黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(4)

こんにちは。

分かってはいたのですが、授業が再開するとどうしても更新頻度が遅くなってしまいます。特にピアノ引く暇ないっす汗汗

出来る範囲で更新するのでお付き合いください~

 

今回は前田利家にだいぶフォーカスを当てています、少し書き方がくどいかもしれませんが、、、

秀吉死後の前田、徳川の対立を描いていきます~

 

大谷は件の縁組問題について「諸将は黙認するだろう。」という見立てをしていたが、その見立ては(群集心理に長けている彼にしては珍しく)外れた。

五大老筆頭の前田利家が激怒したのである。

前田利家は石田から徳川家の縁組計画について聞くと初めは

「果たして誠か。」

とむしろ真偽を疑った。しかし徐々にそれが事実であることを理解すると、憤懣やるかたないといった表情で激怒した。

「太閤殿下が身罷られて未だ半年も絶たぬというに、よりにもよって執政者たる徳川内府が縁組にて徒党を組もうとは言語道断である。」

手勢を率いて自ら内府を討つとまで言ったが、周囲が必死に押しとどめたため、とりあえずは家康を除く四大老五奉行連署の上、詰問状を送ることにした。

 石田は前田の怒り様を意外に感じた。前田は豊臣政権内においては、心根の優しい仲裁者的存在として知られていたためである。前田は石田の知る限り、政務時にこのような激し方をしたことがなかった。(尤も、戦時の彼は勇猛な軍人である。)

例えば、前田は奥州の大名である伊達政宗が秀吉の召集に従わず、勘気を被ったときはこれを取りなしたし、秀吉の甥の関白秀次が粛清された時は多くの連座しかけた武将を救った。彼の温情を施された武将は数知れない。

元々前田は、織田信長清洲城主だった時代、謂わば尾張以来の家臣であり、秀吉の同僚的存在であった。秀吉とは多くの戦線を共にし、キャリアも共にあったが、信長の天下統一事業の過程で一軍団長として望外の覚醒を見せた秀吉に対し、どこか不器用で非常になりきれない性格の彼は最終的に柴田勝家傘下の一部将に甘んじた。

信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立するとその仲裁に奔走したが衝突を止めることはできず、柴田を半ば見捨てる形で秀吉側に投降し、厚遇されて今に至る。

前田はその戦歴の煌びやかさから諸将から羨望の眼差しを向けられていたし(当時の武将達にとって桶狭間の役に参加したというキャリアは半ば伝説的だった)、かつて秀吉の軍門に下った経緯のナイーブさから秀吉も前田の意見には耳を貸さざるを得なかった。

 石田は上記のように、豊臣政権最大の長者である前田と最大勢力たる徳川の衝突を憂えた。詰問状の件で合意が成ると、大坂城の城中で前田に言った。

「徳川殿と前田殿の間に亀裂が入ればそれこそ豊家の災いとなります。徳川殿が謝罪なさればお受入れ下さります様。」

 前田はしわがれた声で言った。

「治部、俺は賤ヶ岳の様なことはもうしたくないのだよ。」

 その言葉を前に石田は黙さざるを得なかった。

 前田利家という武将は、当時の大名級の武将としては稀有な程、義侠心に富んだ武将だった。先に述べたように豊臣政権においては仲裁によって数多くの人物を救ったし、その人格を買われて秀頼の傅役を任された。

 しかし彼は反面、戦国武将としてのリアリスト的側面も併せ持っていた。織田信長の統一事業の過程では一向一揆を容赦なくなで斬りにしているし、敵に対して不必要な甘さをもつ男でもなかった。浪漫とリアリズムが同居している点、彼は大いに信長の影響を受けていた。(彼は生涯を通じて信長に心酔していた。)

 賤ヶ岳に於ける、柴田勝家の陣営から秀吉の陣営にくら替えした半ば裏切りとも言える行為は彼のリアリスト的側面がそうさせたが、これは同時に義に厚くもある彼を以後の人生において大いに苦しめた。

 柴田を裏切って以降、前田はより義侠に富んだ行動を好むようになったが、それは賤ヶ岳における自らの行動がしこりとして残り続けているためであった。

 今回、徳川家康の無断な諸将との縁組行為に対し毅然とした態度を見せたのもそのような訳がある。前田は言った。

「今までのご奉公が認められた結果、恐れ多くも秀頼君の傅役という職におる。俺は傅役として、幼君をないがしろにして徒党を組もうとする輩を黙認はできぬ。それは俺の生き方の理屈に合わぬ。」

