黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(8)

こんばんは

 

関ケ原シリーズも早くも8話目ですね。

今回は重要な局面だけに自分の文章力のなさが浮き彫りになってしまった感じです。

ネガティブなことばかり言っても仕方ないのでこのシリーズはちゃんと完結させたいと思ってます。。。

いつかちゃんと細部まで点検してリメイクしたいです!

 

以下本文です。

 

 

 家康が伏見での騒動を知ったのは石田三成の護送を務めた佐竹義宣の訪問によってであった。佐竹は伏見城まで石田を送り届けると、今回の騒動の調停を願い出るために家康が居住している向島へと急行した。

 この義理固い男は、石田が豊臣政権下において佐竹家に世話を焼いてくれた恩を、身命を賭して返すつもりでいた。徳川家とはそれ程付き合いはなく、むしろ領土問題によって多少の緊張関係にあったが、彼は石田のために迷わず、家康に調停を願い出たのだった。

「水戸侍従殿。要旨は分かりました。私は大老筆頭として、大名たちの私闘を取り締まる義務がありますし、伏見の統治者としても、今回の騒動を看過することはできません。今すぐにでも手を打ちましょう。」

 家康はあくまで公正で中立な立場として今回の騒動を収束させるつもりであった。

 襲撃側に池田輝政福島正則ら徳川家の縁戚大名が多くいたことに衝撃を受けたが、ここで襲撃者側の肩を持っては、政治問題への武力解決を豊臣公儀として認めることになる。

「ありがたし。何卒、穏便に事が済むようお願い致す。」

 佐竹義宣は家康が公正な仲裁者としての立場を表明したことに満足した。深々と頭を下げると、徳川屋敷を後にした。

 家康にとって問題は、大坂から伏見へと三成を追ってきた七将が相当な興奮状態にあることだった。

 佐竹義宣が徳川屋敷を後にするのと入れ替わりで、細川忠興ら七将から連盟で家康宛の書状が送られてきたが、そこには明確に石田三成への弾劾が記されており、主に二つの要求が書かれていた。それは「朝鮮の陣での蔚山倭城の裁定の取り消し」「石田三成および福原長尭の切腹」であった。

切腹とはまた手厳しい。」

 本多正信は失笑したが、家康は笑えるような事態には思えなかった。彼らは現在、治部少丸を包囲し、突入の時を今や遅しと待っている。家康が彼らの条件を許諾するまでおそらく兵を退かないつもりであろう。そうなればまた諸侯が石田派と弾劾諸将派に分かれ、前回の縁組騒動の二の舞になりかねない。

「とりあえず、七将への返書をしたためる。井伊兵部をここに。」

 家康は七将への返書を認め、腹心の井伊直政に持たせ、宇治川の対岸で陣を張る七将の元に遣った。

 伏見の治部少丸では、攻囲する弾劾諸将の軍勢と、石田三成麾下の手勢とが指呼の間で睨みあっていた。

 特に、夜が明けてからは引っ切り無しに言葉合戦が行われていた。今回の軍事行動には政治的意味合いが多分に含まれていたがために、双方自分らの正当性を主張するのに躍起だった。

 石田家の侍大将、舞兵庫は主人石田三成がいかに清廉で公正に奉行の職にあたってきたかを知っていたので、弾劾派の熾烈な雑言にもひるまず反論した。

「汝らは、豊家が天下を収めて以来。此の方(石田三成)が如何に滅私奉公してきたかを知らぬか。星を被き、月を戴くとは此のこと。その様を知っての狼藉か。」

 言い終わるや否や、手元に抱えた八〇匁はあろうかという大鉄砲を放った。大鉄砲は轟と火を噴き、寄せ手の木盾を吹き飛ばした。

 そのようなやり取りを繰り返しているうちに、家康の使者である井伊兵部少輔直政が、弾劾諸将らが本陣としていた伏見の細川上屋敷に到着した。

 細川以下七将は家康からの書状を食い入るように見ていた。書状には七将が手紙をよこしたことへの礼が書かれており、仔細は井伊直政に聞くようにと述べられていた。

「して、内府殿は我らの要求には何と。」

蔚山倭城の裁定について見直すことにつきましては、加賀大納言様御存命の折から大老間で議題にあがっており申した。図ってみる故、沙汰を待つようにとのことです。」

「石田と福原の切腹については。」

「両名の処分の儀つきましても只今思案中ゆえ、追って沙汰するとのことですが、我が主は、切腹は重過ぎるとの見解を持っています。」

 この井伊直政の発言に対し、弾劾諸将でも反応が割れた。主犯格の細川忠興加藤清正の二人はその短気さも相まって激昂した。

「我らの要求はあくまで石田らの切腹。この機に石田を葬らねば、奴は必ずや復権を企てよう。」

 床几に両手を叩きつけたのは加藤清正であった。

「もし我らの要求が容れられぬのであれば、その時は内府殿と一戦交える覚悟ぞ。」

「その言葉、そのまま我が主にお伝えするがよろしいか。」

 井伊直政が凄んだ。平時こそ有能な政務官、外交官として振舞っているものの、この男の根底にあるものは赤備え三千余騎を従える武人であった。加藤の言に対しへりくだる気は毛頭ない。

 結局その場は徳川家の縁家である福島、蜂須賀らが収め、事なきを得た。(彼らとしては徳川家と極力諍いを起こしたくなかったのである。)しかし、井伊直政は細川、加藤らの激昂ぶりをそのまま家康に報告してしまった。

 家康は内心不愉快であった。が、それよりも事態が収拾しないことへの心配が勝った。

 先にも述べたが、此度の騒動で石田三成切腹、という裁定を下せば、武力による弾劾を公儀として認めた状態となり、現行の秩序は大きく乱される。執政者として家康はその判決を下すわけにはいかなかった。

 しかし弾劾諸将は伏見と大坂に残留した者を含めて十名おり、徳川家の縁家も数多く含まれているが故に、その対応は難しいところであった。

高台院様(北政所)預かりの裁定としてはいかがでしょう。」

 謀臣、本多正信は言った。今回の事件には加藤清正福島正則ら豊臣家子飼いの武将が多く、彼らは多かれ少なかれ高台院、寧々から恩を受けている。加藤、福島などは少年期、高台院に育てられたも同然であり、母のように慕っている。

「それは良いな。」

 高台院預かりの裁定とすることで、彼らと徳川家との無用の衝突も防ぐことができるであろう。

佐渡。大坂の高台院様のもとにすぐに使いをやってくれるか。処分の内容はこちらで決定する故、仲裁にたってくれる様、お頼み申すのだ。」

「承知しました。すぐさま嫡子の本多正純を大坂に遣りましょう。」

 

 細川忠興加藤清正らが奉行の石田三成を弾劾、その屋敷を襲撃したことは大坂でも大きな騒ぎとなっていた。

 細川らが石田屋敷を襲撃すると同時に、池田輝政脇坂安治加藤嘉明ら三人の将が片桐助作と謀り、大坂城を占拠したことは前に述べた。その計画は巧妙かつ迅速に行われたため、奉行方も成す術がなかったのだが、この一連の騒動に対し強い警戒心を持った毛利家が国許から兵を急募し、尼崎に陣を敷く事態となっていたのだった。

 毛利家は秀吉が羽柴姓の時分から縁があり、豊臣政権にも早くから恭順の姿勢をとるなど、外様大名の中では親豊臣系の大名として知られていた。中でも秀吉は、毛利一族でもあり、大きな勢力を持つ小早川家に、自身の縁者である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子として送り込むなど重用していた。

 そのような歴史もあり、秀吉の死後、八月十八日に石田三成ら四奉行は毛利家と「豊家に仇成すものがあれば連衡してこれを排斥する。」という旨の誓紙を特別に交わしている。これは毛利家の信頼と、百二十万石の実績を買ってのことだが(徳川家康の専横への警戒の意味もあった。)、いずれにしても今回の尼崎への出兵にはこのように、毛利家が昔から豊臣との繋がりが深いという背景があった。

 毛利輝元は国許から急行させた六千の兵をもって尼崎に陣を敷くと、取り急ぎ軍議を行った。大坂の状況は家臣、内藤隆春(齢七十に近い老齢であったが物に聡く、慧眼であったため、引き続き重用していた。)から逐一報告されていた。

「池田武州以下三千余りの兵が大坂城に拠っており、立ち入れないようですな。」

 当主輝元の叔父、毛利元康が言った。安芸毛利家中興の祖である毛利元就は多くの子を残した。元康は齢七十を過ぎてから産ませている。

池田輝政は家康の婿だが、此度の騒動は家康の指図に因るものなのか。」

「その可能性はあるでしょう。内藤の報告にも以前、『奉行衆と内府、些か不和』と書かれており申した。」

 輝元と元康の会話を制したのは若くして家老職に準じている吉川広家であった。

「お待ちあれ、奉行衆と内府が不和であるという噂は太閤殿下が身罷られた去年八月の時点のものに御座ろう。太閤様の死後、内府様は一貫して豊家への忠義をもってご精勤なされておる。あまり食って掛かるのはよろしからず。」

「伊達や福島らと勝手に婚姻するのが忠義かね。」

 毛利元康は冷笑した。吉川広家は反論しようとしたが、輝元は「もうよい」と制した。

(小早川の叔父上が往生して以来、万事この具合よ。)

