黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(4)

こんにちは。

分かってはいたのですが、授業が再開するとどうしても更新頻度が遅くなってしまいます。特にピアノ引く暇ないっす汗汗

出来る範囲で更新するのでお付き合いください~

 

今回は前田利家にだいぶフォーカスを当てています、少し書き方がくどいかもしれませんが、、、

秀吉死後の前田、徳川の対立を描いていきます~

 

大谷は件の縁組問題について「諸将は黙認するだろう。」という見立てをしていたが、その見立ては(群集心理に長けている彼にしては珍しく)外れた。

五大老筆頭の前田利家が激怒したのである。

前田利家は石田から徳川家の縁組計画について聞くと初めは

「果たして誠か。」

とむしろ真偽を疑った。しかし徐々にそれが事実であることを理解すると、憤懣やるかたないといった表情で激怒した。

「太閤殿下が身罷られて未だ半年も絶たぬというに、よりにもよって執政者たる徳川内府が縁組にて徒党を組もうとは言語道断である。」

手勢を率いて自ら内府を討つとまで言ったが、周囲が必死に押しとどめたため、とりあえずは家康を除く四大老五奉行連署の上、詰問状を送ることにした。

 石田は前田の怒り様を意外に感じた。前田は豊臣政権内においては、心根の優しい仲裁者的存在として知られていたためである。前田は石田の知る限り、政務時にこのような激し方をしたことがなかった。(尤も、戦時の彼は勇猛な軍人である。)

例えば、前田は奥州の大名である伊達政宗が秀吉の召集に従わず、勘気を被ったときはこれを取りなしたし、秀吉の甥の関白秀次が粛清された時は多くの連座しかけた武将を救った。彼の温情を施された武将は数知れない。

元々前田は、織田信長清洲城主だった時代、謂わば尾張以来の家臣であり、秀吉の同僚的存在であった。秀吉とは多くの戦線を共にし、キャリアも共にあったが、信長の天下統一事業の過程で一軍団長として望外の覚醒を見せた秀吉に対し、どこか不器用で非常になりきれない性格の彼は最終的に柴田勝家傘下の一部将に甘んじた。

信長の死後、秀吉と柴田勝家が対立するとその仲裁に奔走したが衝突を止めることはできず、柴田を半ば見捨てる形で秀吉側に投降し、厚遇されて今に至る。

前田はその戦歴の煌びやかさから諸将から羨望の眼差しを向けられていたし(当時の武将達にとって桶狭間の役に参加したというキャリアは半ば伝説的だった)、かつて秀吉の軍門に下った経緯のナイーブさから秀吉も前田の意見には耳を貸さざるを得なかった。

 石田は上記のように、豊臣政権最大の長者である前田と最大勢力たる徳川の衝突を憂えた。詰問状の件で合意が成ると、大坂城の城中で前田に言った。

「徳川殿と前田殿の間に亀裂が入ればそれこそ豊家の災いとなります。徳川殿が謝罪なさればお受入れ下さります様。」

 前田はしわがれた声で言った。

「治部、俺は賤ヶ岳の様なことはもうしたくないのだよ。」

 その言葉を前に石田は黙さざるを得なかった。

 前田利家という武将は、当時の大名級の武将としては稀有な程、義侠心に富んだ武将だった。先に述べたように豊臣政権においては仲裁によって数多くの人物を救ったし、その人格を買われて秀頼の傅役を任された。

 しかし彼は反面、戦国武将としてのリアリスト的側面も併せ持っていた。織田信長の統一事業の過程では一向一揆を容赦なくなで斬りにしているし、敵に対して不必要な甘さをもつ男でもなかった。浪漫とリアリズムが同居している点、彼は大いに信長の影響を受けていた。(彼は生涯を通じて信長に心酔していた。)

 賤ヶ岳に於ける、柴田勝家の陣営から秀吉の陣営にくら替えした半ば裏切りとも言える行為は彼のリアリスト的側面がそうさせたが、これは同時に義に厚くもある彼を以後の人生において大いに苦しめた。

