黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(17)【第二部】

えーこんにちは

 

関ケ原本戦に入ってからわりとだらけるかと思ったら、意外とサクサク進みます(筆が)

本稿では、家康の小山評定なるものは存在しなかったという仮定の下、進めさせていただきます。

 

 細川討伐と伏見城攻めをもって西軍は軍事行動を開始した。編成は以下の通りである。

 伏見城攻撃部隊・・・宇喜多秀家小早川秀秋小西行長大谷吉継毛利秀元島津義弘、長曾我部盛親、立花宗茂

 細川討伐部隊・・・小野木重勝織田信包、前田茂勝

 西軍の基本作戦は、まず畿内の制圧と安定であった。家康が西進してくることを予想し、美濃尾張までを制圧して防衛線としつつ、畿内全体に巨大な補給線を張り巡らして戦うという作戦を立てていた。

 この作戦を立てたのは石田三成であった。彼は軍事戦略に関して、補給を中心に考える点、多分に近代的な考えを持っていたといっていい。この時代の戦いにおいて、補給を中心に据えた戦略はいまだ一般的ではなかった。日本という国が山がちであるがために長距離の陣替えが難しく、長期的な滞陣が困難であったことが理由として挙げられる。

 石田は、豊臣秀吉の天下統一事業に際し、主に補給の確保に充てられたことが多かったため、この点誰よりも補給について深く理解していた。彼が補給を含めた近代的な思考を持っていたことは、このことに起因すると考えてよい。

 伏見城を攻める西軍の数は八万を超えた。想像以上の数に伏見城城番鳥居元忠は面食らったが、彼は忠烈で知られる徳川三河武士団の中でも家康幼少の時から付き従う古参中の古参中であったため、手持ち千八百の兵で十日粘った。粘った末にどうとも敵を防げなくなり、八月一日に全兵玉砕した。鳥居自身は当時豊臣家の鉄砲組頭を務めていた雑賀孫市に打ち取られた。享年六一年と言われる。

 

 石田はともあれ伏見城が陥落し、京大坂が西軍の支配下に収まったことに満足した。次の段階として、彼は軍勢を三つに分けた。一つは大谷率いる越前方面軍、もう一つが毛利秀元率いる伊勢方面軍、最後の一つが、石田が率いる美濃方面軍であった。

 彼はこの三つの方面軍が各担当国を平定したあと、尾張にて合流し、分厚い畿内の補給線の元で家康を尾張で迎え撃つという戦略を描いていた。

 大谷吉継や、伏見城攻めの実質総司令官であった宇喜多秀家もこの作戦を支持した。しかし島津維新、立花宗茂といった九州の名将たちはこの作戦に半ば懐疑的であった。

 島津、立花ともに戦では少数の兵で大勢を打ち破ることを得意とした。さらに概念的に言えば、彼らは戦術で戦略を打破し続けてきた将たちであった。それだけに石田の戦略先行主義が理解できず、もっと単純に言うならば「これだけ兵站を強固しようがしまいが一たび戦で大利を得れば良いだけの話ではないか。」という心地でいた。

 しかし島津勢はわずか千五百程度、立花軍も三千程度であったため、彼らは西軍の中において強い発言権を有さなかった。もっとも彼らも石田の戦略について彼に口論を挑むほどの嫌悪は持ち合わせていなかったので、それに従った。

 

 伏見城が陥落したのは八月一日のことだが、家康は石田の挙兵を七月一五日の時点で聞いている。

 当初、石田と大谷は佐和山で挙兵し、これは彼ら単体の謀反であるかの様に思われた。実際これは安国寺およびその主家である毛利と画策したものだったのだが、そうとは知らない増田長束ら奉行は、石田大谷の謀反の動きを江戸の家康に報告していた。

