黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(7)

こんにちは

 

最近関ケ原シリーズばっかり更新してますね、、

作曲の方も更新できるようにしたいです!

引き続き石田三成襲撃事件を描いていきます。

文章が単調かつ繁雑な感じが否めませんが、、

 

 閏三月四日、決起当日、五奉行筆頭石田三成襲撃計画の発起人である細川忠興は兵を興しに密かに居城の宮津城へ帰城していた。彼の率いる三千の精兵は今回の計画の中核をなす部隊であった。

 細川忠興は若い時分より豊臣軍団の一翼を担う名将であったが、茶の湯や兜の意匠にも秀でた文化人としても知られていた。

 特に茶の湯は堺の巨匠にて秀吉の茶頭を務めた千利休肝煎りの弟子として知られており、利休が秀吉の不興を買って大坂を追放となった際も周囲の静止を振り切って大坂を立ち去るのを見送った程であった。

 しかし、彼は上記のように芸術家としての才能に恵まれていたが故に、芸術家特有の気難しさを持っていた。さらに武人としての血の気の多さも等しく持ち合わせていたがために、家臣たちはこの、数奇大名の虫の居所を掴むのに日々苦労させられた。

 今回の石田三成襲撃計画を発案したのも、前関白豊臣秀次の失脚に際して、石田に連座させられそうになったのを深く恨んでのことであった。怨恨を深く長く持続させることに関してこの数奇大名は突出している。

 が、その執念深い気質故、やることは徹底している。今回の挙兵準備も滞りなく進めており、その徹底ぶりが武人として、文化人としての細川忠興を評価せしめる所以でもあった。

「幽斎様より書状です。」

 家老の松井康之が差し出した手紙を細川は引っ手繰ると即座に広げた。

「ご隠居は今回の挙兵を思いとどまれと言ってきたわ。あの方は石田と共に島津への取次ぎをしておった故、石田を買っておるのよ。」

 細川は吐き捨てると、知らぬとばかり書状を炉にくべた。

「ご隠居とて主家たる足利将軍家や縁家である惟任日向守を見限ったのだ。俺も俺の考えをもって決めるわ。」

 細川忠興の言の通り、父幽齋は処世術の巧みな人物であった。

 元は室町足利将軍家の奉公衆として仕えていたが、明智光秀の誘いで斜陽の将軍家を見限り、信長に仕えた。信長が本能寺で明智の謀反で横死した際は、その明智に助力を求められたがそれを断り、家の命脈を保っている。

 細川の妻は明智光秀の娘、玉子である。牡丹の花が如き美貌とされ、父親譲りの利発さも有していた。忠興はこの才女を盲愛したが、嫉妬深い彼は妻の外出をほとんど制限し、自宅に軟禁するという挙に出た。玉子は父が謀反人として死を遂げたことも相まって、精神的に参ったのか、救いを求めるようにキリスト教に傾倒した。洗礼名をガラシャと言った。

 ガラシャは後に石田三成徳川家康弾劾のために挙兵する際、故あって非業の死を遂げることとなる。彼女に歪んだ愛情を注ぎ続けた忠興はその死を激しく悼み、悲しみに暮れた。彼はガラシャの生前、彼女が当時禁教とされていたキリスト教に傾倒しているのを非難し、彼女にそれを勧めた侍女らを切るなどしたが、彼女の葬儀の際はためらうことなくキリスト教式の葬儀を営んだという。

 以後そのような運命をたどる細川だが、今は英気に溢れ、今まさに伏見大坂へ押し出さんとしていた。

 細川は開門を命じ、宮津城から出立した。

 彼の役目は三成が伏見へ逃亡しないよう大坂、伏見間の街道の封鎖することであり、その為には山を越え、福知山を掠めた後、桂川の上流に出る必要があった。丸一日かかる。

 が、彼はその統率力をもって麾下の軍勢を静かにだが、迅速にそして確実に行軍させていた。これならば日没頃には山崎あたりへたどり着けるだろう。

 軍の先頭を駆ける細川はこの公でない行軍を愉しんでいる。自らの一歩一歩が着実に石田三成の喉元に迫っているのだという想像が彼の気を昂らせた。

明智日向守もこのような心地だったのだろうか。)

 丹後から出立し、隠密裏に行軍するあたり明智光秀本能寺の変との類似性を感じたが、(縁起でもない。それでは終いに謀反人として横死するではないか。)と細川はその妄想を打ち消した。