 石田は前田の生き方の美学は人を魅了する痛快さがあると感じた。

 そして何より、政治的に同派に属する訳では決してない(前田利家の血縁を中心とし、宇喜多秀家細川忠興などで派閥が形成されていた。)石田に対して自身の心根を惜しげもなく話すその正直さこそ前田の魅力であり、仲裁者といて重きを為してきた所以でもあった。

「無論、内府が太閤殿下生前、律義に奉公し、それが認められ、執政を任されておる理屈もわかっている。内府がしかるべく対応をすれば事を収める。細かいことは其方らが図れ。」

「承知仕りました。詰問状を送った後、和解する手はずを整えましょう。」

 石田は一礼しその場を後にした。

 徳川屋敷での大谷との一件以来、石田の心にはどこか寂寞な思いが巣くっていた。が、前田のカラッとした忠義(というより義侠心といった方が良いのかもしれない)にふれ、幾分かその思いが晴れるように感じた。石田自身、種は違えどわだかまりを好まない素直な気質であったので共鳴するところもあった。

 しかし、聡明すぎる彼は前田の豊家を重んじる姿勢が彼自身の美意識に起因し、秀吉に対する情からではないことを見抜いた。

 事実、前田利家に、自身を裏切らざるを得ない状況へ追い込んだ秀吉個人への義理の感情はそれほど多くなかった。彼が心酔した主は生涯信長一人であり、遺言状にも豊家への言及はなく、織田への忠義のみが記されている。

 

 

 伏見の徳川家康の屋敷に詰問の使者が送られたのは一月十九日のことであった。

 使者に充てられたのは遠江浜松城堀尾吉晴であった。秀吉が「木下」を名乗っていた時から仕えている豊臣家の重鎮であり、かつ浜松城は以前徳川家康の本拠地であったことから何かと引継ぎの縁で家康と関わりがあったことを考慮しての人選であった。

 堀尾は家康を除く四大老五奉行連署の詰問状を差し出し、今回の縁組騒動に関していかなる伺候もなかったことについて遺憾の意を表明した。 家康は自分が亡き太閤より尸政を任されており、また自身が太閤の義弟であることから今回のことが私的な婚姻にあたらないという解釈でいたことを穏やかに述べた。しかし、その婚姻を大老奉行間で事後承諾してくれるならば、今回の件について謝罪し、和解する用意があることも言った。

 堀尾は胸を撫でおろした。家康に譲歩の準備がある以上、事は半ば解決したといってよく、後は前田らを説得すれば収束に向かうだろう。

 実際家康は二十日に和解に応じる旨の簡単な覚書を大坂の前田屋敷に送っており、事態は解決するかのように思えた。

 しかしながら、事態は暗転した。

 一連の婚姻騒動は伏見、大坂の諸大名の間を瞬く間に駆け巡ったが、どこからともなく前田、徳川間の戦が始まるという噂が立ち、それを聞いた諸大名が国許の兵を上洛させ始めたのであった。

 右で前田、徳川間の戦が始まるという「噂」と書いたが、あながち噂でもなかった。先述の通り、前田利家は今回の騒動に関して激怒し、かなり厳しい態度で臨んでおり、徳川家が不誠実な対応をしてきた場合、もはや採算度外視で排斥するつもりだった。大老の一人である宇喜多秀家前田利家の婿であり、その人柄に心酔していたので全くの同意見だったし、上杉家も前田に同調するつもりだった。

 そして前田ら四大老は万が一徳川が武力で大坂を攻撃してくる可能性に備え、大坂を警護の兵で固めていた。それを伏見の親徳川系の大名が

「大坂方が今にも攻めかかってくるらしい、兵を率いて徳川様の屋敷の警護にあたろう。」

と考え、逆にそれを見た前田利家に近しい武将達は

「伏見の徳川屋敷に諸大名が参集しているらしい。我らは前田様の屋敷に参り、お守りしよう。」

と判断したのだった。結果、伏見の徳川屋敷と大坂の前田屋敷は兵馬で溢れんようになり、人々は店を閉めて恐ろしさのあまり震えていた。

 

 

