黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(10)

こんばんは。深夜に更新します。

この前、あるブログを読んだら、小説を書くのに最も必要な能力は「書き上げること」であると書いてあったのでとりあえず書き進めます。

 

今回は「決戦前夜」みたいな回です。太田長知というマイナー武将が出てくるので知らなければググってみてください。

深夜に書いたので誤字など保証できません。ではおやすみなさい、、、

 

 

 
 

 石田三成が所領の佐和山に帰還したをもって、大名十名、および徳川や毛利ひいては高台院までを巻き込んだ騒動は一旦の幕引きとなった。

 人々は前田利家の死、石田三成の引退による政治的空白を危惧したが、政治的な穴はことごとく徳川家康の手によって埋められた。彼は腹心の井伊直政および榊原康政を奉行同格の地位に置き、諸々の政務にあたらせた。彼らは政務を遂行する上で主の意図を多分に酌んだが、それはあくまで豊臣公儀の行動として処理された。

 無断で伊達家や福島家、蜂須賀家と縁組したことを弾劾され、一時は前田利家に対して政治的に敗北した家康だったが、今回の石田襲撃騒動を高台院と共に調停した功、また前田、石田という豊家の大黒柱が立て続けに消失したことも相まって家康が政治を主導することに異を唱えることは誰もしなかった。 家康は家臣団と共に向島から伏見城本丸に移住し、大谷、増田、長束といった奉行衆を統括した。その様はまるで天下人の様であった。

執政者として天下人同様に振舞う家康を見て、本多正信はある時から(果たしてこの御方は天下簒奪の野望があるのか。)という疑問を持ち続けていた。果たして彼はそれを家康に尋ねた。家康は答えた。

「豊家の当主秀頼公は幼く、政治運営能力はない。前田大納言様が身罷り、石田治部が引退した今は徳川家が天下を治めていくのが最も天下のためである。」

「恐れながらお聞きしますが、それは当家が豊家になり変わることを含意しますか。」

「それは謀反であり、反発する大名と戦になるであろう。日ノ本を戦乱に巻き込む意図はない。」

家康は戦を起こしてまで天下を簒奪する積極性を持ち合わせてはいなかった。南蛮の帝国「ひすぱにあ」が強力な水軍を率いて今にも明や日本に攻め込んでくるやもしれぬという情報を彼も得ていたためである。

「豊家は代々関白職として公家化させ、形骸上の君主になってもらう。我ら徳川家は朝廷から征夷大将軍の職を貰い、武家の棟梁として諸大名をまとめる。」

 家康はその政権構想を正信に語った。形骸上の君主をいただき、自らが実質上の君主として支配者となるその構図は鎌倉幕府の将軍と執権に近く、家康はこれにならうことで豊家との政権交代を平和裏に行おうとした。

「見事にございます。その着想、感服いたしました。」

正信は言った。

「されど、将軍職として諸大名をまとめていくには、他の力を持つ大名を全て徳川の傘下に収めなければなりませぬな。」

「そこよ。」

 他の大老職にある大名、前田、毛利、上杉、宇喜多らは徳川が将軍となり、天下を戴くのを良しとしないだろう。

「どうすればよいと思う。」

「お気に召さぬやもしれませぬが、また他家と縁組を行うがよろしいかと。」

 正信の言に家康は目を丸くした。

「先だって、縁組の件であれ程の騒動になったではないか。」

「存じております。しかし、あの時、騒動の嚆矢となった石田殿は政界から離れ、諸侯をまとめていた大納言様はすでに世を去りました。あの時の様に声高に非難してくるような気骨のある大名はおらぬでしょう。」

 正信は続ける。

「此度の石田治部殿と諸大名の諍いを調停したことで殿の声望は否応なしに上がりました。『徳川内府なくして世は収まらぬ』ことを天下に示したのです。この流れに乗り、縁組によって勢力を肥やしに肥やし、他の大名との力の差をいかんともしがたいほどにするのです。そうしてしまえば天下の儀は殿の思うがままにございます。」

 家康は結局、正信の言を容れた。豊臣恩顧の大名のうち、勢いの盛んである黒田長政加藤清正に目をつけ、秘密裏に縁組を確約させた。そして黒田長政に娘の栄を、加藤清正に養女のかなを嫁がせ両家と婚姻関係を結んだのであった。

 

 大坂城の北西部には「下原」と呼ばれる低湿地帯が広がっている。そこは後に「梅田」と呼ばれる大坂一の繁華街となるのだが、それは江戸期以後の話であり、この時分は歩行のしづらいぬかるんだ土地でしかなかった。時節は文月(七月)の終わりに差し掛かっていたため、日が落ちて時間が経つにも関わらず窒息するかというくらい蒸し暑い。

  その下原の湿地帯に掛けられた木道を一人の男が歩いている。

  男の名を太田但馬守長知という。前田家の家老である。

家老といっても、当主前田利長の従弟にあたり、一門格といっていい。

 前田家における武勲の人であり、特に前田利家の後半生における戦歴で、その手足として活躍した。

 家老として前田家を差配するようになってからも、かつて戦場を共にした部下に対し分け隔てなく接する好漢であったが、直情型の武人であったがために、前田家にとっての政敵を憎むこと甚だしかった。

