黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(6)

こんにちは

割と情報量の多い回です。前田-徳川の諍いは終わり、すぐに石田襲撃事件が勃発します。首謀者はあの人です。

 

徳川家康が使者の任に充てたのは、腹心井伊直政であった。井伊は供回りと一路、大坂を目指した。徳川屋敷では四六時中、甲冑を着込んでいたが、使者の任にあたり、それを脱ぎ捨て、直垂を着込んでの出立であった。

 井伊はその日の夕刻に前田屋敷に到着した。

(多いな。)

 彼はその軍勢が想像よりも多いことに舌を巻いた。徳川家三万の軍勢が到着したら両軍合わせて十万は超える数の軍が伏見、大坂に集結するはずであり、戦になれば二つの町が荒廃することは必至であった。

 そう思うと井伊の任は天下国家の行方を決めるうえでも大事であり、それを自認した時、この軍事にも外交にもそつがない男の首筋に一縷の冷や汗が走った。

 井伊は前田屋敷の大広間に通された。利家を上座に頂き、毛利、上杉、宇喜多ら大老、それに続き五奉行を含んだ諸大名が井伊を威圧するように並んでいた。

 上座の前田が口を開いた。

「井伊殿、使者の任、ご苦労である。」

 井伊は一礼すると以下のように口上を述べた。

「此度の当家の縁組に関する騒動に関して、当家が豊家をないがしろにしている、もしくは邪な野心がある、と様々な雑説が飛び交っておりますが、すべて事実無根にござる。伊達家との縁組は東国での政事を行いやすくするため、福島、蜂須賀との縁組は豊臣恩顧の大名と友誼を深めることで当家と豊家との繋がりを深めるためでした。ならびに、我が主、家康は恐れ多くも太閤殿下から日ノ本の執政を任されており、此度の件も私的な婚姻には当たらないとの解釈でした。その解釈の違いが此度の騒動を招いたのは確かであり、事前にお伺いをたてなかったことに関しては当家に非があることとし、謝罪いたす。」

 井伊はここで言葉を区切ると、深々と頭を下げた。諸将の間にどよめきが走る。

「以後、太閤殿下の御遺言に一切背かないこと、前田様および諸将に遺恨なき旨を認めた誓書をお出しいたす故、今回の縁組に関しては事後承諾という形でお認めいただけないでしょうか。」

「和議を乞いたいのならば何故関東より大軍を上洛させたのだ。」

 井伊に問うたのは今関羽を称する加藤清正であった。

「当家を謀反人と断じ、討ち果たさんとする大名がいるという噂が飛び交っており、その警護のため家康麾下五万のうち、三万を上洛させ申した。当家はこうして天下国家のために頭を垂れている、それでもなお当家に異心ありと断じ、よからぬ噂を流す御仁あらば、それこそ世を乱す者と覚ゆ。徳川家二百五十万石をもってお相手いたす。」

 井伊は直垂の上からでもわかる分厚い肩肉をいからせて答えた。井伊の剣幕と、徳川二五〇万石という物量が前田方の諸将を黙らせた。

「井伊兵部少輔。」

 前田が立ち上がった。元々長身痩躯だが、近年病を得てさらに痩せ、立ちあがると違和感を覚えるほどに細くなってしまっていた。

 しかし数多の戦の場数により培われたその風格は万の兵を御するに余りあり、往年の「槍の又左」の異名を彷彿とさせた。

「井伊兵部少輔、見事な口上であった。内府殿が誓紙を提出次第、我ら四大老五奉行も徳川殿へ遺恨なき旨の誓書を提出いたす。」

 これにて手打ちである、と前田は言った。

「それにしても井伊兵部の胆の据わり様よ。諸人は皆、見習うべし。」

 前田はからからと笑った。井伊は普段、自らの役目について滅多に感想を述べない男だったが、この時ばかりは「肝を冷やした。」と周囲に漏らしたという。

 

