黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(2)

2話目です。

上杉の宰相、直江兼続が出てきます。

中途半端なところで終わっていますが悪しからず

文章書くの曲作るよりムズイ、、もっと上達させたいです

 

以下本文です↓

 

 

 家康は而して自らの屋敷に帰った。先述の通り本丸と徳川屋敷は指呼の間にあり、健康を好む家康は徒歩で帰ることも多かったが、衆司に姿を晒しては秀吉の死を悟られる恐れもあったので駕籠で帰った。

 屋敷に帰ると家康は直ちに息子の秀忠、そして本多正信井伊直政を一室に集めた。

 家康は開口一番で本題を切り出した。

「秀忠を江戸に帰そうと思う。」

 下座の三人ははっと家康を見た。しばらく押し黙っていたが、井伊直政が口を開いた。「太閤殿下が卒し、いつなん時、変事が起こるとも限らぬゆえ、上策でしょう。」

「うむ。秀忠、直ちに江戸に帰り政務を取る様。」

「承知仕りました。万事大久保長安らと相談し、推し進めまする」

 秀忠は一礼し部屋を後にした。秀忠が部屋を後にしてからも正信、井伊はしばらく押し黙っていた。

(この危急の折に江戸に遣るとは、やはり嫡子は秀忠様か。)

 という思いが両名にはある。

 徳川家の嫡子の件で、正信は次男の結城秀康を推しており、井伊直政は四男松平忠吉を推していた。

本多正信にとっては三男秀忠は大久保家との縁が強く、四男松平忠吉井伊直政の婿であったため、どちらの影響もない結城秀康が後継者となるのが最も都合がよかった。(後に正信は家康に結城秀康大老の端に加える献策をし、容れられたが他の大老の反対で実現しなかった。)

 二人の沈黙の意を家康は知っていたが、知らぬふりをした。この世継ぎの件だけは家康も側近の彼らとも腹を割れない問題であった。

 沈黙の後、ようやく正信が口を開いた。正信は城でのことを家康に尋ねた。

「城中はどのようなご様子でしたか。」

「落ち着かない様子だったが石田、増田らの奉行がどうにか体裁を整えておった。殿下の死は朝鮮への影響を鑑みてしばらく伏せる。朝鮮の陣は即時撤兵し、監督には石田殿と浅野殿があたる。」

「石田治部と浅野弾正は不仲と伺いまするが。」

「危急の折だ、両者腹の中に収めておくだろう。」

「しかし、文禄の役の和平交渉以来、石田殿と加藤殿との間にもわだかまりがあると聞きまする。いずれ浅野殿と加藤殿が連衡して石田殿を排斥する運動をせぬとも限りますまい。」

 正信の言に家康は黙した。彼は少なからず石田に同情するところもあった。

 朝鮮の戦は諸大名の誰もが望まない戦であり、その重い負担は確実に諸侯の領国経営を蝕んだ。それは紛れもなく豊臣政権の責任であったが、諸人はその恨みを太閤に向けることはできず、必然的に奉行衆に向けられることになる。奉行衆の象徴的存在である石田が多くの非難を被ることになったのである。

「ともかく、殿が先ほど仰せられた通りいつ変事が起こるやもわかりませぬ。そこでこの佐渡守、策があり申す。」

「何だ。」

「は、政局がいずれに転ぶにせよ。今は当家にとってお味方を増やすが肝要にござる。さればこそ、当家と縁戚となる大名を増やすべきかと。」

 家康は神妙な顔をした。

「大名同士の勝手な婚姻は太閤殿下の生前より禁じられている。」

 これは秀吉の遺命ではなく生前の文禄四年に掟で定められたものであり、大名同士が徒党を組むことを防ぐものであった。

「殿は太閤殿下の義弟であらせます。そのうえ、太閤殿下から秀頼公が成人するまでの政事を託されており申す。その殿が決定した縁組を『諸大名同士の勝手な縁組』とは申しますまい。公儀としての婚姻でござる。」