 このころの前田家は、急速に天下の実権を握りつつある徳川家に対し、好意的な勢力と反発する勢力とで二分されていた。

 特に、先代利家以来の家臣は、先の縁組騒動で前田と徳川がやりあった事情も相まって反徳川派が多かった。太田は反徳川派の中心人物であった。

 細川忠興加藤清正の主導により行われた石田三成襲撃事件の苛烈さゆえに、すっかりその印象を薄めてしまっているが、秀吉の死後、大老かつ秀頼の後見人として大坂を鎮護していた前田利家は閏三月二日、石田三成襲撃事件の直前に病死している。(その死による政治的空白が直後の襲撃事件を半ば収集困難なものにさせた。)

 利家の後を継いだ肥前守利長は父譲りの人徳、そして母親芳春院譲りの利発さを併せ持った人物であった。しかし数多の戦歴を誇る父親と比較すると、そしてこの先、かの徳川家康と渡り合っていかねばならぬことを考慮すると、やや迫力に欠ける印象をぬぐえなかった。実際、彼は前田家中における親徳川派と反徳川派の反目を制止できないでいた。

 以上のような家中の分裂もあり、前田家は中央政治への影響力を大きく後退させている。太田は、徳川家康の違約に対し気骨で渡りあった先代の利家を心底敬っていた。そのため、政権を専横し始めた徳川家に対して何もできない前田家の現状に我慢できないでいた。

 彼は湿地に網目のように掛けられている木橋をしたたかに渡り継ぎ、下原の西のはずれにある寺に辿り着いた。太融寺という空海が創設した歴史ある寺だが、ここで他家の重役と会う手はずだった。

 境内の中は外の蒸し暑さが嘘に思えるほどの涼やかさだった。太田は境内を横切ると重厚にそびえる本堂を仰ぎ見た。

 本尊は嵯峨帝から寄贈された千手観音菩薩であり、本堂の奥に安置されているに違いない。信心深くもある太田は本尊の方に向かい合掌した。念じているうちに、件の人物が到着した。上杉家の執政、直江兼続であった。

「前田と上杉の軍事同盟の提案とは誠かね。」

 直江は言ったが、これは彼の諧謔であった。実際には軍事同盟どころか密会の題目さえも決まっていない。

「直江殿。ご足労にござる。」

「宵闇に密会とは好色ですな。側女を持たぬゆえ誤解されるが直江山城に男色の趣向はござらぬ。」

 直江はカラカラと高笑いした。身長六尺を誇る彼は当時にしてかなりの巨躯であり、太田は直江を仰ぎ見なければならなかった。

 此度の会談は、徳川の専横に危機感を募らせた太田と直江が秘密裏に設けたものであり、徳川と渡り合うため、前田と上杉で何らかの連携を取ろうという趣旨であった。太田と直江自体は外交の都合上、幾たびも顔を合わせたことがあった。

 二人は社交辞令を二、三言交わしたが、お互いどのように本題に切り込めばよいか躊躇っていた。直江は度胸のある男であるので、以下のように言った。

「徳川と戦をするかね。前田がその気なら上杉三万の侍は主、景勝の下知のもと悉く死ぬ気でいるが。」

 直江としては彼自身、反徳川であったし、家中をそのように一統していた。このまま徳川の勢力が肥大化すればいずれ上杉家を抑圧し始めるのは目に見えていたためである。

「私、太田は政事を恣にする徳川と戦をも辞さぬ覚悟なのだが、恥ずかしながら前田は一枚岩ではござらんでな。」

「横山殿とかいう御仁が家中に親徳川を説いて回っておるらしいな。」

「お耳がはやいことで。」

「昨日の軒猿の報告で初めてその名を知った。」

 直江の言に太田はその表情に影を落とした。前田家が親徳川派と反徳川派で割れていることは先述した。太田は反徳川派の筆頭格だったが、横山長知という若手の家老が親徳川派の中心人物であった。横山は先代利家の時代は全く用いられていなかったが、跡を継いだ利長の寵を得、家老として重用されるに至った。自然、横山率いる親徳川派も、前田家の中で新興的な勢力が多くを占めている。

 太田の懸念は、横山の弁舌の才が想像より見事であったがために、反徳川派が親徳川派にやや押され始めていることであった。

 加え、当主利長は横山に信を置いているため、徳川との融和路線に傾きかけている。

 彼は自身が上杉の宰相と交渉しているという立場を利用し、上杉との盟役という既成事実を作ることで家中を説得しようと考えていた。

 直情型の軍人はこのような政治的な場において、思い切った手を打てない者と、考えのない見切り発車の手をうつ者とに大別されるが、彼は後者であった。

「直江殿、上杉と前田で共闘することを願いたい。前田家は私が反徳川でまとめる故。」

「承知も承知だが、それは弓箭の沙汰になることを想定してのことか。」

「無論。」

「相分かった。」

 直江は懐紙を取り出すと、脇差で親指をぷつりと刺した。そして自身の血でもって懐紙に大きく×の字を書いた。そしてそれを太田に差し出しながら言った。

「上杉は来月国許に帰る。」

 上杉家はもともとの封土の越後から会津へ移されて日が浅い。上杉景勝とその家臣団は秀吉の葬儀(四月に既に行われた。)のために上洛していたが、領国の政務のために八月に帰国することは既定のことだった。

