黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(1)

関ケ原の真実に関して小説形式でお送りします。

 

第一話です。文章書くの難しいですね、思ったより全然上手く書けませんでした。

話は秀吉が身罷るところからです。ポイントは石田と徳川の関係性ですね

↓以下本文です

 

 慶長三年八月十八日未明、時の天下人である太閤秀吉が伏見城の寝室にてこの世を去った。

 八月に直筆の遺言状を書き残して以来、人前で話すこともままならなくなった秀吉は、自らと諸人との面会を厳しく制限した。面会には側室や親族でさえも北政所及び奉行集の許可が必要としたほどであったため、十八日未明床の傍に侍っていたのも北政所と数名の近習のみであった。

 秀吉は十五日の夜からひどくうなされ、意識も失ったが、十七日には小康状態を保ち、かろうじてではあるが意思疎通もできる程度には回復していた。その日は水を所望し、医者により投薬された後、眠りについた。

 しかし十八日未明、秀吉の呼吸、胸の上下がないことに北政所が気づいた。(それまでも何度か無呼吸状態になってはいたが、その時は『遂に』といういわゆる虫の勘が働いた。)直ちに次の間で仮眠を取っていた医者が呼びだされた。医者は脈、呼吸、瞳孔ひとしきり確認した後、かぶりを振って死亡を告げた。

 北政所は夫の死を聞くや否や、屍に駆け寄り、その痩せこけた体に顔をうずめながら泣き叫んだ。そうしてしばらく偽りのない悲しみを表現し続けたが、聡明でよく気が付く彼女は侍女に、西の丸の詰所にいるであろう奉行衆を呼びに行かせることを忘れなかった。

 伏見の奉行衆の詰所には石田三成増田長盛が仮眠をとっていた。(石田、増田の屋敷どちらも伏見城内にあるのだが、西の丸の一角が奉行衆の詰所となっており、政務が立て込んでいるときはそこに寝泊まりすることもあった。)秀吉が危篤である旨を医者から知らされて以来、ずっとこの詰所に寝泊まりしており、奉行としての業務をこなすとともに、いつ「悪い報せ」が届いても対応できるようにしていた。

 二人は侍女から秀吉薨去との報せを受けると、同時に跳ね起きた。増田は直ちに部屋を出て大股で現場に向かおうとしたが、石田が立ちながら静かに合掌しているのを見て歩みを止め、自らもそれに倣った。増田は石田の妙にこなれている性分を若干苦々しく思ったが、そのような感情を長く留めるには事態が苛烈すぎたため(なにしろ王の死である)、次の瞬間にはやましい感情は拭い去られ、もとの公人としての増田長盛に戻った

 寝所には、顔を伏せる侍女たち、泣き崩れる北政所、そしてつい先ほどの瞬間まで日本国を統治する唯一の人間、であった亡骸がいた。石田と増田は座ってその亡骸に対して再び合掌した。

十分すぎる時間合掌した後、石田が北政所に他に「この不幸」を知らせた人物はいるかどうか尋ねた。北政所はかぶりを振ったが「奥方衆には知らせた方がよいでしょう。」と言った。

「多くの側女を抱えていた分、残されるもの、悲しむものも多いというのもなんだか可笑しい気がしてきましたわ。」

 北政所が冗談めかして言った。石田と増田は同調して笑ったが若干反応に窮した。もともと二人共そのような諧謔には反応が鈍い気質である上に、秀吉の死に際して処理しなければいけない膨大な量の施策が彼らに対していかなる冗談も通じなくさせていた。北政所も二人の態度からそれらを察したため、それ以上付き合わせることはしなかった。彼女は黙って亡骸の髀肉を撫でることを繰り返した。

 石田は傍にいた近習の一人に言った。

「前田、徳川の上屋敷に使いを頼む。大納言様(前田利家)と内府様(徳川家康)に出仕していただく。」

「毛利、宇喜多殿はお呼びしなくて良いのか。」

「今後の儀について数点あらためるだけだ。とりあえずは大老職の一、二たるお二人でよい。」

石田は答えた。程なくして同じく奉行の浅野長政前田玄以長束正家が着倒した。

 浅野長政は秀吉と義理の兄弟でもあったのでねね同様の悲しみをみせた。

 前田、長束も同様に言葉を失った様子を見せたが、十分な時間感傷に浸ると彼らは取るべき次の行動に移った。

 彼らはこれから、秀吉の死に付随する膨大な量の政治案件を裁かなければいけなかったのだった。

 

 