「なるほど。その理屈で通すか。」

 ここで家康は井伊直政に意見を求めた。謀事に関しての密議を家康、正信、井伊直政の三人で行うことは以前からよくあった。正信は以前書いたように徳川家一の謀将であるし、井伊も諸大名との外交を担うなど時勢に長けていたからである。それのみに留まらず、徳川家の最強部隊である「赤備え」(旧武田家の遺臣で構成され、鎧袖を緋色で染めた部隊)を率いている井伊の意見は軍事面からでも参考になった。(正信は軍事に疎かった。)

大概会話を主導するのは正信であり、井伊はその大半を黙して聞いていた。彼は井伊谷と呼ばれる遠江の郷里の土豪出身であり、徳川家においては外様であった。それ故、徳川家の譜代家臣以上に徳川の士たろうと気負っている面があった。普段口数は少なく、家中の軍規は随一厳しかった。しかし戦になると誰よりも猛り、厳しく戦ったし、政務においても所作が洗練されていて淀みなかったため、家康のみならず譜代の家臣からも非常に信頼されていた。

井伊は家康との密議においても非常に口数は少なかったが、意見を求められれば的確に答えたため、家康は要所では彼に必ず意見を求めた。井伊は決して口下手だから黙していたのではなく、自分の思考を煮詰め、推敲しきってから発言するようにする質だった故に、たまに飛び出す意見は非常に要点が凝縮されていた。

佐渡守殿の申した通り、今はお味方を増やすが最優先にございましょう。私的な婚姻でおそらく他の大老、奉行方の反発を買うでしょうが無理にでも通してしまえば後々、御家にとって良いように効いてきましょう。当家におかれまして一番血縁の濃い御家は恐れながら豊家(豊臣家)にござります。その豊家の太閤殿下が亡き今、必然的に当家の立場も盤石では無くなりました。新たな血縁を作るのは上策かと考えます。」

 井伊はさらに続けた。

「政事を恙なく致すは重要なれど、万が一、太閤殿下の死に乗じて徳川家を追い落とそうとする邪な輩がおりますればこの井伊兵部、赤備えを国許から呼び起こし、兵馬の争いにて八つ裂きにしてくれましょう。」

 

 石田三成は少数の供回りとともに尼崎から大阪への街道を疾駆していた。朝鮮の陣の撤収が一段落つき、大阪に舞い戻ってくる途上であった。

 大老と奉行で明との和議に関する合意が九月四日には、徹兵に関する合意が十月十五日には形成できた。石田は十月下旬には浅野とともに博多に飛んだが、ここで覚悟はしていたものの、最悪の事態が生じた。

 秀吉の死が明側に漏洩したのだった。(おそらく平戸に起居していた宣教師か南蛮人経由であった。)朝鮮の諸将は中央の支持で和平を結ぶべく奔走していたが、明側はそれを保護にし、再び戦を開始した。

 結局、九州の島津家や立花家等の伝説的な奮戦ぶりによって日本軍はかろうじて撤退することができたが、博多に着いた諸将はほとんどみな精気を失い歩くのもやっとな状態だった。

 日本軍の先鋒大将を務めていた加藤主計頭清正も撤退の監督者の石田を見つけると、件の対立事項について二、三言文句を垂れたが、疲労がそれに勝っているのかその場でそれ以上は追及しなかった。

 殿軍の小西行長が無事撤退し、全軍帰国の目途がついたのを見届けると石田は急ぎ伏見に戻ることにした。撤退事業も多くの政治問題と並行して行われていたが、自身の大阪留守で政治的空白が生まれるのは避けたかった。特に彼の担当案件である小早川隆景の遺領相続問題は博多でも書状でやり取りしていたが、吉川広家の反発などもあり、解決していなかった。

「島左」

 石田は馬を飛ばしつつ、傍らの大柄な、浅黒い肌の武者に向かって呼びかけた。石田家家老である島左近清興であった。左近という通称はありふれているため、石田は平素、島のこと島左と略称で呼んでいた。

「伏見に戻ったら急ぎ諸々の政務にあたる故、そなたも心せよ。」

「承知いたした。」

 島は元々筒井家の前線指揮官であったが、洞ヶ峠に代表されるような筒井家の消極的な家風を嫌い、浪人していた。以降天涯無禄でいるつもりだったが、自家に兵馬に明るい大将が少ないことを案じた石田三成に懇願され、(そして島の方も石田の才幹かつわだかまりのない性格を気に入ったため)石田家の軍事顧問として召し抱えられることになった。

