごときの中堅大名がどのような策を弄そうと王都はびくともしないであろう。

 しかし、彼は次の瞬間、愕然とした。使い版によると、信じられないことに渦中の男が大坂に現れたのである。

 増田に「例の男」の来訪を耳打ちしたのは豊臣家の馬廻り役を務めていた真田信繁であった。

 増田は真田信繁の耳打ちの内容に愕然としたが、即座に「通せ。」と来訪を受け入れる姿勢をとった。

 果たして、渦中の男である石田三成が真田の案内の元、増田の元に通された。

 増田はすさまじい形相で食ってかかった。

「治部殿。これはいかなる事態か。謀反の風聞とはどういうことだ。安国寺も、毛利の大坂上陸もそなたらの差し金か。」

 まず、石田は増田をなだめた。増田は前述のように根本に武人の荒々しさを秘めているおとこであったので、石田の、社会性に富んだ所作が苦手であった。

「御託は良い。毛利と其方は結託しているのか。」

「はい、そうです。宇喜多、小西らも同意のことです。これから大坂を本拠とし、徳川を公儀から追放の上、討伐しようと思います。その上で増田殿、長束殿奉行衆らにもお力を貸していただきたいのです。私は政界を引退した身で、政務と軍務を動かす権限を持ちませぬ故。」

 石田は増田、長束ら豊臣恩顧の史僚は徳川の世においていずれ粛清される可能性が高いことを論理的に説いた。増田、長束らはこの大坂城徳川家康の強大な権力と政治的実力を肌で感じ続けてきたがために、なかなか決断ができないでいたが、毛利家三万という大軍囲まれるうちに徳川への恐怖が薄れていったのか、はたまた拒否すれば毛利に殺されるという新たな恐怖にさいなまれたのか、遂に石田らへの同心に踏み切った。