 伏見の徳川屋敷は伏見城西の丸から出てすぐのところにある

 即座に登城できる点では都合がいいが、関東二百五十万石を有する大名としては決して大きくない屋敷である。

 その屋敷の廊下を一人の老臣が小走りで渡っていた。彼は主人家康の寝所までくると襖ごしに告げた。

佐渡めにござりまする。」

 中から布団の帰る音と二、三の男女の会話が聞こえた後、「入れ」という腹の底に響くような太い声の返事が返ってきた。

「失礼仕る。」

 その老臣は慇懃に麩を開けると家康の寝所に入った。

老臣の名を本多佐渡守正信という。若いころから家康に仕え、信仰の理由で一時(彼は一向宗門徒であった)徳川家を出奔したが、帰参を許され、側近として仕えている。

 家康の寝所に帯刀を許されていることからも、家康の彼に対する信頼の厚さが伺える。家康は正信を謀略や外交の良き相談相手としていた。

 正信は徳川家を出奔していた一時期、梟雄として名高い松永久秀に仕えていたが、松永は正信を評して曰くこう言った。

「剛にあらず、柔にあらず、卑にあらず、非情の器である。」

 彼は徳川の侍の多くが身に着けていた武勇を持ち合わせてはいなかったが、流浪の日々の中で揉まれて培った、人の心の機微を見抜く目と、それを言語化する弁舌の才能を持っていた。徳川家は武勇に秀でた家臣は多かったが、こういった謀将の類は少なかったため家康は大変重宝した。

寝所では主人、徳川家康とその側室、尾万の方が横並びに寝ており、その様子から二人とも今起きたばかりのようだった。正信は寝所に入ると今朝、石田三成より使いが来たことを述べ、使いの内容まで述べようとしたが、そうはせず、言葉を途切れさせると口を開けたまま間の悪いような表情をした。 

 お万の方は自分の存在がこの空間に望まれていないことを察すると、場を外す旨を告げ、部屋を後にした。

 徳川家康はお万が部屋を出る際、優しい言葉をかけることを忘れなかった。彼女を見送ると、彼は正信に向かい合い言った。

「報せとは殿下のことか。」

「いかにも。今朝未明に崩御されたとの由。石田殿の家来である八十島殿より報せがあり申した。しかるに前田大納言様と殿に登城頂き、奉行衆らと今後の施策について話し合われたいとのこと。」

「行こう。儂と前田殿のみとなると、五大老での合議は明日以降か。」

「恐らく。上杉様は国許に御座いますので、四大老での詮議となりましょうが。」

 家康は頷き、出仕しようと体を起こしかけて、やめた。正信が何か言おうとしたからである。正信は囁くように、あたかも「ここだけの話」であることがわかるように言った。

「信長公が本能寺で横死の折、黒田如水が太閤殿下に『御運が開けましたな』と申したようですが。」

 右の言葉は本能寺の変の報に接したとき、秀吉の参謀であった黒田如水(当時は官兵衛)が秀吉に対して言ったものである。つまり信長を討った明智を討つことで織田の一部将という今までの立場を超え、天下人になる可能性が開けるではないかという意のことだが、正信が言いたいことは、まさに秀吉が死んだ今は徳川家にとって同じような状況であるということであった。家康は苦笑した。

「ことはそう単純じゃないさ。」

 家康のこの言葉には深い意味があった。

 確かに徳川家は日ノ本最大の二五〇万石を有しており、大名の中でも軍事力は突出しているが、秀吉が後事を託した五大老には百五十万石の毛利氏を筆頭に上杉、前田、宇喜多といった大大名達が名を連ねており、徳川のみでそれら全てを敵に回すのは危険行為であろう。

 しかし同時に、家康は徳川家の置かれている政治的状況が決して安全ではないことも承知していた。鎌倉幕府が有力御家人を次々と討伐したように、室町幕府守護大名をいくつも潰したように、そしてなにより数多の戦国大名が執政を粛清してきたように、有力大名である徳川家も(家康の代ではないにせよ将来的に)粛清される可能性は十分あった。

 要は他の大名達を敵に回す危険を冒してでも天下を窺ったほうが良いのか、将来的に粛清される危険を残してでも協調に走るべきなのか。慎重な性格の家康は選択肢を前に決めかねていた。

 ともあれ、当面は登城して太閤の亡骸を拝むとともに奉行の石田らと打ち合わせをしなければならず、(そして数多の戦線を共にし、また時に対立もした太閤の死に対し寂寥の念があったのも事実だったので)彼はできるだけ早く出立の支度をすることにした。