 この報告には家康も面食らった。石田、大谷の兵力を合わせても高々八千程度であり、畿内の真ん中で謀反を起こすのは無謀以外の何物でも無いからである。

 家康はむしろ石田、大谷にいずれの勢力が与しているのかを気にした。前田は当主の母、芳春院を人質とし、毛利は不戦同盟を交わし、宇喜多は家中分裂に付け込んで骨抜きにしたつもりであった。

 毛利家家老の吉川広家から榊原康政宛てに書状が送られてきたのは七月二〇日のことであった。そこには毛利家、宇喜多家、小西家といった西国の大名がことごとく家康を弾劾し挙兵したという戦慄すべき内容が書かれていた。

 さらに驚いたのは、大坂において毛利主導による新政権が発足し、石田草案のもと家康を公儀から追放の上、弾劾する書状が全国の諸大名にばらまかれているということであった。

 この弾劾状は「内府違いの条々」と呼ばれ、家康の元にも届けられた。これが二三日のことであり、家康は上杉勢と対峙するため、宇都宮まで進軍していた。

 その弾劾状を家康は陣屋で読んだ。陣屋には本多正信井伊直政しかおらず、体面を気にする必要がなかったため、家康は気を静めるために「エイッ」という掛け声のもと、俄かに抜刀して目の前の虚空を切った。脂汗を流しながら肩で息をする家康の背に本多正信が話しかけた。

「恐れながら、上杉討伐軍はここで解散とし、一旦諸将を領地へ帰すべきかと存じまする。」

「それでは諸将はことごとく大坂方に奔るのではないか。」

「弾劾状はおそらく上杉討伐軍に従軍している者たちも手にして居り申す。このまま戦っても諸将の迷いを残したまま戦うことになり申す。」

 家康は考え込んだ、この状況下では本多佐渡の言うことが最もであるかのように聞こえた。

 その時、ずっと押し黙っていた井伊が口を開いた。

「恐れながら、戦には勢いというものがあり申す。われらは討伐軍として一軍を為しております。この一軍をそのまま西に向け、並み居る大坂方をなぎ倒して大坂城になだれこむしかありますまい。」

 家康は二人の意見を聞いて熟慮した挙句、井伊の戦勘を信じることにした。

 彼は上杉討伐に従軍している諸将のうち、徳川家と縁戚である将、すなわち池田、福島、黒田を宇都宮の徳川陣家に呼び出した。そして、周知のとおり大坂が毛利らに乗っ取られ、自身が豊臣公儀から追放されたこと、そしてかくなる上は大坂奪還のため西上する意向を告げた。

 池田、福島、黒田の三将は、自分らも賊の汚名を着せられることを心配しつつ、去年石田三成を襲撃した以上、現在の大坂方に寝返ったところで自分たちに明るい未来はないことを理解していたので、家康の意向に従うことを決めた。

 彼らは徳川家の勇将、井伊直政本多忠勝を伴って先発して西上することとなった。ほかに細川忠興藤堂高虎加藤嘉明ら昨年石田三成を襲撃した大名、および山内一豊東海道を領地に持つ大名が彼らに従った。(家康とこれらの将からなる集団を以後東軍と呼ぶ。)

濃州山中にて一戦に及び(16)【第二部】

こんにちは。

更新頻度遅くなり申し訳ございません。

いよいよ大坂で西軍が結成される下りです。

島津にややフォーカスして書きました

 

 

 

 ともかく、石田三成は挙兵した。のみならず、大坂城にて毛利、宇喜多、小西、島津ら西国の大名らとまたたくまに一大勢力を築きあげてしまった。

 ここで石田らに同心した西国の大名である島津の話をしておきたい。

 軍事で高名なこの家は、鎌倉時代から薩摩に起居する守護大名の家柄である。

    当主義久は薩摩にいる。

    島津家は戦国期において一時は九州の九割を手中に収めながら、秀吉の九州征伐によって屈伏せざるをえず、義久もまた頭を丸めて和を乞うたが、秀吉の上洛命令だけはやんわりと断り続け、薩摩に居続けた。