 輝元は心の中で嘆いた。豊臣政権下において、毛利家を導き、全てを取り仕切っていたのは叔父、小早川隆景であった。彼は抜群の思慮深さと多大な仁愛をもって国を治め、また早期から豊臣家と毛利家の架け橋ともなった。そのため毛利家は家中に混乱もなく、豊臣家との仲も良好だった。

 しかし小早川隆景が卒して以来、家中は不協和音を奏で続けている。

 その原因の一つは小早川家の遺領問題にあった。

 輝元の叔父、小早川隆景は毛利家の宰相でありながら、伊予の一部や備後の三原などに領地を与えられ、半ば独立した大名として扱われていた。しかし慶長二年、丁度秀吉より一年ほど前に死去した。秀吉は小早川隆景の遺領を吉川広家に継がせ、広家の現在の封土には毛利秀元を入れるという遺領分配案を突き付けた。

 秀吉の死後、石田三成はこの案をもって遂行しようとしたのだが、まとまらない毛利家は輝元、秀元、広家が三者三様に反対したため、問題はこじれにこじれていた。

 そのようなこともあり、毛利家は三本の矢に代表されるような往時の結束を失っている。

「そもそも此度の騒動のは、諸将が石田の今専横を弾劾せんとするものだと聞き申した。諸将の言い分は至極尤もなことであり、石田に助力する必要はありもうさん。」 

 吉川広家は言った。この男は隆景の遺領問題の件でかなり石田へ鬱憤が溜まっており、むしろ弾劾一派と心を同じくしたい位の感情を持ち合わせていた。この男としては、毛利家の豊臣家に必要以上に媚びへつらうスタンスが以前から気に喰わない。(彼の父、吉川元春は大の秀吉嫌いであり、その生い立ちも理由の一つである。)

「我らは太閤殿下が身罷られた直後、石田殿らと誓紙を交わした義理もある。ここはやはり、大坂を抜いて伏見へ上り、石田殿らをお救いするのが筋であろう。」

 と言ったのは輝元の養子で遺領問題にも関わる毛利秀元であった。それに吉川広家が返す。

「しかし大坂城は池田らの兵で満ちており、立ち入れません。」

 吉川が若くして重用されているのはその軍事的見識の高さにあった。彼の用兵術は現在の毛利家中でも随一であり、朝鮮でも毛利家を幾度となく救った。

大坂城には三千の兵が詰めておると聞く。あの城を落とすには十倍の兵が要るわ。我が方は六千しかおらぬ。兵が足りぬ。」

「まあよい吉川侍従。」

 輝元が手で制した。

「もとより弓箭にて解決するつもりはない。

瑶甫殿が大谷刑部らと石田殿を外交にてお助けする手立てを探っておる。」

 瑶甫、とは毛利家の外交顧問、安国寺恵瓊の字である。輝元はこの外交を担う禅僧を「猊下猊下」と呼び慕い、半ば父の様に敬愛していた。

 しかし吉川にとって当主輝元の寵愛を受けるこの禅僧は政争における敵であり、また、安国寺恵瓊の方もこの一本気すぎる吉川広家の気質を好まなかったことから、両者は激しく反目していた。

 広家は、恵瓊の名が出たことに気を悪くした。しかし、今のままでは大坂に押し入れないのも確かであり、恵瓊の外交手腕に頼る以外に方法がないのも確かだったので、以降は口を一文字に結んで押し黙った。

 

 大谷吉継は不自由な体に鞭打って大坂を駆け回っている。というのも、前述したように、石田三成を救済するための交渉の糸口を探るためであり、また毛利家の出兵によって逆に複雑化した事態を収束させるためでもあった。  

 徳川家康が今朝、伏見から大坂の高台院のもとに飛脚を出し、事態の仲裁を頼んだ。弾劾諸将も高台院の調停を拒むわけにはいかないであろうから、調停自体は成るであろう。

 大谷吉継の考えは、これを機に家康と輝元を引き合わせて同盟させ、大老の勢力を盤石にすることで、乱れつつある秩序を再構築しようというものであった。

 彼は今、毛利屋敷で安国寺恵瓊と会談している。

 安国寺恵瓊とは毛利家の外交を司る禅僧だが、毛利家から多くの封土を貰っている上に、高僧として全国から多額の寄進も受けていたために、大名並みの経済力を有していた。

 毛利家は本能寺の変でかの織田信長が横死した際、明智光秀を討ちに京へ戻りたい秀吉と瞬時に和議を結んだが、その和議を主導しまとめたのがこの恵瓊であった。秀吉の躍進を見込んでの行為であったが、秀吉はこれを恩に着、毛利家を彼の政権下において厚遇した。

 それ以降も恵瓊は外交僧として小早川隆景らと共に豊臣家と毛利家を繋ぐ役割を担い続けた。

 要は今日の毛利家が豊臣政権下において重用されているのはこの恵瓊のおかげと言っても過言ではなく、当主輝元は恵瓊を父の様に慕っていた。

 大谷はその恵瓊に言った。

「毛利殿が石田殿を救わんと出兵成されたこと、石田殿に代わり御礼申す。」

「いえ、去年取り交わした誓紙の約定を守ったまでのことです。」

 そう言うと恵瓊は目の前の茶を一気に飲み干した。

 大谷は頭巾の中から、恵瓊の顔をじっと見据えた。

 眉は太く、丸々としており、目は小さい。黒々としたその目が絶えずきょろきょろと左右に動いている。

 大谷は豊臣政権下で何度か恵瓊と顔を合わせているのでその遇し方をよく理解していた。大谷から見て、安国寺恵瓊という僧は、物事の建前と本音を見抜く慧眼を有しているが、己を頼みにする自尊心が過大であるために、意見や弁舌にどうしても自意識のバイアスがかかる人物であった。

 彼にはあえて忌憚のない意見を述べると同時に、半ば泣きつくことで自尊心を満たしてあげた方が良い。

 大谷は言った。

「安芸中納言様に伏見へお越しいただくわけには参りませぬか。内府様と面会して頂きたいのです。」

「急ですな。」

「実は徳川殿が今朝、高台院様に矢留の斡旋を頼み申した。高台院様の力あれば和睦自体は成るでしょう。肝心なのはその後です。安芸中納言様に内府様と面会し、同盟の誓紙を交わしていただくことで政権の威光を盤石にし、秩序を再構築して頂きたいのです。」

 恵瓊は大谷の言に即座に返答することはできなかった。伏見に行くということはある意味家康の格下に準ずるということでもある。

「加賀大納言様が亡くなられた今、内府様と安芸中納言様が同盟することは天下のためにも必要なのです。万事は加減が肝要なのです。何卒。」

 大谷の嘆願に恵瓊は頷かざるを得なかった。

「承知しました。輝元は私が説得いたしましょう。」

「ありがたい。」

 大谷はほっと息をついた。

 高台院の名のもと和睦を成し、徳川毛利の名のもとに天下を治めれば今回の騒ぎは完全に収束するであろう。

(後は石田殿の処遇だが)

 伏見城増田長盛からの知らせによると、どうも今回の騒動は石田が政界から身を退かねば収まらなさそうとのことであった。

(惜しいな。あれ程の才人を。)

 大武勲者、前田利家についで天下の大番頭、石田三成も失うとあっては、豊臣政権は早くも座礁したと言っても過言ではない。

(この身も忙しくなるやもしれぬ。)

 石田の穴を埋める人材として、自分が再び奉行として働かねばいけない可能性を考えた時、彼は自由にならない病身を嘆いた。

 

 閏三月九日、細川以下十将が石田屋敷を襲撃してから五日の後、秀吉の正妻、高台院大老筆頭徳川家康連署により、石田三成方と弾劾諸将派への仲裁が行われた。

 和議の条件は以下の様であった。

一、黒田長政蜂須賀家政両名に対する蔚山の戦いにおける裁定を取り消すこと

一、石田三成佐和山にて蟄居。福原長尭は減俸に処する

一、弾劾諸将は裁定に納得し、速やかに兵を退くこと

 

 細川忠興加藤清正の両名はなおも食い下がり、石田の切腹を家康に直談判したが、家康は「そなたらはこの家康をも討とうと企んだ無用の者である。」と怒り、取り合わなかった。清正らもそれ以上は抗議の仕様がなく、仲裁を受け入れた。

 石田三成佐和山への護送は徳川家康次男、結城秀康の監督のもと行われたが、そのすぐ後ろを加藤清正黒田長政の軍勢が後をつけていった。家康の気が変わったならばすぐにでも石田を殺す腹であったが、家康の裁定が揺るぐことは無かった。

昔、作った曲あれこれ

こんにちは

 

少し新しい曲を作るのが停滞してるので、昔の曲を貼って間を埋めようと思います!

 

①yell

まず1曲目「yell」ですね。J-POP意識して作りました。高校の時に作った曲をDTMで作ってみたみたいな感じです。

エンジニアリングの知識が皆無で、ミキシングとかはかなりひどいと思います笑笑

推すとしたらやっぱりサビのところですかね、、、

 


【自作曲】yell

 

これ実は、母校の運動会の応援歌を転用したやつなんです。

これ自体は本番歌ったやつじゃない、没案なんですが、、、

本番歌う用にはもう少しローテンポのやつを作りました。

 

②道

これは邦ロックを想定して作りました。

DTMで作曲したのは2回目なのですが、1回目よりはうまく作れたかなあと思います。

 


【自作曲】道

 

③move to the moon

ひどいタイトルですね、何回見直してもこれは酷い。

ボカロで唯一作った曲です、めちゃくちゃ荒いですが、何とはなしに心地よく聞ける局ではあるかなと

 


【MEIKO English.ver】move to the moon【自作曲】

 

 

以上、昔作った曲あれこれでした!!!

