黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(3)

  3話目です。今回はちょっと小難しい回ですかね。直江の諜報の下りがわからない方は2話をご覧ください

  石田三成の親友が登場します。(本作では最も信頼する同僚という表現をしています。)

 

 

 こうして直江は石田に、何か事態が動けば直ちに報せることを確約した。直江はすこぶる有言実行の男であることを石田は承知していたので、この件は直江の報告を待つことにした。

 

 正月、諸大名は出仕して秀吉、および秀頼に新年祝いの挨拶をするのが慣例となっていたが、その年は秀吉の喪に臥すため祝賀は行われず、十日の大坂への引っ越しの準備のみが粛々と行われていた。

 一月十日、大坂、伏見間は諸大名の引っ越し行列で溢れていた。石田ら五奉行の面々は一足先に大坂への移住を済ませており、秀頼および利家が大坂城へ入る手はずを整えていた。

 家康が伊達らとつぶさに連絡を取っている件で直江から報せが来たのは石田が丁度大坂城で引っ越しの監督をしている時だった。

 直江の使い番曰く、石田の所在が不明で連絡が遅れたらしい。石田は使いの差し出した書を受け取ると、物慣れた手つきで封を切り、そして広げた。

 石田は全て読み終わると言った。

「急ぎ伏見の徳川屋敷へ向かう。島左、ついて来てくれ。」

 石田は表面上冷静さを装っていたが、その瞳には(彼にしては珍しく)動揺が表れていた。石田は八十島を徳川屋敷にやり、今から面会に行く旨を報告させた。

「城州様からは何と。」

 島左近は廊下を早足で移動する主人に歩調を合わせつつ問うた。

「件の徳川の件で調査したことを知らせてくれた。曰く、徳川家は伊達家、福島家、および蜂須賀家との縁組を計画しているそうだ。」

「大名同士での縁組は太閤殿下生前より禁じられていますな。」

 直江の書状は家康が縁組を計画しているというおおまかな概要が書かれていると同時に、その縁組計画の詳細も事細かに記載されていた。

 各家との縁組に関しては次のとおりである

 

 ・松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)

 ・満天姫(家康の養女)と福島正之(福島正則の養子)

 ・万姫(家康の養女)と蜂須賀至鎮蜂須賀家政の嫡男)

 

これら三組がそれぞれ祝言をあげることになっているらしかった。

 石田はこの件を他の奉行、大老に報告しなければいけないと思ったものの、前田利家らの出方によっては伏見、大坂間の戦になりかねないと思った。故にまず、石田は直江の報告書を更に要点だけまとめたものを、「上記の疑いあり」という但し書きを付けて前田利家のもとに送るに留めた。

そして自らは直接徳川屋敷へ赴き、審議を直接問いただすと共に、直江の報告が誠であれば今後の対応を(ことが公になる前に)秘密裏に交渉したかった。

 

 石田と島は淀川を諸大名の引っ越しの列を時にかき分けつつ、遡った。馬の吐き出す息が炊煙のようであり、寒さは身を切る様であったが、全速力で駆けた。伏見城下に入ってからも駆けに駆けた。二人の顔を知ったる者が「治部殿」「左近殿」と振り向けざまに呼びかけたが構うことなく過ぎ去り、徳川屋敷が建つ通りへ駆け入った。

 そのまま徳川屋敷へ押しとおろうかとも思ったが、二人とも盥沐していたかのように汗で体が濡れたくっていたのでまずは自邸に戻り、体裁を整えた後、二人は徳川屋敷の門を叩いた。

「お待ち申しておりました。」

 応対したのは若き家老の井伊直政であった。井伊は洗練された所作で石田と島の二人を応接の間に通した。

 応接間に通されると、石田は一人の白頭巾を被った男が家康と話していることに気付いた。その白頭巾の男にはよく見覚えがあった。否、馴染みがあった。

「刑部殿ではないか。」

「その声は治部殿か。これは数奇な時機に来られたものよ。」

 白頭巾の男の名を大谷吉継といった。

 石田同様、豊臣秀吉の天下統一事業の過程で官僚としての能力を買われ立身した大名であった。

 この男の経歴はほとんど石田と共にあったと言っていい。石田が豊臣政権創成期に堺の奉行に就任するとその与力としてあてがわれ、職にあたった。四国、九州、朝鮮の役と大戦ではそろって兵站の確保に努め、小田原征伐では石田と共に兵を率いて武蔵国忍城を水攻めにした。

