黒田官兵衛の野望

歴史と音楽に関する創作物を垂れ流すブログです

濃州山中にて一戦に及び(16)【第二部】

こんにちは。

更新頻度遅くなり申し訳ございません。

いよいよ大坂で西軍が結成される下りです。

島津にややフォーカスして書きました

 

 

 

 ともかく、石田三成は挙兵した。のみならず、大坂城にて毛利、宇喜多、小西、島津ら西国の大名らとまたたくまに一大勢力を築きあげてしまった。

 ここで石田らに同心した西国の大名である島津の話をしておきたい。

 軍事で高名なこの家は、鎌倉時代から薩摩に起居する守護大名の家柄である。

    当主義久は薩摩にいる。

    島津家は戦国期において一時は九州の九割を手中に収めながら、秀吉の九州征伐によって屈伏せざるをえず、義久もまた頭を丸めて和を乞うたが、秀吉の上洛命令だけはやんわりと断り続け、薩摩に居続けた。

 これには二つの理由があった。一つは義久が豊臣政権を長くないと思っており、若干の距離を置いていたためであった。

    義久はその多くを生国薩摩で過ごし、他国へ赴かなかったわりには他国の情勢に通じていた。これは、島津が南蛮貿易を頻繁に行っていたからで、鹿児島に寄港する商人からは万の情報がもたらされた。そして彼らから聞く豊臣政権の様子は、関白秀次の粛清、外征の失敗等芳しくないものであった。義久は豊臣政権の今後に対して懐疑的な思いを抱くようになった。

    二つ目はただ単に自身の薩摩訛りを上方で披露するのが恥ずかしく、上方へ行くのが億劫だったためであった。

    ともかく当主の義久は領国におり、上方には代理の弟、義弘がいた。

    島津義弘、現在は出家し、通称「島津維新」の名で人口に膾炙している。

 彼の戦歴は戦国期の名だたる武将の中でも特に華々しい。彼が最も活躍した戦として、「木崎原の戦い」が挙げられるだろう。これは日向の大名、伊東氏との戦だが、島津方は兵がどうにも集まらず、敵の十分の一程度の軍勢で戦わざるを得なかった。

 しかし義弘はその少ない軍勢をさらにいくつかに分け、敵の目が片方に向いている間はもう片方が背後から急襲し、敵の目がもう片方に向いたならばさらに残りが背後を攻撃するといった具合で高度に計画されたゲリラ作戦をたて、伊東氏を駆逐してしまった。

 この戦いをきっかけとして彼の武名は天下に轟き、近隣諸国で彼の名を知らぬものはいなくなった。

 しかし、義弘の武名が急激にあがるにつれて、当主の兄、義久との関係がややぎくしゃくしたものとなっていったのもまた事実であった。

 元来、彼ら兄弟の結束は固く、家中においても兄義久と弟義弘の序列は守られていたが、当人たちの意向とは別に、戦の前線で武功を立て続ける義弘と、政のため本国に鎮座し続ける義久とを取り巻く二つの派閥が形成されていった。

 特に、秀吉の死後に起きた、家臣伊集院忠實の謀反はその分裂を加速させた。

 義弘の子、忠恒は血の気の多い人で、若い時分から意に沿わない家臣をよく手打ちにしたりした。父親からよくその性分を責められてもいたが、秀吉が死んですぐの慶長二年のこと、かねてより反りの合わなかった島津家重臣伊集院忠棟を大坂の島津屋敷で誅殺してしまった。

 伊集院家は代々島津家の筆頭家老を務めた家柄で、この伊集院忠棟も独自に八万国を有する大名級の家臣であった。そして何より義久派であった。

 当然国元の義久は激怒した。伊集院忠棟の子、忠實は怒りのあまり島津家に対し謀反を起こすべく挙兵するなどしたため、具体的に義弘派を制裁する余裕などはなかったが、義久派と義弘派の溝は埋めようもないものとなっていた。

 前述のとおり、義久はずっと本国薩摩にいる。対して義弘は大坂にいる。

 義弘派といっても、当主義久の勢力に比べると格段に脆弱であり、早い話、彼は現在島津家の中で孤立していた。

 そのような中、石田と大谷が佐和山で挙兵した。大坂にいた義弘は旗色を鮮明にする必要を迫られた。

 義弘は島津家が豊臣の軍門に降って以来、一貫して豊臣家に親しい立場をとり続けていた。理由として一つは豊臣家自体が前述した兄弟の派閥争いを加速させるために、あえて弟の義弘を優遇したためであった。もう一つはそれと連動して当主義久が豊臣家と若干の距離をおくスタンスを維持したため、それに反発するように義弘は親豊臣的立場をとり続けた。