 しかし島には(今まで発揮する場が無かっただけで)政務の才もあった。他の石田家臣の多くがそうしていたように、主人の奉行としての仕事を助けることも多々あった。

 淀川に差し掛かったところで左折し、そのまま遡った。一行はその日のうちに伏見に着いた。十二月十二日のことであった。伏見の自邸に着くと八十島が「内々の儀である」と言い、耳打ちしてきた。

 内容は、最近、伏見の徳川屋敷からの使いが伊達屋敷、福島屋敷、蜂須賀屋敷を頻繁に訪れているとのことだった。その上、使いのみならず当主自らが行き来することもしばしばであり、昨夜などは伊達家の当主、越前守政宗自らが徳川屋敷を訪問したらしい。

 伏見の徳川屋敷は石田屋敷(伏見城に組み込まれる形となっているため治部少丸と呼ばれている)のほぼ隣に位置しているため、そして石田屋敷は徳川屋敷を若干見下ろす形となっていたため、往来の様子がよくわかるのだという。

「年を改め、諸侯は伏見から大阪に移ることとなっている。その挨拶ではないのか。」

 秀吉の遺言で、現在秀頼含め諸将の拠点は伏見になっているが、その拠点を慶長四年の一月に大阪に移すよう指示されていた。先の取り決めでその日付は十日とされていた。

 伊達、というのが腑に落ちなかった。伊達政宗豊臣秀吉の統一事業の末期にその軍門に下ったが、その後も大崎葛西の一揆に一枚噛むなど、豊臣政権にとっては警戒の対象となっていた。

(探るか。)

 石田は島に言った。

「島左、探れるか。」

 島は浪人時代の伝手で行商や遊女など種々の経歴の者と繋がりを持っており、石田家の家老となってからはそれらの人脈を諜報目当てで使っていた。

「やれぬことは無いと思いますが、徳川家においては服部半蔵正成由来の伊賀者が常に小物に紛れて屋敷の警備をしているため、いささか心許なく存じます。ここは一つ長束様にお頼みになった方がむしろ早いやもしれませぬ。」

 五奉行の一人である長束正家は近江水口十二万石の領主だが、領国に忍びの里で知られる甲賀を含んでいたため、配下に甲賀衆を多く抱えていた。それを借りればよいと島は言っている。

 その日は既に夕刻だったので、翌々日の二十七日(翌二十六日は高台院に、三女辰姫を養女として世話をしてもらう件について伺い事があった。)石田は伏見城北にある長束屋敷へと向かった。長束屋敷に着くと家宰の家所帯刀によって迎えられ、長束の元へ通された。

 石田は件の噂について長束に告げた。

「某も聞き申したが徳川殿からは何も知らされておりません。」

 長束は拠点移動を見越した挨拶だいう石田と同様の見解を持っていた。

 石田は長束に甲賀衆の件を切り出した。すると長束は途端に渋い顔をした。長束にとって徳川は縁戚に近く、長束は徳川家に忍びを使ったことが露見することこそを恐れた。

「謀反を疑っておられるのか。」

 長束は苦笑しながら尋ねた。

「それは万が一にもないと思うが、下らぬ噂が立つよりは、件の訪問のわけがわかった方が内府様のためにもなろう。」

 石田は言ったが、長束の態度からして協力してもらうのは難しいと思った。

 長束は奉行の中でも理財面の担当に特化しており、元来職人気質のようなところがあったため、五奉行でありながら政局に深く関わるのを嫌う面があった。

石田は長束にとって奉行における先輩格にあたり豊臣政権の初期において何かと面倒を見てやったことも多かったので、石田の頼みは快諾してくれることがほとんどであったが、今回は無理強いしないことに石田は決めた。

石田はそもそも自分と長束では置かれている立場が大きく違うことに気付いた。

石田は豊臣家の取次ぎとして、上杉家や毛利家、島津家など、徳川家と縁の薄い大名との外交を担当していた。石田は公的に徳川家の外交を担当することは無かったが、それは既に上杉など大大名の取次ぎをしている石田が徳川との外交をも担うとなると権力が集中しすぎることを秀吉が危惧したためでもあった。