 井伊の功もあって徳川家の縁組計画に端を発する違約騒動は解決する方向に向かった、家康から四大老五奉行宛に

一、此度の縁組の件は大老、奉行間の同意の元、これを進めること

一、太閤殿下の遺言、五大老五奉行の同意に以後背かないこと

一、此度の騒動で双方に加担したものに対し遺恨を持たないこと 

 以上を記した誓紙を提出した。七日後、四大老五奉行側も同様の誓紙を家康に提出し、また、さらなる和解のために前田利家徳川家康の双方がお互いの屋敷を訪問しあうということで手打ちとなった。参陣していた諸大名も徐々に兵を引き上げはじめ、大坂と伏見の町は活気を取り戻し始めた。

 石田三成と、その重臣島左近は騒動の収束に伴い、前田屋敷を引き払う最中であった。轡を並べ、大手の通りを行きながら彼らは今回の顛末に関して議論していた。

「しかし結果として内府殿はまんまとやりましたな。」

 島左近は主人、石田三成に言った。

 島の言う通り、今回結果的に家康が頭を下げる形で矛を収めたが、伊達、福島、蜂須賀らとの縁組は豊臣公儀にとって認められる形となり、家康は自勢力を肥やす結果となった。

「恐らく内府殿は最初からこの結末を描いていたのでしょう。」

「しかし、それだけかな。」

 石田は言った。そして彼自身の興味深い、そして滑稽でさえある憶測を述べた。

 曰く、家康は自身の秀吉に対する生殖能力についての優位性を示そうとしたのではないかということだった。

 豊臣秀吉はその好色ぶりから多くの側室を抱えていたが、晩年になるまで子を成せなかった。秀吉はそれによって実子による婚姻政策をほとんど行うことができず、「羽柴」「豊臣」の名字を乱発するに留まった。

 王家にとって跡取り問題は死活的問題であり、子が少ないことは世情不安を煽る原因にもなりかねなかった。

 実際豊臣政権がどこか収まりが悪く安定しないのも秀吉と血縁のある人物が少ないことに他ならない。

 それを受け、家康は先の天下人秀吉にたいして自身の繁殖能力の優位性を世間に示そうとしたのではないか、というのが石田の解釈であった。

(成る程、そういうものの見方をされるのか)

「果たしてそこまで考えますか。」

「分からぬ。おそらく考えまいが、内府殿の心根の奥底にそのような本能が眠っておるのやもしれぬ。」

 とすると、家康の心に無意識の内に天下簒奪の意思が兆しているということであり、家康がその旗幟を明らかにする日も近いかもしれない、と石田は思った。しかし、今回の騒動における誓書は事実上の不戦協定であり、当面は何事も起きなかろうと見た。

島は政治的案件について生物学的でさえある見地から考える石田の思考を感心と数奇の入り混じった心地で聞いていた。

 石田は奉行職にあたっても、時々このような、独特な、透明感のある思考をした。その思考は時に滑稽でさえあったが、織田家の一部将であった秀吉が、信長の死後、約五年という短期間で統一国家の体を整えるという離れ業をやってのけるにおいて、彼のこの透明な思考回路は不可欠であった。

(学者的素質をお持ちなのやもしれぬ。)

 島は石田の思考法に、物事のありのままの姿を見出す学者的なものを感じた。もしかすると自分の主人は学者としても大成できたのかもしれないと島は思った。

 

 二月十五日の夜、豊前中津城黒田長政

自身の「大水牛桃型兜」を肴に一人、伏見の黒田屋敷居室で晩酌を楽しんでいた。

 伸びやかな曲線を描く二本の角を戴くこの兜は黒田も気にいっており、愛用していた。長きにわたる異国の地での戦を共にしたこの兜を眺めながら彼はつかの間の安らぎを享受していた。 

 しばらくして、家臣、後藤又兵衛から取次ぎがあった。何と肥後熊本城主、加藤清正が俄かに尋ねに来ているという。

 黒田は突然の来訪に驚いた。彼は父、如水が荒木村重との戦で囚われの身になっていた時、秀吉の妻、高台院に養育してもらっていた過去があった。同じく高台院に養育されていた加藤清正福島正則は彼にとって先輩格にあたり、丁重に応対しなければいけない相手であった。

「粗相のないようにせよ。」

 黒田は後藤に命じた。

 しばらくすると、加藤清正がその巨躯を揺らしながら黒田の居室にやってきた。

「松寿。俄かにすまぬ。」

 加藤は、黒田が成人してからもなお、幼名の「松寿」という名で呼んでいた。決して彼を侮っているわけではなく、彼は同じく高台院に養育された福島正則のことも幼名の「市松」という名で呼んでいた。