 柴田を裏切って以降、前田はより義侠に富んだ行動を好むようになったが、それは賤ヶ岳における自らの行動がしこりとして残り続けているためであった。

 今回、徳川家康の無断な諸将との縁組行為に対し毅然とした態度を見せたのもそのような訳がある。前田は言った。

「今までのご奉公が認められた結果、恐れ多くも秀頼君の傅役という職におる。俺は傅役として、幼君をないがしろにして徒党を組もうとする輩を黙認はできぬ。それは俺の生き方の理屈に合わぬ。」

 石田は前田の生き方の美学は人を魅了する痛快さがあると感じた。

 そして何より、政治的に同派に属する訳では決してない(前田利家の血縁を中心とし、宇喜多秀家細川忠興などで派閥が形成されていた。)石田に対して自身の心根を惜しげもなく話すその正直さこそ前田の魅力であり、仲裁者といて重きを為してきた所以でもあった。

「無論、内府が太閤殿下生前、律義に奉公し、それが認められ、執政を任されておる理屈もわかっている。内府がしかるべく対応をすれば事を収める。細かいことは其方らが図れ。」

「承知仕りました。詰問状を送った後、和解する手はずを整えましょう。」

 石田は一礼しその場を後にした。

 徳川屋敷での大谷との一件以来、石田の心にはどこか寂寞な思いが巣くっていた。が、前田のカラッとした忠義(というより義侠心といった方が良いのかもしれない)にふれ、幾分かその思いが晴れるように感じた。石田自身、種は違えどわだかまりを好まない素直な気質であったので共鳴するところもあった。

 しかし、聡明すぎる彼は前田の豊家を重んじる姿勢が彼自身の美意識に起因し、秀吉に対する情からではないことを見抜いた。

 事実、前田利家に、自身を裏切らざるを得ない状況へ追い込んだ秀吉個人への義理の感情はそれほど多くなかった。彼が心酔した主は生涯信長一人であり、遺言状にも豊家への言及はなく、織田への忠義のみが記されている。

 

 

 伏見の徳川家康の屋敷に詰問の使者が送られたのは一月十九日のことであった。

 使者に充てられたのは遠江浜松城堀尾吉晴であった。秀吉が「木下」を名乗っていた時から仕えている豊臣家の重鎮であり、かつ浜松城は以前徳川家康の本拠地であったことから何かと引継ぎの縁で家康と関わりがあったことを考慮しての人選であった。

 堀尾は家康を除く四大老五奉行連署の詰問状を差し出し、今回の縁組騒動に関していかなる伺候もなかったことについて遺憾の意を表明した。 家康は自分が亡き太閤より尸政を任されており、また自身が太閤の義弟であることから今回のことが私的な婚姻にあたらないという解釈でいたことを穏やかに述べた。しかし、その婚姻を大老奉行間で事後承諾してくれるならば、今回の件について謝罪し、和解する用意があることも言った。

 堀尾は胸を撫でおろした。家康に譲歩の準備がある以上、事は半ば解決したといってよく、後は前田らを説得すれば収束に向かうだろう。

 実際家康は二十日に和解に応じる旨の簡単な覚書を大坂の前田屋敷に送っており、事態は解決するかのように思えた。

 しかしながら、事態は暗転した。

 一連の婚姻騒動は伏見、大坂の諸大名の間を瞬く間に駆け巡ったが、どこからともなく前田、徳川間の戦が始まるという噂が立ち、それを聞いた諸大名が国許の兵を上洛させ始めたのであった。

 右で前田、徳川間の戦が始まるという「噂」と書いたが、あながち噂でもなかった。先述の通り、前田利家は今回の騒動に関して激怒し、かなり厳しい態度で臨んでおり、徳川家が不誠実な対応をしてきた場合、もはや採算度外視で排斥するつもりだった。大老の一人である宇喜多秀家前田利家の婿であり、その人柄に心酔していたので全くの同意見だったし、上杉家も前田に同調するつもりだった。

