濃州山中にて一戦に及び(5)
こんにちは、前田、徳川の対立も佳境です。
政宗、如水、清正など重要人物が続々登場します。。。
結局、今後の出方について結論の出なかった家康はとりあえず広間に味方してくれた諸侯を集め、今回駆け付けてくれたことへの謝辞を述べることにした。
「なんの。執政者たる家康殿の決定が何故問責されるのか。我らは大坂方が詰問を取り消すまで徳川様をお守り申し上げる。」
と述べたのは伊達政宗だった。
彼は野心旺盛な性格で、秀吉が諸侯の私的な戦を禁ずる「総無事令」を発令した後も、それに従わず奥州に覇を唱え続けたがために豊臣政権下で危険視され続けた。しかし同時に織田信長や豊臣秀吉といった天下人が持っているものと同等の気質、どこか痛快で子供っぽい野心の持ち主であったため、秀吉や家康といった大物からは寧ろ好かれていた。
伊達は尚武の家である徳川から友誼を求められ、縁組まで申し込まれたのが純粋に嬉しかったらしい。前大名の中でも真っ先に徳川屋敷に駆け付けていた。
その後、諸大名は大坂方との戦を想定し、やれここを攻めろだの、あそこを陥とせなどといった議論に熱鬥した。
(諸将は威勢の良いことを言っているが、今仕掛けたら負ける。)
ということは家康も正信もわかっていた。兵力は大坂方に大きく劣っている。
議論の最中、屋敷の廊下から「カツン、カツン」という音が聞こえてきた。諸将は議論を中断し、音の鳴る方を見た。その音に聞き覚えがあったためである。
「黒田如水様および甲斐守様(長政)、御着到にございます。」
井伊に連れられて豊前中津の領主である黒田如水と息子の長政が広間に入ってきた。広間の諸将からはどよめきと歓声があがり、二人の参陣を歓迎した。
豊前中津は十二万石に過ぎないが、黒田如水の影響力は甚だしいものがあった。というのも、彼はかつて豊臣秀吉の軍事顧問を務めた天才武将であり、その天下統一事業においてほとんど筋書きを描いた人物だったからである。
「蜂須賀殿がお味方したと聞き及び、参上いたしました。」
如水は言った。息子長政の妻は蜂須賀家の娘であり、黒田蜂須賀両家は縁戚かつ昔から昵懇の仲である。朝鮮の役における蜂須賀家の謹慎処分に関しても連衡して奉行衆に異を唱えていた。
「天下の知恵者、如水殿がお味方したとあれば心強い。」
諸将は口々にはやし立てた。それに対し、如水は若干の笑みを見せながら「はて、綺羅星が如き大大名の皆様に対し中津十二万石がどれほどご尽力できるか定かではありませんが。」というエスプリの効いた言葉でもって応答した。
彼は決して暗い気質の持ち主ではなかったが、このように会話の端々にエッジの効いた言葉、才能のあるものがよく使うある種の皮肉、を織り交ぜる癖があった。
しかし、石田三成、大谷吉継らの奉行衆と違い、如水は第一線に立ち続けた軍事畑の人間であり、前述のように彼自身が果てしない実力を有していることも相まって、その皮肉は決して「勘に触る」響きにはならなかった。如水にはそのような人間的魅力がある。
彼が秀吉の天下統一事業に大きく関わり、その功績が比類なかったことは書いたが、秀吉は晩年にあたり、如水を不遇に処した。彼がキリシタンだったためである。
如水の功からして豊前中津は少なすぎるほどの領地であり、周囲もそれに同情したが、如水自身はそれに不満を唱えるようなことはしなかった。彼は元々道家めいたところがあり、広大な領土、権力といった類のものに興味が無かったためである。彼は「黒田如水」という人間が表現できる場があれば満足であり、それは秀吉の天下統一事業においてやりきったと感じていたため、領地が如何程であろうと構わなかったのである。
しかし、その後、彼の運命はさらに暗転する。朝鮮の役の折、彼は晋州城攻めについての準備を整えるため、名護屋へ一時帰国したが、その時の手違いにより、その帰国が無断帰国扱いとなり、秀吉の勘気を蒙ったのだった。
彼は剃髪し、家督を長政に譲り、謹慎しなければならなかった。普通ならば鬱屈、怒りといった感情が沸き起こるはずだが、彼が感じたのは寧ろ滑稽さであった。太閤に尽くし、太閤のために軍略を練り、天下を取らせた自分が不遇に処され、豊前中津にもらった僅かな領地さえも隠居して手放さなければならないとはなんたる数奇であろう。