 加藤からして、福島と黒田は同じ釜の飯を食った朋友であり、大名という立場になってからもそのあどけない友情を胸に抱き続けていたが、父、如水から理性的な感性を受け継いでいた黒田はそれをどこか冷めた目で見ていた。

 とはいえ、黒田は先輩格にあたる加藤を丁重にもてなした。二人は朝鮮での思い出を肴に一刻ばかり飲んだ。

 ほどよく酔いも回った頃、加藤は本意を切り出した。

「松寿、俺は石田治部を弾劾しようと思っている。」

 黒田は目を見張った。

「やはり小西摂州との件ですか。」

 加藤は忌々しいと言わんばかりの表情をした。先にも述べたが、加藤清正小西行長は朝鮮の陣における和睦交渉の方針で対立した経緯があった。その時、石田三成小西行長の肩を持ち、清正は政治的に敗北したのだが、加藤はそれを根に持ち続けていた。

「当然よ。彼奴らのせいで我らが異国で流した血汗が無意味と化したわ。」

 加藤はぐいと杯を飲み干した。

「松寿、其方と蜂須賀殿も石田の讒言で太閤殿下の咎めを受け、謹慎に処されたそうではないか。」

 黒田は押し黙った。朝鮮の陣で、蔚山倭城を守備する加藤清正隊を救援する戦があったが、その時の救援軍の大将が黒田とその義兄の蜂須賀家政であった。

 朝鮮方の猛攻は凄まじく、日本軍は救援に手間取ったのだが、その時の一連の戦の過程を秀吉が激怒し、大将である黒田と蜂須賀を謹慎処分にしたことがあった。

 その時、黒田らの戦いぶりを秀吉に報告したのが軍監福原長尭(石田三成の妹婿)であり、彼の歯に衣着せぬ報告も処分を誘引した原因となっていた。

 そして何より黒田、蜂須賀の怒りを呼び込んだのは秀吉がその福原の報告を賞し、加増褒賞を与えたことであった。

 この件と石田は直接の関係はなかったのだが、黒田、蜂須賀らは石田が妹婿である福原に何らかの口添えをしたのではないかと疑った。

「儂は蔚山倭城中で籠城しながらそなたらの戦の手立てを見ておったが朝鮮の猛攻相手に見事かつ堅実な戦いぶりであった。それをあげつらい、落ち度のみを指摘するとは憤懣やるかたない。」

「それがしとて蔚山倭城の裁定には納得しており申さん。」

 黒田も加藤に負けじと酒をぐいと飲み干した。そもそも彼は父、如水が豊臣政権から不遇に処されたことも相まって豊臣政権そのものに不信感を抱いていた。

「松寿よ、殿下子飼いの将たる我らが、朝鮮で血反吐を吐いた我らが何故こうも政事から遠ざけられねばならん。儂は朝鮮の件以来、小西を討ってやろうかとも思ったが小西を討っても何も変わらん。奉行衆筆頭たる石田を政事の場から消さねば我らはこのまま中央から疎外されたままぞ。」

 前述のように、加藤清正には同じ行政官僚として、石田や中央奉行衆への嫉妬があった。

「しかし加藤殿、弾劾というのは訴訟の沙汰に持ち込むということでしょうか。」

「訴訟しても石田に揉み消されるだけよ。」

 加藤は目を据えて言った。

「兵を興す。あ奴の屋敷を取り囲み、あわよくば詰め腹を切らせるわ。」

「豊臣公儀が石田に牛耳られている以上貴殿が謀反人として討伐されかねますまい。それに大名同士の私闘は太閤殿下が生前に出された総撫事令で禁じられております。」

「わかっている。それ故、味方を増やす。」

 加藤が言うにはこうだった。確かに加藤、黒田ら一、二の大名が決起してもそれは謀反として片付けられてしまうだろう。しかし六、七、八と同志を集め、政治的派閥を形成すればそれは謀反ではなく、政治を正さんがための弾劾として扱われるであろうとのことであった。