「念には念をと申します。兵部殿(井伊直政)を連れていかれるが好いかと。」

「そうする。」

 秀吉の死の混乱に乗じた変事を正信は案じた。普段登城の際の家康の護衛は本多忠勝が担うが、登城の事情の繊細さを鑑みて井伊直政を推した。井伊は猛将の誉れ高い反面、取次ぎとして外交を担う政治力も持ち合わせている器用な武将であった。彼ならばどんな事態にも対処できるであろう。家康は小姓に井伊を呼ぶように申し付けると自らも支度をするべく部屋を出た。

 

 石田と増田は主の死の感傷に浸る間もなく、周囲に指示を飛ばし続けていた。伏見にいる有力大名には秀吉の死をまず報せなければならず、(時には外戚を含めた)親族衆を亡骸に面会させる必要があった。また、できるだけ早急に、朝鮮に出兵している諸将を撤収させる手はず、算段を整える必要があった。

 石田はその膨大な処理量にしばしば手を止めそうになったが、史僚として今まで様々な修羅場をくぐりぬけてきたという自負が彼を支えた。程なくして徳川家康前田利家が(それぞれ供を伴って)到着した。既に増田の案内で二人とも秀吉との対面は済ませたらしかった。

「最後に会った時、どえらく痩せてたで、これ以上痩せんと思っとったが。」

 前田利家尾張訛りで言った。秀吉の亡骸の小ささに驚いたようだった。

 石田は緊急の登城について感謝の辞を述べた後、改めて秀吉が卒したこと、朝鮮の陣への影響を鑑みて死はしばらく伏せること、今後の大老の仕事について重要なものを確認した。(特に家康と利家の二人は執政と秀頼の傅役というそれぞれ特別な役割をふられていた。)

「ともあれ緊急すべきは朝鮮の陣払いでござろう。」

 家康の言葉に石田が頷いた。

「如何にも。それは早急に対処しなければならない故、会津におわす上杉様を除く四大老五奉行全員を招集し、明との和議、そして撤兵の合意を取ります。合意が取れ次第、某と浅野殿で博多に急行し徹兵の手はずを整えます。」

「朝鮮との和議はどうするのだ。」

「明が和議を容れれば朝鮮独力で戦を継続はしないでしょう。さしあたり明との単独講和を目指します。」

「成る程、それと博多に赴いて撤退を監督するのは奉行のみでは心許ないのではないか。仮の統率者として儂が赴こうか。」

 家康の言葉を石田が制した。

「伏見では太閤殿下が床に臥せるようになられて以来、やれ乱だの誰々が謀反だのという雑言が絶えません。徳川殿が伏見を離れられてはそれこそ無用の騒ぎを起こす輩が出てくるやもしれませぬ。」

 家康は石田の言に従うことにした。石田はその他、五大老で合意するべきいくつかの細かい政治案件についてよどみなく確認をした。家康と利家はただただ頷くのみであった。細かい施政に関しては石田ら奉行衆に任せた方がよく、口を出す気にはなれなかった。

 要は五大老とは存在そのものが役割なのであり、秀吉が死んだ今、奉行衆らの施策に対して大大名五人がこれを承認しているという謂わば「箔」が重要なのであった。その構造を石田は初めから理解していたし、前田利家も、家康もよく承知していた。

 確認すべき点は全て網羅したので、家康と利家はひとまず屋敷へ戻ることにした。帰り際、家康は石田を呼び止め言った。

「治部殿、諸事何かと取りまとめ大儀にござる。」

「いえ。」

 石田は物慣れた笑みをもって対した。毛利、上杉など多くの大名の取次ぎを担ってきた彼は、大大名と相対するときの所作、振る舞いをよく心得ている。

「徳川様こそ、実質的な宰相としてのお勤めをしていかねばならぬこと、ご苦労存じ上げる。なにせ関東二五〇万石を統べながら豊臣公儀としての任もこなさなければならないのですから。」

 家康は目を他人には気づかれない程度に細めた(本多正信の洞察力ならば気づいたであろう。)

五大老はそれぞれが広大な領地を抱える大大名であり、地方大名としての性格も有していた。その中で豊臣家(主家とはいえ別の家)の公儀として政策を執行しなければいけない立場にあり、かなりのバランス感覚を必要とするものであった。

 つまり五大老とて時には自家の都合を優先させなければならず、どこまで公平性を保てるかは疑問であった。石田はその点に気付いている。しかし家康は以上の思考を悟られまいとした。