謹慎を経て、如水はそれからも諸事精力的に働いたが、太閤に尽くした顛末の馬鹿らしさから、前から持ち合わせていたシニカルな態度を加速させた。(彼は賢かったので、それは政治的影響を及ぼさない程度にとどめられた)
とは言え、如水は隠居した後もその素晴らしい実力から万人の尊敬を集めていた。彼の着到の際、諸将がどよめいたのはそういう訳である。
家康は如水、長政に助力を感謝すると、改めて如水の容貌を見た。
彼は荒木村重との戦において、地下に幽閉された経験があり、その時患った皮膚病が原因で顔は右上にかけておよそ三分の一が瘡蓋におおわれていた。また、片足が不自由だったため常に歩行補助のための杖を使っていた。「カツン、カツン」と廊下に響き渡る音は如水が来た合図として人々に認識されていた。
如水ほどの実力者となると、もはや上記のような障害でさえ才気の一部分のように思われてくる。家康はこのびっこひきの才人に以前から興味があったが、政治的に関わる機会が無かったために繋がりは希薄であった。
しかし、今回の騒動で頭を悩ましている件において、思い切ってこの男に聞いてみるのも良いかもしれないと家康は思った。自家の舵取りを他家の人間、しかも大名に尋ねるのは本意ではないが、如水の場合あらゆる政治的側面を考慮し、上手く織り込んで返答するであろう。家康は言った。
「如水殿。此度の騒動。これからいかなる筋書きをもって臨めばよろしいと思うか。」
如水はやや逡巡した。家康が大して縁のない自分に上記のような重い質問をぶつけたことがやはり意外なようであった。この男は自分の回答が徳川家黒田家間のみならず広く政治的に重要な意味を持つことを瞬時に把握すると、十分な間をもって思案し、答えた。
「大坂に秀頼君がいる以上、大坂を攻めれば謀反になります。軍勢もあちらの方が多い以上、戦を仕掛けるのは愚でしょう。」
「これは異なこと。」
伊達政宗が口を挟んだ。
「謀反人たるは幼君を擁して天下の宰相たる徳川家を葬らんとする大坂方ではござらぬか。また、兵力で劣れども、天下無双の将帥たる内府殿の下知に従えば決して負けることはございますまい。」
「越前守殿。」
家康は伊達を制した。
「貴殿の言い分、尤もありがたいが、今は天下の知恵者たる如水殿の意見を拝聴したいな。」
「出過ぎた真似をしました。」
伊達は素直に引き下がった。元より自分の勢いが鬥鬥たることを諸将に誇示したいだけで、伊達も本気で戦を始めたいとは思っていない。
「やはり和睦を探るのが賢明でござりましょう。しかしこれだけの騒ぎになった以上、どう和睦を結ぶかが要です。むやみに下手に出るのも下策でしょう。恐れながら貴下の統治下である関八州から大軍を上洛なさりませ、成さった上で和議を結ぶがよろしいかと。」
如水は言い終えると一礼した。
(なるほど)
家康は既に自身の手勢を伏見に集めてはいたが、大軍を動員すればそれこそ有無を言わさず戦になるため、軍勢は少数に留めていた。屋敷警護の名目で関東から大軍を上洛させ、同時に和議を乞えば立場を損なうことなく交渉できるであろう。
家康は如水の言を容れることにした。次男の結城秀康と配下の榊原康政に命じ、関東から三万の兵を率いて上洛する様、命じた。
また、これを契機に徳川家と黒田家は急速な接近を見せることとなった。後に前田利家が病死し、石田三成が奉行から排斥された後、家康は再び婚姻による勢力拡大に奔るが、その時、家康は養女、栄を黒田長政に嫁がせている。
前田屋敷は大坂城三の丸に位置している。周囲には細川、宇喜多といった前田派閥の大名屋敷が立ち並んでおり、一帯が詰所として兵馬で溢れていた。
屋敷内には陣幕が張られあたかも合戦さながらの様子である。
その人馬をかき分けるようにして一人の武将が参陣していた。その男は身長六尺三寸を誇り、立派な美髯を蓄えていたことから人々は「今関羽」と噂していた。
肥後熊本城主加藤清正であった。彼は若い頃から武勲著しい前田利家を尊敬しており、今回与力することにしたのだった。