 行軍中、上方より早馬があった。

「加藤主計頭様より報せにございます。」

 加藤清正からの書状であった。細川は馬上でそれをひったくると急ぎ広げた。

 細川はしばらく読んでいたが、彼の表情がにわかに強張ったのを家老、松井康之は見逃さなかった。

「主計頭様は何と。」

 彼は松井の問いを黙殺し、一心不乱に手紙を読みふけった。読み終えると動揺しきった表情で言った。

「昨夜未明、加賀大納言様が大坂にて身罷られたらしい。」

「何と、前田様が。」

 松井は驚嘆した。細川忠興の嫡子、忠之は前田利家の娘を妻に娶っており、前田家と細川家は縁戚である。前田家には豊臣政権下で何かと面倒を見てもらっている恩もあった。

「いささか間が悪うございますな。」

「確かに縁戚として喪に服すべきやもしれぬが加藤殿らとしては予定通り決行したいらしい。」

 加えて前田利家の死はある意味好機でもあった。前田は死ぬ間際まで大坂の鎮護者としての役割を担い続けていたが、彼の死によってそれが無力化したといってよく、従って石田襲撃計画自体も成りやすくなったと言っていい。

「縁者として喪に服さず、このような行動を取るのは不本意だが致し方ない。予定通り行軍する。」

 前田の死を血で汚すようで心が傷むが石田の首をもって手向けとしよう、と細川は思い、軍を急がせた。

 

 しかし、大坂の石田三成は襲撃の情報を事前に知っていた。

 家老、島左近は浪人時代、京で有象無象の者と交流していた過去があり、謂わば「与太者」の知己も大勢いた。島はそれらを情報源として重宝していたが、その一人が島に知らせたところによると、細川忠興加藤清正ら十名の大名が談合し、大坂の石田邸を襲撃する手はずを取っているという。

 それ以前にも兆候はあった。

 徳川家の縁組騒動の直後、二月九日のことである、石田は大坂の備前島の自邸で茶会を開いた。招待したのは大老宇喜多秀家、懇意にしている小西行長、そして徳川家と無断で縁組したことが問題視された大名の一人たる伊達政宗であった。 

この茶会は縁組騒動によって冷え切った伊達家との関係を修復させる目標があり、ひいては大老宇喜多秀家等も誘うことで、騒動における徳川派、前田派を融和させるという意図もあった。

 石田と伊達は元来親しい。もともと伊達家の取次ぎは浅野長政が担っていたが、なにかと豊臣の権力を傘に着る浅野に伊達は我慢がならず、絶縁状を送り付けた過去があった。 

 その後を受けて伊達家の取次ぎとなったのが石田であった。以来、豊臣政権において何かと立場の弱い(伊達は秀吉に臣従した時期がかなり遅いため、豊臣政権において信を置かれることはほとんどなかった。)伊達家を取り成していた。

 石田が伊達を茶会に誘ったのはそのような背景もある。

 また華やかな英雄的気質の伊達は、思考が時に飛躍さえするような異才を愛する傾向があり、その点で石田のことを個人的に気に入っていた。

 茶会は終始和やかな雰囲気で行われた。茶会が終わりに近づいたとき、小西行長が「南蛮由来の葡萄酒を手に入れ申したが、方々如何かな。」と言い、そのまま場の流れで宴に突入した。

「石田殿。この度の騒動では何かと苦労をかけ申した。」

「左様。今後縁組の儀は必ず公儀に届け出るように願いたい。私も取り成します故。」

「承知した。しかし摂州殿、この南蛮酒とやらは大層美味ですな。」

 新しい物好きの伊達は葡萄酒の味が気に入ったらしかった。

葡萄酒から話題は南蛮のことへと移っていった。小西行長は熱心なキリスト教徒として知られており、多数の宣教師と交友を保っていたがために、南蛮の事情に精通している。

「摂州殿、麦島(肥後上部)での南蛮貿易でかなり儲けておるらしいではないか。」

 伊達が言った。彼の領地である仙台ではそれほど南蛮貿易は盛んでなかったが、彼自身南蛮貿易に強い興味があり、いずれは振興させたいと考えていた。

「左様、麦島、八代の改築によって一帯は多くの水利を成しております。」

 小西は溌剌と答えた。彼の父親は堺の大商人、小西隆左であり、小西行長自身も商家で育ったせいか、彼の物言いはどこか商人気質なところがある。上昇志向の男であり、宇喜多直家の使い番という身であったところ、その利発さを秀吉に買われ、水軍大将として登用された。