 そして前田ら四大老は万が一徳川が武力で大坂を攻撃してくる可能性に備え、大坂を警護の兵で固めていた。それを伏見の親徳川系の大名が

「大坂方が今にも攻めかかってくるらしい、兵を率いて徳川様の屋敷の警護にあたろう。」

と考え、逆にそれを見た前田利家に近しい武将達は

「伏見の徳川屋敷に諸大名が参集しているらしい。我らは前田様の屋敷に参り、お守りしよう。」

と判断したのだった。結果、伏見の徳川屋敷と大坂の前田屋敷は兵馬で溢れんようになり、人々は店を閉めて恐ろしさのあまり震えていた。

 

 

 伏見の徳川家康は慮外の事態拡大に動揺していた。

 元より前田利家らが反発し、詰問使が送られる程度は想定していたが、このように諸将が兵を率いて徳川派と前田派に分裂し、大戦さながらの騒ぎになることは見越していなかったのである。

 しかしここまで騒ぎが大きくなった以上、下手に出ることは政治的に敗北した印象を天下に与えることになるし、大坂方が諸将を糾合している以上こちらだけ武装解除するわけにもいかなかった。

佐渡。如何する。」

家康は参謀の本多正信に聞いた。この縁組計画の発案者もここまでの事態を想定はしていなかったらしく、苦虫を噛み潰したような顔で思案していた。

「もう少し様子を見ましょう。恐らくまだまだ屋敷に参集する諸侯はでて来るでしょうし、それによって有事が起こった時に諸大名が当家のお味方をしてくれるかどうかを見極められます。」

 その時、井伊直政が大股で部屋に入ってきた。井伊はこの騒動が起こって以来、赤備えの甲冑を着込み、戦の陣中さながらに動き回っていた。

「藤堂和泉守様(藤堂高虎)および脇坂中書様(脇坂安治)、加藤左馬助様(加藤嘉明)」がお越しになりました。恐らく藤堂様が中書様と左馬助様をお誘いしたものと見受けられます。」

 藤堂高虎は伊予宇和島の大名だが、秀吉の死後、次天下の実権を握るのは徳川家康であると見越して何かと家康に接近していた。

 脇坂安治加藤嘉明は共に領国が藤堂高虎と接しており、二人が徳川に味方したのは藤堂の調略によるものが大きかった。

「藤堂殿は心強いお味方ですな。」

 正信は言った。伊予、淡路の大名が味方してくれたことは地理的な面でも、毛利、宇喜多らの中国地方の大名の牽制になり、ありがたい。

今まで伏見の徳川屋敷に参集した大名は、池田輝政(池田家と徳川家は秀吉の生前から縁戚である)、伊達政宗福島正則蜂須賀家政藤堂高虎脇坂安治加藤嘉明真田昌幸、信幸父子、そして大谷吉継などであった。

 大谷は徳川屋敷に参じて以来、家康に早急に前田側と講和する様に働きかけており、諸将にも無用の騒ぎを起こさないよう呼び掛けていたが、大谷の努力虚しく時が経つにつれますます両派に駆け付ける諸大名が増え、事態は大きくなる一方であった。

(むしろいっそのこと戦をしてしまうか。)

戦をし、前田側の派閥を全て討ち果たしてしまおうかとさえ家康は思ったが、しかし肝心なことは、総兵力が大坂方に負けているということであった。やはり豊臣政権下において前田利家の人望というものは凄まじく、派閥を越えた勢力が前田屋敷に参集していた。家康も武勇の誉れ高く、名将としての声望は高かったが、今回の縁組騒動に関しては家康側に非を感じている諸侯も多いらしかった。

 家康は頭を悩ませた。

(迷いが招いた結果がこれか。)