彼は諸将が集まる広間に通されるとそのままどかりと床に腰を下ろした。
「加藤主計頭清正、只今参陣仕った。」
彼は朝鮮での過酷な戦を通じて指示を飛ばすうえで声帯が発達を遂げたのか声が割れんばかり大きい。広間中どころか屋敷中に響き渡るような声で言った。
しかし前田利家の見事なところはこの割れんばかりの大喝に大喝をもって返したところだった。彼は武人の気質をよくわかっていた。
「主計頭、遅いわ。さては日和っておったか。」
「滅相もございませぬ。ただ朝鮮より戻って日も浅く、参陣に手間取った次第。」
清正は低頭して言った。この豪宕な性格の男は遅いと言われたことが気に要らなかったのか
「此度の一件、内府殿の違約に端を発していると伺いました。仮に内府殿が豊家に仇なすおつもりとあらばこの主計頭、大納言様のお下知の元で伏見へ攻め上り、内府殿のお心を正しに参りましょう。」
「よくぞ申した。心意気あっぱれである。」
「応」と加藤は野太い声で返事をした。そして石田ら五奉行の方を見ながら「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」と付け加えた。
朝鮮の陣では一番隊を小西行長、二番隊を加藤清正が率いた。二人を競い合わせることを見越しての人事だったが、もともと領国肥後の統治を巡って諍いのあった両者は作戦を巡って激しく反目した。
そして両者の対立が決定的になったのは和議を結ぶにおいてだった。加藤は朝鮮の陣そのものには消極的反対の姿勢だったが、戦が始まったからには全身全霊をもって戦い、史にその名を刻んでやるつもりだった。
しかし、小西行長はこの不毛な戦いを、和議で譲歩してでも終わらせたいと考えていた、石田三成も同意見だったので和議において小西の意見を採用した。清正は小西と対立するとともに、自らの方針を一顧だにしなかった石田はじめとする奉行衆にも不信感を持った。
「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」という発言には上記のような意味合いが込められていた。
前田利家はその発言を叱りこそしなかったが、愉快な気持ちにはならなかった。
前田、徳川陣営で割れている以上、事態がどう転ぶにせよ、同陣営で仲間割れするのは敵を利するだけである。加藤もそれに気づいていないはずないのだが、異国の過酷な環境で培われた怨恨は、それを無視できるほどには深いのだろう。先述の通り、黒田長政、蜂須賀家政も朝鮮の陣の奉行衆らの対応に関して怒りを持っており、前田は彼らが連衡して奉行衆に対して何らかの政治的行動をとるのではないかということを危惧した。
そしてまた、前田は加藤に恨まれている石田達奉行への同情を覚えた。というのも、加藤の奉行たちへの恨みの根本はある種の嫉妬心に起因していたためである。
加藤清正というと朝鮮での苛烈な戦ぶりから武人としての印象が強いが、秀吉は加藤清正、福島正則といった子飼いの武将たちに当初行政官としての役割を望んでいた。
実際彼らは荒々しい性格のわりに行政をよく理解しており、秀吉の代表的な施策である太閤検地の遂行においても滞りなく事にあたった。
結局、加藤はその行政能力を買われて肥後の統治を任されたが、結局彼の豊臣政権での役割は行政官の中でも地方の行政官に終始した。それに比べ、中央で政事を取り仕切る石田や大谷らの華々しさはどうであろう。加藤は口にこそ出さなかったが、地方官僚が中央の官僚に持つ種の妬みという感情を手放せないでいた。
(しかしそれは匹夫の妬みではないか。)
と前田は思った。それ故に前田は石田に同情したのである。
前田がそのようなことを考えていると、大慌てで注進が舞い込んできた。
前田邸の諸将はその報せに愕然とした。
何と葵の旗印を掲げた徳川軍三万が東海道筋から上洛しており、今日二十九日中には伏見に着きそうだという。前田邸では上へ下への大騒ぎとなった。あるものは即時開戦を主張し、あるものはその武威を恐れた。
しかしその騒ぎは長くは続かなかった。徳川家家臣井伊直政が伏見から使者として向かっているという知らせが入ったからである。
前田は言った。
「丁重にお迎えせよ。」