濃州山中にて一戦に及び(7)

こんにちは

 

最近関ケ原シリーズばっかり更新してますね、、

作曲の方も更新できるようにしたいです!

引き続き石田三成襲撃事件を描いていきます。

文章が単調かつ繁雑な感じが否めませんが、、

 

 閏三月四日、決起当日、五奉行筆頭石田三成襲撃計画の発起人である細川忠興は兵を興しに密かに居城の宮津城へ帰城していた。彼の率いる三千の精兵は今回の計画の中核をなす部隊であった。

 細川忠興は若い時分より豊臣軍団の一翼を担う名将であったが、茶の湯や兜の意匠にも秀でた文化人としても知られていた。

 特に茶の湯は堺の巨匠にて秀吉の茶頭を務めた千利休肝煎りの弟子として知られており、利休が秀吉の不興を買って大坂を追放となった際も周囲の静止を振り切って大坂を立ち去るのを見送った程であった。

 しかし、彼は上記のように芸術家としての才能に恵まれていたが故に、芸術家特有の気難しさを持っていた。さらに武人としての血の気の多さも等しく持ち合わせていたがために、家臣たちはこの、数奇大名の虫の居所を掴むのに日々苦労させられた。

 今回の石田三成襲撃計画を発案したのも、前関白豊臣秀次の失脚に際して、石田に連座させられそうになったのを深く恨んでのことであった。怨恨を深く長く持続させることに関してこの数奇大名は突出している。

 が、その執念深い気質故、やることは徹底している。今回の挙兵準備も滞りなく進めており、その徹底ぶりが武人として、文化人としての細川忠興を評価せしめる所以でもあった。

「幽斎様より書状です。」

 家老の松井康之が差し出した手紙を細川は引っ手繰ると即座に広げた。

「ご隠居は今回の挙兵を思いとどまれと言ってきたわ。あの方は石田と共に島津への取次ぎをしておった故、石田を買っておるのよ。」

 細川は吐き捨てると、知らぬとばかり書状を炉にくべた。

「ご隠居とて主家たる足利将軍家や縁家である惟任日向守を見限ったのだ。俺も俺の考えをもって決めるわ。」

 細川忠興の言の通り、父幽齋は処世術の巧みな人物であった。

 元は室町足利将軍家の奉公衆として仕えていたが、明智光秀の誘いで斜陽の将軍家を見限り、信長に仕えた。信長が本能寺で明智の謀反で横死した際は、その明智に助力を求められたがそれを断り、家の命脈を保っている。

 細川の妻は明智光秀の娘、玉子である。牡丹の花が如き美貌とされ、父親譲りの利発さも有していた。忠興はこの才女を盲愛したが、嫉妬深い彼は妻の外出をほとんど制限し、自宅に軟禁するという挙に出た。玉子は父が謀反人として死を遂げたことも相まって、精神的に参ったのか、救いを求めるようにキリスト教に傾倒した。洗礼名をガラシャと言った。

 ガラシャは後に石田三成徳川家康弾劾のために挙兵する際、故あって非業の死を遂げることとなる。彼女に歪んだ愛情を注ぎ続けた忠興はその死を激しく悼み、悲しみに暮れた。彼はガラシャの生前、彼女が当時禁教とされていたキリスト教に傾倒しているのを非難し、彼女にそれを勧めた侍女らを切るなどしたが、彼女の葬儀の際はためらうことなくキリスト教式の葬儀を営んだという。

 以後そのような運命をたどる細川だが、今は英気に溢れ、今まさに伏見大坂へ押し出さんとしていた。

 細川は開門を命じ、宮津城から出立した。

 彼の役目は三成が伏見へ逃亡しないよう大坂、伏見間の街道の封鎖することであり、その為には山を越え、福知山を掠めた後、桂川の上流に出る必要があった。丸一日かかる。

 が、彼はその統率力をもって麾下の軍勢を静かにだが、迅速にそして確実に行軍させていた。これならば日没頃には山崎あたりへたどり着けるだろう。

 軍の先頭を駆ける細川はこの公でない行軍を愉しんでいる。自らの一歩一歩が着実に石田三成の喉元に迫っているのだという想像が彼の気を昂らせた。

明智日向守もこのような心地だったのだろうか。)

 丹後から出立し、隠密裏に行軍するあたり明智光秀本能寺の変との類似性を感じたが、(縁起でもない。それでは終いに謀反人として横死するではないか。)と細川はその妄想を打ち消した。

 行軍中、上方より早馬があった。

「加藤主計頭様より報せにございます。」

 加藤清正からの書状であった。細川は馬上でそれをひったくると急ぎ広げた。

 細川はしばらく読んでいたが、彼の表情がにわかに強張ったのを家老、松井康之は見逃さなかった。

「主計頭様は何と。」

 彼は松井の問いを黙殺し、一心不乱に手紙を読みふけった。読み終えると動揺しきった表情で言った。

「昨夜未明、加賀大納言様が大坂にて身罷られたらしい。」

「何と、前田様が。」

 松井は驚嘆した。細川忠興の嫡子、忠之は前田利家の娘を妻に娶っており、前田家と細川家は縁戚である。前田家には豊臣政権下で何かと面倒を見てもらっている恩もあった。

「いささか間が悪うございますな。」

「確かに縁戚として喪に服すべきやもしれぬが加藤殿らとしては予定通り決行したいらしい。」

 加えて前田利家の死はある意味好機でもあった。前田は死ぬ間際まで大坂の鎮護者としての役割を担い続けていたが、彼の死によってそれが無力化したといってよく、従って石田襲撃計画自体も成りやすくなったと言っていい。

「縁者として喪に服さず、このような行動を取るのは不本意だが致し方ない。予定通り行軍する。」

 前田の死を血で汚すようで心が傷むが石田の首をもって手向けとしよう、と細川は思い、軍を急がせた。

 

 しかし、大坂の石田三成は襲撃の情報を事前に知っていた。

 家老、島左近は浪人時代、京で有象無象の者と交流していた過去があり、謂わば「与太者」の知己も大勢いた。島はそれらを情報源として重宝していたが、その一人が島に知らせたところによると、細川忠興加藤清正ら十名の大名が談合し、大坂の石田邸を襲撃する手はずを取っているという。

 それ以前にも兆候はあった。

 徳川家の縁組騒動の直後、二月九日のことである、石田は大坂の備前島の自邸で茶会を開いた。招待したのは大老宇喜多秀家、懇意にしている小西行長、そして徳川家と無断で縁組したことが問題視された大名の一人たる伊達政宗であった。 

この茶会は縁組騒動によって冷え切った伊達家との関係を修復させる目標があり、ひいては大老宇喜多秀家等も誘うことで、騒動における徳川派、前田派を融和させるという意図もあった。

 石田と伊達は元来親しい。もともと伊達家の取次ぎは浅野長政が担っていたが、なにかと豊臣の権力を傘に着る浅野に伊達は我慢がならず、絶縁状を送り付けた過去があった。 

 その後を受けて伊達家の取次ぎとなったのが石田であった。以来、豊臣政権において何かと立場の弱い(伊達は秀吉に臣従した時期がかなり遅いため、豊臣政権において信を置かれることはほとんどなかった。)伊達家を取り成していた。

 石田が伊達を茶会に誘ったのはそのような背景もある。

 また華やかな英雄的気質の伊達は、思考が時に飛躍さえするような異才を愛する傾向があり、その点で石田のことを個人的に気に入っていた。

 茶会は終始和やかな雰囲気で行われた。茶会が終わりに近づいたとき、小西行長が「南蛮由来の葡萄酒を手に入れ申したが、方々如何かな。」と言い、そのまま場の流れで宴に突入した。

「石田殿。この度の騒動では何かと苦労をかけ申した。」

「左様。今後縁組の儀は必ず公儀に届け出るように願いたい。私も取り成します故。」

「承知した。しかし摂州殿、この南蛮酒とやらは大層美味ですな。」

 新しい物好きの伊達は葡萄酒の味が気に入ったらしかった。

葡萄酒から話題は南蛮のことへと移っていった。小西行長は熱心なキリスト教徒として知られており、多数の宣教師と交友を保っていたがために、南蛮の事情に精通している。

「摂州殿、麦島(肥後上部)での南蛮貿易でかなり儲けておるらしいではないか。」

 伊達が言った。彼の領地である仙台ではそれほど南蛮貿易は盛んでなかったが、彼自身南蛮貿易に強い興味があり、いずれは振興させたいと考えていた。

「左様、麦島、八代の改築によって一帯は多くの水利を成しております。」

 小西は溌剌と答えた。彼の父親は堺の大商人、小西隆左であり、小西行長自身も商家で育ったせいか、彼の物言いはどこか商人気質なところがある。上昇志向の男であり、宇喜多直家の使い番という身であったところ、その利発さを秀吉に買われ、水軍大将として登用された。

「やはり主な取引先は『ポルトガル』かね。」

「今のところは。」

「しかし、今南蛮で最も勢い激しいのは『ヒスパニア』だと聞く。彼らがいずれ通商を求めて来るのではないか。」

 石田も堺奉行を務める傍ら、小西ほどではないが南蛮事情に詳しい。文禄五年におこった土佐のスペイン船漂流事件のスペイン船乗員から聞く限り、日本が主な通商相手としている「ポルトガル」は「ヒスパニア」に屈服したともいう。