また、秀吉は徳川家と婚姻関係を結びつつ警戒することも怠らなかったため、むしろ石田に徳川家を警戒する役割を望んでいた。石田自身そのことをわかっていたので、家康とは五大老五奉行制が組まれてからもつかず離れずの距離を保ってきた。(盾ついて対立するような愚は起こさなかった。)

今回の石田の行動の背景には以上のような事情もあった。それに比べて先述の通り長束は徳川家臣本多忠勝と縁戚であり、関りが深かった。石田は長束を頼るのをやめることにした。

 伝手はまだあった。石田は長束家の屋敷を後にすると今度は伏見城を下って西側にある上杉屋敷へと向かった。

 石田と上杉家との関わりは深い。豊臣家(当時は羽柴家)と上杉家は賤ケ岳の戦いの頃から緩やかな同盟関係を保っており、秀吉に恭順した時期も早かったため、諸大名の内でも親豊臣の大名として認識されていた。石田は早くからその取次ぎを任されており、半ば事務的なものを超えた信頼関係のようなものが生まれていた。

 秀吉薨去の際、上杉が国許にいたことは述べた。上杉は秀吉の訃報を聞くと翌四月の葬式のために上洛したが、石田は朝鮮の撤退事業に追われており、満足に挨拶を交わす暇もなかったのである。

 石田が上杉屋敷に向かったのは、上杉の諜報組織「軒猿」を使わせてもらうためだった。そもそも上杉家が会津に転封されたのも、伊達家と徳川家とを牽制するためであったため、今回の用件を上杉家に頼むのは妥当であった。

 それ以上に、石田には会っておきたい男がいた。

 上杉家の宰相直江兼続であった。

 大名との取次ぎといっても直接大名と交渉するのでは無く、大名側にも窓口があった。上杉家にとってそれは直江の役割であり、必然的に石田も直江と連絡を取り合うことが多かった。年も近い石田と直江に友誼のようなものが育まれるのは自然の流れであった。

 馬も合った。直江は了見が広く開放的な性格であったため、誰からも好感を持たれる性格であったが(上杉家臣団からは『旦那』と呼ばれていた。)何より頭の回転が速く、相手の話の要点を掴むのが上手かった点が石田の心を掴んだ。

「上杉家においては城州殿(直江兼続)に万事頼まれよ。」

と常々公言していた。最も、石田は一番信頼していた同僚である大谷吉継にだけは

「城州殿は勇気も才智も比類ないが、中央で政事を行ったことがないので、その点たまに見当を外す。」

 という愚痴を言っていたが(石田は大谷吉継にだけはこの種の愚痴を時たま言った。)、それも直江のことを高く評価し期待していることの裏返しでもあった。

 

 上杉家の門番は石田三成が供も連れず尋ねてきたことに驚いたようだったが、彼と直江の友誼は知っていたので、早急に取り次いだ。

而して石田は応接部屋に通された。

「やあ治部殿、息災か。」

「城州殿、暫く。」

「重畳重畳。博多の魚は美味かったかね。」

「味わっている暇など露ほども無かったさ。おまけに色々大時化ときた。もう博多には当分行きたくないね。」

「同じく。朝鮮にはもっと行きたくない。」

 石田は早速用件を持ち出した。直江はうなずきながら聞いていたが、やはり徳川と伊達に何らかの政治的繋がりができ始めている点が釈然としない様だった。

「諜報の件は承った。どちらも上杉家の仮想敵国ゆえ、ご尽力いたそう。」

 石田は頼もしく思いながらも、一種の危うさを感じた。中央官僚の石田、増田らは同様の場合でも「仮想敵国」とまで断ずる物言いは平素しないように心がけている。直江の剛毅さは一国の統率には優れていても中央の政局には枷となりかねないと石田は感じた。

「しかし今回の件は軒猿を使わない方が良い。」

 直江は、徳川家においては服部半蔵正成由来の伊賀者が常に小物に紛れて屋敷の警備をしているため、軒猿を送っても看破されかねないということを言った。

「ではどうする。」

伏見城下に顔見知りの遊女がいる。その者の兄が徳川屋敷の庭師だったはずだ。そいつに探らせる。」