「仮にことを起こすなら備えに半年はかかる。」

「承知した。」

「前田はどうする。」

「我らも一度領国に帰ろうと考えている。」

 太田は直江の書いた×の横に、再び血の×を書きながら言った。

「家中を一統し、上杉殿と合わせて兵を興す。」

「相違ないな。」

 直江は満足そうな顔をすると、より具体的な話をしたがった。

 彼は軍陣においても書を嗜むほどの文愛家で、その言動や行動も創作の世界に影響された部分が少なからずあったが、政治の舵取りにおいては、それに終始しない緻密で強かな思考を見せた。

「前田家と元来昵懇な宇喜多、細川はまず同心させたいと覚ゆ。」

 太田は言った。大老の一角を占める宇喜多、先の石田三成襲撃事件を主導した細川は代表的な前田派の大名であり、先の家康の起こした縁組違約騒動でも前田家に与力している。

「宇喜多、細川の調略はお任せいたす。上杉家は佐竹を内々に調略しておく。」

 直江は佐竹の調略を確約すると、謀略の全体を総括した。

「上杉と前田はそれぞれ領国で挙兵の支度をする。来年の五月か睦月に諸大名を巻き込んで一斉に蜂起し、徳川内府の専制を弾劾する旗印のもと、これを討つ。太田殿、謀の是非は前田家中の一統にかかっておる。くれぐれもよろしゅう頼む。」

「先代利家の名にかけて確約いたす。」

 太田は果たして家中の取りまとめを直江に約束した。結論から言うと、この約定は半ば果たされる。太田ら旧臣の熱意ある説得で当主利長も家康との対決姿勢を鮮明することを決めた。上杉、前田の両家は、同じ八月に領国整理の名目のもとそれぞれ会津、加賀に帰国することとなる。

「太田殿。」

 直江は境内のよく冷えた空気を味わいながら言った。

「儂は今高揚している。我らが生まれた時分は乱世も遂に終焉し、満足に采を振るったことがなかった。」

「如何にも。しかも相手は今日ノ本で最も戦上手とされている男です。」

 直江はうなずくと、太田と残された確認事項に関して幾ばくかの打ち合わせをした。それも終わると無駄にその場に留まることはせず、寺を後にした。太田は直江の背を見送りながら

(将帥の背中である。)

と感じた。将は兵を率いる時、自然と背中を見せることが多くなる。そのため、太田は人の将としての力量をその人の背中の醸す雰囲気で判断するようにしていた。直江の背中は兵を従える苛烈さと名将がもつ類の浪漫を感じさせた。太田は直江を信頼にたる将であると確信した。

  

【弾いてみた】Lemon、ゴーゴー幽霊船(米津玄師)

こんばんは!

弾いてみたシリーズ再びです〜 今回は米津玄師さんのLemonとゴーゴー幽霊船です。Lemonの方は音色の感じを出すのに苦労しましたー。ゴーゴー幽霊船は原曲がシンプルだけに編曲に苦労しました(とは言っても、Youtubeのまらしぃ版を参考にしています)

以下アップします。

【Twitter開設のお知らせ】

こんにちは。

みなさんGWお楽しみでしょうか。

実は先日、当ブログであげた自作曲、弾いてみた曲などの作品を投稿するTwitterアカウントを作りました↓

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濃州山中にて一戦に及び(9)

こんばんは。

ようやく石田三成襲撃事件が終わりました。

今回は家康と三成が政治について激論を交わす回です(完全創作ですが)

 

次回からは前田討伐、直江状あたりをすっ飛ばすくらいのテンポで進む予定です笑

 

以下本文です

石田三成は、徳川家康の次男、結城秀康によって佐和山に護送される途上、伏見における家康との会談について回想していた。

細川、加藤らに大坂で襲撃されて以降、彼は佐竹の協力のもと、伏見までたどり着き、自邸でもある治部少丸に手勢と立てこもっていたが、家康、高台院の仲裁の元、武装解除に加え、居城の佐和山に蟄居することとなったのであった。

自身に蟄居という処分が下ったと知った時、石田は愕然とした。弾劾の焦点となっている「蔚山倭城の戦い」の裁定において石田は何ら関連がなく、完全たる濡れ衣なためであった。石田は自身の処分に徳川の恣意的なものが介在しないかを疑った。

向島の内府殿にお会いすることはできるであろうか。」

彼は同僚の増田長盛に聞いた。(彼は奉行として伏見城に登城している最中に、件の襲撃事件に巻き込まれたため、石田と同じく伏見城に籠城していた。)

「図ってみよう。だが、処分の件に関して徳川殿に問いただすとしたら筋違いであるぞ。今回は大谷刑部らも相当尽力してくれたし、徳川殿とて悪意をもって蟄居という裁定を下したわけではあるまい。」

「しかし、今回の件に関して私は濡れ衣であるし、このような力ずくでの強訴を認めては豊臣公儀の威信は地に落ちるではないか。」

石田は食い下がったが、これ以上増田に詰め寄っても無駄だと思い、とりあえずは増田を通じて向島に起居する徳川家康との会談を望んだ。

三月十日、果たしてその希望は容れられ、石田は密かに伏見の城を脱出し向島へと向かった。細川、加藤らの襲撃側は武装解除し始めているとは言え、鉢合わせるのは望ましくないため、伏見の東側から宇治川を伝って向島へと向かった。