「二年もすれば『ヒスパニア』が通商を求めに日本に参るでしょう。彼らとの貿易は『ポルトガル』を悠に凌ぐと思います。しかし、その先、十年後は様子が変わってくると思います。」

 小西は低い声音で言った。

「どうやらその『ヒスパニア』が船戦で大いに負けたらしいのです。なんでも『アルマダの船戦』と申すらしく。我が師のオルガンティーノによれば、その『アルマダの船戦』で『ヒスパニア』を破った『ネーデルラント』なる国が今後台頭するだろうと。」

 小西の言うことは事実で、西暦一五八八年、日本でいう天正一六年、スペインの無敵艦隊イングランドネーデルラント連合艦隊に敗北した。スペインは往時の隆盛に影が走り、既に斜陽に差し掛かっていた。

 石田にしてみればスペインの敗北は都合が良かった。そもそも朝鮮出兵の理由の一つが、スペインがフィリピンに進出し、明を征服せんとしているとの情報があったからであり、「明を征服すれば次は必ず日本に攻めてくる、ならばいっそ、スペインに獲られる前にこちらが明を征服しておこう」という考えに至ったからであった。スペインが勢いを失ったとなればその心配もない。

「しかし当面は『ポルトガル』『ヒスパニア』との貿易が続くでしょう。」

 小西はそう言うと硝子杯の葡萄酒を飲み干した。

 宴も終わり、石田は伊達を玄関先まで自ら見送った。別れ際、伊達は愛用の煙管を吹かしながら(この男には煙管癖があった。)言った。

「石田殿。豊家に尽くすのも結構だが手前の身の上を案じられよ。」

「とは。」

「先の伏見、大坂の騒動で徳川屋敷に詰めた際、黒田、蜂須賀らが蔚山倭城の貴殿の裁定に熱っており申した。」

 誤解であった。先述の通り、蔚山倭城における黒田、蜂須賀両将の処分に石田は関わっていない。

「また細川、加藤殿らも貴殿のことをよく思っていない様子。彼らが連衡すれば貴殿とて厄介なことになりましょうな。」

 伊達はもう一度、ぷかりと煙管を吹かした。

「あまり敵は作らぬことですな。」

「貴殿に言われたくはない。」

 伊達政宗はその反骨心に富んだ性格から、蒲生、上杉、佐竹など領地を接している大名と悉く不仲だった。

「はっは。如何にも。」

 伊達はからからと笑い、そのまま供に付き添われて帰っていった。

 実際伊達の元には、諜報部隊である黒脛巾組がありとあらゆる情報を集めており、それから察するに諸侯の中から石田を弾劾する一派が形成されるのは時間の問題のように感じた。

 しかしそこまでを石田に教える義理もないであろう。秀吉生前、自家を取り成してもらった事情から前述のような情報を提供したが、徳川家と縁戚を結んだ以上、石田との関係に深入りするのは危険であろうと伊達は判断していた。

 伊達は帰路月に向かって煙を吐き出した。煙は一筋の雲のように立ち昇り、闇へと昇華していった。

 

 石田は島の報告を聞きながら以上のような伊達とのやり取りを逡巡していた。

(伊達殿の忠告が的中したか。)

 彼は途端に無力感に襲われた。

 というのも、悪政には毅然とした態度をとることで知られている石田だったが、彼自身、自らの身を巡っての政争というものを経験したことが無かったためである。

 豊臣政権下において彼は多くの大名の取次ぎや、諸奉行としての活動が主で、他所の政争に介入し、調停することは多々あっても自らが標的とされたことは無かった。

 また、彼は細川、加藤ら弾劾せんとする諸将に対し、ものをわきまえぬ狂人に接した時のような冷めた感情を覚えた。

 例えば、天下のためを思い、代替の政策理念を持って反抗するならわかる。しかし彼らのそれは私怨であろう。朝鮮での裁定や方針に不満があった鬱憤晴らしであり、さらに言えば朝鮮の陣で一欠けらの領土も奪えなかった腹いせと言ってもいい。

 そのような奴らを相手にできるかという気怠い気持ちが石田を襲った。

 しかしとりあえず急場を凌がねばならない。

「伏見の屋敷に籠る。」

 石田は言った。石田家の手持ちの兵ではとてもではないが弾劾諸将の軍勢を防ぎきれない。伏見の石田邸は西の丸に半ば付設されており、「治部少丸」と呼ばれていた。あそこならば籠城して時を稼げるであろう。

 しかし、今丸腰のまま伏見へ行けば弾劾諸将に捕捉され、首を刎ねられかねない。石田は島に策を乞うた。

「島左、如何せん。」

「恐れながら、某、佐竹家とは家老の車中書殿はじめ繋がりがあり申す。殿も水戸侍従様(佐竹義宣)様とは昵懇の間柄。佐竹殿に伏見までお送りいただくが最上の策かと。」

 石田三成は佐竹家の取次ぎも務めており、かつて佐竹家を秀吉の改易命令から救ったことがあった。以来、佐竹家当主の義宣は石田を慕い、共に千利休の茶会に出席するなどして友誼を深めた。義宣は石田を慕うあまり「治部がいなくては生き甲斐がないわ」とまで言っていた。

 果たして佐竹義宣は石田の協力要請を快諾した。

「女人様の塗り輿を用意いたしました故、身をお隠しあれ。」

 佐竹は石田を塗り輿の中に隠し、島らを自らの家臣団に紛れさせると大坂から伏見へと出立した。

 

 中ノ島、加藤清正屋敷には石田襲撃のための諸将が集っている。彼らは石田らの大坂脱出を知らない。

 細川忠興がいないこの場を仕切るのは加藤清正であった。彼は石田三成弾劾のために参集した諸将一同に杯を持たせた。そしてなみなみと酒を注いでゆく。福島正則の番になった時、彼は言った。

「お主は悪酔いする故、少しだ、市松。」

 この言葉に場がどっと沸いた。もともと、秀吉が「羽柴」を名乗っていたころからの顔見知りが多く、みなお互いをよく知っていた。

 加藤は杯を掲げると、石田が挑戦で辛酸を舐めた諸将を軽んじたこと、数々の誤った裁定を下したことを檄した。檄し終わると酒を一気に飲み干し、杯を床に叩きつけて割った。諸将もみなそれに習った。

「開門。」

 加藤は馬上の人となると、朝鮮の戦で鍛え上げたその大音声をもって兵児を押し出した。

 福島、黒田ら諸将もそれに倣う。

 彼らは中之島から出て大坂の城下町に入り、本町まで直進するとそこから三部隊に分かれた。加藤清正福島正則藤堂高虎は大手の石田屋敷を襲撃、黒田長政蜂須賀家政浅野幸長備前島の石田屋敷を襲撃、そして池田輝政脇坂安治加藤嘉明石田三成大坂城に上って秀頼を戴くことのないよう、大坂城を占拠する手はずだった。

武州殿(池田輝政)。」

 加藤清正大坂城占拠部隊の長を務める池田輝政に馬上で呼びかけた。大坂城の警護を担う片桐且元はすでに調略済みであり、池田らを内側から招き入れてくれる算段であった。

「片桐助作が上手くやるで、お頼み申す。」

「委細承知。」

(すべてはうまくいく。)

 計画は順調に思えた。加藤は自慢の美髯をつるりと撫でると馬腹を蹴った。

 あとは石田の首を挙げるだけだ、と彼は思った。

 

 丹後宮津から迅速な行軍をしていた細川忠興が山崎、勝竜寺城付近に到達したのは亥の刻を過ぎたあたりであった。

 かつてここら一帯は細川家の所領であり、勝手知ったる土地である。大坂から伏見へ出るには山崎を通過せざるを得ないため、検問を敷くにはうってつけの場所であった。

「この場所に陣を敷く。怪しきものは例え女子供であろうと取り調べよ。治部少を決して伏見へ行かすまいぞ。」

 細川忠興は部下に厳命した。

 半刻ばかりが過ぎた。大坂方面から砂塵がすると、加藤清正以下六名の将(大坂を占拠している池田らを除く)が麾下をまとめてやってきた。

越中、治部少めは来たか。」

「それらしき者は通っておらぬ。大坂にはおらなんだのか。」

「捕らえた石田家ゆかりのものに吐かせたが既に水戸侍従めが伏見に護送したらしい。」

紙一重で逃したか。」

 細川忠興は怒りのあまり床几を蹴り上げた。

「激するな越中。」

 加藤清正は細川をなだめたが内心は彼同様気が気でなかった。

(奉行衆らで連衡されると厄介だ。)

 要は奉行衆全員を敵に回すのが得策でない故、標的を三成個人に絞ったのであり、全国の大名たちが石田派と反石田派に分かれ、事態が先だっての縁組騒動のように泥沼化するのは彼らとしても避けたかった。(この計画に参加している大名の内、そのような事態に対処可能な器量を持ち合わせているものはいなかった。)

清正は三成を追ってこのまま伏見に行くことを提案した。何としても次の一撃で石田三成を捕らえるか首を刎ねるかしないといけなかった。六将は同意し、彼らは兵を率い伏見へ続く京街道をあい駆けた。

 

 石田三成佐竹義宣に伴われて伏見に到着したのは朝方夜明け前だった。一行は山崎で細川勢が検問をしているのを察知すると淀城の手前で迂回し、巨椋池を回って南から伏見へ入ったのだった。