 彼は政略上石田三成と関わることも多かった。石田の同心依頼に対して、彼は二つ返事で了承した。

 しかし、彼には肝心の兵力がなかった。大坂にいる島津兵は多く見積もっても百ほどしかおらず、これではあまりにも少なすぎるため、彼は薩摩の島津家の侍たちに、非公式に出兵を求めた。当主義久の目を気にして多くのものはこれを無視したが、義弘を慕う家臣たちが一人、また一人と大坂へ向かっていった。

 その中には、甥の島津豊久も含まれていた。彼は齢三十にも満たないながらかなりの戦上手であり、朝鮮の陣でも前線を仕切る侍大将として活躍している。彼の存在は義弘にとってありがたかった。

 

 八月十七日島津義弘は豊久を伴って大坂城に登城した。毛利輝元宇喜多秀家の二人の大老の元、徳川家康を公儀から追放し、正式に新政権を稼働させる宣言が行われる予定であった。

 石田三成は義弘の姿を確認すると早速歩み寄って話しかけた。

「維新殿。同心切に感謝いたす。」

「島津が豊臣に降って以来、石田殿には何かと世話になり申した。」

 当然である、と義弘は薩摩訛りで言った。

「じゃっどん、兵児ばたりもはん。薩摩に文は送り申したが、兄義久は出兵を渋って居り申す。」

「存じています。今は少数かもしれませんが戦経験豊富な島津殿の存在は貴重ですゆえ、このまま我らに同心願いたい。」

 石田は、事情はわかっているということを第一に示し、島津を安心させた。彼の対話能力にかかれば、島津ごときを丸め込むのに苦労はなかった。

 島津義弘も豊久も、人生の半分以上を戦に明け暮れていたため、政略に関してはやや「おめでたい」思考をする節があった。彼らは石田の言にすっかり気をよくした。

 

 毛利、宇喜多らは島津、小西らの諸大名を本丸大広間に集めると(他に筑前の大名小早川秀秋、豊後の大名立花宗茂などがいた。)徳川内府が秀吉の遺言を無視して政権を専横したことを弾劾し、公儀を追放することを宣言した。石田三成の手によって推敲された弾劾状が発行され、諸将の手に渡った。(この弾劾状は津々浦々のありとあらゆる大名に届けられた。)

 および、毛利を宰相、宇喜多を副宰相とした新政権の発足を宣言し、畿内の反発する勢力に対して軍事的攻撃をはじめることを述べた。

 こうして形成された集団を今後「西軍」と呼ぶことにしたい。彼らの当面の目標は畿内の有力大名、細川忠興の領国を吸収することだった。

 細川は徳川家康から勝手に豊後に領地をもらっていた経緯があり、新政権はそれを法度違反とし、細川討伐令を出した。

 加えて、伏見の城には家康の残した留守居役である鳥居元忠がいた。彼は石田の挙兵を聞くや千八百の手勢と共に伏見城に固く立てこもった。これを西軍はこれを制圧することが畿内の安定のために必要であった。

 こうして細川討伐と伏見城攻めが同時並行的に行われた。細川討伐に先立ち、西軍は大坂にいた細川忠興の妻、玉を人質に取ろうとしたが、忠興から変事の自害を命じられていた彼女は屋敷に火を放って自害した。

 キリスト教に帰依しガラシャの洗礼名で知られる彼女は自分の手で自刎することができないため、家臣に自らの首を撥ねさせての自害であった。

読者300人突破!!

こんばんは!

当ブログですが、、

読者300人を突破いたしました!!

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当ブログは主に

・歴史創作小説

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濃州山中にて一戦に及び(15)【第二部】

こんばんは。

いよいよ、世にいう関ケ原の戦いが幕を開けます。

最初は説明調になってしまいますがご容赦ください。 

なお、ご感想等は切にお待ちしております!!ぜひ!