 家康が秀吉の死後、身を削って天下を簒奪するか、自己保全に努めるかどちらが最良の選択か見極めかねていることは既に述べた。迷った結果、婚姻による自勢力拡大という布石を選んだのだが、それによって他大名の想像以上の反発を招いたことを悔いもしていた。

 思えば彼の人生はそのような選択の連続であった。武田信玄との三方ヶ原の合戦や、本能寺の変後の伊賀越え、そして秀吉との小牧長久手の戦など、常に紙一重の選択を迫られてきており、そしてまた紙一重で生き残ってきたが、未だに彼は選択の方法論というものを見つけられていなかった。例えば武田信玄との三方ヶ原の戦いは勇んで名将、信玄に挑んだ結果惨敗を喫したが、逆に豊臣秀吉との小牧長久手の戦いは、無理してでも戦い、(局地戦ではあったが)勝利したことで、家康および徳川家の声望は一気に高まった。戦いを挑むにしても正反対の結果となったのであった。

 選択をすることについての方法論を見出すことを半ばあきらめた彼は、自ら確実に操作できる範囲の事を重視するようになった。例えばそれは小さいことで言うと自身の健康管理、武術鍛錬であったり(彼は乗馬、射的、居合全て達人の腕前である)、大きいことで言うところ領国統治であったりした。

来たる運命の選択のために己を鍛えるという家康のスタンスは徳川家臣団の気質に合っていた。元々の質実剛健の家風と相まって徳川家を史上最強の軍団にしていた。

祝・読者100人突破

こんにちは!

 

このブログも読者100人を突破しました!100人といってもめちゃくちゃ多いほうではないかと思いますが、節目の人数を突破できてうれしいです。

 

スターの数だけ見ると「関ケ原」シリーズが人気ですね。ありがとうございます。

今後の展開に注目してください!

 

自作曲の方も随時あげていけたらと思います。

 

あと、椎名林檎さんNEW ALBUM 「三毒史」販売決定おめでとうございます!絶対買お

 

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濃州山中にて一戦に及び(3)

  3話目です。今回はちょっと小難しい回ですかね。直江の諜報の下りがわからない方は2話をご覧ください

  石田三成の親友が登場します。(本作では最も信頼する同僚という表現をしています。)

 

 

 こうして直江は石田に、何か事態が動けば直ちに報せることを確約した。直江はすこぶる有言実行の男であることを石田は承知していたので、この件は直江の報告を待つことにした。

 

 正月、諸大名は出仕して秀吉、および秀頼に新年祝いの挨拶をするのが慣例となっていたが、その年は秀吉の喪に臥すため祝賀は行われず、十日の大坂への引っ越しの準備のみが粛々と行われていた。

 一月十日、大坂、伏見間は諸大名の引っ越し行列で溢れていた。石田ら五奉行の面々は一足先に大坂への移住を済ませており、秀頼および利家が大坂城へ入る手はずを整えていた。

 家康が伊達らとつぶさに連絡を取っている件で直江から報せが来たのは石田が丁度大坂城で引っ越しの監督をしている時だった。

 直江の使い番曰く、石田の所在が不明で連絡が遅れたらしい。石田は使いの差し出した書を受け取ると、物慣れた手つきで封を切り、そして広げた。

 石田は全て読み終わると言った。

「急ぎ伏見の徳川屋敷へ向かう。島左、ついて来てくれ。」

 石田は表面上冷静さを装っていたが、その瞳には(彼にしては珍しく)動揺が表れていた。石田は八十島を徳川屋敷にやり、今から面会に行く旨を報告させた。

「城州様からは何と。」

 島左近は廊下を早足で移動する主人に歩調を合わせつつ問うた。

「件の徳川の件で調査したことを知らせてくれた。曰く、徳川家は伊達家、福島家、および蜂須賀家との縁組を計画しているそうだ。」

「大名同士での縁組は太閤殿下生前より禁じられていますな。」

 直江の書状は家康が縁組を計画しているというおおまかな概要が書かれていると同時に、その縁組計画の詳細も事細かに記載されていた。

 各家との縁組に関しては次のとおりである

 