 これには二つの理由があった。一つは義久が豊臣政権を長くないと思っており、若干の距離を置いていたためであった。

    義久はその多くを生国薩摩で過ごし、他国へ赴かなかったわりには他国の情勢に通じていた。これは、島津が南蛮貿易を頻繁に行っていたからで、鹿児島に寄港する商人からは万の情報がもたらされた。そして彼らから聞く豊臣政権の様子は、関白秀次の粛清、外征の失敗等芳しくないものであった。義久は豊臣政権の今後に対して懐疑的な思いを抱くようになった。

    二つ目はただ単に自身の薩摩訛りを上方で披露するのが恥ずかしく、上方へ行くのが億劫だったためであった。

    ともかく当主の義久は領国におり、上方には代理の弟、義弘がいた。

    島津義弘、現在は出家し、通称「島津維新」の名で人口に膾炙している。

 彼の戦歴は戦国期の名だたる武将の中でも特に華々しい。彼が最も活躍した戦として、「木崎原の戦い」が挙げられるだろう。これは日向の大名、伊東氏との戦だが、島津方は兵がどうにも集まらず、敵の十分の一程度の軍勢で戦わざるを得なかった。

 しかし義弘はその少ない軍勢をさらにいくつかに分け、敵の目が片方に向いている間はもう片方が背後から急襲し、敵の目がもう片方に向いたならばさらに残りが背後を攻撃するといった具合で高度に計画されたゲリラ作戦をたて、伊東氏を駆逐してしまった。

 この戦いをきっかけとして彼の武名は天下に轟き、近隣諸国で彼の名を知らぬものはいなくなった。

 しかし、義弘の武名が急激にあがるにつれて、当主の兄、義久との関係がややぎくしゃくしたものとなっていったのもまた事実であった。

 元来、彼ら兄弟の結束は固く、家中においても兄義久と弟義弘の序列は守られていたが、当人たちの意向とは別に、戦の前線で武功を立て続ける義弘と、政のため本国に鎮座し続ける義久とを取り巻く二つの派閥が形成されていった。

 特に、秀吉の死後に起きた、家臣伊集院忠實の謀反はその分裂を加速させた。

 義弘の子、忠恒は血の気の多い人で、若い時分から意に沿わない家臣をよく手打ちにしたりした。父親からよくその性分を責められてもいたが、秀吉が死んですぐの慶長二年のこと、かねてより反りの合わなかった島津家重臣伊集院忠棟を大坂の島津屋敷で誅殺してしまった。

 伊集院家は代々島津家の筆頭家老を務めた家柄で、この伊集院忠棟も独自に八万国を有する大名級の家臣であった。そして何より義久派であった。

 当然国元の義久は激怒した。伊集院忠棟の子、忠實は怒りのあまり島津家に対し謀反を起こすべく挙兵するなどしたため、具体的に義弘派を制裁する余裕などはなかったが、義久派と義弘派の溝は埋めようもないものとなっていた。

 前述のとおり、義久はずっと本国薩摩にいる。対して義弘は大坂にいる。

 義弘派といっても、当主義久の勢力に比べると格段に脆弱であり、早い話、彼は現在島津家の中で孤立していた。

 そのような中、石田と大谷が佐和山で挙兵した。大坂にいた義弘は旗色を鮮明にする必要を迫られた。

 義弘は島津家が豊臣の軍門に降って以来、一貫して豊臣家に親しい立場をとり続けていた。理由として一つは豊臣家自体が前述した兄弟の派閥争いを加速させるために、あえて弟の義弘を優遇したためであった。もう一つはそれと連動して当主義久が豊臣家と若干の距離をおくスタンスを維持したため、それに反発するように義弘は親豊臣的立場をとり続けた。