「佐竹殿、恩に着ます。」

「なに、貴殿とまた茶の湯を愉しみたいが故よ。しばし治部少丸で耐えられよ。坂東武者を率いて救援に参る。」

 佐竹は東国武士らしく、必要以上に着飾った会話を好まない。(そこが石田と気が合う所以でもあった。)以上を告げると自身は供回りと足早に伏見の屋敷へと去った。

 石田は島左近らと伏見城西の丸に付属する治部少丸に入ると、城の者に伏見在番の奉行である増田長盛前田玄以は既に登城しているか聞いた。彼らは大坂の雑説を早くも聞き、対応のために登城しているとのことだった。

 石田が治部少丸に入ったと聞くや否や増田、前田玄以の両名は彼の元に息を切らしてやってきた。目は血走っている。

「治部。これはどういうことだ。」

 前田玄以が聞いた。彼は五奉行の最年長で、主に神社仏閣、朝廷との外交の担当をしている。 

「仔細は彼らにお聞きください。」

 石田は城の西側を指さした。玄以は目を細めた。遠目に砂塵をまき散らしながら軍団が接近してくるのが見える。増田長盛は年来一線の武人として名を馳せただけあって堂々としているが、生涯においてたいした戦歴のない玄以は肩を震わせおののいた。

「ら、乱ではないか。」

「左様、細川忠興加藤清正以下十将が我を血祭りにあげようと画策した由にございます。朝鮮の役での私の裁定に不満があるとか。最もその蔚山倭城の裁定に私は関与していないのですが。」

 石田は扇をぱちりと閉じた。

「何ならあの者らに奉行職を肩代わりしてやったら如何か。さぞよき政事を行うのでしょう。」

「治部殿、皮肉はそこらで。」

 増田長盛が制した。彼は石田に同情した。増田は彼の妙な物慣れた性格に対し必ずしも好感を持ってはいなかった。しかし、同じ執政官として、決して三成に政治的落ち度があったことはないことは良く知っている。

 要は、石田は秀吉の晩年の失政の負の遺産を諸に蒙ったのであり、その三成の傍らで常時政事に関わり続けた増田にとって此度の騒動は決して他人事とは思えなかった。

(明日は我が身ぞ。)

 という恐怖が増田にはある。彼はこの哀れな同僚を助けるため、一つの解決策を提示した。

向島城の内府様に矢留の斡旋を願っては如何か。」

 家康が縁組騒動以来、伏見を出て宇治川を挟んで対面にある向島に移り住んでいることは述べた。彼は縁組騒動以来概しておとなしく勤めているが、以前、筆頭大老かつ政事の総責任者であることに変わりはない。

「いや。」

 石田は渋った。この男が豊臣政権下において常時家康の警戒役に当てられ、距離を置き続けたことは何度か書いた。彼はそのような事情も相まって家康に借りを作ることを嫌った。

「しかしこの場を取りなせるのは内府様以外居なかろう。」

 増田の言葉に石田は不承不承頷いた。彼の言うとおり、今は体裁を気にしている暇も余裕もなかった。

「大蔵(長束正家)が内府様の腹心、本多平八殿の妹婿故、執り成しを依頼しよう。」

 言うや否や増田は配下の渡辺了を密かに大坂へ遣った。

(しかし、石田はもうだめやも知れん。)

 この場を凌げたとしても、十名近い大名から弾劾を受けたという事実は覆しようがなく、政治的に挽回しようが無いのではないように思われた。

前田利家が身罷り、石田が失脚するとなると、政権運営はいよいよ家康の力に頼らざるを得ないのではないか。

(我も早めに内府様との伝手を築かねばなるまい。)

 増田はそのようなことを思った。

濃州山中にて一戦に及び(6)

こんにちは

割と情報量の多い回です。前田-徳川の諍いは終わり、すぐに石田襲撃事件が勃発します。首謀者はあの人です。

 

徳川家康が使者の任に充てたのは、腹心井伊直政であった。井伊は供回りと一路、大坂を目指した。徳川屋敷では四六時中、甲冑を着込んでいたが、使者の任にあたり、それを脱ぎ捨て、直垂を着込んでの出立であった。

 井伊はその日の夕刻に前田屋敷に到着した。

(多いな。)

 彼はその軍勢が想像よりも多いことに舌を巻いた。徳川家三万の軍勢が到着したら両軍合わせて十万は超える数の軍が伏見、大坂に集結するはずであり、戦になれば二つの町が荒廃することは必至であった。

 そう思うと井伊の任は天下国家の行方を決めるうえでも大事であり、それを自認した時、この軍事にも外交にもそつがない男の首筋に一縷の冷や汗が走った。

 井伊は前田屋敷の大広間に通された。利家を上座に頂き、毛利、上杉、宇喜多ら大老、それに続き五奉行を含んだ諸大名が井伊を威圧するように並んでいた。

 上座の前田が口を開いた。

「井伊殿、使者の任、ご苦労である。」

 井伊は一礼すると以下のように口上を述べた。

「此度の当家の縁組に関する騒動に関して、当家が豊家をないがしろにしている、もしくは邪な野心がある、と様々な雑説が飛び交っておりますが、すべて事実無根にござる。伊達家との縁組は東国での政事を行いやすくするため、福島、蜂須賀との縁組は豊臣恩顧の大名と友誼を深めることで当家と豊家との繋がりを深めるためでした。ならびに、我が主、家康は恐れ多くも太閤殿下から日ノ本の執政を任されており、此度の件も私的な婚姻には当たらないとの解釈でした。その解釈の違いが此度の騒動を招いたのは確かであり、事前にお伺いをたてなかったことに関しては当家に非があることとし、謝罪いたす。」

 井伊はここで言葉を区切ると、深々と頭を下げた。諸将の間にどよめきが走る。

「以後、太閤殿下の御遺言に一切背かないこと、前田様および諸将に遺恨なき旨を認めた誓書をお出しいたす故、今回の縁組に関しては事後承諾という形でお認めいただけないでしょうか。」

「和議を乞いたいのならば何故関東より大軍を上洛させたのだ。」

 井伊に問うたのは今関羽を称する加藤清正であった。

「当家を謀反人と断じ、討ち果たさんとする大名がいるという噂が飛び交っており、その警護のため家康麾下五万のうち、三万を上洛させ申した。当家はこうして天下国家のために頭を垂れている、それでもなお当家に異心ありと断じ、よからぬ噂を流す御仁あらば、それこそ世を乱す者と覚ゆ。徳川家二百五十万石をもってお相手いたす。」

 井伊は直垂の上からでもわかる分厚い肩肉をいからせて答えた。井伊の剣幕と、徳川二五〇万石という物量が前田方の諸将を黙らせた。

「井伊兵部少輔。」

 前田が立ち上がった。元々長身痩躯だが、近年病を得てさらに痩せ、立ちあがると違和感を覚えるほどに細くなってしまっていた。

 しかし数多の戦の場数により培われたその風格は万の兵を御するに余りあり、往年の「槍の又左」の異名を彷彿とさせた。

「井伊兵部少輔、見事な口上であった。内府殿が誓紙を提出次第、我ら四大老五奉行も徳川殿へ遺恨なき旨の誓書を提出いたす。」

 これにて手打ちである、と前田は言った。

「それにしても井伊兵部の胆の据わり様よ。諸人は皆、見習うべし。」

 前田はからからと笑った。井伊は普段、自らの役目について滅多に感想を述べない男だったが、この時ばかりは「肝を冷やした。」と周囲に漏らしたという。

 

 井伊の功もあって徳川家の縁組計画に端を発する違約騒動は解決する方向に向かった、家康から四大老五奉行宛に

一、此度の縁組の件は大老、奉行間の同意の元、これを進めること

一、太閤殿下の遺言、五大老五奉行の同意に以後背かないこと

一、此度の騒動で双方に加担したものに対し遺恨を持たないこと 

 以上を記した誓紙を提出した。七日後、四大老五奉行側も同様の誓紙を家康に提出し、また、さらなる和解のために前田利家徳川家康の双方がお互いの屋敷を訪問しあうということで手打ちとなった。参陣していた諸大名も徐々に兵を引き上げはじめ、大坂と伏見の町は活気を取り戻し始めた。

 石田三成と、その重臣島左近は騒動の収束に伴い、前田屋敷を引き払う最中であった。轡を並べ、大手の通りを行きながら彼らは今回の顛末に関して議論していた。

「しかし結果として内府殿はまんまとやりましたな。」

 島左近は主人、石田三成に言った。

 島の言う通り、今回結果的に家康が頭を下げる形で矛を収めたが、伊達、福島、蜂須賀らとの縁組は豊臣公儀にとって認められる形となり、家康は自勢力を肥やす結果となった。

「恐らく内府殿は最初からこの結末を描いていたのでしょう。」

「しかし、それだけかな。」

 石田は言った。そして彼自身の興味深い、そして滑稽でさえある憶測を述べた。

 曰く、家康は自身の秀吉に対する生殖能力についての優位性を示そうとしたのではないかということだった。

 豊臣秀吉はその好色ぶりから多くの側室を抱えていたが、晩年になるまで子を成せなかった。秀吉はそれによって実子による婚姻政策をほとんど行うことができず、「羽柴」「豊臣」の名字を乱発するに留まった。