「領地には愚息をやるつもりです。大納言様をはじめ方々と合力して大老の職にあたるつもりでござる。」

「愚息などと申されないでください。殿下も生前、権中納言(秀忠)様におかれましては頼りにしておられました。なにせ秀頼公の御義兄におなり遊ばすのですから。」

「恐縮の限りです。」

 家康は流麗な石田の言にやや押され気味になった。この男が豊臣政権で権力の座に上り詰めたわけが分かった気がした。家康は話題を変えた。

「博多へは浅野殿と行かれるのか。」

「はい。そのつもりです。」

 家康は間をおいて言った。

「そうか。いや、儂はそなたと弾正殿(浅野長政)や主計殿(加藤清正)との対立を憂いておるのだ。」

 石田の顔が曇った。

(ほう)

 家康は意外に思った。石田の器量ならばにべもなく受け流すと想定していたからである。

 いや、にべもなく受け流せない程には石田三成浅野長政の対立は根深く、複雑だった。

 二人はどちらも豊臣政権下で抜擢された史僚であった。二人とも多くの大名の取次ぎを担ってきたため諸大名に対しての影響力もかなり大きかったが、浅野は東国の取次ぎ、石田は西国の取次ぎを任されることが多く、二人とも力を蓄える過程で(そして二人とも否応なく人にへりくだるほど慎み深くもなかったので)張り合いのような気持ちが育まれた。

 また、浅野は秀吉の甥の関白豊臣秀次が失脚し切腹に追い込まれた事件に連座し、一時謹慎させられたことがあった。それから浅野が復帰するまでの間、奉行衆は石田以下四人体制で回していたのだが、そうすると自然と奉行は石田が仕切るようになっていった。

 浅野の謹慎が解けてからは元の通り、年齢と秀吉の縁戚である地位もあって浅野が奉行の筆頭となったのだが、石田としては決して公言こそしないがそれが面白くはなかった。

 それでも二人とも奉行衆の柱石であるし、豊臣家を背負っているその立場をよくわかっていたので表面上の友好を保っていた。

 しかし一度だけ互いへの憎悪が剥き出しになった場面があった。慶長の役について、毛利家と渡航に関して打ち合わせの使者が来ており、毛利家との取次ぎを担っていた石田は対応していた。

 その時、毛利の使者から「朝鮮を平定した暁には知行を貰えるのか」問われたが、朝鮮出兵には以前から反対の立場であった石田は言った。

「朝鮮の情勢は険しく、朝鮮に土地を封ぜられることはありえないだろう。うつけ共が色々申しておるが気にしないでほしい。」

 この「うつけ共」とは浅野を指していた。というのも、浅野自身出兵している取次ぎ先の大名や加藤清正、息子浅野幸長らをなだめるのに必死で出兵に引き換えの恩賞を約束はしないにしても、ちらつかせていたからである。

 石田の発言は浅野の耳に入り、当然浅野は激怒した。直接石田に詰め寄ったり、報復したりということは無かったが、二人の不仲は城中で公然と噂された。

 浅野が秀吉の縁戚であることは先に述べた。尾州出身であり、縁戚のつてで登用されたあたり、加藤清正福島正則ら秀吉子飼いの武将と類似している。加藤は朝鮮の陣での奉行の裁定に関して不満を持っており、小西行長、福原長尭ら石田三成と懇意にしている武将たちと対立していた。浅野と同郷であることもあり、緩やかな反石田の同盟を形成していた。

「お気遣い、感謝いたす。されど弾正殿も主計殿も『無用の戦』にて思う仔細もございましょう。今後は力を携え、秀頼公をお守りする所存にて。」

 家康は笑った。仮にも主秀吉が取り決めた朝鮮への出兵を『無用の戦』とは手厳しい。

 しかし石田は秀吉の生前から朝鮮の戦には公然と反対していた。

「六州で十分に兵馬を養えるのになぜ異国を切り取る必要があるのか。」

 としきりに言っており、秀吉にも諫言していたが容れられなかった。

 石田は普段は柔和だが、悪政に関しては毅然とした態度をとることで知られていた。朝鮮の儀でも強硬に反対したため半ば政治的に孤立しかけたが、秀吉は浅野や増田にはないその骨のある性格を買い、奉行として用い続けた。

「ともあれ、返事あれば何なりと申されよ。お助けいたそう。茶阿の縁の分はな。(石田家と徳川家は遠い縁戚関係にある。)」

 石田は本丸を後にする家康を見送った。

(信用能うか。)

 石田は考えていた。秀吉の義弟にあたり、関東二五〇万石を有する奉行筆頭の家康は、秀吉の生前はかなり献身的に政権を支え続けてきたが、秀吉が死んだ今どこまで政治的公正さを保つか疑問だった。

 しかし彼が太閤の遺言によって秀頼の成人までの執政を任されているのは事実であり、今後年寄としては彼と協力していくしかないと石田は思った。徳川家を粛清するのは少なくとも家康が荼毘に付された後であろう。