 彼は政略上石田三成と関わることも多かった。石田の同心依頼に対して、彼は二つ返事で了承した。

 しかし、彼には肝心の兵力がなかった。大坂にいる島津兵は多く見積もっても百ほどしかおらず、これではあまりにも少なすぎるため、彼は薩摩の島津家の侍たちに、非公式に出兵を求めた。当主義久の目を気にして多くのものはこれを無視したが、義弘を慕う家臣たちが一人、また一人と大坂へ向かっていった。

 その中には、甥の島津豊久も含まれていた。彼は齢三十にも満たないながらかなりの戦上手であり、朝鮮の陣でも前線を仕切る侍大将として活躍している。彼の存在は義弘にとってありがたかった。

 

 八月十七日島津義弘は豊久を伴って大坂城に登城した。毛利輝元宇喜多秀家の二人の大老の元、徳川家康を公儀から追放し、正式に新政権を稼働させる宣言が行われる予定であった。

 石田三成は義弘の姿を確認すると早速歩み寄って話しかけた。

「維新殿。同心切に感謝いたす。」

「島津が豊臣に降って以来、石田殿には何かと世話になり申した。」

 当然である、と義弘は薩摩訛りで言った。

「じゃっどん、兵児ばたりもはん。薩摩に文は送り申したが、兄義久は出兵を渋って居り申す。」

「存じています。今は少数かもしれませんが戦経験豊富な島津殿の存在は貴重ですゆえ、このまま我らに同心願いたい。」

 石田は、事情はわかっているということを第一に示し、島津を安心させた。彼の対話能力にかかれば、島津ごときを丸め込むのに苦労はなかった。

 島津義弘も豊久も、人生の半分以上を戦に明け暮れていたため、政略に関してはやや「おめでたい」思考をする節があった。彼らは石田の言にすっかり気をよくした。

 

 毛利、宇喜多らは島津、小西らの諸大名を本丸大広間に集めると(他に筑前の大名小早川秀秋、豊後の大名立花宗茂などがいた。)徳川内府が秀吉の遺言を無視して政権を専横したことを弾劾し、公儀を追放することを宣言した。石田三成の手によって推敲された弾劾状が発行され、諸将の手に渡った。(この弾劾状は津々浦々のありとあらゆる大名に届けられた。)

 および、毛利を宰相、宇喜多を副宰相とした新政権の発足を宣言し、畿内の反発する勢力に対して軍事的攻撃をはじめることを述べた。

 こうして形成された集団を今後「西軍」と呼ぶことにしたい。彼らの当面の目標は畿内の有力大名、細川忠興の領国を吸収することだった。

 細川は徳川家康から勝手に豊後に領地をもらっていた経緯があり、新政権はそれを法度違反とし、細川討伐令を出した。

 加えて、伏見の城には家康の残した留守居役である鳥居元忠がいた。彼は石田の挙兵を聞くや千八百の手勢と共に伏見城に固く立てこもった。これを西軍はこれを制圧することが畿内の安定のために必要であった。

 こうして細川討伐と伏見城攻めが同時並行的に行われた。細川討伐に先立ち、西軍は大坂にいた細川忠興の妻、玉を人質に取ろうとしたが、忠興から変事の自害を命じられていた彼女は屋敷に火を放って自害した。

 キリスト教に帰依しガラシャの洗礼名で知られる彼女は自分の手で自刎することができないため、家臣に自らの首を撥ねさせての自害であった。

読者300人突破!!

こんばんは!

当ブログですが、、

読者300人を突破いたしました!!

見てくださる皆様のおかげです〜

当ブログは主に

・歴史創作小説

・作曲

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の3つで構成されています!!

感想等大歓迎してます!これからもどうかよろしくお願い致します!

濃州山中にて一戦に及び(15)【第二部】

こんばんは。

いよいよ、世にいう関ケ原の戦いが幕を開けます。

最初は説明調になってしまいますがご容赦ください。 

なお、ご感想等は切にお待ちしております!!ぜひ!