 大谷は石田同様、経済や兵站への理解が深く、要領も良かったが、彼の特筆すべき長所の一つとして群集心理を把握するのに長けていた点がある。

 どう命令を下せば人がどのように行動するかを理解すること巧みであり、また逆に嫉妬心や猜疑心といった、人の心の弱みもよく把握していたので大きな事業を統括するにあたっても失敗が無かった。

 石田も決して群集心理が理解できない質ではなかったが、彼自身が才幹である故に若干理想に固執してしまう傾向があり、実際働く工夫や舎人が石田の想像より愚かであったがために予測を誤ることが時たまあった。秀吉は以上の両者の人柄を熟知した上で組ませた。この人選は秀吉の数々の人選の中でも肯綮に中ると言っていい。

 石田は政事において判断に迷ったときは何事も大谷に意見を求めるようになり、逆に大谷も石田の才を求めてよく相談した。

 要は大谷は石田が最も信頼している同僚であった。

 しかし不条理なことに、彼は小田原の役が終わったあたりから難病に苦しめられていた。その病は壮絶なもので、全身の皮膚に悪瘡ができ、また失明するというものだった。細菌や糖など体にとって善くないものが全身をめぐると右のような症状がでることから細菌感染症、糖尿病など様々な説があるがはっきりとはしない。

 彼はその病のせいでここ五、六年は奉行職を退いていたが、最近は小康状態を保っているのか中央の政界に復帰していた。諸大名同士の連絡や奉行の輔佐をよくこなしており、石田とも以前のようによく連携していた。

 しかしなぜ大谷がここにいるのか石田は解せなかった。石田の表情を察したのか家康が言った。

「儂がお呼びしたのだ。」

 大谷は一礼した。先述の通り、徳川とつかず離れずの関係だった石田と違い、大谷は奉行の中でも浅野と共に親徳川の立場であった。大谷が政界に復帰したのは家康が執政の立場になったために自身の重要性が増したからでもあった。

「石田殿が来られたのは当家と伊達家との縁組の件かな。」

「いかにも。」

 石田は大谷が徳川屋敷にいる理由を察した。縁組の件は遅かれ早かれ諸侯の耳に入ることであり(あるいは徳川自身が露見したことを察したのかもしれない)、独断での縁組計画となれば大老、奉行の反発・糾弾を受けるのは必至である。

 それを見越し、自家と親しい奉行である大谷を味方に抱き込み、利用しようという腹に違いなかった。

「太閤殿下生前より諸大名の勝手な縁組は禁じられております。」

「治部殿。徳川殿はただ今の日ノ本の宰相にござる。どころか太閤殿下の義弟、および秀頼公の義理の祖父ともあろうお方にござれば、『勝手な縁組』には当てはまらず、公儀としての縁組にござろう。」

 大谷が言った。彼は病に陥る前は軽妙洒脱でエスプリの効いた語り口で知られていたが、病を患って以来、動作は緩慢となり、病人特有の歯切れの悪い口調となっていた。

 加えて、大谷にとってこの空間は間が悪いようであった。縁組の件について、政治的立場は異とするが長年の職場の朋友である石田と言い争いたくはないらしい。

 石田は家康の方に向き直って言った。

「されど今の刑部殿の言は建前の理屈にござろう。いくら徳川殿が豊家のご縁戚であろうと日ノ本の宰相であろうと、諸将は今回の件を勝手な縁組と解釈します。そうなれば今後もそれにつづく大名が出て参りましょう。そうなれば法度が軽視される。そうなれば世が乱れる。」