「島左、儂が佐和山に蟄居すれば政局はどうなる。」

 石田は宇治川の船中で、同行している島左近に問うた。石田は流動化する現在の政局をできるだけ合理的に整理しようとしていた。

「前田大納言様がつい先日、鬼籍に入られました。殿までも失うとあれば豊臣政権はいよいよ徳川の傀儡と化しましょう。親徳川派である大谷殿が再び抜擢されるでしょう。」

「大谷殿が重用されることに不服はないが、儂の不在を埋めるために井伊や榊原といった徳川の家人も奉行として登用されるであろうな。」

「尤もかと。肥大化した徳川は前田や上杉らと共存できましょうや。」

「まさにそれについてと、徳川殿の今後の政治の理について問いただしに参るのだ。」

石田は自身の処遇の怪に加えて、これを機に徳川が今後どのような政を遂行していくのかについて議論を交わそうと試みていた。豊臣政権が徳川の専制化していく流れはもはや避けようがなさそうに感じたため、せめて徳川の政治、政策理念について忌憚ない意見を聞きたかった。

(驚くほど無私のお方だが。)

 島は主人、石田三成の、政治的に追い詰められてなお、公儀の体制を慮る姿勢に感銘を受けた。

(しかし、宰相の才ともまた異なるな。)

 石田の思考は、純粋な理をもって正解をはじき出す、まるで一種の機関の様であった。人の欲望や弱みを制御しながら政を行う宰相の役割とはまた異質な気がする。

 島は、主人石田三成の才能は秀吉や大谷吉継といった、人の操作に長ける人物と合わさってこそより活かされるものであると感じた。しかし秀吉は既に亡く、大谷も病身である。

 そう考えた時、理と情を程よく持ち合わせた徳川家康は宰相に適任と言えるのかもしれないという思考に島は至った。

 ともあれ、政治に対するアプローチや、大名としての経歴、立場も違う石田と徳川がどのような言葉を交わすのか島は純粋に興味をもった。

 

 石田らは向島の河岸で井伊直政本多正信らの出迎えを受けると、向島本丸の応接の間に通された。

 向島の徳川屋敷は、もとは秀吉が伏見城の支城として築いたものであり「向島城」と呼ばれるほど大規模なものであった。

 徳川家は先の縁組騒動によってその居場所を伏見の城下町から半ば追われる形で向島へ越したが、屋敷の大規模さは徳川二五〇万石の格にはむしろ相応だった。

 家康はやや急かす様な足で応接の間に踏み入れた。

「石田殿。御足労であった。この度はとんだ災難でした。」

「徳川殿。わざわざの御対面、恩に着ます。裁定のことも平に感謝いたす。」

 石田は一通りの社交辞令を言うと、本題を切り出した。

「此度、矢留の斡旋をしてくださった恩は山々なれど、朝鮮の儀に関して、私は一切関わっておりません。それを以て蟄居とはどのような思う仔細あってのことでしょう。」

「貴殿が無実なのは知っているし、仮に関わっていたとしても朝鮮のこと自体は亡き太閤殿下がお決めになったことだ。其方らが罪を被る理屈でないのも知っている。しかし、今回は連衡した大名が多すぎた。加藤、細川、池田、派閥を越えて十を超える大名が参画した。これを治めるのは誰かが詰め腹を斬らんと無理だ。」

「しかし、それでは豊臣公儀として武力による謀反を認めた形になっております。それで政権の体を成していると言えましょうや。」

「左様。成していないのだよ。もはや豊家は政権ではない。統一された意思決定能力が失われているからな。」

 家康は重大な私見を告げると、手元の茶を飲み干した。

「殿下の死によって、政権は瓦解したに等しい。よって政権を新たに再構築する必要がある。近々安芸の毛利殿と徳川で私的な和議を結ぶ予定がある。実質的に毛利は徳川の与力となる覚悟があるらしい。」

「大谷殿が毛利を説得したと聞きました。」

「左様。かくなる上は豊家を関白家として上に戴き、徳川を宰相とした統治を再構築するつもりである。石田殿は不運にも朝鮮の役への不満等を諸将に向けられた立場であるが、一旦自領で謹慎願いたい。そのお力が必要となった暁には政権に呼び戻そう。」

 家康は、石田が朝鮮の役に一貫して反対していたのを知っていたので、朝鮮の役が豊臣政権の失敗であるというニュアンスは濁さなかった。

「私の処分の動機と仔細はわかりました。しかし、政権再構築の表現が気になります。貴殿の構想ではもはや豊家は徳川の傀儡であり、それは豊家の政権と言えましょうや。」

「そなたは『豊家を上に戴き、徳川が宰相として政を主導する』という言葉以上のものを欲さない人物だと思っていたが。ここでは『豊臣の政権』であると言った方が良いのか。」

 家康は秀吉の生前、石田と政治的に接触する機会がほとんどなかったが、朝鮮の役への態度にもみられるように彼には建前の理屈や世辞が不要であることは知っていた。

 石田の言は、執政者として徳川が豊臣をないがしろにすることを危惧してのものであったが、相手に言質を求める問い方は彼らしからぬものだった。石田自身も自ら出た言葉に半ば驚いた。