 

 時はやや遡る。上杉家宰相直江兼続が極秘に佐和山城の石田の元を訪れたのは去年の八月。会津への帰国途上であった。

 謹慎中の石田に公に会うのはあらぬ風聞を立てかねないため、直江は道中平民の姿に身をやつした。

 佐和山城の石田の居室に通されるなり、直江は「治部殿、戦をするぞ。」と第一声のたまった。

 直江は前田家家老の太田長知と軍事同盟を結びはしたが、一枚岩ではない前田家に全幅の信は置いておらず、彼は家康に対抗するにおいて長年の朋友ともいえる石田を頼った。石田は家康の専横に対し、前記した大谷への吐露のような思いを抱いていたので、ついに首を縦に振った。

 直江が石田に頼んだのは、石田がかつて主な取次先としていた毛利家の抱き込みだった。

 毛利家もまた、家中で親徳川派と反徳川派の抗争が起こっていた。(この時期の徳川を取り巻く大大名においては、どの家も徳川に与同するか否かで家中の統一に苦しめられた。)

 親徳川家の筆頭は毛利の若き武官であった吉川広家であり、反徳川の筆頭は外交僧の安国寺であった。石田は安国寺を煽り、秘密裏に対徳川決起の密約を取り付けたのだった。

 決起の手はずは以下の様であった。

 まず、上杉家が家康を挑発し、会津征伐につり出す。(直江状をかくも煽情的な内容にしたのはそのためだった。)畿内が手薄になったのを見計らって石田がまず佐和山で挙兵する。毛利は石田討伐の名目をもって上坂し、大坂に乗り込む。

 大坂城を制圧して秀頼を制圧した後は、奉行衆の連署を以て家康の弾劾と公儀追放を宣告し、会津征伐軍の瓦解を待って家康を討伐するという算段である。

 石田の佐和山での挙兵は端的に言えば毛利軍が大坂城に乗り込むための口実であり、石田が大谷を口説いたのはまさに挙兵せんとしていた時であった。

 先述のように大谷は石田と意を一つにしたが、家中の説得のために二、三日時を要した。

 大坂城にはその間、早くも謀反の石田、大谷の謀反の風聞が飛び交っていた。実はこの風聞は、前述した毛利の大坂入りを滞りなくするため、石田自身が島左近の手のものに命じて流させたものなのだが、これを聞いた石田の元同僚である増田、長束らは仰天した。

 特に、大谷刑部とはつい昨日まで城内で業務を共に遂行していた間柄だったのでひどく狼狽した。

「江戸の内府殿に急ぎお知らせするのだ。」

 増田は江戸へ石田、大谷の謀反の風聞を伝える急使を送った。

「伏見、大坂の兵力では石田、大谷を防ぎきれぬかもしれぬ。前田、毛利らに後詰めの要請を致しては。」

 長束の意見に増田はやや渋い表情を見せた。彼としてはできるだけ家康の意向に沿う形で今回の事件を収束させたかった。前田、毛利らを巻き込んでは家康の不興を買う恐れがある。

「伏見には鳥居殿はじめ内府殿が残された精兵がおるし、大坂には島津維新殿や小西摂州もおる。容易には崩れまい。」

 増田は言った。

 その時、豊臣家馬廻り役の真田信繁が増田にある大名の大坂来訪を告げた。彼は信州上田の大名である真田昌幸の次男であり、後に大坂夏の陣で神懸かり的な戦ぶりを披露し、その後四百年にわたる伝説を為すに至るが、当時は真田家から豊臣家の奉公に出されていた若武者だった。

 彼が来訪を告げた人物は、彼の毛利家の外交顧問である安国寺恵瓊である。

 安国寺は上杉征伐のため、毛利軍本隊に先んじて、それこそ渦中の佐和山付近まで進軍しているはずであった。増田は安国寺が俄かに大坂まで引き返してきたことを不審に思った。

 安国寺は城内において、増田、長束ら史僚のたまり場を訪れると、慇懃に頭を下げた。

「この度はとんだ事態になりまして。」

「安国寺殿、其方佐和山あたりまで進軍したと聞くが、石田大谷らの様子はどうであった。」

「石田殿らの様子を見るに、明らかに戦支度にてございました。謀反の風聞は誠で御座ろう。」

「何と。」

 彼らはあまりの事態に思考を停止せざるを得なかった。

 増田は若い時分は槍働きでものを言わせた男であり、史僚にしては変事に際しての肝が据わっていたが、この時ばかりは泡を喰って狼狽した。安国寺はそのような増田を尻目につらつらと発言し続けている。