 ・松平忠輝(家康の六男)と五郎八姫(伊達政宗の娘)

 ・満天姫(家康の養女)と福島正之(福島正則の養子)

 ・万姫(家康の養女)と蜂須賀至鎮蜂須賀家政の嫡男)

 

これら三組がそれぞれ祝言をあげることになっているらしかった。

 石田はこの件を他の奉行、大老に報告しなければいけないと思ったものの、前田利家らの出方によっては伏見、大坂間の戦になりかねないと思った。故にまず、石田は直江の報告書を更に要点だけまとめたものを、「上記の疑いあり」という但し書きを付けて前田利家のもとに送るに留めた。

そして自らは直接徳川屋敷へ赴き、審議を直接問いただすと共に、直江の報告が誠であれば今後の対応を(ことが公になる前に)秘密裏に交渉したかった。

 

 石田と島は淀川を諸大名の引っ越しの列を時にかき分けつつ、遡った。馬の吐き出す息が炊煙のようであり、寒さは身を切る様であったが、全速力で駆けた。伏見城下に入ってからも駆けに駆けた。二人の顔を知ったる者が「治部殿」「左近殿」と振り向けざまに呼びかけたが構うことなく過ぎ去り、徳川屋敷が建つ通りへ駆け入った。

 そのまま徳川屋敷へ押しとおろうかとも思ったが、二人とも盥沐していたかのように汗で体が濡れたくっていたのでまずは自邸に戻り、体裁を整えた後、二人は徳川屋敷の門を叩いた。

「お待ち申しておりました。」

 応対したのは若き家老の井伊直政であった。井伊は洗練された所作で石田と島の二人を応接の間に通した。

 応接間に通されると、石田は一人の白頭巾を被った男が家康と話していることに気付いた。その白頭巾の男にはよく見覚えがあった。否、馴染みがあった。

「刑部殿ではないか。」

「その声は治部殿か。これは数奇な時機に来られたものよ。」

 白頭巾の男の名を大谷吉継といった。

 石田同様、豊臣秀吉の天下統一事業の過程で官僚としての能力を買われ立身した大名であった。

 この男の経歴はほとんど石田と共にあったと言っていい。石田が豊臣政権創成期に堺の奉行に就任するとその与力としてあてがわれ、職にあたった。四国、九州、朝鮮の役と大戦ではそろって兵站の確保に努め、小田原征伐では石田と共に兵を率いて武蔵国忍城を水攻めにした。

 大谷は石田同様、経済や兵站への理解が深く、要領も良かったが、彼の特筆すべき長所の一つとして群集心理を把握するのに長けていた点がある。

 どう命令を下せば人がどのように行動するかを理解すること巧みであり、また逆に嫉妬心や猜疑心といった、人の心の弱みもよく把握していたので大きな事業を統括するにあたっても失敗が無かった。

 石田も決して群集心理が理解できない質ではなかったが、彼自身が才幹である故に若干理想に固執してしまう傾向があり、実際働く工夫や舎人が石田の想像より愚かであったがために予測を誤ることが時たまあった。秀吉は以上の両者の人柄を熟知した上で組ませた。この人選は秀吉の数々の人選の中でも肯綮に中ると言っていい。

 石田は政事において判断に迷ったときは何事も大谷に意見を求めるようになり、逆に大谷も石田の才を求めてよく相談した。

 要は大谷は石田が最も信頼している同僚であった。

 しかし不条理なことに、彼は小田原の役が終わったあたりから難病に苦しめられていた。その病は壮絶なもので、全身の皮膚に悪瘡ができ、また失明するというものだった。細菌や糖など体にとって善くないものが全身をめぐると右のような症状がでることから細菌感染症、糖尿病など様々な説があるがはっきりとはしない。

 彼はその病のせいでここ五、六年は奉行職を退いていたが、最近は小康状態を保っているのか中央の政界に復帰していた。諸大名同士の連絡や奉行の輔佐をよくこなしており、石田とも以前のようによく連携していた。