「いえ、徳川殿が政治的公平性を保てるのかを案じたまでです。」

「徳川も二五〇万石を治める大名故、須らくは不可能であろうな。よって、政権の在り方を変動させる必要があるように思う。織田信長公以来、中央に為政者が君臨し、地方は中央の令を受ける体制が続いた。しかしそれでは中央の揺らぎを全国が諸に被ることになろう。よって、中央が持っていた統治の権限を地方大名にいくらか移譲する必要があるように思う。そのうえで中央は上に豊臣、下に徳川が担う。どうかね。」

 家康は兼ねてから本多正信と共有していた政治構想を石田に話した。秀吉時代の政治を牽引した才子の意見を聞きたかったし、謹慎の身になる石田にこの考えが漏洩することは何ら痛手にならないためであった。

「地方への権限移譲は実は兼ねてから私も構想していたことでした。」

 石田は言った。これは事実で、石田自身もかつての秀吉政権のような中央独裁型の政治の脆さを認識していた。

「徳川殿の構想は徳川殿が豊臣家を弑逆しない限り上手くいくでしょう。」

「それはありえないし、貴殿にはやはり折をみて中央に復帰して頂く。大谷殿はあのような状態だし、有能な奉行は多く欲しい。」

「かしこまりました。佐和山に謹慎中、中央には嫡男の重家を出仕させます。」

「承知した。佐和山へは次子の結城秀康に送らせましょう。人質同然のものと受け取ってもらって構わん。これで細川、加藤も手出しはしまい。」

 

 以上が石田三成徳川家康の会談の顛末であった。島はこの二人が、理でもって思考するところにとても類似するものを感じた。

 島は主人、石田三成が完全に理の人、政治問題に私情を介在させない人であると思っていたが、家康が掲げる政治構想に対しやや難色を示したのは、やはり些か豊家への情があるからなのかもしれないと思った。

 ともあれ、会談はおおむね両者齟齬なく無事終わったことにこの浅黒い肌をした、軍事顧問は安堵した。

 気づけば石田家一行は伏見から瀬田の端のところまで来ていた。石田は、自身を護送した結城秀康に礼として、自らの脇差を抜いて渡した。「正宗」という名のこの脇差は、後世まで受け継がれることとなる。

【弾いてみた】アイネクライネ(米津玄師)

こんばんは

米津玄師さんのアイネクライネをピアノで弾いてみました。 アニメーションも含めて大好きな曲です。最後少しミスってしまったのが悔やまれます。 よかったらお聞きください。

祝・読者200人突破

こんにちは。

 

昨日、当ブログの読者数がようやく200人を突破しました!!

このような独りよがりなブログにお付き合いくださりありがとうございます。

200人の方が見てくれていると思うと、作品のクオリティもそれなりにこだわっていかなければいけないのかなあなんて考えました。(今はとりあえず作って流す状態なので)

今は読者数200人のブログなど多くあるかと思いますが、これで一応ブログ初心者のくくりは脱したのかなと、、

 

今後の予定としては、とりあえず「関ケ原シリーズ」を完結させること

作曲を続けること

あと、大好きな米津玄師の曲「アイネクライネ」のピアノカバーを完成させたいと思ってます。。。

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あと、壮大な夢なのですが、いつかは自分の作品を何らかの形で公に出したいと夢見てます。このブログはその足掛かりになればなあ、、なんて、壮大すぎる夢ですが。

いつも見てくださる方々は本当に感謝です。

 

今後も末永くお付き合いください。

 

濃州山中にて一戦に及び(8)

こんばんは

 

関ケ原シリーズも早くも8話目ですね。

今回は重要な局面だけに自分の文章力のなさが浮き彫りになってしまった感じです。

ネガティブなことばかり言っても仕方ないのでこのシリーズはちゃんと完結させたいと思ってます。。。

いつかちゃんと細部まで点検してリメイクしたいです!

 

以下本文です。

 

 

 家康が伏見での騒動を知ったのは石田三成の護送を務めた佐竹義宣の訪問によってであった。佐竹は伏見城まで石田を送り届けると、今回の騒動の調停を願い出るために家康が居住している向島へと急行した。

 この義理固い男は、石田が豊臣政権下において佐竹家に世話を焼いてくれた恩を、身命を賭して返すつもりでいた。徳川家とはそれ程付き合いはなく、むしろ領土問題によって多少の緊張関係にあったが、彼は石田のために迷わず、家康に調停を願い出たのだった。

「水戸侍従殿。要旨は分かりました。私は大老筆頭として、大名たちの私闘を取り締まる義務がありますし、伏見の統治者としても、今回の騒動を看過することはできません。今すぐにでも手を打ちましょう。」

 家康はあくまで公正で中立な立場として今回の騒動を収束させるつもりであった。

 襲撃側に池田輝政福島正則ら徳川家の縁戚大名が多くいたことに衝撃を受けたが、ここで襲撃者側の肩を持っては、政治問題への武力解決を豊臣公儀として認めることになる。

「ありがたし。何卒、穏便に事が済むようお願い致す。」

 佐竹義宣は家康が公正な仲裁者としての立場を表明したことに満足した。深々と頭を下げると、徳川屋敷を後にした。

 家康にとって問題は、大坂から伏見へと三成を追ってきた七将が相当な興奮状態にあることだった。

 佐竹義宣が徳川屋敷を後にするのと入れ替わりで、細川忠興ら七将から連盟で家康宛の書状が送られてきたが、そこには明確に石田三成への弾劾が記されており、主に二つの要求が書かれていた。それは「朝鮮の陣での蔚山倭城の裁定の取り消し」「石田三成および福原長尭の切腹」であった。