 

 時はやや遡る。上杉家宰相直江兼続が極秘に佐和山城の石田の元を訪れたのは去年の八月。会津への帰国途上であった。

 謹慎中の石田に公に会うのはあらぬ風聞を立てかねないため、直江は道中平民の姿に身をやつした。

 佐和山城の石田の居室に通されるなり、直江は「治部殿、戦をするぞ。」と第一声のたまった。

 直江は前田家家老の太田長知と軍事同盟を結びはしたが、一枚岩ではない前田家に全幅の信は置いておらず、彼は家康に対抗するにおいて長年の朋友ともいえる石田を頼った。石田は家康の専横に対し、前記した大谷への吐露のような思いを抱いていたので、ついに首を縦に振った。

 直江が石田に頼んだのは、石田がかつて主な取次先としていた毛利家の抱き込みだった。

 毛利家もまた、家中で親徳川派と反徳川派の抗争が起こっていた。(この時期の徳川を取り巻く大大名においては、どの家も徳川に与同するか否かで家中の統一に苦しめられた。)

 親徳川家の筆頭は毛利の若き武官であった吉川広家であり、反徳川の筆頭は外交僧の安国寺であった。石田は安国寺を煽り、秘密裏に対徳川決起の密約を取り付けたのだった。

 決起の手はずは以下の様であった。

 まず、上杉家が家康を挑発し、会津征伐につり出す。(直江状をかくも煽情的な内容にしたのはそのためだった。)畿内が手薄になったのを見計らって石田がまず佐和山で挙兵する。毛利は石田討伐の名目をもって上坂し、大坂に乗り込む。

 大坂城を制圧して秀頼を制圧した後は、奉行衆の連署を以て家康の弾劾と公儀追放を宣告し、会津征伐軍の瓦解を待って家康を討伐するという算段である。

 石田の佐和山での挙兵は端的に言えば毛利軍が大坂城に乗り込むための口実であり、石田が大谷を口説いたのはまさに挙兵せんとしていた時であった。

 先述のように大谷は石田と意を一つにしたが、家中の説得のために二、三日時を要した。

 大坂城にはその間、早くも謀反の石田、大谷の謀反の風聞が飛び交っていた。実はこの風聞は、前述した毛利の大坂入りを滞りなくするため、石田自身が島左近の手のものに命じて流させたものなのだが、これを聞いた石田の元同僚である増田、長束らは仰天した。

 特に、大谷刑部とはつい昨日まで城内で業務を共に遂行していた間柄だったのでひどく狼狽した。

「江戸の内府殿に急ぎお知らせするのだ。」

 増田は江戸へ石田、大谷の謀反の風聞を伝える急使を送った。

「伏見、大坂の兵力では石田、大谷を防ぎきれぬかもしれぬ。前田、毛利らに後詰めの要請を致しては。」

 長束の意見に増田はやや渋い表情を見せた。彼としてはできるだけ家康の意向に沿う形で今回の事件を収束させたかった。前田、毛利らを巻き込んでは家康の不興を買う恐れがある。

「伏見には鳥居殿はじめ内府殿が残された精兵がおるし、大坂には島津維新殿や小西摂州もおる。容易には崩れまい。」

 増田は言った。

 その時、豊臣家馬廻り役の真田信繁が増田にある大名の大坂来訪を告げた。彼は信州上田の大名である真田昌幸の次男であり、後に大坂夏の陣で神懸かり的な戦ぶりを披露し、その後四百年にわたる伝説を為すに至るが、当時は真田家から豊臣家の奉公に出されていた若武者だった。

 彼が来訪を告げた人物は、彼の毛利家の外交顧問である安国寺恵瓊である。

 安国寺は上杉征伐のため、毛利軍本隊に先んじて、それこそ渦中の佐和山付近まで進軍しているはずであった。増田は安国寺が俄かに大坂まで引き返してきたことを不審に思った。