 王家にとって跡取り問題は死活的問題であり、子が少ないことは世情不安を煽る原因にもなりかねなかった。

 実際豊臣政権がどこか収まりが悪く安定しないのも秀吉と血縁のある人物が少ないことに他ならない。

 それを受け、家康は先の天下人秀吉にたいして自身の繁殖能力の優位性を世間に示そうとしたのではないか、というのが石田の解釈であった。

(成る程、そういうものの見方をされるのか)

「果たしてそこまで考えますか。」

「分からぬ。おそらく考えまいが、内府殿の心根の奥底にそのような本能が眠っておるのやもしれぬ。」

 とすると、家康の心に無意識の内に天下簒奪の意思が兆しているということであり、家康がその旗幟を明らかにする日も近いかもしれない、と石田は思った。しかし、今回の騒動における誓書は事実上の不戦協定であり、当面は何事も起きなかろうと見た。

島は政治的案件について生物学的でさえある見地から考える石田の思考を感心と数奇の入り混じった心地で聞いていた。

 石田は奉行職にあたっても、時々このような、独特な、透明感のある思考をした。その思考は時に滑稽でさえあったが、織田家の一部将であった秀吉が、信長の死後、約五年という短期間で統一国家の体を整えるという離れ業をやってのけるにおいて、彼のこの透明な思考回路は不可欠であった。

(学者的素質をお持ちなのやもしれぬ。)

 島は石田の思考法に、物事のありのままの姿を見出す学者的なものを感じた。もしかすると自分の主人は学者としても大成できたのかもしれないと島は思った。

 

 二月十五日の夜、豊前中津城黒田長政

自身の「大水牛桃型兜」を肴に一人、伏見の黒田屋敷居室で晩酌を楽しんでいた。

 伸びやかな曲線を描く二本の角を戴くこの兜は黒田も気にいっており、愛用していた。長きにわたる異国の地での戦を共にしたこの兜を眺めながら彼はつかの間の安らぎを享受していた。 

 しばらくして、家臣、後藤又兵衛から取次ぎがあった。何と肥後熊本城主、加藤清正が俄かに尋ねに来ているという。

 黒田は突然の来訪に驚いた。彼は父、如水が荒木村重との戦で囚われの身になっていた時、秀吉の妻、高台院に養育してもらっていた過去があった。同じく高台院に養育されていた加藤清正福島正則は彼にとって先輩格にあたり、丁重に応対しなければいけない相手であった。

「粗相のないようにせよ。」

 黒田は後藤に命じた。

 しばらくすると、加藤清正がその巨躯を揺らしながら黒田の居室にやってきた。

「松寿。俄かにすまぬ。」

 加藤は、黒田が成人してからもなお、幼名の「松寿」という名で呼んでいた。決して彼を侮っているわけではなく、彼は同じく高台院に養育された福島正則のことも幼名の「市松」という名で呼んでいた。

 加藤からして、福島と黒田は同じ釜の飯を食った朋友であり、大名という立場になってからもそのあどけない友情を胸に抱き続けていたが、父、如水から理性的な感性を受け継いでいた黒田はそれをどこか冷めた目で見ていた。

 とはいえ、黒田は先輩格にあたる加藤を丁重にもてなした。二人は朝鮮での思い出を肴に一刻ばかり飲んだ。

 ほどよく酔いも回った頃、加藤は本意を切り出した。

「松寿、俺は石田治部を弾劾しようと思っている。」

 黒田は目を見張った。

「やはり小西摂州との件ですか。」

 加藤は忌々しいと言わんばかりの表情をした。先にも述べたが、加藤清正小西行長は朝鮮の陣における和睦交渉の方針で対立した経緯があった。その時、石田三成小西行長の肩を持ち、清正は政治的に敗北したのだが、加藤はそれを根に持ち続けていた。

「当然よ。彼奴らのせいで我らが異国で流した血汗が無意味と化したわ。」

 加藤はぐいと杯を飲み干した。

「松寿、其方と蜂須賀殿も石田の讒言で太閤殿下の咎めを受け、謹慎に処されたそうではないか。」

 黒田は押し黙った。朝鮮の陣で、蔚山倭城を守備する加藤清正隊を救援する戦があったが、その時の救援軍の大将が黒田とその義兄の蜂須賀家政であった。

 朝鮮方の猛攻は凄まじく、日本軍は救援に手間取ったのだが、その時の一連の戦の過程を秀吉が激怒し、大将である黒田と蜂須賀を謹慎処分にしたことがあった。

 その時、黒田らの戦いぶりを秀吉に報告したのが軍監福原長尭(石田三成の妹婿)であり、彼の歯に衣着せぬ報告も処分を誘引した原因となっていた。

 そして何より黒田、蜂須賀の怒りを呼び込んだのは秀吉がその福原の報告を賞し、加増褒賞を与えたことであった。

 この件と石田は直接の関係はなかったのだが、黒田、蜂須賀らは石田が妹婿である福原に何らかの口添えをしたのではないかと疑った。

「儂は蔚山倭城中で籠城しながらそなたらの戦の手立てを見ておったが朝鮮の猛攻相手に見事かつ堅実な戦いぶりであった。それをあげつらい、落ち度のみを指摘するとは憤懣やるかたない。」

「それがしとて蔚山倭城の裁定には納得しており申さん。」

 黒田も加藤に負けじと酒をぐいと飲み干した。そもそも彼は父、如水が豊臣政権から不遇に処されたことも相まって豊臣政権そのものに不信感を抱いていた。

「松寿よ、殿下子飼いの将たる我らが、朝鮮で血反吐を吐いた我らが何故こうも政事から遠ざけられねばならん。儂は朝鮮の件以来、小西を討ってやろうかとも思ったが小西を討っても何も変わらん。奉行衆筆頭たる石田を政事の場から消さねば我らはこのまま中央から疎外されたままぞ。」

 前述のように、加藤清正には同じ行政官僚として、石田や中央奉行衆への嫉妬があった。

「しかし加藤殿、弾劾というのは訴訟の沙汰に持ち込むということでしょうか。」

「訴訟しても石田に揉み消されるだけよ。」

 加藤は目を据えて言った。

「兵を興す。あ奴の屋敷を取り囲み、あわよくば詰め腹を切らせるわ。」

「豊臣公儀が石田に牛耳られている以上貴殿が謀反人として討伐されかねますまい。それに大名同士の私闘は太閤殿下が生前に出された総撫事令で禁じられております。」

「わかっている。それ故、味方を増やす。」

 加藤が言うにはこうだった。確かに加藤、黒田ら一、二の大名が決起してもそれは謀反として片付けられてしまうだろう。しかし六、七、八と同志を集め、政治的派閥を形成すればそれは謀反ではなく、政治を正さんがための弾劾として扱われるであろうとのことであった。

「すでに長岡越中細川忠興)とは意を一つにしておる。」

 加藤清正細川忠興は先の家康の縁組騒動で共に前田派に属した同志であることもあり、密に連絡をとっていた。

「というより、この話は奴から持ち掛けてきたというのが正しい。奴は前関白の失脚の際、関白に借金していたのを石田に咎められ、連座しかけたことがあるだろう。以来、石田を恨んでおったらしい。」

 この計画が細川忠興の発案であることは事実であった。政敵を憎むこと甚だしい彼は朝鮮の陣で石田が加藤と不和になったのを聞きつけてこの計画を加藤に持ち掛けたのだった。

越中殿らしい。)

 黒田は細川忠興のこうした粘着質な性格を知っていたので一連の流れに納得した。

 しかし事情がどうであれ、黒田も、自分を陥れた(事実はどうであれ黒田はそう思っていた。)石田を弾劾することには賛成であった。

「蜂須賀殿は間違いなく与力してくれましょう。藤堂殿も、処分こそ受けておりませんが蔚山倭城では共に戦った中ゆえ、お味方してくれないか計らってみます。」 

 蔚山倭城の件を弾劾する以上、当時現場にいた将を味方に引き入れておくのは得策であろう。

「また、奉行間でも浅野様と石田が対立しているとの噂をよく耳にします。」

「それは誠よ。浅野の親父殿は朝鮮の陣以降、会うたびに石田の愚痴を言うわ。」

「浅野様を味方にできれば奉行の一人を味方にできたことになり、我々の正当性も増します。」

「なるほど、よき策じゃ。」 

加藤は首肯した。黒田の父親譲りの才覚に下を巻いたが、黒田と話しているうちにこの計画が予期している以上に上手く運ぶしてきて上気分になった。加藤は現時点で味方に付きそうな武将を指折り数え始めた。

 加藤清正

 黒田長政

 蜂須賀家政

 細川忠興

 藤堂高虎

 浅野長政

「市松(福島正則)にもこの件、話してみようと思うがどう思う。」

「福島殿ですか。」

 黒田は渋い顔をした。彼は直近、福島正則と些細なことで争い、仲違いした経緯があった。

「そういえばお主ら、下らぬ言い争いをしたらしいな。この謀りを機に、和すれば良いではないか。」

「私とのつまらぬ諍いに関してはそれで良いのですが、石田と大して対立しておらぬ福島殿が果たしてお味方してくれるでしょうか。」

福島正則が加藤らと共に高台院に育てられた仲であることは述べたが、朝鮮の役のさなか、国内在番を命じられていた彼は、石田三成と表立った政治的衝突をしたことが無かった。

「市松は儂が説得してみよう。先の縁組騒動で奴とは袂を分かたねばならなかった故、今回は同心したいと思ってのう。」

 福島は、秀吉死後家康と縁組した大名の内の一人であり、先の騒動の張本人ともいえる人物であった。

「それに徳川様の御縁戚がおられた方が、上手く運ぶやもしれませぬな。あわよくば徳川様のご助力も望めましょう。細川様が前田様の縁戚であられる手前、派閥の均衡も取れます。」