切腹とはまた手厳しい。」

 本多正信は失笑したが、家康は笑えるような事態には思えなかった。彼らは現在、治部少丸を包囲し、突入の時を今や遅しと待っている。家康が彼らの条件を許諾するまでおそらく兵を退かないつもりであろう。そうなればまた諸侯が石田派と弾劾諸将派に分かれ、前回の縁組騒動の二の舞になりかねない。

「とりあえず、七将への返書をしたためる。井伊兵部をここに。」

 家康は七将への返書を認め、腹心の井伊直政に持たせ、宇治川の対岸で陣を張る七将の元に遣った。

 伏見の治部少丸では、攻囲する弾劾諸将の軍勢と、石田三成麾下の手勢とが指呼の間で睨みあっていた。

 特に、夜が明けてからは引っ切り無しに言葉合戦が行われていた。今回の軍事行動には政治的意味合いが多分に含まれていたがために、双方自分らの正当性を主張するのに躍起だった。

 石田家の侍大将、舞兵庫は主人石田三成がいかに清廉で公正に奉行の職にあたってきたかを知っていたので、弾劾派の熾烈な雑言にもひるまず反論した。

「汝らは、豊家が天下を収めて以来。此の方(石田三成)が如何に滅私奉公してきたかを知らぬか。星を被き、月を戴くとは此のこと。その様を知っての狼藉か。」

 言い終わるや否や、手元に抱えた八〇匁はあろうかという大鉄砲を放った。大鉄砲は轟と火を噴き、寄せ手の木盾を吹き飛ばした。

 そのようなやり取りを繰り返しているうちに、家康の使者である井伊兵部少輔直政が、弾劾諸将らが本陣としていた伏見の細川上屋敷に到着した。

 細川以下七将は家康からの書状を食い入るように見ていた。書状には七将が手紙をよこしたことへの礼が書かれており、仔細は井伊直政に聞くようにと述べられていた。

「して、内府殿は我らの要求には何と。」

蔚山倭城の裁定について見直すことにつきましては、加賀大納言様御存命の折から大老間で議題にあがっており申した。図ってみる故、沙汰を待つようにとのことです。」

「石田と福原の切腹については。」

「両名の処分の儀つきましても只今思案中ゆえ、追って沙汰するとのことですが、我が主は、切腹は重過ぎるとの見解を持っています。」

 この井伊直政の発言に対し、弾劾諸将でも反応が割れた。主犯格の細川忠興加藤清正の二人はその短気さも相まって激昂した。

「我らの要求はあくまで石田らの切腹。この機に石田を葬らねば、奴は必ずや復権を企てよう。」

 床几に両手を叩きつけたのは加藤清正であった。

「もし我らの要求が容れられぬのであれば、その時は内府殿と一戦交える覚悟ぞ。」

「その言葉、そのまま我が主にお伝えするがよろしいか。」

 井伊直政が凄んだ。平時こそ有能な政務官、外交官として振舞っているものの、この男の根底にあるものは赤備え三千余騎を従える武人であった。加藤の言に対しへりくだる気は毛頭ない。

 結局その場は徳川家の縁家である福島、蜂須賀らが収め、事なきを得た。(彼らとしては徳川家と極力諍いを起こしたくなかったのである。)しかし、井伊直政は細川、加藤らの激昂ぶりをそのまま家康に報告してしまった。

 家康は内心不愉快であった。が、それよりも事態が収拾しないことへの心配が勝った。

 先にも述べたが、此度の騒動で石田三成切腹、という裁定を下せば、武力による弾劾を公儀として認めた状態となり、現行の秩序は大きく乱される。執政者として家康はその判決を下すわけにはいかなかった。

 しかし弾劾諸将は伏見と大坂に残留した者を含めて十名おり、徳川家の縁家も数多く含まれているが故に、その対応は難しいところであった。

高台院様(北政所)預かりの裁定としてはいかがでしょう。」

 謀臣、本多正信は言った。今回の事件には加藤清正福島正則ら豊臣家子飼いの武将が多く、彼らは多かれ少なかれ高台院、寧々から恩を受けている。加藤、福島などは少年期、高台院に育てられたも同然であり、母のように慕っている。

「それは良いな。」

 高台院預かりの裁定とすることで、彼らと徳川家との無用の衝突も防ぐことができるであろう。

佐渡。大坂の高台院様のもとにすぐに使いをやってくれるか。処分の内容はこちらで決定する故、仲裁にたってくれる様、お頼み申すのだ。」

「承知しました。すぐさま嫡子の本多正純を大坂に遣りましょう。」

 

 細川忠興加藤清正らが奉行の石田三成を弾劾、その屋敷を襲撃したことは大坂でも大きな騒ぎとなっていた。

 細川らが石田屋敷を襲撃すると同時に、池田輝政脇坂安治加藤嘉明ら三人の将が片桐助作と謀り、大坂城を占拠したことは前に述べた。その計画は巧妙かつ迅速に行われたため、奉行方も成す術がなかったのだが、この一連の騒動に対し強い警戒心を持った毛利家が国許から兵を急募し、尼崎に陣を敷く事態となっていたのだった。