 伏見の徳川家康は慮外の事態拡大に動揺していた。

 元より前田利家らが反発し、詰問使が送られる程度は想定していたが、このように諸将が兵を率いて徳川派と前田派に分裂し、大戦さながらの騒ぎになることは見越していなかったのである。

 しかしここまで騒ぎが大きくなった以上、下手に出ることは政治的に敗北した印象を天下に与えることになるし、大坂方が諸将を糾合している以上こちらだけ武装解除するわけにもいかなかった。

佐渡。如何する。」

家康は参謀の本多正信に聞いた。この縁組計画の発案者もここまでの事態を想定はしていなかったらしく、苦虫を噛み潰したような顔で思案していた。

「もう少し様子を見ましょう。恐らくまだまだ屋敷に参集する諸侯はでて来るでしょうし、それによって有事が起こった時に諸大名が当家のお味方をしてくれるかどうかを見極められます。」

 その時、井伊直政が大股で部屋に入ってきた。井伊はこの騒動が起こって以来、赤備えの甲冑を着込み、戦の陣中さながらに動き回っていた。

「藤堂和泉守様(藤堂高虎)および脇坂中書様(脇坂安治)、加藤左馬助様(加藤嘉明)」がお越しになりました。恐らく藤堂様が中書様と左馬助様をお誘いしたものと見受けられます。」

 藤堂高虎は伊予宇和島の大名だが、秀吉の死後、次天下の実権を握るのは徳川家康であると見越して何かと家康に接近していた。

 脇坂安治加藤嘉明は共に領国が藤堂高虎と接しており、二人が徳川に味方したのは藤堂の調略によるものが大きかった。

「藤堂殿は心強いお味方ですな。」

 正信は言った。伊予、淡路の大名が味方してくれたことは地理的な面でも、毛利、宇喜多らの中国地方の大名の牽制になり、ありがたい。

今まで伏見の徳川屋敷に参集した大名は、池田輝政(池田家と徳川家は秀吉の生前から縁戚である)、伊達政宗福島正則蜂須賀家政藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明真田昌幸、信幸父子、そして大谷吉継などであった。

 大谷は徳川屋敷に参じて以来、家康に早急に前田側と講和する様に働きかけており、諸将にも無用の騒ぎを起こさないよう呼び掛けていたが、大谷の努力虚しく時が経つにつれますます両派に駆け付ける諸大名が増え、事態は大きくなる一方であった。

(むしろいっそのこと戦をしてしまうか。)

戦をし、前田側の派閥を全て討ち果たしてしまおうかとさえ家康は思ったが、しかし肝心なことは、総兵力が大坂方に負けているということであった。やはり豊臣政権下において前田利家の人望というものは凄まじく、派閥を越えた勢力が前田屋敷に参集していた。家康も武勇の誉れ高く、名将としての声望は高かったが、今回の縁組騒動に関しては家康側に非を感じている諸侯も多いらしかった。

 家康は頭を悩ませた。

(迷いが招いた結果がこれか。)

 家康が秀吉の死後、身を削って天下を簒奪するか、自己保全に努めるかどちらが最良の選択か見極めかねていることは既に述べた。迷った結果、婚姻による自勢力拡大という布石を選んだのだが、それによって他大名の想像以上の反発を招いたことを悔いもしていた。

 思えば彼の人生はそのような選択の連続であった。武田信玄との三方ヶ原の合戦や、本能寺の変後の伊賀越え、そして秀吉との小牧長久手の戦など、常に紙一重の選択を迫られてきており、そしてまた紙一重で生き残ってきたが、未だに彼は選択の方法論というものを見つけられていなかった。例えば武田信玄との三方ヶ原の戦いは勇んで名将、信玄に挑んだ結果惨敗を喫したが、逆に豊臣秀吉との小牧長久手の戦いは、無理してでも戦い、(局地戦ではあったが)勝利したことで、家康および徳川家の声望は一気に高まった。戦いを挑むにしても正反対の結果となったのであった。

 選択をすることについての方法論を見出すことを半ばあきらめた彼は、自ら確実に操作できる範囲の事を重視するようになった。例えばそれは小さいことで言うと自身の健康管理、武術鍛錬であったり(彼は乗馬、射的、居合全て達人の腕前である)、大きいことで言うところ領国統治であったりした。

来たる運命の選択のために己を鍛えるという家康のスタンスは徳川家臣団の気質に合っていた。元々の質実剛健の家風と相まって徳川家を史上最強の軍団にしていた。