「すでに長岡越中細川忠興)とは意を一つにしておる。」

 加藤清正細川忠興は先の家康の縁組騒動で共に前田派に属した同志であることもあり、密に連絡をとっていた。

「というより、この話は奴から持ち掛けてきたというのが正しい。奴は前関白の失脚の際、関白に借金していたのを石田に咎められ、連座しかけたことがあるだろう。以来、石田を恨んでおったらしい。」

 この計画が細川忠興の発案であることは事実であった。政敵を憎むこと甚だしい彼は朝鮮の陣で石田が加藤と不和になったのを聞きつけてこの計画を加藤に持ち掛けたのだった。

越中殿らしい。)

 黒田は細川忠興のこうした粘着質な性格を知っていたので一連の流れに納得した。

 しかし事情がどうであれ、黒田も、自分を陥れた(事実はどうであれ黒田はそう思っていた。)石田を弾劾することには賛成であった。

「蜂須賀殿は間違いなく与力してくれましょう。藤堂殿も、処分こそ受けておりませんが蔚山倭城では共に戦った中ゆえ、お味方してくれないか計らってみます。」 

 蔚山倭城の件を弾劾する以上、当時現場にいた将を味方に引き入れておくのは得策であろう。

「また、奉行間でも浅野様と石田が対立しているとの噂をよく耳にします。」

「それは誠よ。浅野の親父殿は朝鮮の陣以降、会うたびに石田の愚痴を言うわ。」

「浅野様を味方にできれば奉行の一人を味方にできたことになり、我々の正当性も増します。」

「なるほど、よき策じゃ。」 

加藤は首肯した。黒田の父親譲りの才覚に下を巻いたが、黒田と話しているうちにこの計画が予期している以上に上手く運ぶしてきて上気分になった。加藤は現時点で味方に付きそうな武将を指折り数え始めた。

 加藤清正

 黒田長政

 蜂須賀家政

 細川忠興

 藤堂高虎

 浅野長政

「市松(福島正則)にもこの件、話してみようと思うがどう思う。」

「福島殿ですか。」

 黒田は渋い顔をした。彼は直近、福島正則と些細なことで争い、仲違いした経緯があった。

「そういえばお主ら、下らぬ言い争いをしたらしいな。この謀りを機に、和すれば良いではないか。」

「私とのつまらぬ諍いに関してはそれで良いのですが、石田と大して対立しておらぬ福島殿が果たしてお味方してくれるでしょうか。」

福島正則が加藤らと共に高台院に育てられた仲であることは述べたが、朝鮮の役のさなか、国内在番を命じられていた彼は、石田三成と表立った政治的衝突をしたことが無かった。

「市松は儂が説得してみよう。先の縁組騒動で奴とは袂を分かたねばならなかった故、今回は同心したいと思ってのう。」

 福島は、秀吉死後家康と縁組した大名の内の一人であり、先の騒動の張本人ともいえる人物であった。

「それに徳川様の御縁戚がおられた方が、上手く運ぶやもしれませぬな。あわよくば徳川様のご助力も望めましょう。細川様が前田様の縁戚であられる手前、派閥の均衡も取れます。」

「できるだけ多くの派閥から同心するものを得られた方が我らの正当性も保てるわ。松寿、蜂須賀殿や藤堂殿の説得を任せる。我は浅野殿と市松をあたって見るわ。」

「承りました。石田を弾劾して朝鮮の件での我らの正当性を天下に知らしめましょう。」

 加藤と黒田は強かに笑うと残り酒を飲み干した。

 

 ことは(彼らが当初想像していた以上に)上手く進んだ。

 蔚山倭城で黒田と戦いを共にした蜂須賀家政藤堂高虎は二つ返事でこの話を了承した。

 しかも藤堂の調略によって伊予、淡路の領主である加藤嘉明脇坂安治らが与力することになったことも嬉しい誤算だった。

 石田と対立している奉行の浅野長政は加藤から同心を依頼された時、手を打って喜んだが、自身の立場上、軍勢を率いて決起するのは良しとせず、その代わり息子の幸長を遣わすことを確約した。

(世がそれを望んでおる。)