 しかしなぜ大谷がここにいるのか石田は解せなかった。石田の表情を察したのか家康が言った。

「儂がお呼びしたのだ。」

 大谷は一礼した。先述の通り、徳川とつかず離れずの関係だった石田と違い、大谷は奉行の中でも浅野と共に親徳川の立場であった。大谷が政界に復帰したのは家康が執政の立場になったために自身の重要性が増したからでもあった。

「石田殿が来られたのは当家と伊達家との縁組の件かな。」

「いかにも。」

 石田は大谷が徳川屋敷にいる理由を察した。縁組の件は遅かれ早かれ諸侯の耳に入ることであり(あるいは徳川自身が露見したことを察したのかもしれない)、独断での縁組計画となれば大老、奉行の反発・糾弾を受けるのは必至である。

 それを見越し、自家と親しい奉行である大谷を味方に抱き込み、利用しようという腹に違いなかった。

「太閤殿下生前より諸大名の勝手な縁組は禁じられております。」

「治部殿。徳川殿はただ今の日ノ本の宰相にござる。どころか太閤殿下の義弟、および秀頼公の義理の祖父ともあろうお方にござれば、『勝手な縁組』には当てはまらず、公儀としての縁組にござろう。」

 大谷が言った。彼は病に陥る前は軽妙洒脱でエスプリの効いた語り口で知られていたが、病を患って以来、動作は緩慢となり、病人特有の歯切れの悪い口調となっていた。

 加えて、大谷にとってこの空間は間が悪いようであった。縁組の件について、政治的立場は異とするが長年の職場の朋友である石田と言い争いたくはないらしい。

 石田は家康の方に向き直って言った。

「されど今の刑部殿の言は建前の理屈にござろう。いくら徳川殿が豊家のご縁戚であろうと日ノ本の宰相であろうと、諸将は今回の件を勝手な縁組と解釈します。そうなれば今後もそれにつづく大名が出て参りましょう。そうなれば法度が軽視される。そうなれば世が乱れる。」

 石田はたびたび見せる、悪政に対する毅然とした態度を垣間見せた。

家康は返答に窮した。石田は流石に頭の回転が速く、事の本質を突くのが上手い。家康は論点を変えた。

「しかしそなたもご息女を高台院様の養女とされたそうではないか。」

 石田は黙した。

 確かに石田は秀吉の死後、正妻として方々に影響力を持つ北政所と繋がりを持つため、自分の三女の辰姫を養女として送り込んでいた。大名同士の私的な婚姻とは性質が違うため違約には当たらないが、衝かれると若干後ろめたい点でもあった。

「しかしそれは大名同士にも私的な婚姻にもあたりますまい。此度の徳川殿が成されたこととは性質が異なります。」

「では治部殿。徳川殿を排斥なさるか。そうなればこそ世が乱れるではないか。」

 確かに現在の政治体制は大谷の言う通り、家康あってのものであり、家康を除外しようとすれば反対派との戦になりかねない。

「確かに今回の件で徳川殿に落ち度はあった。しかし訳を話し説得すれば諸将は黙りましょう。ことを荒げてはそれこそ豊家の御ためになりますまい。」

 以上の大谷の発言を引き継いで家康が言った。

「石田殿、この件を事後承諾という形で通すことはできまいか。必要とあらば大納言殿には私の方から謝罪に参る故。」

 石田はやや逡巡したが言った。

「私としても事を荒げたくはない故、今貴殿が申された方向で調整するよう試みます。しかし事後承諾を見越した法度破りは今後一切慎みいただきたい。今回の件でも恐らく加賀大納言様はご立腹なさるでしょうし再度このようなことがあれば私としても取り成しかねます。」

「わかりました。取りあえずは大坂の方々に諮ってみてください。」

 