「謀反の理由は不明だが、石田大谷の反乱鎮圧のために我が主、毛利輝元に大坂入城を命じられてはいかがかな。」

 増田は前述のとおり、毛利への後詰めの要請には消極的であった。しかし、佐和山から大坂は指呼の間にあり、事態対処のためにはなりふり構っていられないのも確かであった。

 増田はついに折れ、安国寺の提案通り、安芸の毛利輝元に大坂入りを求めた。

 これが七月十五日のことである。

 毛利輝元の行動は迅速であった。彼は三万の大軍を水路発進すると瀬戸内海を横断し、2日後の十七日には大坂入りした。毛利家の当主輝元は増田の出迎えの元、仮の鎮護者として大坂に起居することとなった。

 増田は三万という物量に安堵した。これならば石田、大谷ごときの中堅大名がどのような策を弄そうと王都はびくともしないであろう。

 しかし、彼は次の瞬間、愕然とした。使い版によると、信じられないことに渦中の男が大坂に現れたのである。

 増田に「例の男」の来訪を耳打ちしたのは豊臣家の馬廻り役を務めていた真田信繁であった。

 増田は真田信繁の耳打ちの内容に愕然としたが、即座に「通せ。」と来訪を受け入れる姿勢をとった。

 果たして、渦中の男である石田三成が真田の案内の元、増田の元に通された。

 増田はすさまじい形相で食ってかかった。

「治部殿。これはいかなる事態か。謀反の風聞とはどういうことだ。安国寺も、毛利の大坂上陸もそなたらの差し金か。」

 まず、石田は増田をなだめた。増田は前述のように根本に武人の荒々しさを秘めているおとこであったので、石田の、社会性に富んだ所作が苦手であった。

「御託は良い。毛利と其方は結託しているのか。」

「はい、そうです。宇喜多、小西らも同意のことです。これから大坂を本拠とし、徳川を公儀から追放の上、討伐しようと思います。その上で増田殿、長束殿奉行衆らにもお力を貸していただきたいのです。私は政界を引退した身で、政務と軍務を動かす権限を持ちませぬ故。」

 石田は増田、長束ら豊臣恩顧の史僚は徳川の世においていずれ粛清される可能性が高いことを論理的に説いた。増田、長束らはこの大坂城徳川家康の強大な権力と政治的実力を肌で感じ続けてきたがために、なかなか決断ができないでいたが、毛利家三万という大軍囲まれるうちに徳川への恐怖が薄れていったのか、はたまた拒否すれば毛利に殺されるという新たな恐怖にさいなまれたのか、遂に石田らへの同心に踏み切った。

【弾いてみた】海の幽霊(米津玄師)

こんばんは。

海獣の子供主題歌、海の幽霊のMVが解禁されましたね。 なんか原曲が素晴らしすぎて自分なんかがピアノで弾いてアップするの申し訳なくなってきました。 でもアップします。 今回はfullverです。

【弾いてみた】ピースサイン (米津玄師)

久しぶりの弾いてみた、投稿です。 今回は米津玄師さんのピースサイン をカバーしました!イラストはhttps://twitter.com/300yen300yennさんに手がけていただきました!カッコいいですね!

【題名変更のお知らせ】

こんにちは

 

ずっと連載してきた関ケ原シリーズですが、題名を「関ケ原の真実」から「濃州山中にて一戦に及び」に変更いたしました。

 

そもそも「濃州山中にて一戦に及び」は当初想定していた題名でした。しかし、当ブログをご覧になる方になるべくなじみやすい題名をと思い「関ケ原の真実」という題名で連載を開始した次第です。

 

濃州とは美濃、現在の岐阜県という意味で、山中とは、実際に関ケ原の戦いが行われたという説が近年浮上している地です。(関ケ原よりやや西にずれます)

当時、「関ケ原」という地名はなかったと言われており、できるだけ作品中でも「関ケ原」という固有名詞を出したくないのが本音なのです。

 

この作品ではお気づきの方も多いかもしれませんが大きく次の点をコンセプトにしています

事実関係はできる限り当時の資料を参考にすること

・人物の内面描写をできるだけ説得力あるものにすること

 

第2部はいよいよ関ケ原の戦い本戦に突入していきます。お楽しみに