 毛利家は秀吉が羽柴姓の時分から縁があり、豊臣政権にも早くから恭順の姿勢をとるなど、外様大名の中では親豊臣系の大名として知られていた。中でも秀吉は、毛利一族でもあり、大きな勢力を持つ小早川家に、自身の縁者である羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を養子として送り込むなど重用していた。

 そのような歴史もあり、秀吉の死後、八月十八日に石田三成ら四奉行は毛利家と「豊家に仇成すものがあれば連衡してこれを排斥する。」という旨の誓紙を特別に交わしている。これは毛利家の信頼と、百二十万石の実績を買ってのことだが(徳川家康の専横への警戒の意味もあった。)、いずれにしても今回の尼崎への出兵にはこのように、毛利家が昔から豊臣との繋がりが深いという背景があった。

 毛利輝元は国許から急行させた六千の兵をもって尼崎に陣を敷くと、取り急ぎ軍議を行った。大坂の状況は家臣、内藤隆春(齢七十に近い老齢であったが物に聡く、慧眼であったため、引き続き重用していた。)から逐一報告されていた。

「池田武州以下三千余りの兵が大坂城に拠っており、立ち入れないようですな。」

 当主輝元の叔父、毛利元康が言った。安芸毛利家中興の祖である毛利元就は多くの子を残した。元康は齢七十を過ぎてから産ませている。

池田輝政は家康の婿だが、此度の騒動は家康の指図に因るものなのか。」

「その可能性はあるでしょう。内藤の報告にも以前、『奉行衆と内府、些か不和』と書かれており申した。」

 輝元と元康の会話を制したのは若くして家老職に準じている吉川広家であった。

「お待ちあれ、奉行衆と内府が不和であるという噂は太閤殿下が身罷られた去年八月の時点のものに御座ろう。太閤様の死後、内府様は一貫して豊家への忠義をもってご精勤なされておる。あまり食って掛かるのはよろしからず。」

「伊達や福島らと勝手に婚姻するのが忠義かね。」

 毛利元康は冷笑した。吉川広家は反論しようとしたが、輝元は「もうよい」と制した。

(小早川の叔父上が往生して以来、万事この具合よ。)

 輝元は心の中で嘆いた。豊臣政権下において、毛利家を導き、全てを取り仕切っていたのは叔父、小早川隆景であった。彼は抜群の思慮深さと多大な仁愛をもって国を治め、また早期から豊臣家と毛利家の架け橋ともなった。そのため毛利家は家中に混乱もなく、豊臣家との仲も良好だった。

 しかし小早川隆景が卒して以来、家中は不協和音を奏で続けている。

 その原因の一つは小早川家の遺領問題にあった。

 輝元の叔父、小早川隆景は毛利家の宰相でありながら、伊予の一部や備後の三原などに領地を与えられ、半ば独立した大名として扱われていた。しかし慶長二年、丁度秀吉より一年ほど前に死去した。秀吉は小早川隆景の遺領を吉川広家に継がせ、広家の現在の封土には毛利秀元を入れるという遺領分配案を突き付けた。

 秀吉の死後、石田三成はこの案をもって遂行しようとしたのだが、まとまらない毛利家は輝元、秀元、広家が三者三様に反対したため、問題はこじれにこじれていた。

 そのようなこともあり、毛利家は三本の矢に代表されるような往時の結束を失っている。

「そもそも此度の騒動のは、諸将が石田の今専横を弾劾せんとするものだと聞き申した。諸将の言い分は至極尤もなことであり、石田に助力する必要はありもうさん。」 

 吉川広家は言った。この男は隆景の遺領問題の件でかなり石田へ鬱憤が溜まっており、むしろ弾劾一派と心を同じくしたい位の感情を持ち合わせていた。この男としては、毛利家の豊臣家に必要以上に媚びへつらうスタンスが以前から気に喰わない。(彼の父、吉川元春は大の秀吉嫌いであり、その生い立ちも理由の一つである。)

「我らは太閤殿下が身罷られた直後、石田殿らと誓紙を交わした義理もある。ここはやはり、大坂を抜いて伏見へ上り、石田殿らをお救いするのが筋であろう。」

 と言ったのは輝元の養子で遺領問題にも関わる毛利秀元であった。それに吉川広家が返す。

「しかし大坂城は池田らの兵で満ちており、立ち入れません。」

 吉川が若くして重用されているのはその軍事的見識の高さにあった。彼の用兵術は現在の毛利家中でも随一であり、朝鮮でも毛利家を幾度となく救った。

大坂城には三千の兵が詰めておると聞く。あの城を落とすには十倍の兵が要るわ。我が方は六千しかおらぬ。兵が足りぬ。」

「まあよい吉川侍従。」

 輝元が手で制した。

「もとより弓箭にて解決するつもりはない。

瑶甫殿が大谷刑部らと石田殿を外交にてお助けする手立てを探っておる。」

 瑶甫、とは毛利家の外交顧問、安国寺恵瓊の字である。輝元はこの外交を担う禅僧を「猊下猊下」と呼び慕い、半ば父の様に敬愛していた。

 しかし吉川にとって当主輝元の寵愛を受けるこの禅僧は政争における敵であり、また、安国寺恵瓊の方もこの一本気すぎる吉川広家の気質を好まなかったことから、両者は激しく反目していた。

 広家は、恵瓊の名が出たことに気を悪くした。しかし、今のままでは大坂に押し入れないのも確かであり、恵瓊の外交手腕に頼る以外に方法がないのも確かだったので、以降は口を一文字に結んで押し黙った。