「やはり主な取引先は『ポルトガル』かね。」

「今のところは。」

「しかし、今南蛮で最も勢い激しいのは『ヒスパニア』だと聞く。彼らがいずれ通商を求めて来るのではないか。」

 石田も堺奉行を務める傍ら、小西ほどではないが南蛮事情に詳しい。文禄五年におこった土佐のスペイン船漂流事件のスペイン船乗員から聞く限り、日本が主な通商相手としている「ポルトガル」は「ヒスパニア」に屈服したともいう。

「二年もすれば『ヒスパニア』が通商を求めに日本に参るでしょう。彼らとの貿易は『ポルトガル』を悠に凌ぐと思います。しかし、その先、十年後は様子が変わってくると思います。」

 小西は低い声音で言った。

「どうやらその『ヒスパニア』が船戦で大いに負けたらしいのです。なんでも『アルマダの船戦』と申すらしく。我が師のオルガンティーノによれば、その『アルマダの船戦』で『ヒスパニア』を破った『ネーデルラント』なる国が今後台頭するだろうと。」

 小西の言うことは事実で、西暦一五八八年、日本でいう天正一六年、スペインの無敵艦隊イングランドネーデルラント連合艦隊に敗北した。スペインは往時の隆盛に影が走り、既に斜陽に差し掛かっていた。

 石田にしてみればスペインの敗北は都合が良かった。そもそも朝鮮出兵の理由の一つが、スペインがフィリピンに進出し、明を征服せんとしているとの情報があったからであり、「明を征服すれば次は必ず日本に攻めてくる、ならばいっそ、スペインに獲られる前にこちらが明を征服しておこう」という考えに至ったからであった。スペインが勢いを失ったとなればその心配もない。

「しかし当面は『ポルトガル』『ヒスパニア』との貿易が続くでしょう。」

 小西はそう言うと硝子杯の葡萄酒を飲み干した。

 宴も終わり、石田は伊達を玄関先まで自ら見送った。別れ際、伊達は愛用の煙管を吹かしながら(この男には煙管癖があった。)言った。

「石田殿。豊家に尽くすのも結構だが手前の身の上を案じられよ。」

「とは。」

「先の伏見、大坂の騒動で徳川屋敷に詰めた際、黒田、蜂須賀らが蔚山倭城の貴殿の裁定に熱っており申した。」

 誤解であった。先述の通り、蔚山倭城における黒田、蜂須賀両将の処分に石田は関わっていない。

「また細川、加藤殿らも貴殿のことをよく思っていない様子。彼らが連衡すれば貴殿とて厄介なことになりましょうな。」

 伊達はもう一度、ぷかりと煙管を吹かした。

「あまり敵は作らぬことですな。」

「貴殿に言われたくはない。」

 伊達政宗はその反骨心に富んだ性格から、蒲生、上杉、佐竹など領地を接している大名と悉く不仲だった。

「はっは。如何にも。」

 伊達はからからと笑い、そのまま供に付き添われて帰っていった。

 実際伊達の元には、諜報部隊である黒脛巾組がありとあらゆる情報を集めており、それから察するに諸侯の中から石田を弾劾する一派が形成されるのは時間の問題のように感じた。

 しかしそこまでを石田に教える義理もないであろう。秀吉生前、自家を取り成してもらった事情から前述のような情報を提供したが、徳川家と縁戚を結んだ以上、石田との関係に深入りするのは危険であろうと伊達は判断していた。

 伊達は帰路月に向かって煙を吐き出した。煙は一筋の雲のように立ち昇り、闇へと昇華していった。

 

 石田は島の報告を聞きながら以上のような伊達とのやり取りを逡巡していた。

(伊達殿の忠告が的中したか。)

 彼は途端に無力感に襲われた。

 というのも、悪政には毅然とした態度をとることで知られている石田だったが、彼自身、自らの身を巡っての政争というものを経験したことが無かったためである。

 豊臣政権下において彼は多くの大名の取次ぎや、諸奉行としての活動が主で、他所の政争に介入し、調停することは多々あっても自らが標的とされたことは無かった。

 また、彼は細川、加藤ら弾劾せんとする諸将に対し、ものをわきまえぬ狂人に接した時のような冷めた感情を覚えた。

 例えば、天下のためを思い、代替の政策理念を持って反抗するならわかる。しかし彼らのそれは私怨であろう。朝鮮での裁定や方針に不満があった鬱憤晴らしであり、さらに言えば朝鮮の陣で一欠けらの領土も奪えなかった腹いせと言ってもいい。