 安国寺は城内において、増田、長束ら史僚のたまり場を訪れると、慇懃に頭を下げた。

「この度はとんだ事態になりまして。」

「安国寺殿、其方佐和山あたりまで進軍したと聞くが、石田大谷らの様子はどうであった。」

「石田殿らの様子を見るに、明らかに戦支度にてございました。謀反の風聞は誠で御座ろう。」

「何と。」

 彼らはあまりの事態に思考を停止せざるを得なかった。

 増田は若い時分は槍働きでものを言わせた男であり、史僚にしては変事に際しての肝が据わっていたが、この時ばかりは泡を喰って狼狽した。安国寺はそのような増田を尻目につらつらと発言し続けている。

「謀反の理由は不明だが、石田大谷の反乱鎮圧のために我が主、毛利輝元に大坂入城を命じられてはいかがかな。」

 増田は前述のとおり、毛利への後詰めの要請には消極的であった。しかし、佐和山から大坂は指呼の間にあり、事態対処のためにはなりふり構っていられないのも確かであった。

 増田はついに折れ、安国寺の提案通り、安芸の毛利輝元に大坂入りを求めた。

 これが七月十五日のことである。

 毛利輝元の行動は迅速であった。彼は三万の大軍を水路発進すると瀬戸内海を横断し、2日後の十七日には大坂入りした。毛利家の当主輝元は増田の出迎えの元、仮の鎮護者として大坂に起居することとなった。

 増田は三万という物量に安堵した。これならば石田、大谷ごときの中堅大名がどのような策を弄そうと王都はびくともしないであろう。

 しかし、彼は次の瞬間、愕然とした。使い版によると、信じられないことに渦中の男が大坂に現れたのである。

 増田に「例の男」の来訪を耳打ちしたのは豊臣家の馬廻り役を務めていた真田信繁であった。

 増田は真田信繁の耳打ちの内容に愕然としたが、即座に「通せ。」と来訪を受け入れる姿勢をとった。

 果たして、渦中の男である石田三成が真田の案内の元、増田の元に通された。

 増田はすさまじい形相で食ってかかった。

「治部殿。これはいかなる事態か。謀反の風聞とはどういうことだ。安国寺も、毛利の大坂上陸もそなたらの差し金か。」

 まず、石田は増田をなだめた。増田は前述のように根本に武人の荒々しさを秘めているおとこであったので、石田の、社会性に富んだ所作が苦手であった。

「御託は良い。毛利と其方は結託しているのか。」

「はい、そうです。宇喜多、小西らも同意のことです。これから大坂を本拠とし、徳川を公儀から追放の上、討伐しようと思います。その上で増田殿、長束殿奉行衆らにもお力を貸していただきたいのです。私は政界を引退した身で、政務と軍務を動かす権限を持ちませぬ故。」

 石田は増田、長束ら豊臣恩顧の史僚は徳川の世においていずれ粛清される可能性が高いことを論理的に説いた。増田、長束らはこの大坂城徳川家康の強大な権力と政治的実力を肌で感じ続けてきたがために、なかなか決断ができないでいたが、毛利家三万という大軍囲まれるうちに徳川への恐怖が薄れていったのか、はたまた拒否すれば毛利に殺されるという新たな恐怖にさいなまれたのか、遂に石田らへの同心に踏み切った。

【弾いてみた】海の幽霊(米津玄師)

こんばんは。

海獣の子供主題歌、海の幽霊のMVが解禁されましたね。 なんか原曲が素晴らしすぎて自分なんかがピアノで弾いてアップするの申し訳なくなってきました。 でもアップします。 今回はfullverです。

【弾いてみた】ピースサイン (米津玄師)

久しぶりの弾いてみた、投稿です。 今回は米津玄師さんのピースサイン をカバーしました!イラストはhttps://twitter.com/300yen300yennさんに手がけていただきました!カッコいいですね!