 加藤は思った。朝鮮の陣で出陣を強いられた諸将は皆、多重の出費を強いられ、領国は荒廃している。世は秀吉の死後、その責任を豊臣公儀、ひいてはそれを統括する奉行衆に求めた。今回の計画は上手くその流れに乗れている。

加藤は自身の生い立ちもあって太閤秀吉を敬愛していたが、いや、敬愛していたがゆえに、その失政を秀吉の責任とは思わず、奉行衆、ひいてはその筆頭の石田三成の咎であると思うようにしていた。

彼は潜在思考の中で諸悪の根源は不毛な外征を強行した秀吉にあることを理解していたが、彼は程よい鈍さを持ち合わせていたがゆえに自身の潜在思考に気付くことなく、責任を石田らに転嫁することに成功していた。

加藤は今、伏見の福島屋敷にきていた。竹馬の友である福島正則を今回の件に加担させるためであった。

 福島は朝鮮慶長の役において留守居役を命じられており、加藤らと労苦は共にしていない。朝鮮での日本軍の苦境をしった秀吉が増援方の大将として派遣しようとしたが秀吉の死によって遂に叶わなかった。

 性格は加藤同様、豪宕である。また酒乱でもあり、酔うと場所をわきまえず暴れるので細川忠興のような文化人気質の武将からは迷惑がられていた。

「虎。久方ぶりよ。」

「帰国して以来なかなか会う機会がありなんだ。不慮の騒動もあった故な。」

 不慮の騒動、とは先の縁組騒動であり、加藤は前田方に加担していた経緯がある。

「虎はちっちぇえ時から又左様にべた惚れだったで、無理もみゃあよ。」

 福島は尾張訛り丸出しで言った。虎、とは加藤の幼名、虎之助の略称であり、二人は幼名で呼び合う中であった。

 加藤は黒田に伝えた時同様、福島に今回の内々の計画を伝えた。

 福島は逡巡した。

(はて。)

 彼自身石田と対立しておらず、恨みもなかった。積極的な加担の意思はなかったが、ここは朋輩の政治行動に賛同するべきであろうか。

 もう一つ、彼の判断基準として、縁組をした先の徳川家がこれに賛意を示すか、という点があった。徳川家の不興を買うような行動はできるだけ避けたかった。

 福島はそれを加藤に素直に尋ねた。加藤は言った。

「徳川派のお主が加担を表明してくれることで我らの立場も良くなるのだ。それに内府様にとっても石田が政界から消えることは悪いことじゃなかろうて。」

「それもそうか。」

 福島は首肯した。先述したが石田は秀吉から徳川の警戒役を任された節があり、徳川にとってみれば石田が消えることは自身に吠え掛かる番犬が駆逐されるに等しかった。

「池田武州池田輝政)とは縁組騒動以来昵懇故、同心を依頼しよう。」

「それはありがたい。」

 願ってもない願いだった。

「虎。朝鮮の留守でなまった腕を振るうとするわ。」

「おう、松寿とはそれまでに仲直りしておけよ。」

 

 石田三成弾劾のための決起は閏三月四日と決まった。同心した大名は以下の十名である。

 丹後宮津城主 細川忠興(提案者)

 肥後熊本領主 加藤清正

 豊後中津城主 黒田長政

阿波徳島城主 蜂須賀家政

 伊予宇和島領主 藤堂高虎

 伊予正木城主 加藤嘉明

 淡路洲本城主 脇坂安治

 甲斐甲府城主 浅野幸長

 尾張清洲城主 福島正則

 三河吉田城主 池田輝政

 計画はまず、大坂城北西に位置する中ノ島加藤清正藤堂高虎の屋敷に兵を集め、決起すると同時に、計画発起人の細川忠興が丹後の領内で挙兵して南下、伏見、大坂間の連絡を絶つ。大坂城に籠られないよう、加藤嘉明脇坂安治池田輝政の三将が城を封鎖し、他の七将が石田屋敷を包囲するというものであった。

 弾劾の要旨は三つ。

一、          奉行衆に豊臣公儀としての権力濫用がたびたび見られること

二、          朝鮮の役での蔚山倭城の裁定は石田三成およびその妹婿、福原長尭両名の讒言の結果であり、裁定を見直すこと

三、          以上につき石田三成、福原長尭を切腹に処すること