 そのような奴らを相手にできるかという気怠い気持ちが石田を襲った。

 しかしとりあえず急場を凌がねばならない。

「伏見の屋敷に籠る。」

 石田は言った。石田家の手持ちの兵ではとてもではないが弾劾諸将の軍勢を防ぎきれない。伏見の石田邸は西の丸に半ば付設されており、「治部少丸」と呼ばれていた。あそこならば籠城して時を稼げるであろう。

 しかし、今丸腰のまま伏見へ行けば弾劾諸将に捕捉され、首を刎ねられかねない。石田は島に策を乞うた。

「島左、如何せん。」

「恐れながら、某、佐竹家とは家老の車中書殿はじめ繋がりがあり申す。殿も水戸侍従様(佐竹義宣)様とは昵懇の間柄。佐竹殿に伏見までお送りいただくが最上の策かと。」

 石田三成は佐竹家の取次ぎも務めており、かつて佐竹家を秀吉の改易命令から救ったことがあった。以来、佐竹家当主の義宣は石田を慕い、共に千利休の茶会に出席するなどして友誼を深めた。義宣は石田を慕うあまり「治部がいなくては生き甲斐がないわ」とまで言っていた。

 果たして佐竹義宣は石田の協力要請を快諾した。

「女人様の塗り輿を用意いたしました故、身をお隠しあれ。」

 佐竹は石田を塗り輿の中に隠し、島らを自らの家臣団に紛れさせると大坂から伏見へと出立した。

 

 中ノ島、加藤清正屋敷には石田襲撃のための諸将が集っている。彼らは石田らの大坂脱出を知らない。

 細川忠興がいないこの場を仕切るのは加藤清正であった。彼は石田三成弾劾のために参集した諸将一同に杯を持たせた。そしてなみなみと酒を注いでゆく。福島正則の番になった時、彼は言った。

「お主は悪酔いする故、少しだ、市松。」

 この言葉に場がどっと沸いた。もともと、秀吉が「羽柴」を名乗っていたころからの顔見知りが多く、みなお互いをよく知っていた。

 加藤は杯を掲げると、石田が挑戦で辛酸を舐めた諸将を軽んじたこと、数々の誤った裁定を下したことを檄した。檄し終わると酒を一気に飲み干し、杯を床に叩きつけて割った。諸将もみなそれに習った。

「開門。」

 加藤は馬上の人となると、朝鮮の戦で鍛え上げたその大音声をもって兵児を押し出した。

 福島、黒田ら諸将もそれに倣う。

 彼らは中之島から出て大坂の城下町に入り、本町まで直進するとそこから三部隊に分かれた。加藤清正福島正則藤堂高虎は大手の石田屋敷を襲撃、黒田長政蜂須賀家政浅野幸長備前島の石田屋敷を襲撃、そして池田輝政脇坂安治加藤嘉明石田三成大坂城に上って秀頼を戴くことのないよう、大坂城を占拠する手はずだった。

武州殿(池田輝政)。」

 加藤清正大坂城占拠部隊の長を務める池田輝政に馬上で呼びかけた。大坂城の警護を担う片桐且元はすでに調略済みであり、池田らを内側から招き入れてくれる算段であった。

「片桐助作が上手くやるで、お頼み申す。」

「委細承知。」

(すべてはうまくいく。)

 計画は順調に思えた。加藤は自慢の美髯をつるりと撫でると馬腹を蹴った。

 あとは石田の首を挙げるだけだ、と彼は思った。

 

 丹後宮津から迅速な行軍をしていた細川忠興が山崎、勝竜寺城付近に到達したのは亥の刻を過ぎたあたりであった。

 かつてここら一帯は細川家の所領であり、勝手知ったる土地である。大坂から伏見へ出るには山崎を通過せざるを得ないため、検問を敷くにはうってつけの場所であった。

「この場所に陣を敷く。怪しきものは例え女子供であろうと取り調べよ。治部少を決して伏見へ行かすまいぞ。」

 細川忠興は部下に厳命した。

 半刻ばかりが過ぎた。大坂方面から砂塵がすると、加藤清正以下六名の将(大坂を占拠している池田らを除く)が麾下をまとめてやってきた。

越中、治部少めは来たか。」

「それらしき者は通っておらぬ。大坂にはおらなんだのか。」

「捕らえた石田家ゆかりのものに吐かせたが既に水戸侍従めが伏見に護送したらしい。」

紙一重で逃したか。」

 細川忠興は怒りのあまり床几を蹴り上げた。

「激するな越中。」

 加藤清正は細川をなだめたが内心は彼同様気が気でなかった。

(奉行衆らで連衡されると厄介だ。)