 石田はたびたび見せる、悪政に対する毅然とした態度を垣間見せた。

家康は返答に窮した。石田は流石に頭の回転が速く、事の本質を突くのが上手い。家康は論点を変えた。

「しかしそなたもご息女を高台院様の養女とされたそうではないか。」

 石田は黙した。

 確かに石田は秀吉の死後、正妻として方々に影響力を持つ北政所と繋がりを持つため、自分の三女の辰姫を養女として送り込んでいた。大名同士の私的な婚姻とは性質が違うため違約には当たらないが、衝かれると若干後ろめたい点でもあった。

「しかしそれは大名同士にも私的な婚姻にもあたりますまい。此度の徳川殿が成されたこととは性質が異なります。」

「では治部殿。徳川殿を排斥なさるか。そうなればこそ世が乱れるではないか。」

 確かに現在の政治体制は大谷の言う通り、家康あってのものであり、家康を除外しようとすれば反対派との戦になりかねない。

「確かに今回の件で徳川殿に落ち度はあった。しかし訳を話し説得すれば諸将は黙りましょう。ことを荒げてはそれこそ豊家の御ためになりますまい。」

 以上の大谷の発言を引き継いで家康が言った。

「石田殿、この件を事後承諾という形で通すことはできまいか。必要とあらば大納言殿には私の方から謝罪に参る故。」

 石田はやや逡巡したが言った。

「私としても事を荒げたくはない故、今貴殿が申された方向で調整するよう試みます。しかし事後承諾を見越した法度破りは今後一切慎みいただきたい。今回の件でも恐らく加賀大納言様はご立腹なさるでしょうし再度このようなことがあれば私としても取り成しかねます。」

「わかりました。取りあえずは大坂の方々に諮ってみてください。」

 

 石田と大谷は徳川屋敷を後にした。屋敷を出ると石田は大谷に詰め寄った。

「刑部殿。いくら貴殿が徳川殿と親しかろうとあの場では私に同調するべきであった。仮にも豊臣の奉行の職にあった其方が法度破りに同調しては天下に示しがつかぬではないか。」

「お主の言い分は正しい。そして私もわかっている。」

 大谷は言った。

「しかし奉行衆が全員徳川弾劾に回ってしまってはそれこそ事が収まりにくくなる。儂が徳川の言い分を聞いてやることで奉行衆との橋渡しにもなるではないか。」

 要は匙加減が重要である、と大谷は言った。石田は理屈の上では納得したがやはり釈然としないところがあった。

要は、かつては諸問題全てを独裁者秀吉が裁断したため、石田大谷らはそれを善し悪しの尺度として従えばよかった。しかし秀吉が死に、その絶対的な善悪尺度が揺らいだ以上、大谷の言ったように諸将が和する様、万事加減を大事にしてものにあたらなければいけなくなった。物事の本質を衝くのが上手いこの男は、その釈然としない理由がそこに起因することを悟ったが、それに増して、今まで何事においても心根を同じくした大谷と今後政治的に別行動を取らなければいけないか思うと寂しさを感じた。

「病の方は如何かね。」

 石田は大谷の体調を気遣った。大谷は病で足が萎えたのか移動には家臣の介添えを必要とし、外出の際は輿を使用している。

「相変わらずだね。眼病に加え、足もすっかり萎えてしまった。体の節々も常に痛んでいる。目も足も利かなくとも仕事はできるが、体の痛みで頭の周りが鈍くならんかが気掛かりさ。」

「しかし仮に君が以前のようには政をこなせなくなったとしても、それが病のせいであることは方々承知しているし、君が今までに積んだ徳はそれを補って余りあるものだ。」

「そうはならんよ。」

 大谷は輿に乗り込み、頭巾の中でくぐもった笑い声を響かせた。

「石田殿は儂と仮にも私人としての付き合いがあるから表裏なき温情を向けてくれるのであろうが、そうでない大名方は表面的な哀れみこそ向けれ、本心から同情なぞせんよ。むしろこれを機に儂の既得権を簒奪せんとするものも多かろう。それが豊家に仇なさぬよう注意せねばならん。」

 以前から衆人の心理には長けていた大谷であったが、大病を患い、なお一層視えるようになった景色があるらしい。石田は黙って大谷の輿を見送った。