 

 大谷吉継は不自由な体に鞭打って大坂を駆け回っている。というのも、前述したように、石田三成を救済するための交渉の糸口を探るためであり、また毛利家の出兵によって逆に複雑化した事態を収束させるためでもあった。  

 徳川家康が今朝、伏見から大坂の高台院のもとに飛脚を出し、事態の仲裁を頼んだ。弾劾諸将も高台院の調停を拒むわけにはいかないであろうから、調停自体は成るであろう。

 大谷吉継の考えは、これを機に家康と輝元を引き合わせて同盟させ、大老の勢力を盤石にすることで、乱れつつある秩序を再構築しようというものであった。

 彼は今、毛利屋敷で安国寺恵瓊と会談している。

 安国寺恵瓊とは毛利家の外交を司る禅僧だが、毛利家から多くの封土を貰っている上に、高僧として全国から多額の寄進も受けていたために、大名並みの経済力を有していた。

 毛利家は本能寺の変でかの織田信長が横死した際、明智光秀を討ちに京へ戻りたい秀吉と瞬時に和議を結んだが、その和議を主導しまとめたのがこの恵瓊であった。秀吉の躍進を見込んでの行為であったが、秀吉はこれを恩に着、毛利家を彼の政権下において厚遇した。

 それ以降も恵瓊は外交僧として小早川隆景らと共に豊臣家と毛利家を繋ぐ役割を担い続けた。

 要は今日の毛利家が豊臣政権下において重用されているのはこの恵瓊のおかげと言っても過言ではなく、当主輝元は恵瓊を父の様に慕っていた。

 大谷はその恵瓊に言った。

「毛利殿が石田殿を救わんと出兵成されたこと、石田殿に代わり御礼申す。」

「いえ、去年取り交わした誓紙の約定を守ったまでのことです。」

 そう言うと恵瓊は目の前の茶を一気に飲み干した。

 大谷は頭巾の中から、恵瓊の顔をじっと見据えた。

 眉は太く、丸々としており、目は小さい。黒々としたその目が絶えずきょろきょろと左右に動いている。

 大谷は豊臣政権下で何度か恵瓊と顔を合わせているのでその遇し方をよく理解していた。大谷から見て、安国寺恵瓊という僧は、物事の建前と本音を見抜く慧眼を有しているが、己を頼みにする自尊心が過大であるために、意見や弁舌にどうしても自意識のバイアスがかかる人物であった。

 彼にはあえて忌憚のない意見を述べると同時に、半ば泣きつくことで自尊心を満たしてあげた方が良い。

 大谷は言った。

「安芸中納言様に伏見へお越しいただくわけには参りませぬか。内府様と面会して頂きたいのです。」

「急ですな。」

「実は徳川殿が今朝、高台院様に矢留の斡旋を頼み申した。高台院様の力あれば和睦自体は成るでしょう。肝心なのはその後です。安芸中納言様に内府様と面会し、同盟の誓紙を交わしていただくことで政権の威光を盤石にし、秩序を再構築して頂きたいのです。」

 恵瓊は大谷の言に即座に返答することはできなかった。伏見に行くということはある意味家康の格下に準ずるということでもある。

「加賀大納言様が亡くなられた今、内府様と安芸中納言様が同盟することは天下のためにも必要なのです。万事は加減が肝要なのです。何卒。」

 大谷の嘆願に恵瓊は頷かざるを得なかった。

「承知しました。輝元は私が説得いたしましょう。」

「ありがたい。」

 大谷はほっと息をついた。

 高台院の名のもと和睦を成し、徳川毛利の名のもとに天下を治めれば今回の騒ぎは完全に収束するであろう。

(後は石田殿の処遇だが)

 伏見城増田長盛からの知らせによると、どうも今回の騒動は石田が政界から身を退かねば収まらなさそうとのことであった。

(惜しいな。あれ程の才人を。)

 大武勲者、前田利家についで天下の大番頭、石田三成も失うとあっては、豊臣政権は早くも座礁したと言っても過言ではない。

(この身も忙しくなるやもしれぬ。)

 石田の穴を埋める人材として、自分が再び奉行として働かねばいけない可能性を考えた時、彼は自由にならない病身を嘆いた。

 

 閏三月九日、細川以下十将が石田屋敷を襲撃してから五日の後、秀吉の正妻、高台院大老筆頭徳川家康連署により、石田三成方と弾劾諸将派への仲裁が行われた。

 和議の条件は以下の様であった。

一、黒田長政蜂須賀家政両名に対する蔚山の戦いにおける裁定を取り消すこと

一、石田三成佐和山にて蟄居。福原長尭は減俸に処する

一、弾劾諸将は裁定に納得し、速やかに兵を退くこと

 

 細川忠興加藤清正の両名はなおも食い下がり、石田の切腹を家康に直談判したが、家康は「そなたらはこの家康をも討とうと企んだ無用の者である。」と怒り、取り合わなかった。清正らもそれ以上は抗議の仕様がなく、仲裁を受け入れた。

 石田三成佐和山への護送は徳川家康次男、結城秀康の監督のもと行われたが、そのすぐ後ろを加藤清正黒田長政の軍勢が後をつけていった。家康の気が変わったならばすぐにでも石田を殺す腹であったが、家康の裁定が揺るぐことは無かった。