「できるだけ多くの派閥から同心するものを得られた方が我らの正当性も保てるわ。松寿、蜂須賀殿や藤堂殿の説得を任せる。我は浅野殿と市松をあたって見るわ。」

「承りました。石田を弾劾して朝鮮の件での我らの正当性を天下に知らしめましょう。」

 加藤と黒田は強かに笑うと残り酒を飲み干した。

 

 ことは(彼らが当初想像していた以上に)上手く進んだ。

 蔚山倭城で黒田と戦いを共にした蜂須賀家政藤堂高虎は二つ返事でこの話を了承した。

 しかも藤堂の調略によって伊予、淡路の領主である加藤嘉明脇坂安治らが与力することになったことも嬉しい誤算だった。

 石田と対立している奉行の浅野長政は加藤から同心を依頼された時、手を打って喜んだが、自身の立場上、軍勢を率いて決起するのは良しとせず、その代わり息子の幸長を遣わすことを確約した。

(世がそれを望んでおる。)

 加藤は思った。朝鮮の陣で出陣を強いられた諸将は皆、多重の出費を強いられ、領国は荒廃している。世は秀吉の死後、その責任を豊臣公儀、ひいてはそれを統括する奉行衆に求めた。今回の計画は上手くその流れに乗れている。

加藤は自身の生い立ちもあって太閤秀吉を敬愛していたが、いや、敬愛していたがゆえに、その失政を秀吉の責任とは思わず、奉行衆、ひいてはその筆頭の石田三成の咎であると思うようにしていた。

彼は潜在思考の中で諸悪の根源は不毛な外征を強行した秀吉にあることを理解していたが、彼は程よい鈍さを持ち合わせていたがゆえに自身の潜在思考に気付くことなく、責任を石田らに転嫁することに成功していた。

加藤は今、伏見の福島屋敷にきていた。竹馬の友である福島正則を今回の件に加担させるためであった。

 福島は朝鮮慶長の役において留守居役を命じられており、加藤らと労苦は共にしていない。朝鮮での日本軍の苦境をしった秀吉が増援方の大将として派遣しようとしたが秀吉の死によって遂に叶わなかった。

 性格は加藤同様、豪宕である。また酒乱でもあり、酔うと場所をわきまえず暴れるので細川忠興のような文化人気質の武将からは迷惑がられていた。

「虎。久方ぶりよ。」

「帰国して以来なかなか会う機会がありなんだ。不慮の騒動もあった故な。」

 不慮の騒動、とは先の縁組騒動であり、加藤は前田方に加担していた経緯がある。

「虎はちっちぇえ時から又左様にべた惚れだったで、無理もみゃあよ。」

 福島は尾張訛り丸出しで言った。虎、とは加藤の幼名、虎之助の略称であり、二人は幼名で呼び合う中であった。

 加藤は黒田に伝えた時同様、福島に今回の内々の計画を伝えた。

 福島は逡巡した。

(はて。)

 彼自身石田と対立しておらず、恨みもなかった。積極的な加担の意思はなかったが、ここは朋輩の政治行動に賛同するべきであろうか。

 もう一つ、彼の判断基準として、縁組をした先の徳川家がこれに賛意を示すか、という点があった。徳川家の不興を買うような行動はできるだけ避けたかった。

 福島はそれを加藤に素直に尋ねた。加藤は言った。

「徳川派のお主が加担を表明してくれることで我らの立場も良くなるのだ。それに内府様にとっても石田が政界から消えることは悪いことじゃなかろうて。」

「それもそうか。」

 福島は首肯した。先述したが石田は秀吉から徳川の警戒役を任された節があり、徳川にとってみれば石田が消えることは自身に吠え掛かる番犬が駆逐されるに等しかった。

「池田武州池田輝政)とは縁組騒動以来昵懇故、同心を依頼しよう。」

「それはありがたい。」

 願ってもない願いだった。

「虎。朝鮮の留守でなまった腕を振るうとするわ。」

「おう、松寿とはそれまでに仲直りしておけよ。」

 

 石田三成弾劾のための決起は閏三月四日と決まった。同心した大名は以下の十名である。

 丹後宮津城主 細川忠興(提案者)

 肥後熊本領主 加藤清正

 豊後中津城主 黒田長政

阿波徳島城主 蜂須賀家政

 伊予宇和島領主 藤堂高虎

 伊予正木城主 加藤嘉明

 淡路洲本城主 脇坂安治

 甲斐甲府城主 浅野幸長

 尾張清洲城主 福島正則

 三河吉田城主 池田輝政

 計画はまず、大坂城北西に位置する中ノ島加藤清正藤堂高虎の屋敷に兵を集め、決起すると同時に、計画発起人の細川忠興が丹後の領内で挙兵して南下、伏見、大坂間の連絡を絶つ。大坂城に籠られないよう、加藤嘉明脇坂安治池田輝政の三将が城を封鎖し、他の七将が石田屋敷を包囲するというものであった。

 弾劾の要旨は三つ。

一、          奉行衆に豊臣公儀としての権力濫用がたびたび見られること

二、          朝鮮の役での蔚山倭城の裁定は石田三成およびその妹婿、福原長尭両名の讒言の結果であり、裁定を見直すこと

三、          以上につき石田三成、福原長尭を切腹に処すること

 

濃州山中にて一戦に及び(5)

こんにちは、前田、徳川の対立も佳境です。

政宗、如水、清正など重要人物が続々登場します。。。

 

 

  結局、今後の出方について結論の出なかった家康はとりあえず広間に味方してくれた諸侯を集め、今回駆け付けてくれたことへの謝辞を述べることにした。

「なんの。執政者たる家康殿の決定が何故問責されるのか。我らは大坂方が詰問を取り消すまで徳川様をお守り申し上げる。」

と述べたのは伊達政宗だった。

 彼は野心旺盛な性格で、秀吉が諸侯の私的な戦を禁ずる「総無事令」を発令した後も、それに従わず奥州に覇を唱え続けたがために豊臣政権下で危険視され続けた。しかし同時に織田信長豊臣秀吉といった天下人が持っているものと同等の気質、どこか痛快で子供っぽい野心の持ち主であったため、秀吉や家康といった大物からは寧ろ好かれていた。

伊達は尚武の家である徳川から友誼を求められ、縁組まで申し込まれたのが純粋に嬉しかったらしい。前大名の中でも真っ先に徳川屋敷に駆け付けていた。

その後、諸大名は大坂方との戦を想定し、やれここを攻めろだの、あそこを陥とせなどといった議論に熱鬥した。

(諸将は威勢の良いことを言っているが、今仕掛けたら負ける。)

 ということは家康も正信もわかっていた。兵力は大坂方に大きく劣っている。

 議論の最中、屋敷の廊下から「カツン、カツン」という音が聞こえてきた。諸将は議論を中断し、音の鳴る方を見た。その音に聞き覚えがあったためである。

黒田如水様および甲斐守様(長政)、御着到にございます。」

 井伊に連れられて豊前中津の領主である黒田如水と息子の長政が広間に入ってきた。広間の諸将からはどよめきと歓声があがり、二人の参陣を歓迎した。

 豊前中津は十二万石に過ぎないが、黒田如水の影響力は甚だしいものがあった。というのも、彼はかつて豊臣秀吉の軍事顧問を務めた天才武将であり、その天下統一事業においてほとんど筋書きを描いた人物だったからである。

「蜂須賀殿がお味方したと聞き及び、参上いたしました。」

如水は言った。息子長政の妻は蜂須賀家の娘であり、黒田蜂須賀両家は縁戚かつ昔から昵懇の仲である。朝鮮の役における蜂須賀家の謹慎処分に関しても連衡して奉行衆に異を唱えていた。

「天下の知恵者、如水殿がお味方したとあれば心強い。」

 諸将は口々にはやし立てた。それに対し、如水は若干の笑みを見せながら「はて、綺羅星が如き大大名の皆様に対し中津十二万石がどれほどご尽力できるか定かではありませんが。」というエスプリの効いた言葉でもって応答した。

彼は決して暗い気質の持ち主ではなかったが、このように会話の端々にエッジの効いた言葉、才能のあるものがよく使うある種の皮肉、を織り交ぜる癖があった。

しかし、石田三成大谷吉継らの奉行衆と違い、如水は第一線に立ち続けた軍事畑の人間であり、前述のように彼自身が果てしない実力を有していることも相まって、その皮肉は決して「勘に触る」響きにはならなかった。如水にはそのような人間的魅力がある。

 彼が秀吉の天下統一事業に大きく関わり、その功績が比類なかったことは書いたが、秀吉は晩年にあたり、如水を不遇に処した。彼がキリシタンだったためである。

如水の功からし豊前中津は少なすぎるほどの領地であり、周囲もそれに同情したが、如水自身はそれに不満を唱えるようなことはしなかった。彼は元々道家めいたところがあり、広大な領土、権力といった類のものに興味が無かったためである。彼は「黒田如水」という人間が表現できる場があれば満足であり、それは秀吉の天下統一事業においてやりきったと感じていたため、領地が如何程であろうと構わなかったのである。

しかし、その後、彼の運命はさらに暗転する。朝鮮の役の折、彼は晋州城攻めについての準備を整えるため、名護屋へ一時帰国したが、その時の手違いにより、その帰国が無断帰国扱いとなり、秀吉の勘気を蒙ったのだった。