 石田と大谷は徳川屋敷を後にした。屋敷を出ると石田は大谷に詰め寄った。

「刑部殿。いくら貴殿が徳川殿と親しかろうとあの場では私に同調するべきであった。仮にも豊臣の奉行の職にあった其方が法度破りに同調しては天下に示しがつかぬではないか。」

「お主の言い分は正しい。そして私もわかっている。」

 大谷は言った。

「しかし奉行衆が全員徳川弾劾に回ってしまってはそれこそ事が収まりにくくなる。儂が徳川の言い分を聞いてやることで奉行衆との橋渡しにもなるではないか。」

 要は匙加減が重要である、と大谷は言った。石田は理屈の上では納得したがやはり釈然としないところがあった。

要は、かつては諸問題全てを独裁者秀吉が裁断したため、石田大谷らはそれを善し悪しの尺度として従えばよかった。しかし秀吉が死に、その絶対的な善悪尺度が揺らいだ以上、大谷の言ったように諸将が和する様、万事加減を大事にしてものにあたらなければいけなくなった。物事の本質を衝くのが上手いこの男は、その釈然としない理由がそこに起因することを悟ったが、それに増して、今まで何事においても心根を同じくした大谷と今後政治的に別行動を取らなければいけないか思うと寂しさを感じた。

「病の方は如何かね。」

 石田は大谷の体調を気遣った。大谷は病で足が萎えたのか移動には家臣の介添えを必要とし、外出の際は輿を使用している。

「相変わらずだね。眼病に加え、足もすっかり萎えてしまった。体の節々も常に痛んでいる。目も足も利かなくとも仕事はできるが、体の痛みで頭の周りが鈍くならんかが気掛かりさ。」

「しかし仮に君が以前のようには政をこなせなくなったとしても、それが病のせいであることは方々承知しているし、君が今までに積んだ徳はそれを補って余りあるものだ。」

「そうはならんよ。」

 大谷は輿に乗り込み、頭巾の中でくぐもった笑い声を響かせた。

「石田殿は儂と仮にも私人としての付き合いがあるから表裏なき温情を向けてくれるのであろうが、そうでない大名方は表面的な哀れみこそ向けれ、本心から同情なぞせんよ。むしろこれを機に儂の既得権を簒奪せんとするものも多かろう。それが豊家に仇なさぬよう注意せねばならん。」

 以前から衆人の心理には長けていた大谷であったが、大病を患い、なお一層視えるようになった景色があるらしい。石田は黙って大谷の輿を見送った。

カープの開幕勝利を祝して(曲作った)

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こんにちは

筆者は熱烈なカープファンです。

マツダの開幕戦お家で食い入るように見てました。

大瀬良投手と菅野投手の投げ合い熱かったですね、、 最後は打線もカープらしさを発揮して良かったです!!^_^

さて、カープの勝利を祝して曲を作りました。 ただし、曲調は暗いですwww 題名とマッチしてない感ありますが、お聞きくだされば幸いです

題名は影桜です

ボカロでカバーしたい、、、

祝・読者50人突破

こんばんは 今日は時間がなく、作曲も連載もできなかったのですが、読者の方が50人を突破したのでそれへの謝意を述べさせていただきたいと思います。

ほんとこんな自己顕示丸出しのブログにお付き合いくださりありがとうございます!

まあ試行錯誤繰り返しながら作曲などのスキルを上げていければなと思います

批判や批評大歓迎なのでコメントばしばしお待ちしてます

Youtubeの方もチャンネル登録してくださるとめちゃくちゃ嬉しいです😆😆😆

作品投稿などだけだとあれなので、好きなバンドや作品語りも混ぜて行こうかなと思っております

次は目指せ100人!!

サビの転調を意識して曲作ってみた

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こんにちは。先日、co shu nie についてブログで語らせていただいた時に、サビでの転調の話をしました。

サビでの転調、かっこいいなーと思いつつあまりしてこなかったので、サビで転調することをテーマに曲を作ってみました! 毎度おこがましいですが是非聞いていただきたいです。