 要は奉行衆全員を敵に回すのが得策でない故、標的を三成個人に絞ったのであり、全国の大名たちが石田派と反石田派に分かれ、事態が先だっての縁組騒動のように泥沼化するのは彼らとしても避けたかった。(この計画に参加している大名の内、そのような事態に対処可能な器量を持ち合わせているものはいなかった。)

清正は三成を追ってこのまま伏見に行くことを提案した。何としても次の一撃で石田三成を捕らえるか首を刎ねるかしないといけなかった。六将は同意し、彼らは兵を率い伏見へ続く京街道をあい駆けた。

 

 石田三成佐竹義宣に伴われて伏見に到着したのは朝方夜明け前だった。一行は山崎で細川勢が検問をしているのを察知すると淀城の手前で迂回し、巨椋池を回って南から伏見へ入ったのだった。

「佐竹殿、恩に着ます。」

「なに、貴殿とまた茶の湯を愉しみたいが故よ。しばし治部少丸で耐えられよ。坂東武者を率いて救援に参る。」

 佐竹は東国武士らしく、必要以上に着飾った会話を好まない。(そこが石田と気が合う所以でもあった。)以上を告げると自身は供回りと足早に伏見の屋敷へと去った。

 石田は島左近らと伏見城西の丸に付属する治部少丸に入ると、城の者に伏見在番の奉行である増田長盛前田玄以は既に登城しているか聞いた。彼らは大坂の雑説を早くも聞き、対応のために登城しているとのことだった。

 石田が治部少丸に入ったと聞くや否や増田、前田玄以の両名は彼の元に息を切らしてやってきた。目は血走っている。

「治部。これはどういうことだ。」

 前田玄以が聞いた。彼は五奉行の最年長で、主に神社仏閣、朝廷との外交の担当をしている。 

「仔細は彼らにお聞きください。」

 石田は城の西側を指さした。玄以は目を細めた。遠目に砂塵をまき散らしながら軍団が接近してくるのが見える。増田長盛は年来一線の武人として名を馳せただけあって堂々としているが、生涯においてたいした戦歴のない玄以は肩を震わせおののいた。

「ら、乱ではないか。」

「左様、細川忠興加藤清正以下十将が我を血祭りにあげようと画策した由にございます。朝鮮の役での私の裁定に不満があるとか。最もその蔚山倭城の裁定に私は関与していないのですが。」

 石田は扇をぱちりと閉じた。

「何ならあの者らに奉行職を肩代わりしてやったら如何か。さぞよき政事を行うのでしょう。」

「治部殿、皮肉はそこらで。」

 増田長盛が制した。彼は石田に同情した。増田は彼の妙な物慣れた性格に対し必ずしも好感を持ってはいなかった。しかし、同じ執政官として、決して三成に政治的落ち度があったことはないことは良く知っている。

 要は、石田は秀吉の晩年の失政の負の遺産を諸に蒙ったのであり、その三成の傍らで常時政事に関わり続けた増田にとって此度の騒動は決して他人事とは思えなかった。

(明日は我が身ぞ。)

 という恐怖が増田にはある。彼はこの哀れな同僚を助けるため、一つの解決策を提示した。

向島城の内府様に矢留の斡旋を願っては如何か。」

 家康が縁組騒動以来、伏見を出て宇治川を挟んで対面にある向島に移り住んでいることは述べた。彼は縁組騒動以来概しておとなしく勤めているが、以前、筆頭大老かつ政事の総責任者であることに変わりはない。

「いや。」

 石田は渋った。この男が豊臣政権下において常時家康の警戒役に当てられ、距離を置き続けたことは何度か書いた。彼はそのような事情も相まって家康に借りを作ることを嫌った。

「しかしこの場を取りなせるのは内府様以外居なかろう。」

 増田の言葉に石田は不承不承頷いた。彼の言うとおり、今は体裁を気にしている暇も余裕もなかった。

「大蔵(長束正家)が内府様の腹心、本多平八殿の妹婿故、執り成しを依頼しよう。」

 言うや否や増田は配下の渡辺了を密かに大坂へ遣った。

(しかし、石田はもうだめやも知れん。)

 この場を凌げたとしても、十名近い大名から弾劾を受けたという事実は覆しようがなく、政治的に挽回しようが無いのではないように思われた。

前田利家が身罷り、石田が失脚するとなると、政権運営はいよいよ家康の力に頼らざるを得ないのではないか。

(我も早めに内府様との伝手を築かねばなるまい。)

 増田はそのようなことを思った。