彼は剃髪し、家督を長政に譲り、謹慎しなければならなかった。普通ならば鬱屈、怒りといった感情が沸き起こるはずだが、彼が感じたのは寧ろ滑稽さであった。太閤に尽くし、太閤のために軍略を練り、天下を取らせた自分が不遇に処され、豊前中津にもらった僅かな領地さえも隠居して手放さなければならないとはなんたる数奇であろう。

 謹慎を経て、如水はそれからも諸事精力的に働いたが、太閤に尽くした顛末の馬鹿らしさから、前から持ち合わせていたシニカルな態度を加速させた。(彼は賢かったので、それは政治的影響を及ぼさない程度にとどめられた)

とは言え、如水は隠居した後もその素晴らしい実力から万人の尊敬を集めていた。彼の着到の際、諸将がどよめいたのはそういう訳である。

 家康は如水、長政に助力を感謝すると、改めて如水の容貌を見た。

 彼は荒木村重との戦において、地下に幽閉された経験があり、その時患った皮膚病が原因で顔は右上にかけておよそ三分の一が瘡蓋におおわれていた。また、片足が不自由だったため常に歩行補助のための杖を使っていた。「カツン、カツン」と廊下に響き渡る音は如水が来た合図として人々に認識されていた。

 如水ほどの実力者となると、もはや上記のような障害でさえ才気の一部分のように思われてくる。家康はこのびっこひきの才人に以前から興味があったが、政治的に関わる機会が無かったために繋がりは希薄であった。

 しかし、今回の騒動で頭を悩ましている件において、思い切ってこの男に聞いてみるのも良いかもしれないと家康は思った。自家の舵取りを他家の人間、しかも大名に尋ねるのは本意ではないが、如水の場合あらゆる政治的側面を考慮し、上手く織り込んで返答するであろう。家康は言った。

「如水殿。此度の騒動。これからいかなる筋書きをもって臨めばよろしいと思うか。」

 如水はやや逡巡した。家康が大して縁のない自分に上記のような重い質問をぶつけたことがやはり意外なようであった。この男は自分の回答が徳川家黒田家間のみならず広く政治的に重要な意味を持つことを瞬時に把握すると、十分な間をもって思案し、答えた。

「大坂に秀頼君がいる以上、大坂を攻めれば謀反になります。軍勢もあちらの方が多い以上、戦を仕掛けるのは愚でしょう。」

「これは異なこと。」

 伊達政宗が口を挟んだ。

「謀反人たるは幼君を擁して天下の宰相たる徳川家を葬らんとする大坂方ではござらぬか。また、兵力で劣れども、天下無双の将帥たる内府殿の下知に従えば決して負けることはございますまい。」

「越前守殿。」

 家康は伊達を制した。

「貴殿の言い分、尤もありがたいが、今は天下の知恵者たる如水殿の意見を拝聴したいな。」

「出過ぎた真似をしました。」

 伊達は素直に引き下がった。元より自分の勢いが鬥鬥たることを諸将に誇示したいだけで、伊達も本気で戦を始めたいとは思っていない。

「やはり和睦を探るのが賢明でござりましょう。しかしこれだけの騒ぎになった以上、どう和睦を結ぶかが要です。むやみに下手に出るのも下策でしょう。恐れながら貴下の統治下である関八州から大軍を上洛なさりませ、成さった上で和議を結ぶがよろしいかと。」

 如水は言い終えると一礼した。

(なるほど)

 家康は既に自身の手勢を伏見に集めてはいたが、大軍を動員すればそれこそ有無を言わさず戦になるため、軍勢は少数に留めていた。屋敷警護の名目で関東から大軍を上洛させ、同時に和議を乞えば立場を損なうことなく交渉できるであろう。

 家康は如水の言を容れることにした。次男の結城秀康と配下の榊原康政に命じ、関東から三万の兵を率いて上洛する様、命じた。

また、これを契機に徳川家と黒田家は急速な接近を見せることとなった。後に前田利家が病死し、石田三成が奉行から排斥された後、家康は再び婚姻による勢力拡大に奔るが、その時、家康は養女、栄を黒田長政に嫁がせている。

 

 前田屋敷は大坂城三の丸に位置している。周囲には細川、宇喜多といった前田派閥の大名屋敷が立ち並んでおり、一帯が詰所として兵馬で溢れていた。

 屋敷内には陣幕が張られあたかも合戦さながらの様子である。

 その人馬をかき分けるようにして一人の武将が参陣していた。その男は身長六尺三寸を誇り、立派な美髯を蓄えていたことから人々は「今関羽」と噂していた。

 肥後熊本城主加藤清正であった。彼は若い頃から武勲著しい前田利家を尊敬しており、今回与力することにしたのだった。

 彼は諸将が集まる広間に通されるとそのままどかりと床に腰を下ろした。

「加藤主計頭清正、只今参陣仕った。」

 彼は朝鮮での過酷な戦を通じて指示を飛ばすうえで声帯が発達を遂げたのか声が割れんばかり大きい。広間中どころか屋敷中に響き渡るような声で言った。

 しかし前田利家の見事なところはこの割れんばかりの大喝に大喝をもって返したところだった。彼は武人の気質をよくわかっていた。

「主計頭、遅いわ。さては日和っておったか。」

「滅相もございませぬ。ただ朝鮮より戻って日も浅く、参陣に手間取った次第。」

 清正は低頭して言った。この豪宕な性格の男は遅いと言われたことが気に要らなかったのか

「此度の一件、内府殿の違約に端を発していると伺いました。仮に内府殿が豊家に仇なすおつもりとあらばこの主計頭、大納言様のお下知の元で伏見へ攻め上り、内府殿のお心を正しに参りましょう。」

「よくぞ申した。心意気あっぱれである。」

 「応」と加藤は野太い声で返事をした。そして石田ら五奉行の方を見ながら「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」と付け加えた。

 朝鮮の陣では一番隊を小西行長、二番隊を加藤清正が率いた。二人を競い合わせることを見越しての人事だったが、もともと領国肥後の統治を巡って諍いのあった両者は作戦を巡って激しく反目した。

 そして両者の対立が決定的になったのは和議を結ぶにおいてだった。加藤は朝鮮の陣そのものには消極的反対の姿勢だったが、戦が始まったからには全身全霊をもって戦い、史にその名を刻んでやるつもりだった。

 しかし、小西行長はこの不毛な戦いを、和議で譲歩してでも終わらせたいと考えていた、石田三成も同意見だったので和議において小西の意見を採用した。清正は小西と対立するとともに、自らの方針を一顧だにしなかった石田はじめとする奉行衆にも不信感を持った。

 「どうも太閤殿下に阿り、政事を恣にせんとする尸位素餐の輩が数名おるようですが。」という発言には上記のような意味合いが込められていた。

 前田利家はその発言を叱りこそしなかったが、愉快な気持ちにはならなかった。

 前田、徳川陣営で割れている以上、事態がどう転ぶにせよ、同陣営で仲間割れするのは敵を利するだけである。加藤もそれに気づいていないはずないのだが、異国の過酷な環境で培われた怨恨は、それを無視できるほどには深いのだろう。先述の通り、黒田長政蜂須賀家政も朝鮮の陣の奉行衆らの対応に関して怒りを持っており、前田は彼らが連衡して奉行衆に対して何らかの政治的行動をとるのではないかということを危惧した。

 そしてまた、前田は加藤に恨まれている石田達奉行への同情を覚えた。というのも、加藤の奉行たちへの恨みの根本はある種の嫉妬心に起因していたためである。

 加藤清正というと朝鮮での苛烈な戦ぶりから武人としての印象が強いが、秀吉は加藤清正福島正則といった子飼いの武将たちに当初行政官としての役割を望んでいた。

 実際彼らは荒々しい性格のわりに行政をよく理解しており、秀吉の代表的な施策である太閤検地の遂行においても滞りなく事にあたった。

 結局、加藤はその行政能力を買われて肥後の統治を任されたが、結局彼の豊臣政権での役割は行政官の中でも地方の行政官に終始した。それに比べ、中央で政事を取り仕切る石田や大谷らの華々しさはどうであろう。加藤は口にこそ出さなかったが、地方官僚が中央の官僚に持つ種の妬みという感情を手放せないでいた。

(しかしそれは匹夫の妬みではないか。)

と前田は思った。それ故に前田は石田に同情したのである。

 前田がそのようなことを考えていると、大慌てで注進が舞い込んできた。

 前田邸の諸将はその報せに愕然とした。

 何と葵の旗印を掲げた徳川軍三万が東海道筋から上洛しており、今日二十九日中には伏見に着きそうだという。前田邸では上へ下への大騒ぎとなった。あるものは即時開戦を主張し、あるものはその武威を恐れた。

 しかしその騒ぎは長くは続かなかった。徳川家家臣井伊直政が伏見から使者として向かっているという知らせが入ったからである。

 前田は言った。

「丁重にお迎えせよ。」

広島カープ久々の勝利(サビがサザン風の曲作った)

こんにちは

広島カープ、泥沼の5連敗中で、しかも負け方が酷いものばかりで毎日ど鬱だったのですが、、

今日は勝ちました!!

しかも床田完投!誠也タイムリーツーベースという嬉しい勝ち方!!

嬉しくてら最近学校とバイトが忙しくて曲を作れていなかったのですが、久々に作りました!! サビがサザンのlove affairと似た気がしますが、、

聞いてみてください〜